「それほどでも。私は虫たちのお話を聞いてるだけだし」
「で? どうすればいいの?」
「えっ」
「こいつが自信を取り戻して勝てるようになるには、どうすればいい?」
「えっと……」
勝負の世界や戦う意味についてだなんて、助言できることがない。こういうことは剣の達者な黒狼のほうが得意ではないだろうか。傍で見ていた黒狼を期待を込めた笑顔で振り返ると、冷めた双眸で返された。
自分でなんとかしろと言いたいらしい。
そのとき、先ほどまで会話していた蝉が突然ひと声、高く啼いた。羽ばたいて幹から飛び立ち、瞬く間に皓の肩口に止まる。
「うわっ、蝉がなんで……⁉」
蝉と甲虫は互いに、ジジジ……、ギチギチ、と忙しなく啼いている。
「喧嘩かな?」
「待って。喧嘩じゃないわ」
皓が蝉を引き剥がそうとしたので制した。甲虫は皓の袖を這い上り、蝉のもとへ向かう。
やがて二匹は、ぴたりと身体を添わせて静かになった。
「なんてこと。すごいわ」
感激した結蘭は涙ぐんでいた。状況が飲み込めない皓は瞬きを繰り返して、同じく見守っている黒狼を見上げた。
「結蘭。俺たちにもわかるように通訳してくれ」
黒狼と皓に晴々しい笑顔を向けた結蘭は、厳かに告げる。
「ふたりは、運命の出会いを果たしたの」
「……はあ?」
「一目惚れだって。種族が違っても生涯添い遂げる覚悟がある、ですって。蝉さんの熱烈な求愛に甲虫さんも答えてくれたわ。貴女のためなら戦うことも厭わない、ですって」
「ふうん……」
感動的な奇蹟が起こったというのに、虫たちの会話が聞けない黒狼と皓は今ひとつ反応が薄い。
結蘭は二匹に惜しみない祝福を送った。失恋したばかりの蝉と、自信を喪失していた甲虫の双方に訪れた幸せはとても喜ばしいことだ。
「皓。甲虫さんの勝負にぜひ蝉さんも連れていってあげてね。僕の雄姿を見せたい、ですって」
やる気を取り戻した甲虫は高らかに角を上げた。その隣に蝉はそっと寄り添っている。
「ああ、うん……わかった。ありがとう、蟲公主さま」
どこか戸惑っている皓は礼を言い、甲虫と蝉を上衣に貼りつけて道を戻っていった。
異種族間の恋愛は大変珍しいことなので、皓としても受け入れるのに時間がかかるのだろう。けれどきっとふたりの今後を応援してくれるに違いない。結蘭自身も、懸命に生きて恋をする虫たちに随分元気づけられたものだ。
「よかった。仲良くやってくれるといいね」
「そうだな」
ひと仕事終えた充実感が身体を包む。黒狼のあっさりした返事が清涼感を伴い、清々しいほどだ。
「結蘭さま、黒狼さま。昼餉のお支度ができましたよ」
ちょうど屋敷から出てきた女中の欣恵が告げる。呼応するように、結蘭の腹の虫が、ぐうと鳴った。
麺の汁物を啜り、時折茶碗の冷たい水を含む。欣恵は食後の菓子を運んできた。涼しげな器に盛られているのは、雪のような色合いの豆乳花だ。
「わあ、美味しそう」
幼い頃より面倒を見てくれている欣恵は、いつもの優しい笑みを浮かべた。
「結蘭さまのは黒蜜がたっぷりですよ。黒狼さま。汁物のお代わりは」
「いらん」
ぶっきらぼうに返す黒狼は結蘭と共に食卓に着いている。
兄と妹のように育ったふたりだが、本当の兄妹ではない。黒狼は欣恵が連れていた子で、結蘭と母がこの屋敷に引っ越して間もなく訪ねてきたのだ。身寄りがないというふたりを、母は女中と娘の遊び相手として屋敷に住まわせた。
母も心細かったのだろう。以前は皇帝の妃嬪として寵愛を受け、身籠もったにもかかわらず、産まれた公主は虫とばかり会話している。
後宮ではどんな謗りを受けるか知れない。娘の先々を心配した母は王都を離れ、山奥の村に居を構えることにしたのだった。
数年前に病で亡くなってしまったが、母には感謝している。
公主として王城で壊れ物のように扱われるよりも、野山にいる沢山の虫たちと話しているほうが結蘭の性に合っている。それに黒狼と欣恵もいてくれる。なにも不自由なことはない。
ふんわりとした豆乳花を匙で掬い上げる。濃密な甘さを堪能していると、黒狼はふとつぶやいた。
「そろそろな、食卓を別にしたほうがいいんじゃないか」
「どうして?」
「今まで奥様が許してきたから惰性になっていたが、俺は結蘭の近侍だ。主と近侍が食卓を共にしていたらまずいだろう」
「なにがまずいの? 食事は美味しいよ?」
「おまえな」
眉根を寄せて黒狼は匙を置いた。
黒狼は正しくは、結蘭公主の近侍という位置づけになる。
けれど後宮で暮らしていたのは五歳までだったので、皇帝である父の思い出はほとんどなく、女官に傅かれていた記憶もおぼろげだ。公主としての自覚などまったくない。
「食卓を別々にしたら欣恵が大変じゃないの。ねえ、欣恵」
一緒に食べてくれないと寂しい。
それを上手く口にできなくて欣恵に助けを求めると、なぜか欣恵は緊張した様子で、びくりと肩を跳ねさせた。
「え、ええ。そうでございますね」
「欣恵。次から俺は自室で食べる。支度が大変なら俺が自分で運ぶ」
「でも、黒狼さま……」
欣恵は黒狼の母ではなく、乳母である。
そのせいか黒狼は主のように振る舞い、欣恵は敬う態度を崩さない。良家の子息なのかもしれないが、詳しいことを結蘭は知らない。
「けじめだ。公主を軽んじるわけにはいかない。欣恵も娘のように接するのはやめろ」
「承知いたしました」
欣恵は深く頭を下げた。
むっとした結蘭は口中の甘い黒蜜を苦々しい思いで飲み下す。
というか、黒狼が公主扱いしてくれたことなんてあったの? 蓑虫だとか軽々しく言ってたよね?
どうして突然そんなことを言い出すのか理解できない。結蘭は猛然と抗議した。
「けじめってなによ? 黒狼の口から公主なんて単語が出ると思わなかったわ。私は欣恵に娘みたいに思ってくれるの嬉しいもの。ずっとそうしてほしい。黒狼こそ、いつも私や欣恵に偉そうじゃない。……食事だって、ひとりじゃ食べたくないもの」
声が大きかったのは始めだけで、最後の台詞はぼそぼそとつぶやいただけだった。
黒狼は憮然として眺めている。彼は考えを変える気はないのだろう。欣恵が気遣わしげに声をかける。
「結蘭さまのお心、感謝いたします。黒狼さまが尊大なこと、どうかお許し下さい。黒狼さまは、実は――」
「やめろ」
鋭い一喝に、欣恵は身を縮める。
食卓に重い沈黙が降りた。
黒狼は手のつけていない豆乳花の器を、結蘭の前に押しやる。
「食べろ」
「いらない」
つい意固地になってしまう。虫たちとは和やかに会話ができるのに、黒狼とは上手く意思の疎通ができないことがもどかしい。子どもの頃は言いたいことを言って、楽しく遊んでいたはずなのに、どうしてだろう。
沈黙を破るように、窓越しに蹄の音が響いた。屋敷の前で止まり、訪いを入れる野太い男性の声が聞こえる。
来客とは珍しい。慌てて玄関へ向かった欣恵の後をふたりは追いかけた。
「結蘭公主のお住まいはこちらでございますか」
男性は王都の役人が身につける旅装束を着用していた。金城の使者だ。手に携えた竹簡には、皇帝の印である龍が蝋で封印されている。
「私が結蘭です。なにか御用ですか?」
公主自ら玄関に赴き名乗りを上げたので、使者は眉をひそめたが、厳かに礼をして竹簡を広げた。
「皇帝陛下よりの勅命であります。結蘭公主におかれましては、直ちに王都へお越し下さいますよう。虫と話せるという特殊な力を生かし、悩み多き弟を助けてほしいとの、陛下のお言葉でございます」
「ええ~⁉」
驚きが一巡すると、黒狼は感心したようにつぶやいた。
「虫だけでなく、ついに皇帝からも悩み相談を持ちかけられたか」
結蘭の父である皇帝は数年前に亡くなり、正妃の長子が新しい皇帝として即位した。結蘭とは母の違う弟ということになる。幼い頃に赤子をあやした記憶があるが、結蘭が十六歳になったように彼も十三歳と立派になっているだろう。
ただ、年若い皇帝が国を収めるのは並大抵の気苦労ではないと察せられる。
それにしても蟲公主と呼ばれる結蘭の力を借りなくてもよさそうなものだ。
「私は虫と話すのは大好きなんだけど、天子さまのお悩みはちょっと……」
気後れしてやんわりと断ると、役人は平伏して地面に額を擦りつけた。
「なにとぞ。姉君でなければ解決できない問題であると、陛下は仰せです。お話を聞くだけでも結構でございます。どうか、お力をお貸し下さい」
「頭を上げて下さい、蟻が痛いって叫んでます‼」
「なにとぞ! 結蘭公主」
「わかりました、行きます。行けばいいんでしょ、頭を上げて~」
額で押し潰されそうになっていた蟻をどうにか救出した結蘭は、こうして王都へと旅立つことになった。
王都へ向かう日、屋敷の門前には数名の役人と馬車が遣わされた。
結蘭が王都へ返り咲くという噂は瞬く間に村中を巡り、集まった村人から盛大な声援が送られる。
「よかったな、蟲公主さま。後宮で出世しろよ」
甲虫と蝉を肩に止まらせた皓が、手を振って見送っている。
馬車に乗り込んだ結蘭は御簾を開けて、皆に手を振り返した。
「ありがとう、みんな~。って、戻ってくるんだからね! ちょっと遊びにいくだけだからね⁉」
祝うように白鷺の群れが川縁から飛び立ち、悠々と空の彼方へ飛翔していく。
黒狼は馬の手綱を取りながら溜息をこぼした。
「妃嬪じゃあるまいし、公主が後宮で出世できないだろ」
結蘭に付き従うのは黒狼と、可愛がっている白馬の子翼だ。
動物とは話せないが、子翼は聡明なので人の心の機微を理解している。主を慕う余り、結蘭以外の人を背中に乗せたがらない。別の馬に跨がる黒狼の隣で、子翼は揚々と尻尾を振っていた。
屋敷の前で心配そうに見送る欣恵の姿が次第に遠ざかる。
留守を頼んだ欣恵は黒狼の同行を止めたが、結蘭をひとりでは行かせられないと説得されて承知した。
もう子どもじゃないから平気なのに。黒狼もきっと、王都を見たいのね。
王都にはどんな虫たちがいるのだろう。もしかしたら、伝説の金色蝶に出会えるかもしれない。
結蘭は胸を弾ませて、これから出会うであろう虫たちに思いを馳せた。
長い旅路を経て、結蘭公主の一行は王都へ辿り着いた。
田舎の奏州の景色とはまるで違い、にぎやかな市場と人波が連なる。
店先に並んでいる干肉や野菜、籠や手提げなどの工芸品もある。
結蘭は御簾から顔を覗かせて、それらを物珍しく眺めた。
「おい、あまり顔を出すな」
黒狼は手綱を操り、御簾を隠すように馬を寄せた。街路には、どこの貴人かと見物している人々が立っている。
「すごい! こんなにたくさん人がいるわ」
「当たり前だろう。王都だから人口も多い」
「虫もたくさんいるわよね。どこかしら」
「おまえの興味はそこか。まあ、わかっているが」
ふと御簾の端に、一匹の天道虫が止まり羽を休めた。
「こんにちは、天道虫さん。……ふうん、水場が少なくて大変なのね。私は金城へ行くの。うん、そこなら池があったはずよ。一緒に乗っていったらいいわ、案内してあげる」
独り言を喋る公主を、付き添いの役人は訝しげに見やる。
やがて、眼前に荘厳な城郭が姿を現した。中原の覇者、儀国の皇帝が住まう金城だ。角楼を従え、両翼を広げたごとき朱雀門に出迎えられる。
結蘭と黒狼は波乱に満ちた未来への第一の門をくぐった。
馬車を降りると、大勢の女官や役人たちに出迎えられる。
整然と居並ぶ人々の間から、豊かな白髭を垂らした老人が歩み出た。
「ようこそ金城においでくださいました、結蘭公主。わたくしは呂丞相でございます。楊美人と共に後宮をあとにしたときは、ほんの小さな御子でしたが、このようにお美しい公主になられまして、わたくしは……」
「あのう、この辺りに池はありませんか?」
きょろきょろと結蘭は辺りを見回した。合わせたてのひらの中には、先ほど知り合った天道虫がいる。
金城は石造りの立派な殿ばかりで、足元もすべて石畳が敷き詰められている。緑と水がなくては虫は生きられない。
「は? 池なら裏手に庭園がございますが……」
「すみません! ちょっと行ってきます」
呆気にとられる女官や役人たちを置いて、結蘭は庭園に向かって走り出す。そのあとを黒狼が音もなく追いかけた。
観賞用に設えられた庭園の池のほとりに辿り着く。葉陰に無事に天道虫を放した結蘭は、ほっと一息ついた。
「ここなら水もあるし、暮らしやすいかな。……そう、よかった。ううん、いいのよ、お礼なんて。私はしばらくお城に住むことになるから、また会いに来るわね」
天道虫との会話を報告しようと黒狼を振り返る。
すると彼の後ろには、神妙な顔をした呂丞相が佇んでいた。
虫と会話しているところを初めて見た人は、大抵眉をひそめて気味悪がられてしまう。また頭がおかしいと思われてしまっただろうか。
「あ、あの、呂丞相。今のは、えっと……」
「ふむ。虫と話せるという噂は本当なのですな」
「は、はい! そうなんです」
結蘭は笑顔を咲かせた。そういえば、彼の顔には見覚えがある。結蘭の父だった皇帝の傍に、常に控えていた重鎮だ。
しかし、と呂丞相は続けた。
「まずは金城にお越しになりましたら、陛下に謁見なさってください。弟君とはいえ、詠帝は君主にあらせられます。くれぐれも、非礼なきよう」
「はい……」
そうなのだった。王都へは虫を探しに来たわけではなく、皇帝の悩みを聞くためなのだ。
小さくなった結蘭は、呂丞相に従い、謁見の間がある本殿へと足を運んだ。重厚な扉が開け放たれる。
「結蘭公主、お越しにございます」
壮麗な本殿の最奥に、皇帝の鎮座する玉座が彼方に見える。緋の絨毯が敷かれた両側を、高位の役人たちがずらりと立ち並んでいた。
とても姉弟として昔話を楽しむような雰囲気ではない。臆した結蘭は前を行く呂丞相に聞こえないよう、後ろの黒狼に小声でつぶやく。
「黒狼、怖そうな人たちがたくさん見てるわ。大臣はいつも怒ってばかりなのよ。どうしよう、私、きちんと挨拶できないかも」
幼い頃、大人たちの話が退屈で虫を追いかけ回しては役人に叱られたことを思い出す。
黒狼は平然として、ひとことつぶやいた。
「全部、虫だと思えばいい」
なるほど。
虫、虫、虫……。みんなむしむし……。
そう思い込めば呂丞相の柳のような細い背は、蜻蛉に見えなくもない。
少々落ち着いた結蘭は、黒檀の玉座の前で平伏した。
「お久しぶりでございます、皇帝陛下。結蘭、ただいま奏州より馳せ参じゅいました」
噛んだ。
役人たちの間から咳払いが聞こえる。
おそるおそる顔を上げると、玉座から未だ幼さの残る少年があどけない双眸で結蘭を見据えていた。龍紋の黄袍を身に纏うこの少年が詠帝である。
彼が赤子の時以来会っていないので、結蘭のことは覚えていないだろう。
詠帝はにこりと微笑むと、穏やかな声音を発した。
「お久しぶりだ、姉上。長旅でお疲れであろう。以前、姉上と楊美人の過ごされていた清華宮を用意させたゆえ、ゆるりとくつろいでくれ」
柔らかくも気遣いのこもった物言いに、結蘭はふたたび頭を垂れる。
清華宮は後宮内にある妃嬪のための宮殿のひとつで、結蘭はそこで産まれた。緑のある庭で、いつも虫と話していたのだ。
「ありがとうございます。それで……私に相談とは、どのようなことでしょう?」
一瞬、詠帝と呂丞相が視線を交わした。
けれど、すぐに詠帝は微笑みを浮かべる。
「はて、なんであったか。伝令が間違えて伝えてしまったのやもしれない」
「確か竹簡では、虫と話せる力を借りたいだとかいう内容だった気がするのだけれど……」
詠帝がなにか言う前に、隣に付き従っていた役人が前へ進み出た。
「結蘭公主。いえ、蟲公主。虫と話ができるなどという虚言を貴女がされるので、先帝も追放せざるを得なかったのですぞ。私も叔父として心苦しかった。また同じ目に遭いたくなくば、今後は慎ましくしているべきではありませんかな」
「虚言ではありません!」
本当なのに。
でも、この人の言うことが世間での見方なのだ。
詠帝は手を挙げて両者の会話を遮る。
「よせ、王尚書令。姉上はお疲れなのだ。まずは休ませてさしあげろ」
「御意」
王尚書令と呼ばれた官吏は慇懃に頭を下げた。
そういえば、彼は父の弟だ。結蘭と詠帝からみて叔父にあたる。官吏の衣を纏っているので、若い皇帝の摂政を務めているらしい。
「蟲公主。その者は?」
王尚書令は居丈高に、隙のない鋭い眼差しを結蘭の後ろに注いで詰問した。
結蘭が振り返ると、黒狼は静かに跪いている。
「彼は黒狼といいます。私が幼い頃から近侍をしています」
「腕に覚えがありそうですな。どこかで見た顔だ。面を上げよ」
殿に響き渡る王尚書令の声が聞こえていないという風に、黒狼は顔を伏せ、微動だにしない。
黒の上衣に黒の褲子を纏い、腰に長剣を佩いた恰好は侠客のようにも見える。黒狼は昔から黒ずくめで、加えて無愛想なので、近寄り難い雰囲気を醸し出している。
不調法なふるまいに眉を吊り上げた王尚書令だが、詠帝は鷹揚に頷いた。
「姉上の近侍なら信用できる。軍に入るがよい。そなたを校尉に任じよう」
「……感謝いたします」
黒狼の低い声音が這う。呂丞相から退出を促され、結蘭は立ち上がった。その後ろを黒狼は影のように付き従う。
ああ、人と話すのは疲れる。
結蘭は重い溜息を吐いた。
天子の住まう金城の奥を守るように、広大な後宮が麗しい装いで佇んでいる。その中のひとつ、清華宮の門を結蘭はくぐった。
「わあ。昔と変わってないなぁ」
宮殿の隣には池があり、錦鯉が泳いでいる。房室から見渡せる庭には潤う緑。躑躅に椿、牡丹、桜の木も植えられている。花の盛りには美しい景色が広がり、花を愛でる母の隣で、結蘭は虫と話していた。
夏は蛍、秋は蜻蛉、冬は誰もいないから寂しい。けれど春になれば、みんなが出てきてくれる。
「私、ここに五つのときまでいたのよ」
「ああ。静かで落ち着けそうなところだ」
「いつもこの房室から、お母さまは庭を眺めていたの。私は露台に出て虫がいないか見ていたわ」
懐かしい景色は昔のまま。結蘭の背丈が伸びたので、露台が低くなったように感じる。階を上がり露台から庭を見渡していると、廊下から軽やかな足音が響いてきた。
「お初にお目にかかります、結蘭公主さま。女官の朱里でございます。身の回りのお世話をいたします」
溌剌とした女官は結蘭と同じくらいの年だろう。さすが後宮の女官らしく、完璧な礼だ。
「よろしくね、朱里。私のことは結蘭と呼んで」
「はい、結蘭さま。まずはお茶のお支度をいたしましょう。皇后さまより、お祝いのお菓子が届いております」
房室に入り、椅子に腰掛ける。花鳥の彫られた椅子も昔、母が使用していたものだ。黒狼が房室の隅に立ったままでいるので、不思議に思った結蘭は声をかける。
「黒狼も座れば?」
「ここでいい」
厨房から戻ってきた朱里は、菓子と茶碗を乗せた盆を携えてきた。
彼女は黒狼をちらりと見やり、眉をひそめる。
「これ、黒いの。いつまで結蘭さまのお部屋にいるの? 出ておいきなさい」
黒いの呼ばわりされた黒狼は眉ひとつ動かさず受け流している。結蘭は慌てて弁明した。
「彼は私の近侍なの。幼なじみなのよ。陛下に謁見して校……ええと、」
「校尉だ。官品は正八品。軍の部隊長で数百から数千人を指揮する権限がある」
「そう、それ。すごい出世じゃない⁉」
黒狼は剣術が達者なので、村の道場に通っていた。彼の腕を田舎の近侍で終わらせるのは惜しい、と師匠が語っていたのを結蘭は聞いている。
詳しいわりにあまり嬉しそうではない黒狼は、ゆるく首を横に振る。
「俺の実力とは関係ない。公主の近侍だと紹介されたから任命されただけだ。任じられたからには、軍部に在籍することになる」
「え……じゃあ、私の近侍は……?」
軍部に所属すると、訓練などで忙しくなるだろう。会えなくなってしまうのだろうか。いくら幼い頃過ごした場所とはいえ、黒狼がいないと寂しい。
龍井茶の芳香が、房にふわりと広がる。
黒狼は唇に薄い笑みを刷いた。
「心配するな。結蘭の近侍は俺にしか務まらない」
そして彼は、卓に茶と菓子を並べていた朱里を顎で示した。
「そういうわけだ。俺はいつもいるから、黒い虫かなにかだと思え」
尊大な態度に、ぴくりと頬を引き攣らせた朱里は、『黒いの』に背を向ける。
黙殺した彼女は、結蘭に笑顔を見せた。
「さあ、お召し上がりください。皇后さま自らがお作りになった月餅でございます」
「わあ、美味しそう。皇后さまは料理がお上手なのね」
皿には形の整った綺麗な月餅がひとつ。
皇后とは現在の皇帝である詠帝の正妃で、後宮の主でもある。皇帝が代替わりすれば妃嬪もすべて官職が変わるので、結蘭は未だ会ったことはない。
「いただきまー……」
吸い寄せられるように伸ばした手が月餅に触れる寸前、どこからか声が聞こえてきた。
『たすけて……くるしい……息が、でき……』
「誰⁉ どこにいるの?」
辺りを見回すが、房室には結蘭と黒狼、朱里のほかには誰もいない。
それにもかかわらず、くぐもった小さな声音は必死に助けを求めている。
「どこにいるのか教えて」
きっと虫だ。
けれど綺麗に片付いた房室に、それらしき姿は見えない。
『暗い……なにも、みえない……』
卓の下を這いつくばって捜索する結蘭に、朱里は訝しげに首を捻った。
「結蘭さま? どういたしました?」
「誰かが助けを求めているの。朱里も捜して! 暗いところだって」
「はあ……?」
床下だろうか。それとも天井裏か。すでに露台の下を覗いて戻ってきた黒狼が、ふと卓の上に目を留めた。
「おい。これじゃないか」
「えっ⁉」
皿の上にのせられた月餅の皮が、まるで生き物のように幾度も押し上げられている。
黒狼は腰に佩いた刀の鯉口を切った。
すらりと抜かれた刀身に気圧された朱里は後ずさりをする。刃先ですうと表面のみを斬ると、溢れた餡がもぞもぞと動き出した。
「ひっ……」
朱里は悲鳴を上げないよう、両手で口元を覆う。
餡を掻き分けて現れたのは、一寸ほどもある芋虫だった。
「ここだったのね。大丈夫だった?」
芋虫をてのひらで掬い、餡を退けてやる。
なんて大きな芋虫だろう。身体は黒で橙色の模様が点々とついている。初めて見る種類だ。
『ありがとうございました。突然捕まり、閉じ込められてしまったのです。助かりました』
「どういたしまして。ここの庭に住むといいわ。美味しそうな葉もたくさんあるわよ」
『まあ……。貴女は虫の言葉がわかるだけでなく、お優しいのですね』
「ありがとう。黒狼が見つけてくれたんだから、黒狼のおかげよ。どこがいいかなぁ。池のほとりはどうかしら」
露台から庭に降りて池の周りを歩く。ほどよい茂みを見つけて、葉の上に黒い芋虫を下ろした。
『この御恩は忘れません。いつかお礼をいたしましょう』
「お礼なんていいのよ。あなたが無事に大人になってくれれば、それでいいの」
芋虫はそっと葉陰に身を隠した。
蝶か、蛾か。いずれ美しい成虫になってくれるだろう。
素手で芋虫に触り、延々と独り言を喋っている結蘭の背を、朱里は呆気にとられて見ていた。
「蟲公主の噂は本当だったのね。通りで誰も結蘭さまの女官になりたがらないわけだわ」
黒狼は目の端だけで朱里を捉えると、ふたたび視線を結蘭に戻した。
「これが日常だ。辞めるなら今のうちだぞ」
むっとして朱里は黒衣を見返し、すぐに顔を背ける。
「辞めないわ。私がいなかったら誰が食事を作るのよ。掃除は? 黒いのがやるの?」
「……それは任せる」
「後宮の女官をみくびらないでちょうだい。まずは皇后さまの女官に文句をつけてやらなくちゃ。虫を入れるなんてひどい嫌がらせだわ」
「歓迎のつもりだろ。まずは茶を淹れてくれ」
「あんたの女官じゃないのよ!」
さっそく打ち解けたらしい黒狼と朱里のやりとりを背にして、結蘭は庭に生きる虫たちを観察した。
「――で、ございます。結蘭公主、聞いておられますかな?」
三度目のあくびを噛み殺して、結蘭は涙のにじむ眼を老師に向けた。
「はい、老師。宮廷における規矩とは、ええと……」
文机に広げられた竹簡に目を走らせる。
公主といえども虫の観察だけをしていられるはずもなく、連日宮廷の儀礼典礼を講師から教授されていた。平たく言えば、一国の公主としての心構えを延々と説かれている。
とてつもなく退屈である。
黙って座っていれば麗しい姫に見えなくもない結蘭だが、勉学は苦手で、竹簡を眺めていると瞼が重くなってしまう。
老師のお叱りに頭を垂れて、本日の講義もどうにか終了した。
強張った肩を揉みほぐしながら、殿の階を下りる。
「あー、つっかれたぁ。もうやだー」
誰もいないのをよいことに、盛大につぶやく。
そのとき、獅子像の傍に佇んでいた影が笑うように揺れた。
あ。誰かに聞かれちゃった?
びくりとして覗くと、笑みを浮かべた黒狼が姿を現わす。
「声が大きすぎるぞ。老師の気苦労が察せられるな」
「黒狼! 迎えに来てくれたの?」
校尉の位に就いた黒狼は禁軍の所属となり、剣や槍の鍛錬に日夜励んでいる。今日は平原での訓練だと早朝から出掛けていったので、引き上げるのも早かったのだ。
本音を言えば退屈な講義など抜け出して、黒狼と共に馬で駆け出したい。結蘭だって馬に乗れるのだ。ただし子翼にだけだが。公主とは窮屈なもので乗馬さえもままならない。
「今日はどんな訓練だっ――あっ……!」
駆け寄ると、絹の鞋先が石畳につまづき、たたらを踏む。
すいと腕を伸ばした黒狼に、引き込まれるように肩を抱かれた。
身の丈が六尺ある黒狼は、結蘭よりも頭ひとつ以上高い。鍛え抜かれた逞しい腕にすっぽりと収まってしまい、心臓がとくりと跳ねる。
「ちょ、なっ……あ、あの、」
「気をつけろ」
無感動に告げられる。いつもの黒狼の、落ち着いた声音だ。
なによ。私だけ慌てて馬鹿みたい。
黙って頷き、彼の腕から逃れる。なぜか胸が詰まって、次の言葉が出てこない。
黒狼は気にするふうでもなく、西門へと足を向けた。
「呂丞相が面会したいそうだ。結蘭に話があるらしい」
「謁見したときに会った偉いお爺さんね」
「丞相は皇帝の右腕だ。まあ、偉いお爺さんだな」
話とはなんだろう。老師のように公主としての心構えがなっていないなどという、お説教だろうか。ああ、溜息がこぼれる。
丞相府を訪れると、衛士に客用の房間へ案内される。
書や陶磁器がずらりと展示されているので眺めてみると、落款印には呂と記されていた。呂丞相の自作らしい。
「下手の横好きか」
「黒狼、正直すぎ」
軽口を叩きあっていると、叩扉の音が響く。
慌てて居住まいを正すと、呂丞相と共に詠帝が姿を見せた。
「へ、陛下⁉」
まさか皇帝も現れるとは思ってもいなかったので、結蘭は驚きの声をあげる。膝をついて礼をしようとする結蘭を、詠帝はてのひらを上げて遮った。
「姉上、礼はよい。今はお忍びで丞相府へ参ったので、弟として接してほしい」
「お忍びなんですか?」
呂丞相に椅子を勧められ、円卓を囲んで腰を掛けた。黒狼も同席を求められたので、彼も着席する。
扉の外に誰もいないことを念入りに確認した呂丞相は、話を切り出す。
「今日、お呼びしたのは、結蘭公主のお力をお借りしたいという陛下よりのご相談じゃ。公主を召還した竹簡に書いてありましたな」
「そうでしたよね。どうして謁見のときは言ってくださらなかったのですか?」
呂丞相は許可を求めるかのように詠帝をうかがった。
詠帝はひとつ頷き、結蘭に向き直る。
「姉上、私は皇帝だが、この国の者すべてが味方ではないのだ。人にはそれぞれ思惑がある。そして悪者も常に存在する。この金城にも。その悪者が悪行を成そうとすることを秘密裏に処理する必要がある。おわかりだろうか」
威厳に満ちた物言いは、確かに彼が儀国の皇帝であると感じさせた。
結蘭は、ごくりと息を呑んで頷く。
「わかります。私にできることならお手伝いするわ」
「感謝する。これから言うことは内密にしてほしい。よいな?」
詠帝は黒狼に目を向け、彼にも同意を求めた。
「無論」
ひと呼吸置いて、詠帝は一粒の質問を投げかけた。
「姉上は闇塩というものを御存知か?」
「闇塩……。闇市場で取引される塩のことね。盗品だから、すごく安いんでしょ?」
古来より塩は貴重なものとされ、その生産と流通販売はすべて国家が占有してきた。
財政が傾けば塩の課税が跳ね上がり、そうすると必然的に闇が市場に出回ることになる。塩賊によって奪われた塩が正規価格よりも安い値で取引され、それを取り締まる官吏が賄賂によって懐柔される。それらを一掃するため、さらに塩の値段は吊り上げられ、同じことが繰り返される。
塩を巡る攻防と国家財政は切り離せない問題だと、詠帝は解説した。
「その闇塩を、宮廷の者が秘かに買占めているという噂があるのだ」
「どうしてそんなことするのかしら。塩は支給されるわよね」
宮廷に勤める官職の者は皆、俸禄として日常の衣食は支給される。
黒狼は双眸を細めた。
「横流しで不正に利益を得るためだ。国家反逆罪だな」
「そうなのだ。調査によると、かなりの量だと推測される。宮廷人が闇塩に手を染めているなどと明るみに出れば、国家の尊厳にかかわる。その者の地位によっては、何万人もの人間が処刑されるやもしれない。だから闇塩の隠し場所を見つけて穏便に事を済ませたいのだ。そこで、姉上の出番である」
「えっ。そこで、私?」
「お願いだ。姉上の虫と話せるという能力を使って、闇塩の隠し場所か、もしくは犯人を見つけてくれないだろうか」
まさか闇塩の秘密を探れだなんて。
相談の域を超えている。
国家の尊厳や何万人もの命がかかわるという大事に、結蘭は腰が引けてしまった。
「そんな。私は虫と話せるだけで、すべてを見通せるわけじゃないのよ」
「人が見ていないものを、虫は見知っているかもしれない。それに蟻を辿れば塩の行方もわかるだろう」
「それは砂糖!」
「そうか……。姉上は、朕の頼みを聞いてくれないのか……」
しゅんと項垂れて、黄袍に埋もれるように詠帝は小さくなった。呂丞相は苦渋を浮かべて結蘭に平伏する。
「どうか、蟲公主と誉れ高い結蘭殿のお力をお貸し下され。我々では目立ちすぎて動けませぬゆえ。危険なことはありませぬ、たぶん」
「え。まあ……そんなにおっしゃるなら」
「おお、引き受けてくださるか。さすが陛下の姉君であらせられる。指示はわたくしから追って連絡いたします」
「は、はい。よろしくお願いします。呂丞相さま」
「ありがとう、姉上。頼んだぞ」
「え、ええ。任せておいて」
なんだか安易に引き受けてしまった気がしないでもない。
傍らの黒狼は憮然として、重い溜息を吐いた。
「安請け合いだな」
丞相府を出ると、黒狼は呆れたように吐き捨てた。そのとおりなので結蘭は肩を竦める。
けれど、公主としてこれまで国に貢献できていなかったので、役に立てるのなら嬉しい。弟にばかり責務を負わせるのも心苦しいのだ。姉として公主として、結蘭が力になれるのならそうしたい。
ただ、虫と話せることが解決につながるだろうか。
虫は人が思う以上に忙しいものだ。日々の糧を得るのに必死で、時期が訪れたら相方を捜し、子孫を残す。その一生はとても短い。もちろん、万能でもない。人の行動を眺めている余裕のある虫など、いないだろう。
「宮廷のどこかに隠してある闇塩を見つけるといって……もがっ」
突然、黒狼の大きなてのひらで口を封じられる。
その固い感触とあまりの熱さに驚き、結蘭は手足をばたつかせた。
「大きな声を出すな。誰かに聞かれたらまずい」
「あ……そうね。秘密だもんね」
犯人は宮廷の内部にいるのだ。女官や衛士でも、誰かの部下なのである。だから詠帝と呂丞相は宮廷の外に住んでいた結蘭に頼んだのだ。
「そうだ、秘密だ。俺たちだけのな」
てのひらがゆっくりと離される。温かい感触の残滓を唇に感じながら、結蘭は強く頷いた。
「わかったわ。ひみつね」
口の中で魅惑的なその言葉を幾度も転がす。
ひみつ、ひみつ、黒狼との、ひみつ。
踊り出しそうに足元の軽い結蘭は、蟻を踏みつけそうになり、またしてもたたらを踏む。転ばないよう、すでに黒狼は帯の付け根を掴んでいる。用意がいい。
「気をつけろ」
「蟻さんがいたのよ。ねえ、蟻さん。この辺りで塩を見かけなかった? え、砂糖しか興味ない? そうよねえ」
調査は時間がかかりそうだ。結蘭は宮廷内の虫たちに話を聞いて回ったが、有力な情報は得られなかった。
ふわりと、華の香りが園林に舞う。
妃嬪たちを慰めるために造られたという園林には、桔梗や梔子など時季を迎えた花々が競うように咲き誇る。
本日は妃嬪の一人である、李昭儀の主催する宴が催される。
人が多い宴に顔を出すのは苦手だが、公主として招待されて断ってばかりもいられない。闇塩の犯人を突き止めるという役目もあるわけなので、できるだけ宮廷の人を見知っておく必要がある。
「ねえ、黒狼。おかしくない?」
大輪の睡蓮が浮かぶ池のほとりの林道を歩みながら、結蘭は裾をちょいと持ち上げてみる。
妃嬪たちの集う宴ということで、今日は新しく設えた衣を纏ってみた。
鮮やかな碧の上衣には銀糸で刺繍が施され、薄紫の裙子は歩けばさらりと品よく揺れる。高髷は結わないが、小さく纏めた包子に歩揺を挿し、腰まである後髪は流している。
華美は控え、気品を重視したと衣工は絶賛していた。着替えを手伝った朱里は天女のようですと崇める有様だ。自信を持ってもよいのだろうか。
傍らを歩く黒狼は、一瞬だけ目線を向けた。
「悪くない」
「それだけ? ちゃんと見た?」
「ああ、見た」
黒狼に衣の感想を求めても無駄だったかもしれない。
彼は陽光あふれるなかでも、相変わらず黒衣を纏い、黒の長装靴を履いている。この装いが、もっとも落ち着くらしい。
『お美しいですよ、涼しげな色がとてもお似合いだ』
「え、そう? 誰?」
声が聞こえてきたので、首を巡らせる。
『こちらです。妃嬪さまは私の声が聞こえるのですね』
見ると、木の枝に蜘蛛の巣が張られていた。黒と黄の縞の蜘蛛が、話しかけていたのだ。
「私は結蘭よ。どの虫とも話せるの。今から? 宴に行くのよ。そう? じゃあ一緒に行く?」
黒狼は会話が終わるのを無言で待っている。
やがて、袖口に蜘蛛をのせた結蘭が振り返った。
「この子も一緒に行きたいって。連れて行くわ」
「見えない位置に隠せ。妃嬪に見つかったら悲鳴を上げられるぞ」
蜘蛛は糸を垂らし、袖から垂れ下がった。
「結蘭公主さま、おなりにございます」
豪華絢爛に彩られた園林に、結蘭は感嘆の息をこぼした。
深紅の毛氈が敷かれ、紫檀の卓には獣肉や蒸篭に盛られた点心がずらりと並べられている。雅楽師が演奏する琵琶や笙の雅な音色が流れるなかを、艶やかな装いをした妃嬪たちのさざめきが重なる。
「ごきげんよう、結蘭公主。こなたは李昭儀。よろしくね」
挨拶に赴いた結蘭に、李昭儀は嫣然と微笑んだ。
肉感的な身体を真紅の衣で包み、高髷には黄金の歩揺がいくつも挿されている。
頭が重くないのかと思うが、着飾ることは妃嬪としての嗜みなのだろう。
「お招きいただき、ありがとうございます。素晴らしい宴ですね」
紅を引いた唇を扇で隠した李昭儀は、鼻で嗤う。洗練された隙のない挙措なので、不思議と嫌味がない。
「田舎暮らしだから珍しいでしょう。どうぞ、お酒とお喋りを楽しんでちょうだい」
九嬪の筆頭である昭儀は正二品で、皇后の次の次くらいに偉い。
と、結蘭なりに宮廷での序列を学んだ。
妃嬪は永久職位ではない。功績を上げた者は昇格することも充分ありえる。例えば、皇帝の寵愛を受けること、子を産むこと。機会に恵まれさえすれば、下級女官でも庶子でも寵姫になれるのだ。
歴代の妃嬪のなかには庶子から皇后まで登りつめた者さえ存在する。親しそうに会話しながらも、にらみを利かせる妃嬪たちの張りつめた空気が伝わるようで、結蘭は居心地悪く隅っこへ腰を落ち着けた。
ひとりの妃嬪が、輪の中心にいる李昭儀に話しかける。
「皇后さまは、いらっしゃらないのね。私は皇后さまのお顔を一度も拝見したことがないわ。そんなに人前に出られないお顔なのかしら」
妃嬪たちの上品な笑いがこぼれる。
いない人の悪口を言うのもどうかと思うが、そういえば結蘭も皇后には会ったことがない。
虫入りの月餅を頂戴したのは記憶に新しいが、朱里は皇后付きの女官に文句を言ってやったら受け流されたと憤慨していた。
李昭儀は面白くもなさそうに、扇を優雅に煽がせる。
「病で床に伏せっているそうね。病弱なら子はできないだろうから問題ないわ」
「では李昭儀に子ができれば、その子が次期皇帝ね。男子ならということだけれど。陛下は永寧宮においでになって?」
なんだか嫌味たっぷりの言い方だ。
女の戦いは怖いなぁ、と思いながら、結蘭は点心にかぶりついた。
きりりと描いた李昭儀の黛が跳ね上がる。
「司馬才人は正五品でしょう。間違って子ができても、きっと公主ね。虫と話せるだなんて言い出すのじゃなくて?」
「ぐふっ」
突然自分のほうに話を振られて、結蘭はむせてしまった。
皆の視線が一斉に集まるなか、慌てて茶を飲み下す。
「い、いえ、あの、私はですね、虫と話せるというのは嘘ではなくて……」
顔から火が吹き出るほど恥ずかしい。
こんなにたくさんの人と接するなんて経験がないので、どう対応してよいのかわからない。
妃嬪たちは慌てる結蘭が面白いのか、くすくすと笑い出した。
李昭儀は紅を引いた唇に形ばかりの笑みをのせて、声高に問いかけた。
「結蘭公主は奏州でお暮らしになっていたのよね? あちらの地方で流行している芸などはあるのかしら。できたら、こなたたちにお手本を見せてくださらない?」
芸を披露してくれと言われても困る。琵琶でも弾ければ場に馴染めるのだろうけれど。ああ、練習しておけばよかった。
「また李昭儀の、おねだりが始まったわ」
妃嬪たちは侮蔑と、ほんの少しの期待を込めて結蘭を見つめている。
なにかやらなければ恥をかいてしまう。結蘭はうつむきながら視線をさまよわせた。
すい、と袖下に隠れていた蜘蛛が姿を見せる。
『お困りのようですね、結蘭公主。私が、蜘蛛の巣を編む早業をお見せしましょう』
「え、ほんと? いいの?」
蜘蛛の巣はそれは美しい芸術品だ。作成する様子を披露するのは芸といえるだろう。
結蘭は快く蜘蛛の申し出を受け入れ、妃嬪たちの前に蜘蛛を掲げて見せた。