下手人を庇うために、黒狼に白羽の矢を立てたのではないか。滅亡した国の元皇子ならば、首を刎ねても誰も文句を言わない。
――黒狼は無実なんだわ。
 確信が、結蘭の胸に希望を呼び覚ます。
 隣の自分の房室に赴き、愛用の琵琶を手に取る。いつも傍で聴いてくれる黒狼の姿はない。琴線に義甲が触れる。結蘭は響く音色に身を浸し、心を静めた。
 状況を整理しよう。
 下手人は誰なのか。最終的に行き着かなければならない地点はそこである。
 甥である詠帝を毒殺しようとした者を、王尚書令が庇うほどの相手とは……?
 御膳房には誰でも近づけた。女官や役人ならなおさら、姿を見られても怪しまれない。けれど不審な動きをすれば目立つだろう。大膳と康舎人は気づかなかったのだろうか。
 ふたりは状況的にお互いを監視する立場にあった。仮に、共犯なら……。
 結蘭は首を左右に振った。
 双方とも詠帝の信頼厚い臣なのだ。心の中の忠義がいかほどかはともかくとして、家族や己の命を賭けてまで皇帝暗殺を目論む理由がない。
 詠帝が死んで得をする者とは誰だろう。
 もし……毒の量がもう少し多かったら。
 詠帝は崩御していた。そして子のいない詠帝の後継には、摂政である王尚書令が就いただろう。
「どうして微量だったのかしら……」
 王尚書令が王位簒奪を計ったとするには、結果として矛盾している。せいぜい政務が滞っただけだ。予定されていた闇塩の捜索も、再開は未定になっている。
 もしかして、闇塩に関係が……?
 詠帝が捜索を決定した直後に毒殺騒動が起こった。強硬的な詠帝の裁決は、呂丞相を始め、主だった臣は知っている。
 闇塩を操る宮廷人は露見を恐れていたはず。
 皇帝暗殺未遂の件と闇塩の間に、ごく細い糸が見える。
 もう一度、敬州に行こう。
 夏太守は闇塩の全容を知っている。それを明らかにすれば、真実に辿り着けるはず。
 結蘭は最後の一音を奏で終える。
 謹慎中にもかかわらず無断で金城を出れば、罰せられる。
 けれど、黒狼の命には代えられない。
 身支度を調えた結蘭は、廊下の様子をうかがった。朱里は厨房で作業しているようで姿を見せないが、結蘭がいなくなればすぐに気づくだろう。打ち明けることはできない。なにも知らなかったということにしなければ、朱里まで罰せられてしまう。
『公主よ、お忍びでどこかへ行かれるのですか』
 ふわりと柔らかい声が、聞こえてきた。
 春を待ち、眠りに就いていた虫たちが、暖かい銀炭の周りに集まってくる。
「少し遠いところへ行くの。どうしても行かなければならないの。だから、こっそり出ていくわね」
 寂しげに笑う結蘭に、虫たちはしばし沈黙していたが、琵琶の周りに移動する。
『いってらっしゃいませ。気づかれないよう、私どもが琵琶の音をかき鳴らしております』
 琵琶の弦の、ひとつひとつに虫たちが陣取り、順番に琴の音を奏でる。それはぎこちない音色だったが、結蘭の演奏によく似ていた。
「ありがとう。少しの間だけ、お願いね」
 宮殿を抜け出し、厩舎へ向かう。
 結蘭の顔を見た子翼の黒い瞳が輝き、前脚を蹴り出した。 
「行きましょう、子翼。敬州まで」
 秘めた決意を感じ取ったのか、子翼は主を乗せると、凛として歩を進める。結蘭は背筋を伸ばし、手綱をしっかりと握り締めた。
 黒狼を、必ず助ける。
 そのための証拠を持ち帰ろう。夏太守に平伏して頼もう。
 結蘭は決意を固めた。
 朱雀門を守護する衛士がこちらに気づいた。足を後ろに引き、馬腹を打つ。子翼は猛然と駆け出す。驚く衛士の横を走り抜け、城外へ。疾風のごとく白馬は、遥か敬州を目指して街道をひた走った。
 後方から追い縋る蹄の音に振り返る。
 一騎のみだが、路の彼方から結蘭たちめがけて駆けてくる。
――追っ手かしら?
 捕まるわけにはいかない。
 子翼は後馬を振り切ろうと全力で疾走する。
 だが追っ手は諦めない。両者の距離は広がるどころか徐々に縮まっている。
子翼の駈歩についてくるとは何者か。
 ふたたびび振り返ろうとしたとき――。
「結蘭!」