黒狼は平然として、ひとことつぶやいた。
「全部、虫だと思えばいい」
 なるほど。
 虫、虫、虫……。みんなむしむし……。
 そう思い込めば呂丞相の柳のような細い背は、蜻蛉に見えなくもない。
 少々落ち着いた結蘭は、黒檀の玉座の前で平伏した。
「お久しぶりでございます、皇帝陛下。結蘭、ただいま奏州より馳せ参じゅいました」
 噛んだ。
 役人たちの間から咳払いが聞こえる。
 おそるおそる顔を上げると、玉座から未だ幼さの残る少年があどけない双眸で結蘭を見据えていた。龍紋の黄袍を身に纏うこの少年が詠帝(えいてい)である。
 彼が赤子の時以来会っていないので、結蘭のことは覚えていないだろう。
 詠帝はにこりと微笑むと、穏やかな声音を発した。
「お久しぶりだ、姉上。長旅でお疲れであろう。以前、姉上と楊美人の過ごされていた清華宮を用意させたゆえ、ゆるりとくつろいでくれ」
 柔らかくも気遣いのこもった物言いに、結蘭はふたたび頭を垂れる。
 清華宮は後宮内にある妃嬪のための宮殿のひとつで、結蘭はそこで産まれた。緑のある庭で、いつも虫と話していたのだ。
「ありがとうございます。それで……私に相談とは、どのようなことでしょう?」
 一瞬、詠帝と呂丞相が視線を交わした。
 けれど、すぐに詠帝は微笑みを浮かべる。
「はて、なんであったか。伝令が間違えて伝えてしまったのやもしれない」
「確か竹簡では、虫と話せる力を借りたいだとかいう内容だった気がするのだけれど……」
 詠帝がなにか言う前に、隣に付き従っていた役人が前へ進み出た。
「結蘭公主。いえ、蟲公主。虫と話ができるなどという虚言を貴女がされるので、先帝も追放せざるを得なかったのですぞ。私も叔父として心苦しかった。また同じ目に遭いたくなくば、今後は慎ましくしているべきではありませんかな」
「虚言ではありません!」
 本当なのに。
 でも、この人の言うことが世間での見方なのだ。
 詠帝は手を挙げて両者の会話を遮る。
「よせ、王尚書令。姉上はお疲れなのだ。まずは休ませてさしあげろ」
「御意」
 王尚書令と呼ばれた官吏は慇懃に頭を下げた。
 そういえば、彼は父の弟だ。結蘭と詠帝からみて叔父にあたる。官吏の衣を纏っているので、若い皇帝の摂政を務めているらしい。
「蟲公主。その者は?」
 王尚書令は居丈高に、隙のない鋭い眼差しを結蘭の後ろに注いで詰問した。
 結蘭が振り返ると、黒狼は静かに跪いている。
「彼は黒狼といいます。私が幼い頃から近侍をしています」
「腕に覚えがありそうですな。どこかで見た顔だ。面を上げよ」
 殿に響き渡る王尚書令の声が聞こえていないという風に、黒狼は顔を伏せ、微動だにしない。
 黒の上衣に黒の褲子を纏い、腰に長剣を佩いた恰好は侠客のようにも見える。黒狼は昔から黒ずくめで、加えて無愛想なので、近寄り難い雰囲気を醸し出している。
 不調法なふるまいに眉を吊り上げた王尚書令だが、詠帝は鷹揚に頷いた。
「姉上の近侍なら信用できる。軍に入るがよい。そなたを校尉に任じよう」
「……感謝いたします」
 黒狼の低い声音が這う。呂丞相から退出を促され、結蘭は立ち上がった。その後ろを黒狼は影のように付き従う。
 ああ、人と話すのは疲れる。
 結蘭は重い溜息を吐いた。



 天子の住まう金城の奥を守るように、広大な後宮が麗しい装いで佇んでいる。その中のひとつ、清華宮の門を結蘭はくぐった。
「わあ。昔と変わってないなぁ」
 宮殿の隣には池があり、錦鯉が泳いでいる。房室から見渡せる庭には潤う緑。躑躅に椿、牡丹、桜の木も植えられている。花の盛りには美しい景色が広がり、花を愛でる母の隣で、結蘭は虫と話していた。
 夏は蛍、秋は蜻蛉、冬は誰もいないから寂しい。けれど春になれば、みんなが出てきてくれる。
「私、ここに五つのときまでいたのよ」
「ああ。静かで落ち着けそうなところだ」
「いつもこの房室から、お母さまは庭を眺めていたの。私は露台に出て虫がいないか見ていたわ」