そんなこと信じたくないのに。
なにを信じればいいのか、わからない。
眦からあふれた涙が、頬を濡らしていく。
新月に肩を叩かれて、結蘭は我に返る。後片付けの済んだ役人が、殿の隅で結蘭の退室をうかがっていた。
半刻ほども呆然と佇んでいたらしい。
新月の顔を眼に映しても、黒狼の背中の残像が消えない。
「結蘭公主。ひとまず、欣恵は軍府でお預かりします。丁重に扱いますのでご心配なく。審理の経過を見て今後のことを考えましょう」
「新月さま……ありがとうございます」
掠れる自分の声は、とても小さくて心許なかった。
新月は励ますように、強い眼差しで見返す。
「しっかりしてください。結蘭公主が下手人を挙げると誓ったことを、実行するのです」
黒狼の死罪は免れたわけではなく、先に引き伸ばされただけだ。下手人を特定できなければ、黒狼の命は失われてしまう。
けれど、いったいなにをすればよいのだろうか。まるで解決の糸口は見当たらない。混乱した結蘭にはなにも考えることができなかった。
覚束ない足取りで清華宮へ向かう。付き添ってくれた新月は、門扉で朱里が待っているのを認めて足を止めた。
「ひとこと言っておきます。先ほどの審理は仕組まれたものですが、毒を入れたのは王尚書令ではありません」
「え……それはどういう……」
長袍の裾をひるがえし、新月は純白に染まった雪道を戻っていく。
「結蘭さま、心配しました。黒狼はどうしたのですか?」
不安げな表情を浮かべた朱里から手渡された小さな行火は、すでに冷えていた。彼女の指先は赤く腫れている。ずっと待っていてくれたのだろう。
「黒狼は……」
言葉が、喉元から出てこない。
涙で乾いた頬が、冷気に晒されてひりついた。
「なにかあったのですね? 先ほど衛士が黒狼の房室に踏み込んでいきました。見ようと思ったら追い出されてしまったのですが……」
「衛士は毒瓶を持っていったのよ」
「毒瓶? 手ぶらだった気がしますけど」
結蘭は、ふと朱里の顔を見る。
「小さな瓶なの。これくらいの。臥台の下にあったそうよ」
朱里は首を捻った。
「臥台の下ですか……。始めからそこにあると、衛士はわかっていたのですか? すぐに出てきたんですよ」
「ふうん……」
脳裏を、小さな瑕が引っかく。
毒瓶はどこにあったのかと苦し紛れに質問したとき、衛士はわずかに瞠目していた。
事実を答えればよいだけなのに、どうして驚く必要があるのだろうか。
結蘭は行火の取っ手を朱里に手渡すと、廊下を駆けた。
扉をがらりと開け放つ。黒狼は持ち物が少ないので、房室は整頓されている。臥台に卓と椅子、簡素な箪笥。予備の剣は鞘に収められて刀掛台に置かれていた。
箪笥をそっと開けてみると、数着の黒衣がきちんと畳んで収納されている。荒らされた形跡はどこにもない。
朱里の言う通り、衛士は始めから毒瓶が臥台の下にあると知っていたようだ。でも、どうして。
身をかがめて臥台の下を覗く。床には一面に、うっすらと埃が積もっていた。
指先で、すうと埃をなぞる。
おかしい。ここに隠してあったのなら、瓶のところだけ埃が避けているはず。綺麗に降り積もる埃は、そこになにもなかったことを物語っている。
では、毒瓶はどこにあったのか。
立ち上がった結蘭は、はっとした。
「嘘なんだわ……。審理のために、嘘の証拠を持ってきたのね」
王尚書令に、はめられたのだ。
黒狼の正体を見破った王尚書令は、証拠を捏造して事件の下手人に仕立て上げた。
けれど、毒は皇帝が飲んだものと同一だ。証拠の毒瓶は、どのようにして用意させたのだろうか。
王尚書令自身が下手人で、毒瓶を始めから持っていたと考えるのが妥当だが、新月の言い分では毒を混入したのは王尚書令ではないという。
――誰かを庇っている?
なにを信じればいいのか、わからない。
眦からあふれた涙が、頬を濡らしていく。
新月に肩を叩かれて、結蘭は我に返る。後片付けの済んだ役人が、殿の隅で結蘭の退室をうかがっていた。
半刻ほども呆然と佇んでいたらしい。
新月の顔を眼に映しても、黒狼の背中の残像が消えない。
「結蘭公主。ひとまず、欣恵は軍府でお預かりします。丁重に扱いますのでご心配なく。審理の経過を見て今後のことを考えましょう」
「新月さま……ありがとうございます」
掠れる自分の声は、とても小さくて心許なかった。
新月は励ますように、強い眼差しで見返す。
「しっかりしてください。結蘭公主が下手人を挙げると誓ったことを、実行するのです」
黒狼の死罪は免れたわけではなく、先に引き伸ばされただけだ。下手人を特定できなければ、黒狼の命は失われてしまう。
けれど、いったいなにをすればよいのだろうか。まるで解決の糸口は見当たらない。混乱した結蘭にはなにも考えることができなかった。
覚束ない足取りで清華宮へ向かう。付き添ってくれた新月は、門扉で朱里が待っているのを認めて足を止めた。
「ひとこと言っておきます。先ほどの審理は仕組まれたものですが、毒を入れたのは王尚書令ではありません」
「え……それはどういう……」
長袍の裾をひるがえし、新月は純白に染まった雪道を戻っていく。
「結蘭さま、心配しました。黒狼はどうしたのですか?」
不安げな表情を浮かべた朱里から手渡された小さな行火は、すでに冷えていた。彼女の指先は赤く腫れている。ずっと待っていてくれたのだろう。
「黒狼は……」
言葉が、喉元から出てこない。
涙で乾いた頬が、冷気に晒されてひりついた。
「なにかあったのですね? 先ほど衛士が黒狼の房室に踏み込んでいきました。見ようと思ったら追い出されてしまったのですが……」
「衛士は毒瓶を持っていったのよ」
「毒瓶? 手ぶらだった気がしますけど」
結蘭は、ふと朱里の顔を見る。
「小さな瓶なの。これくらいの。臥台の下にあったそうよ」
朱里は首を捻った。
「臥台の下ですか……。始めからそこにあると、衛士はわかっていたのですか? すぐに出てきたんですよ」
「ふうん……」
脳裏を、小さな瑕が引っかく。
毒瓶はどこにあったのかと苦し紛れに質問したとき、衛士はわずかに瞠目していた。
事実を答えればよいだけなのに、どうして驚く必要があるのだろうか。
結蘭は行火の取っ手を朱里に手渡すと、廊下を駆けた。
扉をがらりと開け放つ。黒狼は持ち物が少ないので、房室は整頓されている。臥台に卓と椅子、簡素な箪笥。予備の剣は鞘に収められて刀掛台に置かれていた。
箪笥をそっと開けてみると、数着の黒衣がきちんと畳んで収納されている。荒らされた形跡はどこにもない。
朱里の言う通り、衛士は始めから毒瓶が臥台の下にあると知っていたようだ。でも、どうして。
身をかがめて臥台の下を覗く。床には一面に、うっすらと埃が積もっていた。
指先で、すうと埃をなぞる。
おかしい。ここに隠してあったのなら、瓶のところだけ埃が避けているはず。綺麗に降り積もる埃は、そこになにもなかったことを物語っている。
では、毒瓶はどこにあったのか。
立ち上がった結蘭は、はっとした。
「嘘なんだわ……。審理のために、嘘の証拠を持ってきたのね」
王尚書令に、はめられたのだ。
黒狼の正体を見破った王尚書令は、証拠を捏造して事件の下手人に仕立て上げた。
けれど、毒は皇帝が飲んだものと同一だ。証拠の毒瓶は、どのようにして用意させたのだろうか。
王尚書令自身が下手人で、毒瓶を始めから持っていたと考えるのが妥当だが、新月の言い分では毒を混入したのは王尚書令ではないという。
――誰かを庇っている?