どこまでも続く水平線と、少し歪んだアスファルトの一本道。
穏やかで柔らかい青色の海と空。
その狭間を進むように、片手をポケットに突っ込んだ僕は鼻歌交じりに歩く。
海沿いにあるおだやかな街。
通学路は水平線を見渡せる海沿いの歩道で、学校の教室からはいつでも海と空が見える。
この景色が日常となった僕でさえ「最高だ」と思うのだから、ときおりメディアが絶景を求めてやって来るというのも納得だ。
「葉―っ!」
後ろの方から名前を呼ばれ、僕は立ち止まった。振り向くと、自転車通学をしているクラスメイトたちが道路の反対側から手を振っている。
「まーたアイス食ってんの? まだ夏には早いっしょ」
「僕にとっては、春夏秋冬アイス日和!」
僕の左手には、溶けかけのアイスキャンディ。
この通学路は最高だ。まずひとつめに、景色がいい。ふたつめに、アイスキャンディを買うことができる小さな商店がある。
海を横目に歩きながら、アイスを食べる。こんな贅沢なことができるのは、この通学路のおかげだ。
「明日は遅刻すんなよー」
「僕がいつ遅刻したって? ギリギリなだけだって!」
ケラケラという笑い声は、「じゃーなー」という声と共に曲がり角へと消えていった。
「賑やかだなぁ」
そう言って笑った僕は、水平線を見ながら両手を上へ、ぐうっと伸ばした。
食べかけのアイスキャンディは太陽の光を反射してキラキラ光り、背負っていたリュックのファスナーが、カチャリと小さな音を鳴らす。
「ひゃあ!」
「えっ?」
突然、後ろで小さな声が揺れ、僕は驚いて振り返った。
「……中田、さん?」
そこには、クラスメイトの中田胡桃が立っていた。目を白黒させながら、右頬をこすっている。
──まさか。
僕は勢いよく、彼女のそばへと駆け寄った。
「ごめんっ! もしかして飛んだ!? 目に入ってない!? 痛い!? 沁みる!?」
溶けかけたアイスキャンディの水滴というのは、ちょっとした反動でどこにでも飛んでいく。どうやらそれが、彼女の顔まで跳ねてしまったみたいだ。
「あ、うん。だいじょ……」
制服のポケットから取り出したタオルで頬をトントンと押さえた彼女は顔を上げると、勢いよく後ろへと身体を引く。
「やっぱり痛かったよな!? これソーダ味だから、炭酸成分で余計に沁みたかも……本当ごめん!」
女の子の顔に──しかも、あの中田さんの顔に──アイスを飛ばすだなんて、とんでもない失態だ。
長く伸びた栗色の髪の毛に、色素の薄い大きな瞳。三年になってから初めて同じクラスになった彼女は、目立つグループに属しているわけではないのに、なんとなく教室内でも目を引く存在だった。
しかし、極度の人見知りらしく、限られた女子と会話をしているところしか見たことがない。
「タオルもベタベタになっちゃったよな。どうしよう、こういうときってクリーニングとか? それなら僕が」
「いっ、いい! 大丈夫だから! ほっぺたに飛んだだけ!」
僕が一歩近づくと、一歩後ずさる彼女。
そこで僕は、自分が犯している失態に気付いた。多分この距離は、彼女にとっては近過ぎるんだ。
僕はあえて、大きく一歩後ろに下がる。
「ごめん、近過ぎた!」
「だ、大丈夫……」
「あと、クラス替え初日に馴れ馴れしく話しかけたことも、ごめん!」
「……え?」
あの日もそうだった。クラス替えの初日、彼女に話しかけたところ、「ちょっと急いでるから……」と避けられてしまったのだ。
以前廊下で見かけたときに、綺麗な子だなと思っていた。きっとそんな気持ちが前面に出てしまっていたのだろう。極度の人見知りである彼女が、特に男子からの声かけに「急いでいる」という理由をよく使っているということは、後に知ったことだ。
以来、話しかけるタイミングを見つけられず、一カ月半が経ってしまった。
僕はそれを、ずっと後悔していたのだ。
「初対面であんなに勢いよく話しかけられたら、誰だって困るよな」
明るくて、誰とでもすぐに打ち解けられるムードメーカー。幼い頃から、周りの大人たちは僕をそう評してきた。根っからの陽気な性格。だけど、その明るさの本当の理由に気付いた人たちは、一体どれくらいいただろうか。
「……石倉くん、さっきから謝ってばっかりいる」
リュックのストラップをぎゅっと握っていた彼女の力が、少しだけ解かれる。それはこちらを警戒して隠れていた野生動物が、ちらりと姿を見せてくれる感覚とどこか似ていた。
「中田さん、あのさ」
人間には、相性というものがある。こちらが仲良くなりたくても、うまくいかないこともある。人間関係では、そういう波長みたいなものが最も大事だと思うんだ。
中田さんと僕はどうだろう。
第一印象は、僕からの一方的な矢印状態。
この一カ月半の第二印象は、きっと中田さんは僕みたいなタイプが苦手。
そして現在の第三印象。もしかしたら僕たちは──。
「友達にならない?」
そのまま僕は、アイスを持っていない方の右手を差し出した。もちろん、その前にズボンでごしごしと手のひらを綺麗にすることは忘れていない。
ザザン、と小さくさざめく波の音が僕らの間の空気を揺らす。〝一瞬なのに、永遠にも感じる時間〟。以前見たドラマに出てきたセリフがなぜか頭に浮かぶ。あのときはよくわからなかったけれど、もしかしたらこういう感覚をそう表現するのかもしれないと僕は思った。
「……石倉くんって、変わってるね」
ついぞ、僕の右手に彼女のぬくもりが重なることはなかった。代わりにふわりとした柔らかなものが、伸ばした指先を包んだ。
眩しいくらいの、真っ白なハンドタオル。彼女はそれをこちらに差し出したのだ。
「アイスキャンディ、溶けてるよ」
ぱた、ぱた。すっかりその存在を忘れていたソーダ味のアイスキャンディは、僕の左手から足元へと幾粒もの滴を落としていたのだった。
この通学路が最高である、みっつめの理由。
──中田胡桃が、通ること。
穏やかで柔らかい青色の海と空。
その狭間を進むように、片手をポケットに突っ込んだ僕は鼻歌交じりに歩く。
海沿いにあるおだやかな街。
通学路は水平線を見渡せる海沿いの歩道で、学校の教室からはいつでも海と空が見える。
この景色が日常となった僕でさえ「最高だ」と思うのだから、ときおりメディアが絶景を求めてやって来るというのも納得だ。
「葉―っ!」
後ろの方から名前を呼ばれ、僕は立ち止まった。振り向くと、自転車通学をしているクラスメイトたちが道路の反対側から手を振っている。
「まーたアイス食ってんの? まだ夏には早いっしょ」
「僕にとっては、春夏秋冬アイス日和!」
僕の左手には、溶けかけのアイスキャンディ。
この通学路は最高だ。まずひとつめに、景色がいい。ふたつめに、アイスキャンディを買うことができる小さな商店がある。
海を横目に歩きながら、アイスを食べる。こんな贅沢なことができるのは、この通学路のおかげだ。
「明日は遅刻すんなよー」
「僕がいつ遅刻したって? ギリギリなだけだって!」
ケラケラという笑い声は、「じゃーなー」という声と共に曲がり角へと消えていった。
「賑やかだなぁ」
そう言って笑った僕は、水平線を見ながら両手を上へ、ぐうっと伸ばした。
食べかけのアイスキャンディは太陽の光を反射してキラキラ光り、背負っていたリュックのファスナーが、カチャリと小さな音を鳴らす。
「ひゃあ!」
「えっ?」
突然、後ろで小さな声が揺れ、僕は驚いて振り返った。
「……中田、さん?」
そこには、クラスメイトの中田胡桃が立っていた。目を白黒させながら、右頬をこすっている。
──まさか。
僕は勢いよく、彼女のそばへと駆け寄った。
「ごめんっ! もしかして飛んだ!? 目に入ってない!? 痛い!? 沁みる!?」
溶けかけたアイスキャンディの水滴というのは、ちょっとした反動でどこにでも飛んでいく。どうやらそれが、彼女の顔まで跳ねてしまったみたいだ。
「あ、うん。だいじょ……」
制服のポケットから取り出したタオルで頬をトントンと押さえた彼女は顔を上げると、勢いよく後ろへと身体を引く。
「やっぱり痛かったよな!? これソーダ味だから、炭酸成分で余計に沁みたかも……本当ごめん!」
女の子の顔に──しかも、あの中田さんの顔に──アイスを飛ばすだなんて、とんでもない失態だ。
長く伸びた栗色の髪の毛に、色素の薄い大きな瞳。三年になってから初めて同じクラスになった彼女は、目立つグループに属しているわけではないのに、なんとなく教室内でも目を引く存在だった。
しかし、極度の人見知りらしく、限られた女子と会話をしているところしか見たことがない。
「タオルもベタベタになっちゃったよな。どうしよう、こういうときってクリーニングとか? それなら僕が」
「いっ、いい! 大丈夫だから! ほっぺたに飛んだだけ!」
僕が一歩近づくと、一歩後ずさる彼女。
そこで僕は、自分が犯している失態に気付いた。多分この距離は、彼女にとっては近過ぎるんだ。
僕はあえて、大きく一歩後ろに下がる。
「ごめん、近過ぎた!」
「だ、大丈夫……」
「あと、クラス替え初日に馴れ馴れしく話しかけたことも、ごめん!」
「……え?」
あの日もそうだった。クラス替えの初日、彼女に話しかけたところ、「ちょっと急いでるから……」と避けられてしまったのだ。
以前廊下で見かけたときに、綺麗な子だなと思っていた。きっとそんな気持ちが前面に出てしまっていたのだろう。極度の人見知りである彼女が、特に男子からの声かけに「急いでいる」という理由をよく使っているということは、後に知ったことだ。
以来、話しかけるタイミングを見つけられず、一カ月半が経ってしまった。
僕はそれを、ずっと後悔していたのだ。
「初対面であんなに勢いよく話しかけられたら、誰だって困るよな」
明るくて、誰とでもすぐに打ち解けられるムードメーカー。幼い頃から、周りの大人たちは僕をそう評してきた。根っからの陽気な性格。だけど、その明るさの本当の理由に気付いた人たちは、一体どれくらいいただろうか。
「……石倉くん、さっきから謝ってばっかりいる」
リュックのストラップをぎゅっと握っていた彼女の力が、少しだけ解かれる。それはこちらを警戒して隠れていた野生動物が、ちらりと姿を見せてくれる感覚とどこか似ていた。
「中田さん、あのさ」
人間には、相性というものがある。こちらが仲良くなりたくても、うまくいかないこともある。人間関係では、そういう波長みたいなものが最も大事だと思うんだ。
中田さんと僕はどうだろう。
第一印象は、僕からの一方的な矢印状態。
この一カ月半の第二印象は、きっと中田さんは僕みたいなタイプが苦手。
そして現在の第三印象。もしかしたら僕たちは──。
「友達にならない?」
そのまま僕は、アイスを持っていない方の右手を差し出した。もちろん、その前にズボンでごしごしと手のひらを綺麗にすることは忘れていない。
ザザン、と小さくさざめく波の音が僕らの間の空気を揺らす。〝一瞬なのに、永遠にも感じる時間〟。以前見たドラマに出てきたセリフがなぜか頭に浮かぶ。あのときはよくわからなかったけれど、もしかしたらこういう感覚をそう表現するのかもしれないと僕は思った。
「……石倉くんって、変わってるね」
ついぞ、僕の右手に彼女のぬくもりが重なることはなかった。代わりにふわりとした柔らかなものが、伸ばした指先を包んだ。
眩しいくらいの、真っ白なハンドタオル。彼女はそれをこちらに差し出したのだ。
「アイスキャンディ、溶けてるよ」
ぱた、ぱた。すっかりその存在を忘れていたソーダ味のアイスキャンディは、僕の左手から足元へと幾粒もの滴を落としていたのだった。
この通学路が最高である、みっつめの理由。
──中田胡桃が、通ること。