僕らの奇跡が、君の心に届くまで。

いつだって未来は不確定で
今日と同じように、明日が来るかもわからない
運命は決められていて
奇跡なんてそう簡単に起こったりしない

そんな世界で、僕らはどう生きるのか
僕らは使い果たすことができるのだろうか
大切な、この日々を
 どこまでも続く水平線と、少し歪んだアスファルトの一本道。
 穏やかで柔らかい青色の海と空。

 その狭間を進むように、片手をポケットに突っ込んだ僕は鼻歌交じりに歩く。

 海沿いにあるおだやかな街。
 通学路は水平線を見渡せる海沿いの歩道で、学校の教室からはいつでも海と空が見える。
 この景色が日常となった僕でさえ「最高だ」と思うのだから、ときおりメディアが絶景を求めてやって来るというのも納得だ。

(よう)―っ!」

 後ろの方から名前を呼ばれ、僕は立ち止まった。振り向くと、自転車通学をしているクラスメイトたちが道路の反対側から手を振っている。

「まーたアイス食ってんの? まだ夏には早いっしょ」
「僕にとっては、春夏秋冬アイス日和!」

 僕の左手には、溶けかけのアイスキャンディ。
 この通学路は最高だ。まずひとつめに、景色がいい。ふたつめに、アイスキャンディを買うことができる小さな商店がある。
 海を横目に歩きながら、アイスを食べる。こんな贅沢なことができるのは、この通学路のおかげだ。

「明日は遅刻すんなよー」
「僕がいつ遅刻したって? ギリギリなだけだって!」

 ケラケラという笑い声は、「じゃーなー」という声と共に曲がり角へと消えていった。

「賑やかだなぁ」

 そう言って笑った僕は、水平線を見ながら両手を上へ、ぐうっと伸ばした。
食べかけのアイスキャンディは太陽の光を反射してキラキラ光り、背負っていたリュックのファスナーが、カチャリと小さな音を鳴らす。

「ひゃあ!」
「えっ?」

 突然、後ろで小さな声が揺れ、僕は驚いて振り返った。

「……中田(なかた)、さん?」
 そこには、クラスメイトの中田胡桃(くるみ)が立っていた。目を白黒させながら、右頬をこすっている。

 ──まさか。

 僕は勢いよく、彼女のそばへと駆け寄った。

「ごめんっ! もしかして飛んだ!? 目に入ってない!? 痛い!? 沁みる!?」

 溶けかけたアイスキャンディの水滴というのは、ちょっとした反動でどこにでも飛んでいく。どうやらそれが、彼女の顔まで跳ねてしまったみたいだ。

「あ、うん。だいじょ……」

 制服のポケットから取り出したタオルで頬をトントンと押さえた彼女は顔を上げると、勢いよく後ろへと身体を引く。

「やっぱり痛かったよな!? これソーダ味だから、炭酸成分で余計に沁みたかも……本当ごめん!」

 女の子の顔に──しかも、あの中田さんの顔に──アイスを飛ばすだなんて、とんでもない失態だ。

 長く伸びた栗色の髪の毛に、色素の薄い大きな瞳。三年になってから初めて同じクラスになった彼女は、目立つグループに属しているわけではないのに、なんとなく教室内でも目を引く存在だった。
 しかし、極度の人見知りらしく、限られた女子と会話をしているところしか見たことがない。

「タオルもベタベタになっちゃったよな。どうしよう、こういうときってクリーニングとか? それなら僕が」
「いっ、いい! 大丈夫だから! ほっぺたに飛んだだけ!」

 僕が一歩近づくと、一歩後ずさる彼女。
 そこで僕は、自分が犯している失態に気付いた。多分この距離は、彼女にとっては近過ぎるんだ。
 僕はあえて、大きく一歩後ろに下がる。

「ごめん、近過ぎた!」
「だ、大丈夫……」
「あと、クラス替え初日に馴れ馴れしく話しかけたことも、ごめん!」
「……え?」

 あの日もそうだった。クラス替えの初日、彼女に話しかけたところ、「ちょっと急いでるから……」と避けられてしまったのだ。

 以前廊下で見かけたときに、綺麗な子だなと思っていた。きっとそんな気持ちが前面に出てしまっていたのだろう。極度の人見知りである彼女が、特に男子からの声かけに「急いでいる」という理由をよく使っているということは、後に知ったことだ。
 以来、話しかけるタイミングを見つけられず、一カ月半が経ってしまった。
 僕はそれを、ずっと後悔していたのだ。

「初対面であんなに勢いよく話しかけられたら、誰だって困るよな」

 明るくて、誰とでもすぐに打ち解けられるムードメーカー。幼い頃から、周りの大人たちは僕をそう評してきた。根っからの陽気な性格。だけど、その明るさの本当の理由に気付いた人たちは、一体どれくらいいただろうか。

「……石倉(いしくら)くん、さっきから謝ってばっかりいる」

 リュックのストラップをぎゅっと握っていた彼女の力が、少しだけ解かれる。それはこちらを警戒して隠れていた野生動物が、ちらりと姿を見せてくれる感覚とどこか似ていた。

「中田さん、あのさ」

 人間には、相性というものがある。こちらが仲良くなりたくても、うまくいかないこともある。人間関係では、そういう波長みたいなものが最も大事だと思うんだ。
 中田さんと僕はどうだろう。
 第一印象は、僕からの一方的な矢印状態。
 この一カ月半の第二印象は、きっと中田さんは僕みたいなタイプが苦手。
 そして現在の第三印象。もしかしたら僕たちは──。

「友達にならない?」

 そのまま僕は、アイスを持っていない方の右手を差し出した。もちろん、その前にズボンでごしごしと手のひらを綺麗にすることは忘れていない。

 ザザン、と小さくさざめく波の音が僕らの間の空気を揺らす。〝一瞬なのに、永遠にも感じる時間〟。以前見たドラマに出てきたセリフがなぜか頭に浮かぶ。あのときはよくわからなかったけれど、もしかしたらこういう感覚をそう表現するのかもしれないと僕は思った。

「……石倉くんって、変わってるね」

 ついぞ、僕の右手に彼女のぬくもりが重なることはなかった。代わりにふわりとした柔らかなものが、伸ばした指先を包んだ。
 眩しいくらいの、真っ白なハンドタオル。彼女はそれをこちらに差し出したのだ。

「アイスキャンディ、溶けてるよ」

 ぱた、ぱた。すっかりその存在を忘れていたソーダ味のアイスキャンディは、僕の左手から足元へと幾粒もの滴を落としていたのだった。

 この通学路が最高である、みっつめの理由。
 ──中田胡桃が、通ること。

「石倉くんの家、こっちの方なの?」
「うん、この先をずーっと行ったあたり。今日はこれからバイトなんだけど」

 僕のある種の告白──友達にならない?というあれだ──に、彼女が答えることは結局なかった。手がベトベトになっていることに気付いて慌てる僕を見て、彼女はもうひと段階、その警戒を解いてくれた。
 半分体を後ろに引いたような〝構え〟の姿勢がなくなったのがその証拠。だからこそ今僕は、彼女と一緒にこの海沿いに敷かれたアスファルトを並んで歩けているわけだ。

「中田さんの家は、近く?」
「うちは、バスで十分くらい」

 最寄りのバス停までは、学校から歩いて十五分。ちょうど僕の帰路の途中にそれはある。つまり、そこまでは一緒に並びながら帰れるということだ。僕は小さく、体の脇でガッツポーズを決める。

「バイトって、何してるの?」
「コンビニだよ。同じクラスの、高橋拓実(たかはしたくみ)と一緒にやってる」

 彼女からの質問に意気揚々に答えれば、彼女は瞳を空へと少し向けてから「ああ」と頷いた。どうやら名前と顔は一致しているみたいだ。

「どうしてバイトしてるの?」
「卒業したら一人暮らししたいんだ。あと、ただ家にいてもつまんないしさ」

 彼女の方から自分のことを聞かれた僕は、気分がよくなっていた。質問をしてくれたということは、完全なる無関心というわけじゃないってことだ。

 まあ、社交辞令という可能性は捨てきれないけれども。

「中田さんは、バイトとかしてないの?」
「うん。大学生になってからかな」
「そうなんだ。兄弟とかは?」
「ううん。お父さんとお母さん。あとはおばあちゃんが、一緒に暮らしてるような感じ」
「ばーちゃんと暮らしてるの、いいな。うちのばーちゃん、北海道に住んでるからなかなか会えないよ。あとで電話してみようかな。北海道って行ったことある? 叔父さんが、北海道に行くといつも木彫りの熊買ってきてさ。だからうちには、木彫りの熊がめっちゃある。あとキーホルダーも」

 ぺらぺらとしゃべりながらポケットから家の鍵を取り出した僕は、そこでハッと口を結んだ。家の鍵と雑多につけたキーホルダーたちが、ぶつかり合ってチャリンと音を鳴らす。

 ……まずい。こんな機関銃のように一方的に話していては、新学期初日の二の舞となってしまう。

 しかし、そんなことは僕の杞憂に過ぎなかったらしい。

「わ、本当にクマだ」

 中田さんはまじまじと僕の手元を見つめると、指先でキーホルダー群の中から古い熊を見つけ出した。それから「かわいい」と小さく笑って、人差し指でその鼻先をちょんとつつく。海に夕日がきらめいて、彼女の笑顔をオレンジ色に柔く染めた。

「中田さんの方が」

 ──綺麗だ。

 という本音はすんでのところで飲み込んだ。
 こんなことを口にすれば、また彼女は警戒してしまうかもしれない。不思議そうな表情を向けた彼女に、僕は慌てて顔を背ける。

「中田さん、木彫りの熊が好きなんて、意外と渋いなぁ」

 僕はうまく、笑えているかな。
 せっかく少しだけ近づけた距離を、遠ざけるようなことはしたくないから。

「──葉、ってすごくいい名前だよね」

 不意に呼ばれた下の名前に、僕の心臓は大きく揺れた。
 周りはみんな、僕のことを葉と呼ぶ。だからそれは呼ばれ慣れているはずのものなのに。彼女の声で紡がれる自分の名前は、それまでに感じたことがないほど、強く心を震わせたのだ。

「本当は石倉くんって、ひまわりの花みたいな、ぱぁっとしたイメージだったの。ひたすらに明るくて、楽しいことが大好きで。だけど今日話してみて、名前の通り、葉っぱのような人だなって思った」

 とくりとくりと、心臓はたしかに大きく揺れ動く。

 底抜けに明るい、陽気なキャラクターである僕。悩みなんてなくて、誰とでも打ち解けることができて、いつも楽しそうと言われてきた。だけど彼女は、僕の明るさに〝なにか〟を感じ取ってくれているのだろうか。

「太陽の光をいっぱいに浴びて、誰かを元気にするための栄養分を蓄えて。日差しが痛いときには日陰を作ってくれて、雨が降ったときには傘のようになってくれて、心地よい風を送ってくれる青々とした葉っぱ。なんだか石倉くんって、そんな感じがする」

 だから石倉くんの周りには、人がたくさん集まるんだね。彼女はそう言って、ゆっくりと微笑んだ。

 一気に距離を詰め過ぎちゃいけない。
 焦ったりしちゃいけない。
 信頼関係は時間をかけてゆっくりと築いていくんだ。
 周りへの警戒心が強い子が相手なら、尚更──。

「葉でいいよ」

 不意をつかれたような表情をする彼女を前に、僕の口はもうとどまることを知らなかった。

「だから僕も、〝胡桃〟って呼んでもいい?」

 友達になろうと言う僕に、彼女が直接言葉で答えることはなかった。だけどきっと、友達というのは気付いたらなっているものなのかもしれない。

 目の前の彼女は頬をわかりやすいほどに赤く染め上げたあと、ぷいと顔を海の方へと向けてしまう。

「もう、強引だなぁ……」

 小さな呟きは、潮風に乗って僕のネクタイをふわりと揺らす。

 背中を向けたままの胡桃は、ちらりと手元の腕時計に視線を落とした。それからこちら振り向くと、困ったような表情で笑う。そしてこう言ったのだ。
「バイトの時間に遅れちゃうんじゃないの? 葉」
 ──ってさ。

 ◇

「なんかいいことでもあった?」

 ぴーろーぴろぴろーん、ぴろりーろりー。
 店内にひとりだけいた客が自動ドアをくぐり抜けると、後ろでタバコを補充していた拓実が作業を続けたままそんなことを言った。彼は僕の友人で、一緒にコンビニのアルバイトをしている。

「拓実って、僕のことなんでもわかるんだな……。もしかして、愛のパワーとか?」

 ふざけて肩に手を乗せれば、拓実は「バーカ」とその手をうざったそうにこちらへ押し返す。

「そんなでっかい声で鼻歌歌ってたら、嫌でも察するわ」

 そっか、僕鼻歌なんか歌っちゃってたんだ。今気付いた。

 拓実と僕は高校三年生になって初めて同じクラスになった。僕たちが最初に出会ったのは去年の春、このバイト先でのこと。そのときにはお互い同じ高校に通っているなどとは知らなかった。
 一学年六クラスある我が校は、マンモス校ではないものの、限られた高校生活の中で同級生全員とまともに関わり合う機会はそうそうない。しかも去年、僕たちは一組と六組という端同士だったため、学校で顔を合わせることがほとんどなかったのだ。

「まあ、鼻歌が自然と出ちゃうくらいのことがあったんだよね」

 再び鼻歌を歌えば、拓実は「ハイハイ」と片手であしらった。
 もうちょっと深く聞いてくれてもよさそうなものなのに。
 しかしそこで、客の来店を知らせるチャイムが鳴り響き、そのまま話題は次のものへと流れていった。

「そういや、明日の数学のテスト、三十点以下だと補講らしいぞ」
「マジで? 僕、数学めちゃくちゃ苦手なのに」
「葉は理数、本当弱いもんな」
「バイト終わってからちょっとでいいから教えてよ。拓実、数学得意じゃん」
「俺、女の子にしか勉強教えないことにしてるんだわ」

 なんて冗談まじりに返されたが、実際のところ、拓実はモテる。
 人望という意味で言うならば僕だって負けてはいないつもりだけど、それが恋愛感情という意味を含めるならば完敗だ。

 整った顔立ちに高身長。明るい髪色とちょうどいいくらいの軟派感。スポーツ万能で成績はそこそこ。男女関係なく誰とでもそつなく接することができる器用を絵に描いたような男。それがこの高橋拓実という男だ。

「そろそろ、本命ひとりに絞ったら?」
「誰だよ、本命って」
「……まさか、僕?」

 ふざけて両手で自分の肩を抱くと、拓実はまた「バーカ」と笑った。その笑顔は、僕から見てもかっこいいのだから、やっぱりずるい。

「でもさぁ、なんであんなにたくさんの女の子とデートしてるのに、誰とも付き合わないわけ?」

 拓実の周りには、常に女の子の影がある。それでも拓実は、誰ともきちんとした恋人関係を結んではいないし、トラブルになることもないのだから不思議なものだ。

「俺は利害の一致した相手と楽しく過ごしてるだけ。気楽でいいじゃん」

 こういうことを言っても、嫌味に聞こえないのも拓実のすごいところだった。

 確かに拓実はチャラい。だけどそれだけじゃない。優しくて、強くて、それでいてきちんと踏み込まない線、踏み込ませない部分を決めているのだ。
 と、そこで僕は、さきほどから浮かんでは消えない疑問を拓実にぶつけることにした。

「……ちなみに、中田胡桃ともデートしたことある?」

 クラスの男子の中で話題にのぼることの多かった胡桃だが、拓実の口から彼女の名前が出たことはない。女の子の扱いもうまい拓実のことだ。まさかもう、すでにデートをしていたら──。

「ない。胡桃に手出したらぶっ飛ばす、って莉桜(りお)に言われてるし」

 作業の手を止めず、淡々と話す拓実に僕は安堵の息をひとつつく。それからすぐに、もうひとりの女子の顔を思い浮かべた。
「莉桜って……同じクラスの井岡莉桜(いおかりお)?」

 明朗快活、さっぱりとした性格の彼女は学級委員を任されている。しっかりしていて誰にも媚びることのない彼女は、生徒だけではなく先生からの信頼も厚い。
 たしか彼女と胡桃は席も近いから、正義感の強い井岡さんが胡桃を守ろうとするのも理解できる。
 しかし、普段女子の名前を苗字でしか呼ばない拓実が、『莉桜』と呼んだことに僕は大きな違和感を覚えたのだ。あの井岡さんが、拓実がデートしてきた女の子たちの中にいるとは考えにくい。いや……人は見かけによらないとか……?

「同じ中学なんだよ。家も近いし、腐れ縁みたいなもん」

 僕の考察が顔に出ていたのかもしれない。
 拓実は僕をちらりと見ると、ため息とともにそう言った。

 なんだって……腐れ縁だと? 美男美女で腐れ縁? そんなのドラマや漫画の中だけのことかと思っていたのに、こんな近くにあったなんて!

「違うからな?」

 しかし僕の妄想は、拓実のぴしゃりとした一言で散り散りになる。呆れ顔の拓実が「やっぱりな」とため息をつく。

「恋愛感情とかないから。莉桜と俺は、本当にただの腐れ縁」
「その通り。っていうか、いらっしゃいませもないわけ?」

 ゴンッとレジカウンターに置かれたコーラのペットボトルふたつとミントガム、筒に入ったカラフルなチョコレート。
 店内に思い切り背中を向けていた僕たちは、思わずびくっと体を揺らしてしまう。
 恐る恐る振り返れば、そこには、今まさに話題に出ていた井岡さんが立っていたのだ。

「もう! ドア開いたときにチャイム鳴るじゃん! なんで気付かないかなぁ!」
「井岡さん?」
「そうだよ。私服だとイメージ違う?」

 ふふ、と笑う井岡さんに、拓実が大袈裟にため息をつく。
 ぴたりとしたTシャツにミニスカートという出で立ちの彼女は、確かに学級委員をしている制服姿の井岡さんとは別人のようだ。ほんのりと化粧もしているように見える。

「またコーラとチョコかよ、ダイエットはやめたわけ?」
「彼氏がそのままでいいって言ってくれたんで、やめました〜」

 べー、と舌を出す彼女に、僕は内心がっくりとしてしまう。どうやら〝ただの腐れ縁〟は、紛れもない事実のようだ。

 ピッ、ピッ。嫌と言うほど聞き飽きたバーコードをスキャンする音がやたらと響く。窓から駐車場をそっと見れば、黒い車が一台停まっているのが見えた。

「俺、もうすぐあがるけど」

 ピッ、ピッ。最後のひとつをスキャンさせると、彼女は手に持っていた千円札をレジに置いた。時刻は九時ちょっと前。

「平気。彼氏、車で待ってるから」
「じゃあ平気だな」
「うん」

 五百十六円、と短く告げる拓実と、無言でお釣りを受け取る井岡さん。ほんの三十秒ほどのやりとりだが、これまでのふたりの信頼関係のようなものが垣間見えた気がした。

「じゃあね」

 商品を両手に抱えた井岡さんはそう言うと、扉に向かって歩いていく。そして自動ドアが開いたときに、足を止めて振り返った。

「今日、胡桃と話したんだってね。〝葉と一緒に帰った〟って連絡きたよ」

 ぴーろーぴろぴろーん、ぴろりーろりー。閉じた自動ドアの向こう、黒い車の助手席のドアが開閉し、ヘッドライトが遠ざかっていった。

「……なあ、拓実……」
「なに」
「今の、聞いた……?」
「なにが」
「胡桃が僕と帰ったことを、友達に報告したってことだよな……?」
「は……?」
「うぉっしゃあ!」
「声でけーって、葉」

 ぴーろーぴろぴろーん、ぴろりーろりー。

「いらっしゃいあせえー!」

 次いで入店してきたお兄さんが、僕のどでかい歓迎の挨拶にびくりと肩を揺らしていたのは、言うまでもない。

 この日を境に、僕の毎日は少しずつ新しい形を成すようになった。
 改めて見てみれば、胡桃と莉桜──拓実につられ、僕もそう呼ぶようになった──はいつも行動を共にしている仲の良い友人同士だった。

 胡桃は僕と目が合うと二度ほど視線を左右に彷徨わせたあとに照れくさそうに小さく笑う。だから僕も、胡桃と視線が重なったときにはニッと口を横に結ぶようにしている。

「そんな小さい弁当箱で、足りるの?」
「こう見えて、ぎっしり入ってるんだよ」

 昼休みは、この四人で過ごすことが増えた。
 拓実と僕は学食で日替わり定食を頼み、女子ふたりは小さな弁当箱を持参。胡桃の弁当は、カラフルでかわいらしいご飯主体のもので、莉桜はほとんどがサンドイッチとサラダだ。

「葉たちは、いつも学食メニューだね」
「弁当ひとつじゃ足りないんだよ」

 本当は、僕の母親代わりである叔母さんから「お弁当作ろうか?」と毎日のようにありがたい申し出がある。だけどそれは丁重にお断りしている。
 父親代わりの叔父さんは外回りが多いため弁当を持参しないし、小学一年生の妹だって給食だ。僕ひとりのためにわざわざ作ってもらうというのは、どうも気が引けるのだ。

「そっか、育ち盛りだもんね」
「そうそう、成長期ですから僕たち」

 放課後には、四人でぶらぶらと海沿いの道を歩きながら帰るようにもなった。

「うーみーはーひろいーなおおきーいなー」
「いーってみたいーなーりゅうぐーうーじょー」
「ちょっと葉! 浦島太郎になっちゃってるじゃん」
「そしたら胡桃は織姫な」
「それ七夕」
「あれ、そうだっけ?」

 ──こうして一ヶ月が過ぎた頃には、海や空が当然そこにあるように、僕のそばにはこの三人がいるようになったのだ。



「本当、仲間がいるって最高だなー!」

 今日も天気は快晴で、心地よい海風が僕の前髪を揺らす。こういうことを口にすると、拓実なんかは「恥ずかしげもなく、よくそんなセリフを」なんて苦笑いするけど構わない。
 ここは海沿いにある、ちょっとした広場。水平線に平行するように敷かれた堤防と続くように作られたこの場所は、展望台と呼ぶにはお粗末で、だけどその感じが僕たちは気に入っていた。

「小学生の頃にやってた〝カレッジタイム〟ってドラマ、みんな見たことない?」

 今の状況というのは、僕が長い間憧れ続けていたシチュエーションだ。

「五人組の大学生の、青春ドラマでさ。恋愛あり、友情あり、すれ違いありの」

 最近、この場所に一匹の子猫が住み着き始めた。僕らの家は全員、なんらかの理由があって猫を飼うことができないため、せめてここで暮らしやすいようにと段ボールで家を作ることにしたのである。
 寝床となるタオルを巻きながら熱く語る僕に、莉桜が「ああ」と頷いた。彼女の手元で完成された段ボールが、ことんとアスファルトに立てられる。

「たしか、若手人気俳優がたくさん出てたドラマだ」

 そうそう! と僕は顎が外れそうな勢いで頷いた。拓実と胡桃は、記憶を遡っているのかまだピンときていないらしい。

 大きな社会現象ともなった人気ドラマ。当時の僕は芸能人の名前などもわからなかったが、純粋に画面に映る五人の姿にひたすらに憧れた。彼らは自由で、ときに壁にぶつかりながらも、仲間たちに支えられ成長していく。

「それまでは〝仲間〟といえば、スポーツのチームメイトとかのイメージしかなかったんだ。だけどそのドラマの中に出てくる登場人物たちは、同じ大学に通っているだけで、性格も趣味も生活スタイルもバラバラなんだよ」

 ──なにもかもが違うのに、みんなでいると自然でいられる。

 そのときから僕の中に、ひとつの憧れが生まれた。このドラマに出てくるような仲間たちと出会うことだ。

 同性だけの仲間もいいものだ。しかしドラマから受けた影響は大きく、僕の中でのそれは男女混合グループという形として憧れを強くした。
 ちなみに、そういうグループができるのは中学以降だとなんとなく感じていた僕は、その熱い想いを胸に意気揚々と中学校へ入学することとなる。

「で、中学ではそういう〝仲間〟はできなかったわけ?」

 段ボールの余分な部分をカッターで切り落としながら、莉桜は顔をあげる。

「男子対女子みたいな対立構造ができててさ。うっかり隣の女子に話しかければ、女子のボスから鉄拳が飛んでくるんだ」
「鉄拳は言い過ぎだろ」

 冷静な拓実のツッコミに、胡桃が「葉ってばすぐに大げさに言うからなぁ」と笑う。それに合わせるように、子猫がミャウミャウと鳴いた。

 中学生という、大人への扉に手をかけたような多感な時期。当時、男女の交流を深めたいと思っていたのは、僕だけではなかったはずだ。それでも全体の雰囲気や空気感というものは、そんな好奇心よりも恐怖心を強くするだけの力があった。結局、僕は中学の三年間、女友達と呼べるような存在もないままに卒業の日を迎えたわけである。

「高校一年と二年のときはどうだったの?」

 胡桃は溶け始めたアイスキャンディを小さな舌でぺろりとすくい上げると、片方の手で子猫の背中を撫でる。

 道中に佇む小さな駄菓子屋で売っているアイスキャンディ。季節に関係なく、これを帰り道に買って食べるという僕の日課は、いつの間にか僕たち四人の日課となった。一本六十円のシンプルなアイスキャンディ。ちょっとの暑さで、すぐにポタポタと溶けてしまう。だけどその素朴さが、なんともおいしく感じるのだ。

「高校入ってからは、友達は男女関係なくたくさんできたよ」

 そう答えれば、「見りゃわかるわ」と莉桜がしゃくりとアイスをかじる。
 新世界での新生活に、僕は期待で胸をいっぱいにしていた。

「中学と高校って、全然違うって思わなかった? 性別関係なくみんな話すし、いろんな人がいてさ」

 おしゃれだったり、物知りだったり。おもしろかったり、個性的だったり。そんな様々な色が、教室の中で、交わったり交わらなかったりしながら共存していた。

「友達っていうか、普通に話すような人たちはたくさんできたんだけどさ。でも本音を言えたり、困ったときには誰々がいてくれる!と思えるような仲間には、出会えなかったんだよな」

 これは、高校での二年間だけの話に限ったものではない。思い返せば幼い頃から、うわべだけでワーワーと楽しく過ごすことはしてきたものの、本当の自分を見せられるような場所はずっとなかった。

 僕はずっと探していたのかもしれない。
 常に明るい僕じゃなくても存在を認めてくれて、ここにいていいんだと思えるような、自分の居場所を。

「ここまで僕たちは、別々の時間を過ごしてきたんだよな」
「そりゃあ、そうだろうな」

 僕がそうしていたこれまでの時間を、胡桃も拓実も莉桜も、それぞれの場所でそれぞれに過ごしていた。そんなバラバラだった四人が今、当たり前のように一緒にいることが不思議に思える。そしてそれは本当に──。

「奇跡だ!」

 青空に大きく両手を突き上げると、どうやら右手に持っていたアイスの滴が胡桃の頬に飛んだらしい。

「いきなり腕上げないでってばー!」

 野生の小動物のように警戒心をまとっていた胡桃は、この一ヶ月ですっかり僕らに心を開いた。未だに他の人たちには引きつった愛想笑いを浮かべるくらいだが、四人でいるときにはよく笑い、よく怒り、よくしゃべる。
 擦った頬を膨らませる胡桃に「ごめんごめん。暑そうにしてたからつい」と冗談を返せば、カラーペンを握ったままのチョップが背中に飛んでくる。

「うおっ! 鉄拳飛んできた!」
「鉄拳じゃないもん!」

 真っ青な海。真っ青な空。広場の先に置かれたテトラポットの上へひょいっと上った僕は、爽やかな夏の香りが交じる風を思い切り吸い込んで目を閉じる。

「葉ー! ほら、ネコハウス完成したよ!」

 目蓋を開けて振り返れば、三人と一匹が僕のことを見上げて笑っている。

「なあなあ、みんなで交換ノートやろう!」
「うわあ、葉って本当ベタなの好きだよね。悪いけど、わたしパス。拓実とふたりでやれば?」
「莉桜、俺に押し付けんなよ。胡桃はどう思う?」
「……葉がどうしてもって言うなら、仕方ないかなぁと思うけど!」

 やいのやいのとなんでもないことで騒げる僕ら。

 ──最高。これが最高以外のなんだっていうんだろう。

 僕たちは運命の出会いを果たした。
 これは全ての始まりで、ここからずっと続いていくもの。周りが変化していったって、きっと僕らは変わらない。

 このときの僕は、そう信じて疑わなかったのだ。

 エクレア、シュークリーム、ヨーグルト。チーズタルト、プリンにゼリー。

 様々な種類のスイーツに囲まれるという、甘いもの好きならば大喜びしそうな状況。コンビニでバイトをしていると、そういう状況になることも少なくない。
 まさに今、届いたばかりの洋菓子たちを冷蔵ケースに並べている僕のように。

「最近、牛乳プリン流行ってるのかな」
「あー、俺も思った。やたらと減りが早いよな。発注数も倍くらいだし」

そういえば、胡桃も牛乳プリンが好きだって言ってたっけ。対して莉桜は、硬めのカラメルプリンがお好みとのこと。同じプリンでも、違いが出るのはおもしろい。

「なあ、莉桜の彼氏ってどんな人? 拓実の知り合い?」

 仲良くなった僕らだけど、莉桜はあまり恋人の話をしたがらない。僕から見ると彼女は隙のない〝完璧〟に近い存在で、そんな莉桜が好きになった相手はどんな人なのだろうと気になったのだ。

 僕と背中合わせで、おにぎりの品出しをしていた拓実は「ああ」と応える。

「中学時代の二個上の先輩」

 莉桜はたまにデート中にこのコンビニに寄る。彼氏はいつも車の中で待っているので、相手の顔を見たことはない。だけどきっとかっこいいんだろうと思う。
 でもさ、女の子ひとりに買い出しに行かせて自分は車の中というのは、どうかと思ってしまうけれど。

「成績優秀な学級委員に、大学生の彼氏かぁ。デートは平日の夜で、車移動。当たり前かもしれないけど、学校での莉桜とは別人みたいだよな」

 綺麗なメイクに、大人っぽい私服とヒール。似合っていないわけではないけれど、彼女のことを知れば知るほど、ちぐはぐに感じてしまうのも正直なところだった。

「背伸びしてるんだろ、はやく大人になりたいって」
「夜遅くまで出歩いていて、親とか平気なのかな」
「あいつんち、共働きで毎晩遅いから」

 そうだったのか。ずいぶんと親しくなった僕らだけど、まだまだ知らないことは多い。

 拓実と莉桜は、確かにお互いに恋愛感情は抱いていなさそうではあった。莉桜には彼氏がいるし、拓実は拓実で女の影が多い。それでもこのふたりの間には、特別な〝なにか〟がある。僕はそう感じていた。

「莉桜のこと美人だなーとか、いいなーとか、思ったことないの?」

 棚の中に、賞味期限の近づいてきている牛乳プリンを見つける。
 上がりの時間になっても残ってたら、僕が買っていこう。そしてちょっと遠回りをして、胡桃の家に届けてやるのもいいかもしれない。夜遅くったって、玄関の前でプリンを渡すくらいなら許されるだろう。

「そういう風に、考えたことがない」
「こんなに近くにいるのに?」
「こんなに近くにいるから、かもしれないけどな」

 莉桜と拓実の関係は、そばで見ている僕からしても、本当に不思議な関係だった。

 腐れ縁という言葉を使ってはいるものの、ふたりの間には確かに信頼関係がある。莉桜は僕には言わないような一見失礼なことも、拓実には平気でぶつけるし、女の子には常にジェントルな拓実は、莉桜に対しては完全に素の状態で接しているように見える。

「男と女の友情、ってやつ?」
「うーん……。個人的には、そういうのも一般的に存在はするんだとは思う。葉は?」
「僕もそう思う」

 性別など関係なく、人と人との間には友情が芽生えるものだし、恋にも落ちるものだ。

「だけど俺にとって莉桜って、友達とも少し違うんだよなぁ」
「じゃあ、なに?」
「改めて聞かれると、俺もよくわかんない。俺と莉桜の関係ってなんなんだろう」

 腐れ縁というのはふたりの関係を表わす、都合のいい言葉だったのかもしれない。友情とも違うし恋とも違う。特別だけど恋人になりたいとは思わなくて、だけど一番近い距離にいる理解者で。

「まあでも、〝特別〟ってことは確かだな」

 ふはっと笑った拓実に、僕は眩しさを感じた。それと同時に、その言葉がすとんと僕の中に落ちる。

 恋でも友情でもない、〝特別〟。

 それが、今の莉桜と拓実の関係を表わす、ぴったりの言葉なのだ。

「そっか。なんかすごい納得した。こういうのを〝腑に落ちる〟って言うんだな。……っていうか、腑ってなに?」

「内臓」

 翌朝、顔を合わせてからの第一声となった僕の疑問に莉桜はさらりと回答した。
 すごい、さすがは成績トップだ。

 横で胡桃が「うへぇ」と顔を歪めている。ドラマの手術シーンでも思い描いているのだろうか。

「まあ、腑に落ちる、で使うときには〝心の底〟っていう意味だけどね」

 なんで突然? と莉桜は不思議そうに首を傾げる。

 さらりと切りそろえられた綺麗な黒髪が、肩のあたりで揺れる。そういえばこの髪型、拓実が好きだと言っていたモデルと同じなんだよな。よく見れば、どことなく顔や雰囲気も似ている気がする。

 学級委員長である莉桜が他のクラスメイトに呼ばれ席を立ち、そこには僕と胡桃だけが残された。拓実はまだ登校してきていない。

「なあ、莉桜ってモデルの莉亜(りあ)に、なんとなく似てない?」
「言われてみると、確かに似てるかも。拓実の好きなタイプだっけ?」
「そうそう。でもさ、好みのタイプだからって、好きになるとは限らないんだなぁ」
「〝好き〟にも、色々な感情があるからね」

 僕と拓実が話したように、莉桜と胡桃の間でのみ交わされる会話もあったのだろう。もしかしたら胡桃は胡桃で、莉桜と拓実の関係に、なにか思うところはあるのかもしれない。
 それでも莉桜には恋人がいて、拓実は別の女の子たちと過ごすことで楽しそうで。

 このふたりがうまくいけばいいのにと思うのは、きっと外野である僕の身勝手な妄想なのだろう。

「胡桃は会ったことある? 莉桜の彼氏」
「直接はないけど、写真なら見たことある」

 胡桃によると、正統派イケメンとのこと。熱烈なアプローチを受け、今年の春あたりから付き合い始めたそうだ。そんな年上イケメンから想いを寄せられるのだから、さすがは莉桜といったところだ。

「とっても大事にしてくれてるんだって。今日してたブレスレットも、彼氏からもらったって言ってたよ」

 教室の後ろで誰かと話す莉桜が髪の毛をかきあげる。しかしその手首に輝いているのであろう細い鎖は、教室の中にいる僕からは見えなかった。

 自慢じゃないが、僕は恋愛経験が豊富なわけではない。というよりは、ほとんどない。暗黒の中学時代では女子と会話をする機会すらなかったし、高校での二年間で女友達はたくさんできたものの、心惹かれる女の子に出会うことはなかった。
 それでも毎日は楽しいし、別に焦ったりすることもない。人生はなるようになる。それに今の僕には、最高の仲間がいてくれるのだ。

「まあ、みんなが幸せならそれが一番だよな」

 ぐぅーっと両手を伸ばして首を捻れば、登校してきたばかりの拓実が廊下に立っているのが見えた。会話をしている相手は、見覚えのない女の子。上履きの色で、ひとつ年下なのだとわかる。

 ふわふわのロングヘアに、まつげの長い大きな瞳。真っ白な肌を持つその女の子は、まさに美少女という言葉を具現化したような存在だった。さすがは守備範囲の広い拓実。学年なんて、あっという間に飛び越えてしまうのだから。

「学年が違う子との会話にも困らない高橋拓実……さすがだな」
 
 しかしそこでふと、僕は小さな違和感を覚えた。いつもの拓実と今あそこで話している拓実が、少し違うように見えたからだ。
 なにが、と聞かれてもわからない。だけどそのときの拓実の表情や細められた目が、他の女の子に向けるものとも、莉桜を前にしたときのものとも違うように感じたのだ。

「葉だって、誰とでもすぐに打ち解けられるじゃない」

 僕の呟きを拾った胡桃は、丸い筒に入ったカラフルなチョコレートをひとつ口に入れると、こちら側にも差し出した。小さな掌に広がる、鮮やかな色たち。
 僕はその中から、水色のものを選び口へと放り投げた。

「拓実は器用、僕は不器用だよ」

 カリッという音と共に、口の中に甘さが広がる。

 拓実の人当たりの良さは天性のものだと思う。誰に対しても平等に優しくて、誘いをそれとなくかわす術も完璧だ。だから誰もが安心して拓実のそばへと入っていける。安心して純粋に楽しい時間を過ごせることがわかるからだ。

「葉の場合はみんなのことをよく見て、色々なことを何度も何度も考えて、そういうのが重なって出来上がった優しさだもんね」
「そんなことないって。僕、なにも考えてないし」

 おどけて笑ってみせるも、心の中はドキリと一旦大きく揺れた。

 明るくて陽気でお調子者。悩みなんてない、石倉葉。

 ここまでの人生で作り上げてきた、自分という人物像。その背景までをも暴いてしまいそうな響きを、彼女の言葉は持っていた。

「ま、それもそっか」

 しかし胡桃は、あっけらかんと笑ってみせる。彼女の自由奔放なところに僕は、たまに振り回されているのかもしれない。だけど不思議と、それが嫌ではない。
 ころころ変わる表情に、くるくる巡る思考回路。胡桃の言動は予測可能なときもあれば、想像の斜め上をいくこともある。それがまた、おもしろかった。