「北蜀の皇位継承を巡る争いは十年ほど前のことだが……兄皇子は弟に殺害されたのではなかったか?」
「それが、生きていたのです。乳母が秘かに手引きして逃がしました。証人をここへ」
 結蘭は目を瞠った。
 衛士に引き連れられて姿を現わしたのは、奏州の屋敷で待っているはずの欣恵だったからだ。しかも縛られ、衰弱した様子の欣恵は嘆きの声を上げている。
「欣恵!」
「結蘭さま。黒狼さま。申し訳ございません、わたくしは……」
 駆け寄ろうとすると、衛士に遮られる。
 まるで罪人のような扱いだ。彼女がなにをしたというのか。
「この乳母がすべて白状しました。弟一派との皇位争いに敗れた趙瑛皇子は身をひそめ、いずれ北蜀の皇帝として即位するため機会をうかがっていたと。ところが、北蜀という国自体が滅亡してしまったので、復讐の矛先は我が儀国へ向いたのです」
 王尚書令の説明に、欣恵は膝でにじり寄りながら反論した。
「とんでもございません! 皇子は、黒狼さまは、復讐などお考えではありません……あっ」
 咄嗟の訴えが、黒狼が趙瑛皇子本人であると証言してしまったことに気づいた欣恵は慌てて口を噤む。
 王尚書令は勝ち誇ったように口元を緩ませた。
「己が玉座を追い落とされたのに、どうして他者の治政を喜べましょう。復讐として茶器に毒を混入することなど、造作もないはず。自白したらどうだ、黒狼。いや、趙瑛元皇子」
 皆が床に押さえつけられている黒狼に注目した。
 黒狼は、ゆっくりと顔を上げる。その双眸は静かな怒りを秘めてはいたが、冷め切っていた。
「皇帝になれなかった者が玉座に収まっている他人を喜べない、か。貴様がそう思っているだけじゃないのか?」
「なんだと……。愚弄するか」
 命乞いでもするかと思われた黒狼の不遜な発言に、王尚書令の顔色が憤怒に彩られる。
 ざわめく殿を宥めるように、詠帝は手を挙げる。
 場は一斉に静まり返った。
「黒狼校尉。そなたが北蜀の皇子であったという、今の話は事実か?」
「事実に相違ございません」
 淀みなく答えるさまを、結蘭は信じられない思いで見つめる。
「では……毒を入れたのは、そなたなのか?」
「違います」
 反目する返事に、皆は視線を彷徨わせた。
 たまらなくなった結蘭は御前に駆け寄り、膝をつく。
「例え黒狼が皇子だったとしても、毒殺未遂の下手人ということにはなりません! 彼がそんなことをする卑怯者でないことは、私がよく知っています」
 必死の訴えに王尚書令は口を挟もうとしたが、詠帝は片手を上げて遮る。
「黒狼校尉。事件のあった昼頃、どこにいたのだ?」
「兵営におりました」
「それはそうであろうな……」
 兵営では大勢の兵が鍛錬しているが、厠所に行くところまで見ているわけではない。声高に無実を訴えれば詠帝の心情を動かせるかもしれないのに、黒狼の弁が冷静かつ淡白なので、諦めているように思わせてしまう。
 そのとき、扉から複数の衛士が慌しく入室する。王尚書令に小さなものを手渡した。
「証拠をお見せしましょう。たった今、捜索させた黒狼の房室からこれが発見された」
 高く掲げられた小瓶には液体が満たされている。侍医が受け取り、その場で鑑定する。
「附子でございます。龍井茶から検出されたものと寸分違いません」
 皆の驚きが確信を含んだものに変わった。黒狼を見下す目に侮蔑の色が混ざる。誰かが、裏切り者めと叫んだ。
「黒狼こそ、皇帝暗殺未遂の下手人である。公主に取り入り、儀国に仇成す機会をうかがっていたのだ。即刻、処刑するべきです」
 王尚書令の高らかな宣言に、賛同の声が次々にあがる。
 死罪になろうとしているのに、黒狼は黙していた。
 結蘭は呆然と、身じろぎもしない黒衣を眼に映す。
 まさか、認めるの……?
 不器用で無口だけれど、優しい心を持っている黒狼が毒を盛るなんてありえない。ここで弁解しなければ、すぐにでも刑は執行されてしまう。
 黒狼の本心も確かめず、首を刎ねるなんて許さない。
 結蘭は拳を握り締め、凛然と顔を上げる。
「毒瓶はどこにあったのです。私は彼の房室に出入りしていますが、そんなもの見たことがありません」
 王尚書令に目で促された衛士は、一瞬虚を突かれる。
「は……。臥台の下です。床に転がっておりました」
「蟲公主。あまり、ぼろを出さないほうがよろしいのでは? 貴女も共犯かと疑われますぞ」
「そんな……言いがかりです! もっとよく調べてください」
「無駄ですな。蟲公主が近侍を庇いたいのはわかる。しかし、黒狼が下手人でないと証明することができますかな?」
 結蘭は言葉に詰まった。
 黒いものを白ではないと逆説的に証明するのは難しい。解決策は、ただひとつしかない。
「私が真の下手人を挙げます! 陛下、どうかおゆるしを」
 気迫に押された詠帝は、姉と叔父に挟まれて困惑を浮かべた。
「うむ……。呂丞相はどうしたのだ。彼にも意見を聞こう」
「呂丞相は私の命により、紀州へ視察に参っております」
 待ち構えていたかのような王尚書令の返答に、ちくりと針を刺したときの痛みがよぎる。まるで意図的な悪意だ。
 呂丞相がいてくれたなら、結蘭たちの味方になって皇帝に進言してくれたはずなのに。
「陛下。黒狼の首を刎ね、蟲公主を拘禁すべきです。どうぞ英断を」
 高らかに告げる王尚書令に、詠帝は異論が見当たらないようだった。結蘭以外の誰もが判決を確信した。
「お待ち下さい、陛下」
 開け放たれた扉から飛び込んだ涼やかな声音が、薄寒い殿に響き渡る。
「新月か。遅かったではないか」
 詠帝は安堵の息を吐く。
 長袍に貂の毛皮がついた上衣を纏った新月は、道を開ける臣たちの間を縫い、颯爽と玉座に歩み出た。
「御無礼、お許しください。ですが黒狼校尉を処刑することはなりません」
 下されるべきだった判決を覆すような断言に、王尚書令は眉をひそめた。
 詠帝の傍に控えた新月は、毅然として王尚書令に対峙する。
「入念にお調べいただいたようですが、王尚書令のやり方に疑問が残ります。女官に拷問するのはいかがなものかと」
 欣恵は鞭打たれたらしく、衣服は破れて血がにじんでいる。憔悴しきった眼は落ち窪んで虚ろだ。衛士に連行されて王都に来てから、まともな扱いを受けていないことがわかる。
「それがどうした。罪を暴くのに必要な措置だ。光禄勲の管轄外であろう」
「北蜀の皇子をかくまうことは、儀国の罪にはあたりません。彼女は皇族の乳母で、現在は公主の女官なのです。身分にふさわしい扱いをするべきではありませんか?」
 王尚書令はつまらなそうに欣恵を一瞥した。
「それほど言うなら、光禄勲に処置を委ねよう」
「では、黒狼校尉の処断も厳重に審理を重ねる必要がございますね。なにしろ北蜀の皇帝になるはずだった身分ですから」
「なにを言う。陛下を毒殺しようとしたのだぞ。今すぐに首を刎ねるべきだ」
「牢に入れておけばよいです。それとも、今すぐに首を刎ねなければいけない理由でもあるのですか?」
 王尚書令は押し黙った。彼は副官と小声で相談を交わす。
 詠帝は傍らの新月を、信頼を込めた温かい眼差しで見やる。
「新月の申す通りだ。罪の疑いはあるが、黒狼校尉を無下に扱うことはならん。ひとまず牢へ。結蘭公主は謹慎といたす」
 皆は一斉に大礼する。英断でございます、という合唱が殿に轟いた。皇帝の決断は絶対なのだ。
 ひとまず斬首は回避することができた。
 結蘭は息つく暇もなく、牢へ連行される黒狼のもとへ駆け寄る。
「待って。黒狼……!」
 振り向いた漆黒の瞳には、なんの色も浮かんでいない。
 俺ではない、信じてくれと言ってほしかった。その言葉をもらえなければ、ふたりの過ごした時間のすべてが否定されてしまうような気がして。
 思いとは裏腹に、黒狼の口から残酷なひとことが発せられる。
「俺を疑いたければ、そうするがいい」
 次第に、彼の背中が小さくなる。開かれた扉の外は粉雪が舞っていた。
 ふいに思い出した。
 初めて黒狼と会った日のことを。
 青虫と話していたら、いつの間にか知らない少年が佇んでいた。
『俺の名は、趙瑛だ』
 一度だけ、聞いていた、黒狼の本当のなまえ。
 そしていつか、一緒に金色蝶を捜す旅に出ようと約束した。
 あれは、嘘だったのかな……。
 正体を偽っていたように、互いの夢も偽りだったのだろうか。
 金色蝶のことを話した過去の思い出を、黒狼はもう覚えていないだろう。
 彼の心には、玉座を巡る復讐の焔しか存在しない。
 そんなこと信じたくないのに。
 なにを信じればいいのか、わからない。
 眦からあふれた涙が、頬を濡らしていく。
 新月に肩を叩かれて、結蘭は我に返る。後片付けの済んだ役人が、殿の隅で結蘭の退室をうかがっていた。 
 半刻ほども呆然と佇んでいたらしい。
 新月の顔を眼に映しても、黒狼の背中の残像が消えない。
「結蘭公主。ひとまず、欣恵は軍府でお預かりします。丁重に扱いますのでご心配なく。審理の経過を見て今後のことを考えましょう」
「新月さま……ありがとうございます」
 掠れる自分の声は、とても小さくて心許なかった。
 新月は励ますように、強い眼差しで見返す。
「しっかりしてください。結蘭公主が下手人を挙げると誓ったことを、実行するのです」
 黒狼の死罪は免れたわけではなく、先に引き伸ばされただけだ。下手人を特定できなければ、黒狼の命は失われてしまう。
 けれど、いったいなにをすればよいのだろうか。まるで解決の糸口は見当たらない。混乱した結蘭にはなにも考えることができなかった。
 覚束ない足取りで清華宮へ向かう。付き添ってくれた新月は、門扉で朱里が待っているのを認めて足を止めた。
「ひとこと言っておきます。先ほどの審理は仕組まれたものですが、毒を入れたのは王尚書令ではありません」
「え……それはどういう……」
 長袍の裾をひるがえし、新月は純白に染まった雪道を戻っていく。
「結蘭さま、心配しました。黒狼はどうしたのですか?」
 不安げな表情を浮かべた朱里から手渡された小さな行火は、すでに冷えていた。彼女の指先は赤く腫れている。ずっと待っていてくれたのだろう。
「黒狼は……」
 言葉が、喉元から出てこない。
 涙で乾いた頬が、冷気に晒されてひりついた。
「なにかあったのですね? 先ほど衛士が黒狼の房室に踏み込んでいきました。見ようと思ったら追い出されてしまったのですが……」
「衛士は毒瓶を持っていったのよ」 
「毒瓶? 手ぶらだった気がしますけど」
 結蘭は、ふと朱里の顔を見る。
「小さな瓶なの。これくらいの。臥台の下にあったそうよ」
 朱里は首を捻った。
「臥台の下ですか……。始めからそこにあると、衛士はわかっていたのですか? すぐに出てきたんですよ」
「ふうん……」
 脳裏を、小さな瑕が引っかく。
 毒瓶はどこにあったのかと苦し紛れに質問したとき、衛士はわずかに瞠目していた。
 事実を答えればよいだけなのに、どうして驚く必要があるのだろうか。
 結蘭は行火の取っ手を朱里に手渡すと、廊下を駆けた。
 扉をがらりと開け放つ。黒狼は持ち物が少ないので、房室は整頓されている。臥台に卓と椅子、簡素な箪笥。予備の剣は鞘に収められて刀掛台に置かれていた。
 箪笥をそっと開けてみると、数着の黒衣がきちんと畳んで収納されている。荒らされた形跡はどこにもない。
 朱里の言う通り、衛士は始めから毒瓶が臥台の下にあると知っていたようだ。でも、どうして。
 身をかがめて臥台の下を覗く。床には一面に、うっすらと埃が積もっていた。
 指先で、すうと埃をなぞる。
 おかしい。ここに隠してあったのなら、瓶のところだけ埃が避けているはず。綺麗に降り積もる埃は、そこになにもなかったことを物語っている。
 では、毒瓶はどこにあったのか。
 立ち上がった結蘭は、はっとした。
「嘘なんだわ……。審理のために、嘘の証拠を持ってきたのね」
 王尚書令に、はめられたのだ。
 黒狼の正体を見破った王尚書令は、証拠を捏造して事件の下手人に仕立て上げた。
 けれど、毒は皇帝が飲んだものと同一だ。証拠の毒瓶は、どのようにして用意させたのだろうか。
 王尚書令自身が下手人で、毒瓶を始めから持っていたと考えるのが妥当だが、新月の言い分では毒を混入したのは王尚書令ではないという。
――誰かを庇っている?
 下手人を庇うために、黒狼に白羽の矢を立てたのではないか。滅亡した国の元皇子ならば、首を刎ねても誰も文句を言わない。
――黒狼は無実なんだわ。
 確信が、結蘭の胸に希望を呼び覚ます。
 隣の自分の房室に赴き、愛用の琵琶を手に取る。いつも傍で聴いてくれる黒狼の姿はない。琴線に義甲が触れる。結蘭は響く音色に身を浸し、心を静めた。
 状況を整理しよう。
 下手人は誰なのか。最終的に行き着かなければならない地点はそこである。
 甥である詠帝を毒殺しようとした者を、王尚書令が庇うほどの相手とは……?
 御膳房には誰でも近づけた。女官や役人ならなおさら、姿を見られても怪しまれない。けれど不審な動きをすれば目立つだろう。大膳と康舎人は気づかなかったのだろうか。
 ふたりは状況的にお互いを監視する立場にあった。仮に、共犯なら……。
 結蘭は首を左右に振った。
 双方とも詠帝の信頼厚い臣なのだ。心の中の忠義がいかほどかはともかくとして、家族や己の命を賭けてまで皇帝暗殺を目論む理由がない。
 詠帝が死んで得をする者とは誰だろう。
 もし……毒の量がもう少し多かったら。
 詠帝は崩御していた。そして子のいない詠帝の後継には、摂政である王尚書令が就いただろう。
「どうして微量だったのかしら……」
 王尚書令が王位簒奪を計ったとするには、結果として矛盾している。せいぜい政務が滞っただけだ。予定されていた闇塩の捜索も、再開は未定になっている。
 もしかして、闇塩に関係が……?
 詠帝が捜索を決定した直後に毒殺騒動が起こった。強硬的な詠帝の裁決は、呂丞相を始め、主だった臣は知っている。
 闇塩を操る宮廷人は露見を恐れていたはず。
 皇帝暗殺未遂の件と闇塩の間に、ごく細い糸が見える。
 もう一度、敬州に行こう。
 夏太守は闇塩の全容を知っている。それを明らかにすれば、真実に辿り着けるはず。
 結蘭は最後の一音を奏で終える。
 謹慎中にもかかわらず無断で金城を出れば、罰せられる。
 けれど、黒狼の命には代えられない。
 身支度を調えた結蘭は、廊下の様子をうかがった。朱里は厨房で作業しているようで姿を見せないが、結蘭がいなくなればすぐに気づくだろう。打ち明けることはできない。なにも知らなかったということにしなければ、朱里まで罰せられてしまう。
『公主よ、お忍びでどこかへ行かれるのですか』
 ふわりと柔らかい声が、聞こえてきた。
 春を待ち、眠りに就いていた虫たちが、暖かい銀炭の周りに集まってくる。
「少し遠いところへ行くの。どうしても行かなければならないの。だから、こっそり出ていくわね」
 寂しげに笑う結蘭に、虫たちはしばし沈黙していたが、琵琶の周りに移動する。
『いってらっしゃいませ。気づかれないよう、私どもが琵琶の音をかき鳴らしております』
 琵琶の弦の、ひとつひとつに虫たちが陣取り、順番に琴の音を奏でる。それはぎこちない音色だったが、結蘭の演奏によく似ていた。
「ありがとう。少しの間だけ、お願いね」
 宮殿を抜け出し、厩舎へ向かう。
 結蘭の顔を見た子翼の黒い瞳が輝き、前脚を蹴り出した。 
「行きましょう、子翼。敬州まで」
 秘めた決意を感じ取ったのか、子翼は主を乗せると、凛として歩を進める。結蘭は背筋を伸ばし、手綱をしっかりと握り締めた。
 黒狼を、必ず助ける。
 そのための証拠を持ち帰ろう。夏太守に平伏して頼もう。
 結蘭は決意を固めた。
 朱雀門を守護する衛士がこちらに気づいた。足を後ろに引き、馬腹を打つ。子翼は猛然と駆け出す。驚く衛士の横を走り抜け、城外へ。疾風のごとく白馬は、遥か敬州を目指して街道をひた走った。
 後方から追い縋る蹄の音に振り返る。
 一騎のみだが、路の彼方から結蘭たちめがけて駆けてくる。
――追っ手かしら?
 捕まるわけにはいかない。
 子翼は後馬を振り切ろうと全力で疾走する。
 だが追っ手は諦めない。両者の距離は広がるどころか徐々に縮まっている。
子翼の駈歩についてくるとは何者か。
 ふたたびび振り返ろうとしたとき――。
「結蘭!」
 天を越えて我が名が響き渡る。
 名を呼ぶその声を、幾千幾万回と聴いてきた。
 結蘭は手綱を控え、呆然とする。
「黒狼……どうして……」
 ついに追い着いた黒狼は、まっすぐに結蘭を見つめた。
 ふたりの視線が馬上から絡み合う。
 言いたいことは山ほどあるのに、顔を見たらなにも言葉が出てこない。口を開いてはまた閉じることを繰り返しているうちに、結蘭の眦に涙がにじむ。
 主の震えを察したのか、もしくは黒狼によい感情を抱いてないのか。子翼は合図なしに、ぷいと顔を背け街道を歩き出す。黒狼も黙して後ろからついてきた。
 小春の陽射しが、雲間から覗く。二頭は黙々と歩を進めた。
「敬州へ行くんだろう。手ぶらか?」
 ふと見ると、黒狼の馬には二人分の荷が積んである。
「……牢に入ってたんじゃないの?」
「ある人が手を貸してくれた。俺の冤罪を晴らすのは、ふたつの事件の首謀者を挙げることにつながるらしいな」
 ある人とは誰だろう。結蘭の知らないところで思惑が交錯している。釈然としないが、それもいまさらだ。黒狼の重大な秘密を長年知らずにいたのだから。
「もう近侍として接しなくていいわよ。黒狼は、北蜀の皇帝なんだから」
「北蜀はもう存在しない。すべて過去のことだ」
 いつもと変わらない無感動な口調に、結蘭は目を見開く。
 そんなに簡単に言えるなら、どうして今まで黙っていたのだ。溜め込んだ憤りが噴出して、一気に拡散する。
「あんなに心配したのに! 私だけなにも知らなかった! 黒狼が首を刎ねられるかもしれないと、毒瓶が仕組まれたものだとわかって、それで……」
 まとまらない叫びが無為なものに思えて、深い溜息を吐く。
 黒狼はひとこと、ぼそりとつぶやいた。
「悪かった」
 ぽっかりと空いていた胸の空洞が埋められていく。無事でよかった。そう思うと安心して、張り詰めていた身体が緩む。
「昔のこと、言ってほしかったのに。私はそんなに信用がないの?」
「結蘭を巻き込みたくなかった。なにも知らないほうが、罪を被らなくて済むからな。弟一派の生き残りが、いつ嗅ぎつけるかもわからなかったんだ」
 先ほど、勝手に金城を抜け出すことを朱里に知らせまいとした自分の行動を思い出す。
 私のためだったのね……。
 たとえ元皇子であっても、黒狼は結蘭の知る黒狼でしかない。ほんの少しでも気弱になって、復讐のためなんて想像してしまった自分が恥ずかしかった。
「探すんだろう」
「え。証拠を?」
「金色蝶だ」
 目を丸くした結蘭を、黒狼は微笑を浮かべて見やる。
「忘れてないぞ。いつか旅に出て、一緒に探そうと約束しただろう」
「覚えていてくれたんだ……」
 伝説の金色蝶。助けた者の願いを叶えてくれるというお伽話の存在。
 けれど、結蘭は本当にいると信じている。そして出会えたなら、話もできる。
 金色蝶はどんなことを話すんだろう。子どもの頃はそればかりを夢想していた。
「俺は過去をさらけだされて、あの頃のことを思い出した。確かに昔は、復讐のことしか頭になかった。母を殺して俺を殺そうとした弟一派を、同じ目に遭わせてやると。……だが、結蘭に出会って、俺の復讐心は溶けてなくなったんだ。この風変わりな女の子を守るという新たな使命ができたからな」
 初めて聞く、黒狼の気持ちだった。
 彼の北蜀での体験を思うと、胸が引き絞られる。母を殺されるなんて、どれほど辛い思いをしたことだろう。
「黒狼は、復位を望まないの?」
「まさか。俺には結蘭公主の近侍という大事な仕事があるんだ。そしてそれは俺が希望して就いた職業で、俺以外の者には務まらない」
 なぜか公主の近侍はとても難しい職業のように聞こえるけれど、実際にそうなのだから結蘭は苦笑いするしかない。これまでも虫と話す結蘭の傍にいて、虫や人と取りなすことは大変な忍耐を要しただろう。
 それは、黒狼にしかできないことだ。
 彼が誇りを持って傍にいてくれたことが、なによりも嬉しい。
「ありがとう……。黒狼」
「礼を言われるようなことじゃない。これからも今まで通り接してくれ」
「うん!」
「とりあえず、敬州へ行って闇塩の証拠を見つけるぞ。闇塩を扱う宮廷人は必ず夏太守と接点があるはずだ」
「その人が毒を入れた下手人なのかしら?」
「闇塩を暴けばわかる」
「王尚書令なの?」
「いずれわかる」
 黒狼の秘密主義が始まった。出自がわかったと思えば、もうこれだ。やれやれと結蘭は肩を竦める。
 下手人は誰なのだろう。
 黒狼も新月も、ある程度の予想はついているようで、一歩先を見ている。
 今はとにかく敬州へ赴き、夏太守を訪ねることが先決だ。
 そして、すべてが終わったら……黒狼と金色蝶を見つけに行こう。
 子翼の足取りも軽やかに、ふたりは敬州を目指した。
 風に乗り、さらさらと舞う粒子が頬を撫でる。藍に塗られた天の夜明けは遠く、仰げば星が瞬いていた。
 東の空がうっすらと白む頃、ふたりは目的地へ辿り着いた。数日を要したが、追われる身なので以前よりは遙かに急いだ。
 私兵が巡回している塩湖付近には近づかず、手前の林で黒狼は馬の足を止める。
「夏太守が闇塩の秘密を暴露するわけがない。忍び込んで暴くんだ」
 夜中のうちに宿を発つと促した黒狼の真意は、そこにあったらしい。
 いくらなんでも忍び込むのはいかがなものか。夏太守が闇塩を行っていると決まったわけではない。
「黒狼の命が懸かっているんだから、話せばわかってくれるんじゃないかしら」
「俺の命なんか、奴に関係ない。だから結蘭は甘いんだ」
「そんな言い方ないでしょ」
 言い争いを繰り広げていると、子翼はついと馬首を巡らせた。
「子翼? どこへ行くの」
 手綱を控えたが言うことをきいてくれない。路を逸れ、急な山の斜面を駆け下りる。結蘭は振り落とされまいと必死に背にしがみついた。
 塩湖の畔に佇む夏太守の屋敷を迂回した子翼は、ぐるりと塀に囲まれた製塩所の裏手へまわる。
「ここは……」
 門前に兵がいて入れなかった場所だ。
 夜が明けていないので、辺りはひっそりと静まっている。
「よし。ここから入ろう。塀を登れ」
 追ってきた黒狼は、いつの間にか徒歩になっている。馬は林に置いてきたらしい。
 ここまで来たら仕方ないけれど、登れと言われても土塀は十三尺ほどもあるのだ。掴めるような取っ手など、どこにもない。
 子翼は小刻みに鼻を鳴らした。なにかの合図を示しているらしい。結蘭に降りろと云わんばかりに鞍を揺らす。
「踏み台にして飛び越えろと言ってるんだ。俺が子翼の上に立って支える」
 壁際に寄った子翼の鞍に、黒狼が立ち上がる。
 支えてもらえれば、ちょうど越えられる高さだ。
「私が越えたら、黒狼はどうするの?」
「俺は自力で跳べる。いくぞ」
 引き上げられ、踵を支えられて黒狼の肩を蹴る。
 棟瓦を掴み、ひらりと舞うように向こう側に降りた。
 着地するとき足裏に衝撃が響いたが、派手な物音は立っていない。軒が連なる工房に、人の気配はなかった。
 ところが、なぜか黒狼が続いて降りてこない。焦りのにじむ囁き声が聴こえたので、塀に耳をつける。
「おい、座るな。おまえの主を置き去りにしてもいいのか」
 子翼と揉めているようだ。
 いくら黒狼でも子翼の背を蹴らなければ塀は越えられない。早くしないと誰かに見つかってしまう。
 結蘭は声をひそめ、塀越しに話しかける。
「子翼、お願い。あなたの助けが必要なの」
 途端に、黒狼は身をひるがえした。素早く棟瓦を跨いで物音も立てず着地する。
 かすかに土を踏む馬蹄が遠ざかる。子翼はひとけのない林へ戻るようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
「ここが製塩所か。厳重なわりには、なんの変哲もないな」
「そうね。製塩所って、すごく簡素なのね」
 ひとつひとつの工房を見て回る。巨大な竈が設えられた房室、薪の保管庫、完成した塩を袋詰めにする房室。
 不審な点は見られず、闇塩につながるような証拠はなさそうだ。
 結蘭は雑多な道具の保管庫を覗き、無造作に積まれている彫刻刀をふと手に取る。
 製塩は、火を焚いた竈で湖水を蒸発させ、結晶化した塩から不純物を取りのぞくという作業だ。大量生産するには手間が掛かるが、複雑な工程はない。
「これ……なにに使うのかしら?」
 先が丸いものや平たいものなど様々な形の彫刻刀が、箱に放り込んである。
 結蘭の手元を覗いた黒狼は、双眸を細めた。
「刃が毀れている。相当、使い込んでいるな」
 そのとき、一匹の羽虫が、ふわりと結蘭の肩に降り立つ。
『それは人形を彫るための刀ですよ』
「え。人形?」
「うん? どうした。……虫か」
 羽虫は舞い、導くように奥へと移動した。
『毎日人がきて、奥で人形を作っているんです。ほら、あそこで』
 羽虫は袋小路の壁で止まる。結蘭は後を追ったが、行き止まりなのでなにもない。
「どこかしら?」
 壁に手をつくと、ぐらりと身体が揺れた。壁に見立てた扉はくるりと回転して、房室が現れる。
「ここは……! 隠された房室か」
 驚きの声をあげた黒狼はあとに続いた。
 とても広い工房だが、窓がない。出入口は隠し扉ひとつしかないようだ。
 秘密の房室には仏像の大群が鎮座していた。羽虫の言う人形とは、仏像のことらしい。
「こんなにたくさん、すごいわね。でも、どうして隠しておくのかしら」
 辺りには甘い匂いが立ち込めていた。陶器に入れられた液体が、作りかけの仏像の傍に置いてある。製作に使用する薬剤らしい。
 仏像の正面に立ち、面立ちを眺める。
 朝陽が木窓から射し込み、釈迦像をきらきらと輝かせた。
「塩だわ! この仏像、塩で出来てる」
 まさか、ここにある仏像すべてがそうなのか。人の大きさほどのものが数百体はある。
 結蘭の脳裏に、突如黒狼の肩を蹴り上げ、よじ登った記憶がよみがえった。
 先ほどの塀を越えたときではない。もっと前に同じことがあった。これと同じ仏像を、そのときに見た……。
 あれは確か――。
 怒号と白刃がぶつかる衝撃音に、はっとして身をひるがえす。
 襲い掛かる刃を、黒狼は咄嗟に抜刀した双手剣で受け止めていた。
「曲者! なにをしている」
 一旦引いた劉青は八双に構えると、ふたたび倭刀で斬り込む。
 体勢を整えた黒狼は斬撃を悠々と凌いだ。
 朝靄の残る房に、火花が飛び散る。
 面識があるにもかかわらず、彼にとって結蘭たちは秘密を知った曲者でしかないらしい。本気で黒狼に挑みかかっている。
「おまえは、やはりあのときの……」
 黒狼は確信をもってつぶやいた。
 鉄壁の防御を崩そうと、劉青は倭刀を高く掲げる。上衣から覗いた手首に、一筋の刀傷が垣間見えた。
「よしなさい。劉青の敵う相手ではないよ」
 まるで散歩のついでとでもいうような風体で、夏太守は扉から顔を出した。
 殺気染みた工房に呑気な空気が差し込み、気勢を削がれた双方は剣を控える。
「夏太守、お久しぶりです。無断で忍び込み、申し訳ございません」
 挨拶した結蘭に、軽やかな笑い声が降ってくる。
 夏太守は愛しそうに、傍にある仏像を撫でた。
「見てしまったね。この仏像はね、私が作ったんですよ。この上薬を塗ると、雨水くらいでは溶けないのさ。屋敷の壁で試したのを見たでしょう」
「……仏像にすれば、人目をごまかせるというわけね。それを永寧殿の庫房へ隠したんだわ」
 李昭儀の庫房で見た仏像は、これだったのだ。
 光が当たらなければ石と見分けがつかない。
「あれは、お買い上げいただいたんですよ。それをどうしようとお客様の自由だ。あのときは、すまなかったね。お怪我はありませんでしたか」
「夏太守もいたのね……!」
 悪びれもせず、夏太守はにこりと笑んだ。
「後ろで台車を引いていたのが私ですよ。劉青が斬られたときはどうしようかと焦りましたが……。あの珠鐶でしばらく時間稼ぎができましたかな?」
 新月かと思っていた賊の正体は、劉青。
 そして後宮に闇塩を届けていた一味は、夏太守率いる敬州だった。李昭儀が語った呪術の話は嘘だったのだ。
 この仏像が動かぬ証拠だ。李昭儀が闇塩にかかわっていたことは疑いようがない。
「どうしてなの、夏太守。借金を返済するためとはいえ、闇塩のことが知られたら罰せられるわ」
 太守が闇塩を妃嬪相手に売りつけていたとなれば、厳しい罰が待っている。審理の結果次第では死罪になるかもしれない。
 夏太守は手を後ろに組み、ふと首をかしげて思いを馳せた。剣を構えた黒狼がすぐ目の前にいるというのに、気負いがまったく感じられない。
「私にはね、敬州の民と財政を守る義務がある。ひどいものですよ、国というのは。いや、あなた方にそれをどうこう説こうという気はないが、民のためなら私はなんでもできる。それが法に触れることでもね」
「夏太守……それはぜひ皇帝の前でお話しください。あなたの民を思う気持ちを、きっと陛下もわかってくださるはずだわ」
「それはまた、難しい話だ。さて、秘密を知ったあなた方をどうしようかね」
 工房の外に、大勢の人の気配が漂う。騒ぎを聞きつけた兵や工人が武器を携え、固唾を呑んでうかがっている緊張感が扉越しに伝わってきた。
 このまま、斬り捨てられるのか。
 指先は冷えているのに、鼓動だけが早鐘のように刻む。
 黒狼は結蘭を庇うように、背の後ろに隠した。
 じり、と劉青が草鞋の先でにじり寄る。
 剣先がこちらに向いたとき、黒狼は懐に手を差し込んだ。
「これを見ろ。以前もらった竹簡の返礼だ」 
 ばらりと竹簡が皆の前に広げられる。覗き込んだ夏太守は丹念に眺めた。
「ほほう。私を闇塩事件の証人として金城に招き、弁明を求めると……。慈聖皇后直筆の召喚状か。これはまた、すごいものを持参してきましたな」
 召喚状の存在を初めて知った結蘭は唖然とした。
 皇帝ではなく、なぜ皇后の命令なのだろうか。皇后は病気で臥せっているので、黒狼も本人に会ったことがないはずだ。
 ともあれ、皇后の召喚令を無下に扱うことはできない。夏太守は、ぽんと手を打った。
「なるほど。仕方ない。王都へ行こう」
「太守……! いけません」
 狼狽する劉青に、剣を収めるよう夏太守はてのひらを水平にかざす。
「ちょうどよい。皇帝に塩の課税を下げてもらうよう直訴しようじゃないか」
「では、私も参ります」
「いけない。おまえは敬州に残りなさい。私のいない間、留守を頼んだぞ」
 納得できず、さらに言い募ろうとする劉青を諭すように、夏太守は人差し指を立てた。
「珠鐶を盗んだ件があるだろう。あれで斬首されては、かなわないからね」
「あれは……盗んだのではありません! 拾ったのです。そんなつもりでは……」
 結蘭たちを横目にして、劉青は気まずく口を噤んだ。
 事態を見守っていた村の者たちに、夏太守は向き直る。
「皆が仕事や居場所を失うことは決してない。すべて、私に任せてほしい。敬州は、必ず守る」
 村民は信頼を込めて頷く。
 統治者としての矜持に、結蘭は尊敬の念を覚えた。項垂れる劉青に旅の支度を申しつけた夏太守は、呑気に結蘭に声をかける。
「まずは朝餉でもどうかね?」



 三頭の馬が王都へ向かって街道を進む。夏太守は桜の蕾の品評を語りながら、まるで観光気分である。
 敬州の太守が金城に召喚されるという伝令は、王都から派遣された使者によって届けられた。政府を敵視していた夏太守が、ついに闇塩の首謀者であると認めたという尾ひれをつけて。
 敬州の領地から一歩出た途端に、結蘭たちは物々しい軍兵に囲まれる。
「何事ですか?」
「結蘭公主さまと夏太守をお迎えにあがりました。太守はどうぞ、馬車へお乗りください」
 用意された馬車を指し示す軍吏に、夏太守は「ご苦労」と声をかけて悠然と馬を進めた。
「馬車に乗ったら景色が見えなくなるじゃないか」
 あくまでも賓客という扱いだが、闇塩事件はすでに周知のことのようだ。大勢の軍兵を従えて王城を目指すことになった結蘭は、こっそりと耳打ちする。
「黒狼が呼んだの?」
「いいや。おそらく、あいつの差し金だ」
「あいつって?」
「着けばわかる」
 見慣れた街並みを越え、城郭を視界に捉えた。もう少しで金城へ到着する。
街角に群れている人々が、何事か騒いでいる。
「もし。なにかありましたか?」
 結蘭が訊ねると、皆は王城の一点を指差し、叫んだ。
「火事だ! 天子さまのお住まいが火事だぞ!」
 見上げれば王城の一角から黒煙が立ち昇り、天を覆い尽くそうとしている。
 結蘭は咄嗟に馬腹を蹴る。駆け出した子翼と共に朱雀門をくぐり、黒煙が示す方角を一心不乱に目指す。
 宮廷は混乱の極みにあった。
 奥へ進むほど、消火に走る衛士や逃げ惑う女官たちで路はあふれている。子翼がたたらを踏み始めたので、結蘭は降りて走り出した。
「結蘭! 火の元は永寧宮だ」
 とうに下馬して走ってきた黒狼に続き、子翼もあとを追ってくる。
 永寧宮といえば李昭儀の宮殿だ。
 使者が走ったので、結蘭が想定するより早く闇塩事件は明るみになっている。嫌な予感が胸をよぎる。
 宮殿の手前の路は、大量の宝物や家具で塞がれていた。その間を縫うように移動する人々が衝突する。
「通して、通してください!」
 各宮の者が延焼を恐れて財物を運び出しているのだ。
 池から汲み出された水が桶からこぼれ、路は水浸しになっている。
 ようやく辿り着いた門前は、泣き叫ぶ女官や役人たちでひしめいていた。衛士が怒号を上げながら桶を手にして駆け込む。
 煙の嫌な臭気が辺り一帯に立ち込める。庭の向こうにある奥の庫房は業火に包まれていた。
 飛び散る火の粉に、結蘭は目をつむった。
「仏像のあった庫房が燃えてしまうわ……」
「李昭儀が証拠を隠滅したな」
 圧倒的な火の勢いの前に成すすべもない。火の手は隣接する本殿に移り、燃え広がっている。
 延焼を食い止めるため、衛士たちは槌で建物を壊し始めた。由緒正しい宮殿が破壊される姿に、女官たちは号泣して地に伏せる。
 そのなかから出てきた小さな女官が、結蘭の裾に縋りつく。
「李鈴、無事だったのね!」
 涙と煤で、ぐしゃぐしゃに顔を汚した李鈴は泣きわめいた。
「結さま! 姉さまを助けてください。なかにまだいるのです」
「そんな……どうして」
 紅蓮の炎に包まれる永寧宮を見上げる。
「李鈴が悪いのです! 陛下の飲み物に薬を入れました。姉さまが好きになる薬だと言ったので、李鈴がこっそり入れてあげました。でも陛下は病気になりました。姉さまは絶対に人に言ってはいけない、私がどうにかするからと……」
 小さな身体を引き剥がし、李鈴を傍の女官に預ける。結蘭は桶の水を頭から被った。
「結蘭! なにをする気だ」
 意図を察した黒狼に、肩を鷲掴みにされる。
 置かれた手に、そっとてのひらを重ね合わせる。確固たる信念の宿った瞳で、黒狼の顔をまっすぐに見た。
「助けたいから」
 瞠目する漆黒を振り切り、炎の渦巻く宮殿へ駆け出す。
 黒狼は、ざぶりと池へ飛び込んだ。結蘭同様にずぶ濡れになり、雫を滴らせながら走り込む。
「俺も行くに決まってる!」
 背を押さえ込まれ、身をかがめて共に廊下を進む。
 廊下は黒煙に覆われており、前が見えない。煙を吸い込まないよう袖で口元を覆ってはいるが、目と喉が焼けただれるような痛みを覚えた。あまり時間がない。
 黒狼に袖を引かれ、以前訪れた李昭儀の房室へ赴く。金扉は炎に縁取られていた。
 取っ手を触ろうとしたら、黒狼に制される。金属製なので焼き鏝のごとく熱されているのだ。
 剣鞘を蝶番に差し込み、黒狼は扉を蹴倒した。軋みながら倒れた扉を踏み越える。
「李昭儀!」
 玉座にぐったりと倒れ込んでいる李昭儀を抱え起こす。
 意識がないが、わずかに唇が動いた。
「衣が邪魔だ。剥け」
 まるで花嫁衣装のような豪奢な衣の端には、すでに火がついている。
 咄嗟に剥ぎ取ると、襦袢のみを纏った李昭儀を、黒狼は肩に担いだ。
 脱出しようと房室を出ると、ついさっき通ったばかりの廊下は、炎の回廊と化していた。
「炎がもうこんなに……」
「行くしかない。俺の後ろをついてこい。走るぞ!」
 絶望と勇気を入り交じらせながら、結蘭は黒狼と共に駆けた。