嵐が吹き荒れる。
 冷たい雨が槍のように、少年の頬を容赦なく叩きつけた。
 身体の芯から凍えていた。つないだ手の感覚がなくなる。
「もう少しでございます。どこか雨宿りできるところを探しましょう」
 ずぶ濡れの女の手も、同じように凍えている。庇うように、襤褸と化した衣を着せようとしてきた。少年は渾身の力を込めて振り払う。
 気遣いなどいらない。
 自分が、もう誰にも必要とされないことは知っている。
 死を選ばなかったのは、己を追い落とした奴らにいずれ復讐するためだ。
 ぎり、と奥歯を食い締める。
 心の中には憤怒と憎しみしかない。
 山奥の村は嵐の到来に、どこの家も固く木戸を閉ざしている。やがて、村外れにある屋敷の前に辿り着いた。
「厩があります。ここで休ませてもらいましょう」
 干し草の匂いが漂う厩に足を踏み入れると、純白の馬が首を巡らせた。訝しげに闖入者を見やり、主に告げようと高く嘶きを轟かせる。
 ほどなくして、屋敷から人がやってくる気配がした。
 追い出されるのだろうか。
 女は少年を背後に隠した。
「まあ……。どうしました?」
 傘を差して現れたのは、たおやかな女人だった。洗練された仕草と身につけた上等な衣は貴人のものだ。
 女は平伏した。
「勝手に立ち入り申し訳ございません。旅の途中でして……ここで雨宿りをさせていただいてもよろしいでしょうか、奥様」
「このようなところでは風邪を引きます。屋敷にお入りなさい。息子さんも、こんなに濡れているではありませんか」
 品のある優しい物言いは母上を思わせた。
 少年は刹那、脳裏を過ぎった光景に目の奥を焼かれる。
 振り下ろされる刃。断末魔の悲鳴。血に染まった白い腕が縋るように伸ばされた。
「お気遣い感謝いたします。ですが、あの……この御方はわたくしの息子ではありません」
「なにか事情がおありのようですね。我が家にも、事情があるのですよ。まずは濡れた身体を拭きましょう」
 貴人に促されて屋敷へ入る。中は質素だが清潔な房室だった。身体を拭く布を手渡され、貴人は茶の支度を始めた。
 このような山奥に、ひとりで住んでいるのだろうか。似つかわしくない。なにか罠でもあるのかと疑心に満ちた瞳で辺りをうかがう。
 ふと、隣の房室から、小さな女の子の声が聞こえてきた。誰かと会話しているようだ。
 少年は立ち上がり、隣室を覗き込んだ。
「そうなの、たいへんね。でも、言ってあげたほうがいいの。すき、って言ってあげてほしいの」
 女の子は窓に向かって話している。外は暴風雨だ。誰もいるはずがない。
 独り言か。
 この年頃の女の子は、架空の友人と会話するのが楽しいのだろう。少年は黒髪を結い上げた女の子に近づいた。彼女は熱心に喋り続けている。
 よく見れば、窓枠に小さな青虫がくっついていた。
 女の子は青虫に顔を寄せて頷いている。
 話し相手は青虫だ。
 無邪気だな……。
 しばらく様子を眺めていると、妙なことに気がつく。
 女の子は一方的に喋るわけではなく、一定の間隔で黙している。
 彼女がうんうんと頷いている間、青虫は身をくねらせているのだ。まるでなにかを訴えるように。そして女の子が話すと、青虫は動くのをやめる。
 まるで、本当に会話しているみたいだ。
「うん、わかった。じゃあうまくいったらおしえてね。ばいばーい」
 手を振ると、青虫は窓枠から移動して壁の隙間に入り込み、姿を消した。
「……なにを話していたんだ?」
 女の子は初めて少年の存在に気づいたらしく、驚いて振り返る。けれど次の瞬間には、安堵の笑みを浮かべた。
「あのね、青虫さんは恋をしてるの。でも、あいてはもうケッコンしてるんだって。奥さんが、たくさんいるんだって。だからどうやってあきらめたらいいか、あきらめないでうばえばいいのかっていう、ながいおはなししてた」
「………………へえ」
 小さな女の子の口から飛び出した深すぎる大人の話に怯む。
 まさか虫が人のような会話をするとは思えないが、先ほどの青虫の動きを見ていると空想とも思えない。
「虫を操れるのか?」
「ううん。わたしは虫さんとおはなしできるの。でもみんなしんじてくれないんだぁ。お母さまもね、あらそうよかったわねっていうの。ホントなのよ?」
 駄々っ子のように唇を尖らせて椅子に腰掛け、足をぶらぶらとさせる。
 貴人の話していた『事情』とは、この娘のことらしい。先ほどの青虫の動きを注視していなければ、夢想としか思えないだろう。
「俺は信じるよ」
 女の子はぽかんと口を開けて、それから喜びをにじませた。
「ほんと? しんじてくれるの?」
「ああ。信じる」
「わあーい。ありがとう、人さん!」
「人さん……」
 嬉しくてたまらないという風に、両手を天に掲げている。
 どうやら青虫さん、人さん、と彼女の中では同列の扱いらしい。
 隣室からは女と貴人の囁き声が聞こえてくる。女は自らの窮状を訴えているようだ。こちらをうかがっている様子はない。
「俺の名は、趙瑛(ちょうえい)だ」
「わたしは結蘭(ゆいらん)だよ、人さん」
「いや、あのな」
「人さんに、わたしのとっておきの夢をおしえてあげるね!」
 まあ、いいか。
 人さんとして彼女の会話に付き合うのも悪くない。
 趙瑛は女の子の隣に腰を下ろした。
「夢とはなんだ?」
「あのね、あのね」
 内緒話のように、耳元に唇を近づけられる。温かな、小さな呼気が耳朶をくすぐった。
「金色蝶と、おはなしすること」
 お伽話に登場する金色蝶は、助けたお礼に願いを叶えてくれるという。全体が金色に光る蝶は想像の産物で、まして願いを叶えるだなんて物語の中だけの話だ。
 けれど、本当のことを言えば彼女の夢を壊してしまう。
『本当のこと』だから、なんでも言っていいわけではないということを、聡い趙瑛は知っていた。
「いつか、叶うといいな」
「うん! わたし、大きくなったら金色蝶をさがす旅にでるんだ。人さんもいっしょにいこうね」
「あ、ああ……。そうだな、行ってもいい」
「人さんの夢はなあに? わたしにおしえて?」
 夢。そんなもの、持ったことがなかった。願望なら、ここに辿り着くまでの凄惨な体験を通して湧いた。
 あいつらに、復讐すること――。
 女の子は無垢な瞳で覗き込むように顔を近づけている。
 己の復讐心を見透かされるようで、そのどす黒い心が彼女を穢してしまいそうで、趙瑛は滾る腹の底を諫めた。
「俺も……金色蝶を見つけたい」
「ほんと⁉」
「ああ。今、決めた」
「わあい。うれしい、うれしい」
 兎のように飛び跳ねる女の子は結蘭と名乗ったか。
 愛らしい娘を見ていると、ささくれた心も凪ぐようだった。
 ――不思議な娘だ。
 趙瑛は目を細めて、いつまでも歓喜をあげている結蘭を眺めていた。
 すっきりと晴れ渡った夏の青空に、眩い太陽が鎮座する。陽の光は、濃い緑に覆われた山々を照らしだしていた。
 中原の奥地に位置する奏州の小さな村は、行き交う旅人もなく、村人は畑を耕しながら慎ましく日々を営んでいる。
 村から離れたとある場所に、ぽつりと佇む屋敷があった。
 貴人が住むと思しき趣のある屋敷は豪勢ではないが、土壁に囲まれており、厩がある。そこからは、時折少女の話し声が聞こえてくる。
 村人は、こっそりと囁く。
『可哀想に、あの公主様は気が狂っている。虫と話ができるのだってさ』
 ついたあだ名は、蟲公主――。



 結蘭は今日も木に登り、長い黒髪が枝に絡まるのも構わず熱心に喋っていた。
「ふんふん、それで? そっかあ、きっとそのうち素敵な人が現れるよ。え、いつかって? そうね~、私が誰か見つけてあげるよ。ええ、そんなことないよ~」
 夏の山林は蝉の合唱が木霊している。
 結蘭の話し相手は、木に止まった一匹の蝉だ。この季節は蝉の恋愛相談で大変多忙になる。
 命の短い彼らは限られた時間で交尾する相手を見つけなければならない。蝉だから誰でもよいというわけではなく、相性や好みというものがあるので、そこかしこで恋の争いが勃発しては失恋した蝉が泣き叫ぶ。それを慰めたり励ましたりするのが結蘭の日課だ。
 結蘭は、物心ついたときから虫と会話ができる。
 虫の言語が理解できるわけではないのだが、虫たちが訴えることが人の言葉に変換されて直接心に響くのだ。魂が共鳴するという現象と捉えている。語りかければ、虫は礼儀正しく返答してくれる。時には友人のような砕けた話もできる。
 虫も人と同じように心を持っているのだ。
「私だって恋するきもちを、ちょっとは……うーん、わからなくもな……あっ、……きゃあああああああ‼」
 首を捻った途端に均衡を崩してしまい、身体は幹から滑り落ちる。咄嗟に枝を掴み、ぶらんと垂れ下がった。
「あー、危なかった……」
「まるで蓑虫だな」
 眩い青葉を背景にして、夜闇のような黒衣を纏う男が呆れ顔で見上げてくる。年の頃は十六歳の結蘭より三つほど上だ。
黒狼(こくろう)! 見てないで助けて~。あっ、でも頑張れそう! ううう……あ~だめかも」
「どっちなんだ」
 必死に木の枝で懸垂を繰り返す結蘭のもとへ、黒狼は近づいた。
 ついに限界が訪れ、てのひらは枝から離れてしまう。
「あっ」
 ぎゅっと目を瞑る。
 だが予期していた痛みは訪れず、ふわりと温かいものに包まれた。瞬けば、目の前には漆黒の上衣があった。待機していた黒狼により、しっかりと身体は抱き留められていた。
「あ……あちちちち~! あっつい! 夏は黒衣あついよ」
 夏の陽射しに熱された黒衣から慌てて離れ、朱に染まった頬を拭う。
 黒狼は季節を問わず、常に黒い衣装しか着用しないのだ。
「拭っても頬の朱は取れるわけじゃないぞ」
 立ち上がった黒狼は冷静に指摘する。
 わかってるわよ。これは黒衣に頬がついたから赤くなったんだから。
 恥ずかしくてごしごし擦っていると、門から馴染みの少年がこちらをうかがっていた。
「蟲公主さま。こいつの話してること、わかる?」
 よく屋敷を訪れる皓という名の少年だ。皓は心配そうな表情で甲虫を手にしていた。
 虫と話ができるという結蘭を村人は遠巻きにしていたが、子どもたちは気兼ねなく話しかけてくれる。夏場は甲虫を戦わせる遊びが子どもたちの間で流行しているので、男子はみんな甲虫を飼っている。甲虫の気持ちを知りたいという相談も少なくない。
「なんだか元気がないんだ。病気なのかな?」
「どれどれ……こんにちは、甲虫さん。私は結蘭よ」
 てのひらに乗せられた甲虫は、じっとしている。
「具合が悪いの? 私に話してみて。力になれるかもしれないわよ」
 ぴくりと角が動いた。背中の羽を震わせる。甲虫は軋んだ声音を絞り出した。
「ふんふん……そっかあ~」
「なんて?」
「昨日戦った相手がすごく大きかったから、自信が無くなったんだって。戦う意味について悩んでるって」
 皓は目を見開く。
「そうだよ! でっかい甲虫と対戦して負けたんだ。その前は元気だったのに。蟲公主さまは本当に虫の言ってることがわかるんだね。すごいや」
 尊敬の眼差しを向けられて、照れた結蘭は頬を染めた。頬の朱はなかなか取れない。
「それほどでも。私は虫たちのお話を聞いてるだけだし」
「で? どうすればいいの?」
「えっ」
「こいつが自信を取り戻して勝てるようになるには、どうすればいい?」
「えっと……」
 勝負の世界や戦う意味についてだなんて、助言できることがない。こういうことは剣の達者な黒狼のほうが得意ではないだろうか。傍で見ていた黒狼を期待を込めた笑顔で振り返ると、冷めた双眸で返された。
 自分でなんとかしろと言いたいらしい。
 そのとき、先ほどまで会話していた蝉が突然ひと声、高く啼いた。羽ばたいて幹から飛び立ち、瞬く間に皓の肩口に止まる。
「うわっ、蝉がなんで……⁉」
 蝉と甲虫は互いに、ジジジ……、ギチギチ、と忙しなく啼いている。
「喧嘩かな?」
「待って。喧嘩じゃないわ」
 皓が蝉を引き剥がそうとしたので制した。甲虫は皓の袖を這い上り、蝉のもとへ向かう。
 やがて二匹は、ぴたりと身体を添わせて静かになった。
「なんてこと。すごいわ」
 感激した結蘭は涙ぐんでいた。状況が飲み込めない皓は瞬きを繰り返して、同じく見守っている黒狼を見上げた。
「結蘭。俺たちにもわかるように通訳してくれ」
 黒狼と皓に晴々しい笑顔を向けた結蘭は、厳かに告げる。
「ふたりは、運命の出会いを果たしたの」
「……はあ?」
「一目惚れだって。種族が違っても生涯添い遂げる覚悟がある、ですって。蝉さんの熱烈な求愛に甲虫さんも答えてくれたわ。貴女のためなら戦うことも厭わない、ですって」
「ふうん……」
 感動的な奇蹟が起こったというのに、虫たちの会話が聞けない黒狼と皓は今ひとつ反応が薄い。
 結蘭は二匹に惜しみない祝福を送った。失恋したばかりの蝉と、自信を喪失していた甲虫の双方に訪れた幸せはとても喜ばしいことだ。
「皓。甲虫さんの勝負にぜひ蝉さんも連れていってあげてね。僕の雄姿を見せたい、ですって」
 やる気を取り戻した甲虫は高らかに角を上げた。その隣に蝉はそっと寄り添っている。
「ああ、うん……わかった。ありがとう、蟲公主さま」
 どこか戸惑っている皓は礼を言い、甲虫と蝉を上衣に貼りつけて道を戻っていった。
 異種族間の恋愛は大変珍しいことなので、皓としても受け入れるのに時間がかかるのだろう。けれどきっとふたりの今後を応援してくれるに違いない。結蘭自身も、懸命に生きて恋をする虫たちに随分元気づけられたものだ。
「よかった。仲良くやってくれるといいね」
「そうだな」
 ひと仕事終えた充実感が身体を包む。黒狼のあっさりした返事が清涼感を伴い、清々しいほどだ。
「結蘭さま、黒狼さま。昼餉のお支度ができましたよ」
 ちょうど屋敷から出てきた女中の欣恵(きんけい)が告げる。呼応するように、結蘭の腹の虫が、ぐうと鳴った。



 麺の汁物を啜り、時折茶碗の冷たい水を含む。欣恵は食後の菓子を運んできた。涼しげな器に盛られているのは、雪のような色合いの豆乳花だ。
「わあ、美味しそう」
 幼い頃より面倒を見てくれている欣恵は、いつもの優しい笑みを浮かべた。
「結蘭さまのは黒蜜がたっぷりですよ。黒狼さま。汁物のお代わりは」
「いらん」
 ぶっきらぼうに返す黒狼は結蘭と共に食卓に着いている。
 兄と妹のように育ったふたりだが、本当の兄妹ではない。黒狼は欣恵が連れていた子で、結蘭と母がこの屋敷に引っ越して間もなく訪ねてきたのだ。身寄りがないというふたりを、母は女中と娘の遊び相手として屋敷に住まわせた。
 母も心細かったのだろう。以前は皇帝の妃嬪として寵愛を受け、身籠もったにもかかわらず、産まれた公主は虫とばかり会話している。
 後宮ではどんな謗りを受けるか知れない。娘の先々を心配した母は王都を離れ、山奥の村に居を構えることにしたのだった。
 数年前に病で亡くなってしまったが、母には感謝している。
 公主として王城で壊れ物のように扱われるよりも、野山にいる沢山の虫たちと話しているほうが結蘭の性に合っている。それに黒狼と欣恵もいてくれる。なにも不自由なことはない。
 ふんわりとした豆乳花を匙で掬い上げる。濃密な甘さを堪能していると、黒狼はふとつぶやいた。
「そろそろな、食卓を別にしたほうがいいんじゃないか」
「どうして?」
「今まで奥様が許してきたから惰性になっていたが、俺は結蘭の近侍だ。主と近侍が食卓を共にしていたらまずいだろう」
「なにがまずいの? 食事は美味しいよ?」
「おまえな」
 眉根を寄せて黒狼は匙を置いた。
 黒狼は正しくは、結蘭公主の近侍という位置づけになる。
 けれど後宮で暮らしていたのは五歳までだったので、皇帝である父の思い出はほとんどなく、女官に傅かれていた記憶もおぼろげだ。公主としての自覚などまったくない。
「食卓を別々にしたら欣恵が大変じゃないの。ねえ、欣恵」
 一緒に食べてくれないと寂しい。
 それを上手く口にできなくて欣恵に助けを求めると、なぜか欣恵は緊張した様子で、びくりと肩を跳ねさせた。
「え、ええ。そうでございますね」
「欣恵。次から俺は自室で食べる。支度が大変なら俺が自分で運ぶ」
「でも、黒狼さま……」
 欣恵は黒狼の母ではなく、乳母である。
 そのせいか黒狼は主のように振る舞い、欣恵は敬う態度を崩さない。良家の子息なのかもしれないが、詳しいことを結蘭は知らない。
「けじめだ。公主を軽んじるわけにはいかない。欣恵も娘のように接するのはやめろ」
「承知いたしました」
 欣恵は深く頭を下げた。
 むっとした結蘭は口中の甘い黒蜜を苦々しい思いで飲み下す。
 というか、黒狼が公主扱いしてくれたことなんてあったの? 蓑虫だとか軽々しく言ってたよね?
 どうして突然そんなことを言い出すのか理解できない。結蘭は猛然と抗議した。
「けじめってなによ? 黒狼の口から公主なんて単語が出ると思わなかったわ。私は欣恵に娘みたいに思ってくれるの嬉しいもの。ずっとそうしてほしい。黒狼こそ、いつも私や欣恵に偉そうじゃない。……食事だって、ひとりじゃ食べたくないもの」
 声が大きかったのは始めだけで、最後の台詞はぼそぼそとつぶやいただけだった。
 黒狼は憮然として眺めている。彼は考えを変える気はないのだろう。欣恵が気遣わしげに声をかける。
「結蘭さまのお心、感謝いたします。黒狼さまが尊大なこと、どうかお許し下さい。黒狼さまは、実は――」
「やめろ」
 鋭い一喝に、欣恵は身を縮める。
 食卓に重い沈黙が降りた。
 黒狼は手のつけていない豆乳花の器を、結蘭の前に押しやる。
「食べろ」
「いらない」
 つい意固地になってしまう。虫たちとは和やかに会話ができるのに、黒狼とは上手く意思の疎通ができないことがもどかしい。子どもの頃は言いたいことを言って、楽しく遊んでいたはずなのに、どうしてだろう。
 沈黙を破るように、窓越しに蹄の音が響いた。屋敷の前で止まり、訪いを入れる野太い男性の声が聞こえる。
 来客とは珍しい。慌てて玄関へ向かった欣恵の後をふたりは追いかけた。
「結蘭公主のお住まいはこちらでございますか」
 男性は王都の役人が身につける旅装束を着用していた。金城の使者だ。手に携えた竹簡には、皇帝の印である龍が蝋で封印されている。
「私が結蘭です。なにか御用ですか?」
 公主自ら玄関に赴き名乗りを上げたので、使者は眉をひそめたが、厳かに礼をして竹簡を広げた。
「皇帝陛下よりの勅命であります。結蘭公主におかれましては、直ちに王都へお越し下さいますよう。虫と話せるという特殊な力を生かし、悩み多き弟を助けてほしいとの、陛下のお言葉でございます」
「ええ~⁉」
 驚きが一巡すると、黒狼は感心したようにつぶやいた。
「虫だけでなく、ついに皇帝からも悩み相談を持ちかけられたか」
 結蘭の父である皇帝は数年前に亡くなり、正妃の長子が新しい皇帝として即位した。結蘭とは母の違う弟ということになる。幼い頃に赤子をあやした記憶があるが、結蘭が十六歳になったように彼も十三歳と立派になっているだろう。
 ただ、年若い皇帝が国を収めるのは並大抵の気苦労ではないと察せられる。
 それにしても蟲公主と呼ばれる結蘭の力を借りなくてもよさそうなものだ。
「私は虫と話すのは大好きなんだけど、天子さまのお悩みはちょっと……」
 気後れしてやんわりと断ると、役人は平伏して地面に額を擦りつけた。
「なにとぞ。姉君でなければ解決できない問題であると、陛下は仰せです。お話を聞くだけでも結構でございます。どうか、お力をお貸し下さい」
「頭を上げて下さい、蟻が痛いって叫んでます‼」
「なにとぞ! 結蘭公主」
「わかりました、行きます。行けばいいんでしょ、頭を上げて~」
 額で押し潰されそうになっていた蟻をどうにか救出した結蘭は、こうして王都へと旅立つことになった。



 王都へ向かう日、屋敷の門前には数名の役人と馬車が遣わされた。
 結蘭が王都へ返り咲くという噂は瞬く間に村中を巡り、集まった村人から盛大な声援が送られる。
「よかったな、蟲公主さま。後宮で出世しろよ」
 甲虫と蝉を肩に止まらせた皓が、手を振って見送っている。
 馬車に乗り込んだ結蘭は御簾を開けて、皆に手を振り返した。
「ありがとう、みんな~。って、戻ってくるんだからね! ちょっと遊びにいくだけだからね⁉」
 祝うように白鷺の群れが川縁から飛び立ち、悠々と空の彼方へ飛翔していく。
 黒狼は馬の手綱を取りながら溜息をこぼした。
「妃嬪じゃあるまいし、公主が後宮で出世できないだろ」
 結蘭に付き従うのは黒狼と、可愛がっている白馬の子翼(しよく)だ。
 動物とは話せないが、子翼は聡明なので人の心の機微を理解している。主を慕う余り、結蘭以外の人を背中に乗せたがらない。別の馬に跨がる黒狼の隣で、子翼は揚々と尻尾を振っていた。
 屋敷の前で心配そうに見送る欣恵の姿が次第に遠ざかる。
 留守を頼んだ欣恵は黒狼の同行を止めたが、結蘭をひとりでは行かせられないと説得されて承知した。
 もう子どもじゃないから平気なのに。黒狼もきっと、王都を見たいのね。
 王都にはどんな虫たちがいるのだろう。もしかしたら、伝説の金色蝶に出会えるかもしれない。
 結蘭は胸を弾ませて、これから出会うであろう虫たちに思いを馳せた。
 長い旅路を経て、結蘭公主の一行は王都へ辿り着いた。
 田舎の奏州の景色とはまるで違い、にぎやかな市場と人波が連なる。
 店先に並んでいる干肉や野菜、籠や手提げなどの工芸品もある。
 結蘭は御簾から顔を覗かせて、それらを物珍しく眺めた。
「おい、あまり顔を出すな」
 黒狼は手綱を操り、御簾を隠すように馬を寄せた。街路には、どこの貴人かと見物している人々が立っている。
「すごい! こんなにたくさん人がいるわ」
「当たり前だろう。王都だから人口も多い」
「虫もたくさんいるわよね。どこかしら」
「おまえの興味はそこか。まあ、わかっているが」
 ふと御簾の端に、一匹の天道虫が止まり羽を休めた。
「こんにちは、天道虫さん。……ふうん、水場が少なくて大変なのね。私は金城へ行くの。うん、そこなら池があったはずよ。一緒に乗っていったらいいわ、案内してあげる」
 独り言を喋る公主を、付き添いの役人は訝しげに見やる。
 やがて、眼前に荘厳な城郭が姿を現した。中原の覇者、儀国の皇帝が住まう金城だ。角楼を従え、両翼を広げたごとき朱雀門に出迎えられる。
 結蘭と黒狼は波乱に満ちた未来への第一の門をくぐった。



 馬車を降りると、大勢の女官や役人たちに出迎えられる。
 整然と居並ぶ人々の間から、豊かな白髭を垂らした老人が歩み出た。
「ようこそ金城においでくださいました、結蘭公主。わたくしは呂丞相でございます。楊美人と共に後宮をあとにしたときは、ほんの小さな御子でしたが、このようにお美しい公主になられまして、わたくしは……」
「あのう、この辺りに池はありませんか?」
 きょろきょろと結蘭は辺りを見回した。合わせたてのひらの中には、先ほど知り合った天道虫がいる。
 金城は石造りの立派な殿ばかりで、足元もすべて石畳が敷き詰められている。緑と水がなくては虫は生きられない。
「は? 池なら裏手に庭園がございますが……」
「すみません! ちょっと行ってきます」
 呆気にとられる女官や役人たちを置いて、結蘭は庭園に向かって走り出す。そのあとを黒狼が音もなく追いかけた。
 観賞用に設えられた庭園の池のほとりに辿り着く。葉陰に無事に天道虫を放した結蘭は、ほっと一息ついた。
「ここなら水もあるし、暮らしやすいかな。……そう、よかった。ううん、いいのよ、お礼なんて。私はしばらくお城に住むことになるから、また会いに来るわね」
 天道虫との会話を報告しようと黒狼を振り返る。
 すると彼の後ろには、神妙な顔をした呂丞相が佇んでいた。
 虫と会話しているところを初めて見た人は、大抵眉をひそめて気味悪がられてしまう。また頭がおかしいと思われてしまっただろうか。
「あ、あの、呂丞相。今のは、えっと……」
「ふむ。虫と話せるという噂は本当なのですな」
「は、はい! そうなんです」
 結蘭は笑顔を咲かせた。そういえば、彼の顔には見覚えがある。結蘭の父だった皇帝の傍に、常に控えていた重鎮だ。
 しかし、と呂丞相は続けた。
「まずは金城にお越しになりましたら、陛下に謁見なさってください。弟君とはいえ、詠帝は君主にあらせられます。くれぐれも、非礼なきよう」
「はい……」
 そうなのだった。王都へは虫を探しに来たわけではなく、皇帝の悩みを聞くためなのだ。
 小さくなった結蘭は、呂丞相に従い、謁見の間がある本殿へと足を運んだ。重厚な扉が開け放たれる。
「結蘭公主、お越しにございます」
 壮麗な本殿の最奥に、皇帝の鎮座する玉座が彼方に見える。緋の絨毯が敷かれた両側を、高位の役人たちがずらりと立ち並んでいた。
 とても姉弟として昔話を楽しむような雰囲気ではない。臆した結蘭は前を行く呂丞相に聞こえないよう、後ろの黒狼に小声でつぶやく。
「黒狼、怖そうな人たちがたくさん見てるわ。大臣はいつも怒ってばかりなのよ。どうしよう、私、きちんと挨拶できないかも」
 幼い頃、大人たちの話が退屈で虫を追いかけ回しては役人に叱られたことを思い出す。
 黒狼は平然として、ひとことつぶやいた。
「全部、虫だと思えばいい」
 なるほど。
 虫、虫、虫……。みんなむしむし……。
 そう思い込めば呂丞相の柳のような細い背は、蜻蛉に見えなくもない。
 少々落ち着いた結蘭は、黒檀の玉座の前で平伏した。
「お久しぶりでございます、皇帝陛下。結蘭、ただいま奏州より馳せ参じゅいました」
 噛んだ。
 役人たちの間から咳払いが聞こえる。
 おそるおそる顔を上げると、玉座から未だ幼さの残る少年があどけない双眸で結蘭を見据えていた。龍紋の黄袍を身に纏うこの少年が詠帝(えいてい)である。
 彼が赤子の時以来会っていないので、結蘭のことは覚えていないだろう。
 詠帝はにこりと微笑むと、穏やかな声音を発した。
「お久しぶりだ、姉上。長旅でお疲れであろう。以前、姉上と楊美人の過ごされていた清華宮を用意させたゆえ、ゆるりとくつろいでくれ」
 柔らかくも気遣いのこもった物言いに、結蘭はふたたび頭を垂れる。
 清華宮は後宮内にある妃嬪のための宮殿のひとつで、結蘭はそこで産まれた。緑のある庭で、いつも虫と話していたのだ。
「ありがとうございます。それで……私に相談とは、どのようなことでしょう?」
 一瞬、詠帝と呂丞相が視線を交わした。
 けれど、すぐに詠帝は微笑みを浮かべる。
「はて、なんであったか。伝令が間違えて伝えてしまったのやもしれない」
「確か竹簡では、虫と話せる力を借りたいだとかいう内容だった気がするのだけれど……」
 詠帝がなにか言う前に、隣に付き従っていた役人が前へ進み出た。
「結蘭公主。いえ、蟲公主。虫と話ができるなどという虚言を貴女がされるので、先帝も追放せざるを得なかったのですぞ。私も叔父として心苦しかった。また同じ目に遭いたくなくば、今後は慎ましくしているべきではありませんかな」
「虚言ではありません!」
 本当なのに。
 でも、この人の言うことが世間での見方なのだ。
 詠帝は手を挙げて両者の会話を遮る。
「よせ、王尚書令。姉上はお疲れなのだ。まずは休ませてさしあげろ」
「御意」
 王尚書令と呼ばれた官吏は慇懃に頭を下げた。
 そういえば、彼は父の弟だ。結蘭と詠帝からみて叔父にあたる。官吏の衣を纏っているので、若い皇帝の摂政を務めているらしい。
「蟲公主。その者は?」
 王尚書令は居丈高に、隙のない鋭い眼差しを結蘭の後ろに注いで詰問した。
 結蘭が振り返ると、黒狼は静かに跪いている。
「彼は黒狼といいます。私が幼い頃から近侍をしています」
「腕に覚えがありそうですな。どこかで見た顔だ。面を上げよ」
 殿に響き渡る王尚書令の声が聞こえていないという風に、黒狼は顔を伏せ、微動だにしない。
 黒の上衣に黒の褲子を纏い、腰に長剣を佩いた恰好は侠客のようにも見える。黒狼は昔から黒ずくめで、加えて無愛想なので、近寄り難い雰囲気を醸し出している。
 不調法なふるまいに眉を吊り上げた王尚書令だが、詠帝は鷹揚に頷いた。
「姉上の近侍なら信用できる。軍に入るがよい。そなたを校尉に任じよう」
「……感謝いたします」
 黒狼の低い声音が這う。呂丞相から退出を促され、結蘭は立ち上がった。その後ろを黒狼は影のように付き従う。
 ああ、人と話すのは疲れる。
 結蘭は重い溜息を吐いた。



 天子の住まう金城の奥を守るように、広大な後宮が麗しい装いで佇んでいる。その中のひとつ、清華宮の門を結蘭はくぐった。
「わあ。昔と変わってないなぁ」
 宮殿の隣には池があり、錦鯉が泳いでいる。房室から見渡せる庭には潤う緑。躑躅に椿、牡丹、桜の木も植えられている。花の盛りには美しい景色が広がり、花を愛でる母の隣で、結蘭は虫と話していた。
 夏は蛍、秋は蜻蛉、冬は誰もいないから寂しい。けれど春になれば、みんなが出てきてくれる。
「私、ここに五つのときまでいたのよ」
「ああ。静かで落ち着けそうなところだ」
「いつもこの房室から、お母さまは庭を眺めていたの。私は露台に出て虫がいないか見ていたわ」
 懐かしい景色は昔のまま。結蘭の背丈が伸びたので、露台が低くなったように感じる。階を上がり露台から庭を見渡していると、廊下から軽やかな足音が響いてきた。
「お初にお目にかかります、結蘭公主さま。女官の朱里(しゅり)でございます。身の回りのお世話をいたします」
 溌剌とした女官は結蘭と同じくらいの年だろう。さすが後宮の女官らしく、完璧な礼だ。
「よろしくね、朱里。私のことは結蘭と呼んで」
「はい、結蘭さま。まずはお茶のお支度をいたしましょう。皇后さまより、お祝いのお菓子が届いております」
 房室に入り、椅子に腰掛ける。花鳥の彫られた椅子も昔、母が使用していたものだ。黒狼が房室の隅に立ったままでいるので、不思議に思った結蘭は声をかける。
「黒狼も座れば?」
「ここでいい」
 厨房から戻ってきた朱里は、菓子と茶碗を乗せた盆を携えてきた。
 彼女は黒狼をちらりと見やり、眉をひそめる。
「これ、黒いの。いつまで結蘭さまのお部屋にいるの? 出ておいきなさい」
 黒いの呼ばわりされた黒狼は眉ひとつ動かさず受け流している。結蘭は慌てて弁明した。
「彼は私の近侍なの。幼なじみなのよ。陛下に謁見して校……ええと、」
「校尉だ。官品は正八品。軍の部隊長で数百から数千人を指揮する権限がある」
「そう、それ。すごい出世じゃない⁉」
 黒狼は剣術が達者なので、村の道場に通っていた。彼の腕を田舎の近侍で終わらせるのは惜しい、と師匠が語っていたのを結蘭は聞いている。
 詳しいわりにあまり嬉しそうではない黒狼は、ゆるく首を横に振る。
「俺の実力とは関係ない。公主の近侍だと紹介されたから任命されただけだ。任じられたからには、軍部に在籍することになる」
「え……じゃあ、私の近侍は……?」
 軍部に所属すると、訓練などで忙しくなるだろう。会えなくなってしまうのだろうか。いくら幼い頃過ごした場所とはいえ、黒狼がいないと寂しい。
 龍井茶の芳香が、房にふわりと広がる。
 黒狼は唇に薄い笑みを刷いた。
「心配するな。結蘭の近侍は俺にしか務まらない」
 そして彼は、卓に茶と菓子を並べていた朱里を顎で示した。
「そういうわけだ。俺はいつもいるから、黒い虫かなにかだと思え」
 尊大な態度に、ぴくりと頬を引き攣らせた朱里は、『黒いの』に背を向ける。
 黙殺した彼女は、結蘭に笑顔を見せた。 
「さあ、お召し上がりください。皇后さま自らがお作りになった月餅でございます」
「わあ、美味しそう。皇后さまは料理がお上手なのね」
 皿には形の整った綺麗な月餅がひとつ。
 皇后とは現在の皇帝である詠帝の正妃で、後宮の主でもある。皇帝が代替わりすれば妃嬪もすべて官職が変わるので、結蘭は未だ会ったことはない。
「いただきまー……」
 吸い寄せられるように伸ばした手が月餅に触れる寸前、どこからか声が聞こえてきた。
『たすけて……くるしい……息が、でき……』
「誰⁉ どこにいるの?」
 辺りを見回すが、房室には結蘭と黒狼、朱里のほかには誰もいない。
 それにもかかわらず、くぐもった小さな声音は必死に助けを求めている。
「どこにいるのか教えて」
 きっと虫だ。
 けれど綺麗に片付いた房室に、それらしき姿は見えない。
『暗い……なにも、みえない……』
 卓の下を這いつくばって捜索する結蘭に、朱里は訝しげに首を捻った。
「結蘭さま? どういたしました?」
「誰かが助けを求めているの。朱里も捜して! 暗いところだって」
「はあ……?」
 床下だろうか。それとも天井裏か。すでに露台の下を覗いて戻ってきた黒狼が、ふと卓の上に目を留めた。
「おい。これじゃないか」
「えっ⁉」
 皿の上にのせられた月餅の皮が、まるで生き物のように幾度も押し上げられている。
 黒狼は腰に佩いた刀の鯉口を切った。
 すらりと抜かれた刀身に気圧された朱里は後ずさりをする。刃先ですうと表面のみを斬ると、溢れた餡がもぞもぞと動き出した。
「ひっ……」
 朱里は悲鳴を上げないよう、両手で口元を覆う。
 餡を掻き分けて現れたのは、一寸ほどもある芋虫だった。