夜叉の鬼神と身籠り政略結婚2~花嫁は夜叉姫を宿して~

 しん、とフロアが静寂に包まれる。
 私の体はまるで石像のように固まり動けない。
 一瞬ののち、驚愕の声が響き渡った。
「よりによって星野さんなの⁉ 神宮寺さん、もしかして知らないのかしら。星野さんは鬼山課長と結婚してるのよ」
「もちろん、それは知っていますねえ」
「だったら、どうして⁉ 星野さんはおひとりさまを装っておいて、ちゃっかり課長と結婚したくせ者よ!」
「そうよ、べつに美人でもないのに、どうしてイケメンばかり星野さんを好きになるわけ⁉」
 言われ放題だが、柊夜さんとは政略結婚であり、羅刹は鬼神の眷属という事情が挟まっているのである。それをみんなに打ち明けられないのが切ない。
 それにしても、いったい羅刹はどういうつもりなのだろうか。
 柊夜さんに対抗したいのなら、彼の前だけで主張すればよいのに、社内で堂々と私を交際相手に指名するだなんて、火の粉を撒き散らすのも同然である。私の目眩がとまらない。
 詰め寄る女性たちに、羅刹は流麗な容貌をきりりと引きしめて言い放つ。
「相手の肩書きや外見で恋するかどうかを判断するわけではありませんから。恋心って、そういうものでしょう」
 ふたたびフロアが水を打ったように静まり返った。
 正論だ……。説得力のある羅刹の発言に誰も言い返せず、女性たちはうつむく。
 けれどそれは略奪愛も厭わないというわけで。
 柊夜さんがこの場にいなくてよかった。もし旦那様である鬼山課長がいたなら、収まりがつかなかったところだ。
 この空気に耐えきれなくなった男性社員たちはフロアから、忍び足で脱出しようとしていた。 
 だが出入口で「ひっ」と細い悲鳴をあげ、彼らは慌てて走り去っていく。
 何事かと振り返った私は息を呑んだ。
「聞き捨てならない台詞を耳にしたが、どういうことだろうか。神宮寺さんに説明を求める」
 鬼のような形相の柊夜さんが私の真後ろに佇んでいた。本物の鬼だけど。
 これまでで最強の低音である。地獄の底から響いてきたかのような柊夜さんの声に、なぜか玉木さんがこっそり私の背後に身を隠した。
 最悪の状況を生みだした責任の一端は玉木さんにもあると思うんですけども?
 悠然とした微笑を浮かべた羅刹は臆することもなく、女性たちの輪を抜けだす。
 彼は堂々と胸を張り、柊夜さんと対峙した。
「僕は星野さんを花嫁にします。どんな手段を使ってもね」
「貴様の浮ついた信念は承知している。明日には戯れ言だったと、てのひらを返そうが俺は許そう」
「どうかな。案外本気かもしれませんよ。寝取られてもその寛大な心で許してくださいね、鬼山課長」
「ほう。いい度胸だ」
 ふたりの鬼神は一歩も引かず、火花を散らす。
 幕を開けた新たな戦いは、ついに部署内に知られることとなってしまった。
 間に挟まれた私は鬼ににらまれた蛙のごとく、身動きがとれない。
 私たちを取り囲んだ女性たちが行く末を見守るなか、背を丸めた玉木さんはフロアから出ていった。
「イケメンはなにを言っても認められるんだからなぁ……ぼくに人権はないのか、まったく……」
 玉木さんにとっては、のけ者にされたように感じたらしい。
 そのとき彼の背に、フッと黒い靄のようなものがくっついた気がした。
「えっ」
 驚いた私は目を瞬かせるが、すでに玉木さんは廊下の向こうへ去っていた。
 今のは、なんだろう。なにかの影と見間違えたのだろうか。
 確かめたかったが、柊夜さんと羅刹に腕をとられて会議室へ連行される。
 両脇の鬼神がにらみ合っている狭間で食べるお弁当はまったく味がわからない。圧迫感がすごい。
「あかり。俺の玉子焼きをやる。好きだろう?」
「あかり。このお茶を飲んでみなよ。僕がブレンドした美容にいいお茶なんだ」
 生返事をしつつ、ふたりの好意を受け取る。
 このふたりは、むしろ仲がよいのではあるまいかと思い始めてきた。妙に息が合っている。なにより、ふたりとも私を花嫁にしたいという奇特な好みである。さすがは鬼神というべきか。
 それにしても、先ほど玉木さんに襲いかかるように射し込んだ影が気になる。
 性悪イケメンたちにちやほやされるという、悪夢のごときお昼休みをようやく終えた。
 やがて玉木さんも、企画営業部のフロアに戻ってきたのを見届ける。
 私はデスクからそれとなく彼の様子を観察した。
 特に変わったところは見られない。相変わらず玉木さんは猫背でパソコンを見つめている。電話対応するときは呪いをつぶやくような小声だ。いつもどおりである。
 だが羅刹と業務について話しているとき、玉木さんはしきりにこめかみに手を当てていた。彼の癖だろうか。
 やがて終業時間を迎えた。
 私は時短勤務ではあるのだけれど、お迎えが遅れることをすでに保育園に連絡して残業という形にした。
 玉木さんは頭痛でもするのか、額を押さえながら早々にフロアを出ていく。そのあとを追うように、羅刹も退勤していた。
 なにかが起こりそうな気配を察知した私は、柊夜さんのデスクへ赴く。
「鬼山課長……ちょっと、気になることがあるんですけど」
「神宮寺のことか、玉木のことか、まずはそれを聞こうか。俺はきみの目線がほかの男を追っていることに非常に立腹している」
 眼鏡のブリッジを押し上げて冷徹に告げる柊夜さんは憮然としていた。
 私ばかり見ていないで、仕事してくださいね。
 ともかく見ていたのなら話は早い。柊夜さんもなにか気づいたのではないだろうか。
「玉木さんのことです」
「わずかだが、玉木から瘴気を感じた。なんらかの異変が起こったようだな」
「お昼に玉木さんがフロアから出ていくとき、彼の背中に黒いものが乗ったように見えたんです。もしかして、あやかしでしょうか?」
 私にはもうあやかしが見えないはずだけれど、瘴気のかけらとして認識できたのかもしれない。もしも悪いあやかしが玉木さんに取り憑いたりしたら大変なことになる。
 私たちも退勤の支度をして会社を出た。
「その可能性は大いにある。とにかく玉木を捕まえよう。彼はまだ駅の近くにいるはずだ」
「玉木さんのあとを、神宮寺さんが追っていきましたよね。彼もなにかに気づき……」
 そこまで口にしたら、並び歩く柊夜さんが殺気を漲らせた。
 晩秋の木枯らしも凍える夜叉の殺意である。
 私は、ごくりと唾を呑み込んだ。
「あかり。俺は今、きみの口から羅刹の名前が出るだけで腹の底から殺意が湧く。今、やつの顔を見たら首を絞めかねない」
「そうですか……。ここは現世で柊夜さんは会社の課長なので立場を忘れないでくださいね」
「きみは俺だけの花嫁だ。それは死んでも忘れないでほしい」
「はいはい。死んでも忘れませんから安心してください」
「棒読みだな。本当にわかっているのか?」
「はい。本当にわかっています」
 これが社内一と謳われたイケメンの正体である。柊夜さんの嫉妬深さには脱帽だ。今に始まったことではないけれど、しつこすぎるのでうんざりしてしまう。愛が重すぎる。
「まあいい。のちほどじっくり夫婦で話し合おう」
 偉そうに許されたが、柊夜さんの言う夫婦の話し合いとは、いかに私を愛しているかと数時間にわたり、彼が語る行為を指している。しかも体を重ねながらだ。
 あまりにも長いので、途中で寝てしまったこともある。
 だが、翌日に延々と続きを語られ、その執着心に震えを通り越して呆れたものだ。
 ごくふつうの人間の女性が仕事と育児で疲れているうえに旦那様の相手までしなければならないというのは疲労が蓄積するもので、その大変さを少々わかってほしい。
「玉木さんは電車通勤ですよね。ここの駅にまだいるかもしれません」
 気を取り直して、会社の最寄り駅にいるであろう玉木さんの姿を探す。
 ところが、とある人物の姿を発見して細い悲鳴をあげてしまった。
 帰宅する人並みの中、圧倒的な存在感を誇る美丈夫が改札前で待ち構えていたのだ。
「ふたりとも、遅かったね」
 亜麻色の髪とスーツを夕陽に溶け込ませた羅刹は絵画のように壮麗で、通り過ぎる人々の目を引いている。
 思わず柊夜さんを押さえるため、両手で腕にしがみついた。
 先ほどの台詞を聞いたからには、この場で殺傷を起こされてはたまらない。
 私の行動を目にし、羅刹は眉をひそめる。柊夜さんは意外にも平静に問いかけた。
「羅刹。玉木はどこだ」
「改札を通ってホームに向かったよ。彼から瘴気を感じた。よからぬものを持っているようだね」
「やはり、おまえも気づいたか。追うぞ」
 玉木さんを追いかけるため、私たちもホームへ向かいかける。
 だが、その前に改札を通るため切符を購入しなければならない。慌てて私が券売機へ並ぼうとすると、羅刹と柊夜さんに挟まれる。
「あかりの分は僕が購入してあげるね」
「俺がふたり分を買う。当然だろう。羅刹は自分の分のみを買え」
「ここは社外だから上司面して命令するのはやめてくれないかな」
「俺はあかりの夫だから彼女の分も負担すると言っている。なにか文句があるか?」
「いちいち関係を強調するのは自信がない証拠じゃないかな?」
 あのですね、ここは駅の改札前なんですよね。
 玉木さんを見失ったら困るので、無益な争いはやめてほしい。
 にらみ合う鬼神ふたりに挟まれて冷や汗をかき通しの私は、ふたりから同じ切符を差しだされ、仕方なく両方とも受け取る。
 窓口の駅員に不思議そうな顔をされて改札を通り、三人でホームを目指した。
「あ……玉木さんがいましたよ!」
 人混みに紛れていた玉木さんの姿を発見する。
 彼は項垂れるようにうつむき、ぶつぶつとつぶやいていた。
 時折手を広げて、誰かと話すようなジェスチャーをしている。だが玉木さんの傍には誰もいない。なんだか異様な光景だ。
「あやかしと話しているんでしょうか……? 私には見えませんけど」
「いや、なにもいない。玉木のひとりごとだ」
 柊夜さんにも、なにも見えていないようだ。
 ふいと、玉木さんは電車を待つ列を抜けだした。ひとけのないホームの端へ、ふらふらとした足取りで向かっていく。
 私たちもそのあとを追うと、彼のつぶやきが耳に入った。
「ああ、そうだね……ぼくなんか、世界から消えてもいいよね……そうしたら解放される……神になれる……」
 掠れた声で淡々と述べるさまは狂気を匂わせる。
 ふいに玉木さんは、なにかに操られたように頭をもたげて空を見上げた。
 そのとき、彼と対向してホームに電車が入ってきた。
「あっ」
 唐突に私の心臓が跳ね上がる。
 なんの前触れもなく玉木さんは、その体をぐらりと傾げた。
 電車に轢かれることを望むかのように。
 ホームに飛び込む寸前、咄嗟に駆けた柊夜さんが浮き上がる体を抱き留める。
「うっ、うわあああぁ……はなせええぇ……!」
 玉木さんの絶叫が通り過ぎる電車の音にかき消される。
 すかさず羅刹が指先で五芒星を描いた。
 青白い光を突き抜けた腕が、玉木さんの首の後ろを掴む。
 ずるりと黒い物体が引きずりだされた。
 羅刹のてのひらに収まるほどのそれは、丸みを帯びたぬいぐるみのような形をしている。手足かと思える小さな突起がばたついて、不穏に蠢いていた。
「ピキッ! ギッギギ……」
「玉木さんに取り憑いていたのは、このあやかしだったんですね」
 あやかしが暴れるたびに、がさがさと紙袋が擦れるような音が鳴る。
 ぬいぐるみは被り物らしい。だから私にも姿が見えるのだ。
 真っ黒な袋を取ってあげようと手を伸ばしかけると、羅刹がひょいと掴んだあやかしを上に掲げた。
「おっと。さわってはいけないよ。この器の下の本体を見た者は、死ぬと言われているからね」
「えっ⁉ それじゃあ、このあやかしは……」
「そう、ヤミガミだ。こいつは心の弱い人間に取り憑いて、悪事を行わせるのさ。もっとも玉木さんのような善人は、自分の身を傷つけるという方向へいってしまったようだけれどね」
 このあやかしが、会合で話題にあがったヤミガミだったのだ。
 羅刹は事も無げに、ヤミガミを握り潰す。
 ピキィ……と切なげな悲鳴をあげて、ヤミガミの黒い体は消え去った。
 器も、その下にあるはずの本体も、塵のように消滅してしまう。羅刹のてのひらから、かすかな黒い煙が立ち上った。
「え……殺してしまったんですか⁉」
「いいや。死んだわけでも、消滅したわけでもないよ。散ったんだ。ヤミガミは現世の塵のようなものだから、また現れる」
 はらりと、ヤミガミが纏っていた黒い布の切れ端がホームに舞い落ちる。それも霧のように儚く溶けて消えた。
 柊夜さんが支えていた玉木さんは、呻き声をあげる。意識が戻ったようだ。
「玉木、しっかりしろ」
「う……うぅん……あれ、課長? それにみなさんも。いったいどうしたんですか」
 私たちを見回した玉木さんは、夢から醒めたように瞬きをした。
 取り憑いていたヤミガミが離れたので、もとに戻ったのだ。
「きみは貧血を起こして、少々意識を失っていたんだ。偶然通りかかった我々が気づいてよかったな」
「あ……そうだったんですか。ご迷惑をおかけしました。気分はすっきりしているので、もう大丈夫のようです」
 立ち上がった玉木さんはそれまでの記憶が抜け落ちているようだ。何度も首を捻っている。
 もしかしたら、イケメンに嫉妬したときの負の感情が、ヤミガミを引き寄せたのかもしれない。
「ぼく……不思議な夢を見ましたよ。それまで神様だったぼくは降格されて、絶望するんです。その哀しみを誰かにわかってほしくて、よくないことをしようとするんですよね……どうしてあんな夢を見たのかなぁ」
 それは操られていたときに見た、ヤミガミの記憶だろうか。
 堕落した神と言われるヤミガミの哀しい一片を垣間見た私の胸が引き絞られる。
「自分の気持ちをわかってほしいという思いは、誰にでもありますものね」
「ええ、まあ……でも普段はそんなこと考えないんですけどね。人付き合いなんて面倒ですから」
 けろりとした玉木さんは私たちに礼を述べると、次の電車に乗って帰宅した。
 彼方へ去っていく車両を見送り、柊夜さんは双眸を細める。
「現代社会の闇だな。ヤミガミは今後も人間の心の隙間にもぐり込むだろう」
「哀しいあやかしですよね……」
 本当は誰かにわかってほしいのに、その姿を見せようとはしないという矛盾が、現代社会に生きる人々に似ている気がする。ヤミガミには悪意があるのではなく、己を理解してくれる人を探しているように思えた。
 しんみりした思いを抱え、私たちはホームを出ようと足を向ける。
 そのとき、ぎらりと羅刹が視線を巡らせた。
 素早く腕を上げた彼は五芒星を飛ばす。
「キキッ」
 青い光に撃たれたものは、ぽとりとホームに転落した。
 それは小さなコウモリのようだ。黒い羽をばたつかせている。
「どうして撃ったんですか? かわいそうです」
 素早くコウモリを拾い上げた羅刹は、口元に弧を描く。
 その笑みに悪意の片鱗を見て、私の背筋が怖気立った。
「ヤミガミかと思ったんだ。僕の思い違いだったようだね」
「羅刹。そのコウモリは……」
 柊夜さんが声をかけたが、羅刹はすぐにコウモリを空に向けて解き放つ。
 小さなコウモリは慌てたように飛んでいった。幸いにも、怪我はなかったようだ。
 けれど、その背に五芒星の印が刻まれているように見えたのは、目の錯覚だろうか。
 瞬いたときにはもう藍の天に紛れ、コウモリの姿は消えていた。
「気にすることはないよ。この世には、あらゆるものが闇に蠢いているからね」
 なんでもないことのようにつぶやいた羅刹は踵を返す。
 柊夜さんのあとに続いて、私も階段へ向かった。
「さあ、保育園へ迎えに行こう。悠が待っているだろう」
「ええ……そうですね」
 一度だけ振り返ると、ホームの向こうに見える切り取られたような夜空には、静かに星だけが瞬いていた。
 ちゅうりっぷ組の扉をそっと開けた私は、室内へ向かって声をかけた。
「お世話様です。鬼山悠です」
「悠くん、お迎えでーす」
 先生の明るい声が室内に響き渡る。
 ジョイントマットをしきりに手で触れていた悠は、くるりとこちらを向く。
 先生の声につられて、ほかの子もいっせいにこちらを向いた。自分の親ではないか、みんな逐一確認するのだ。
 保育所に預けられた子どもたちは親と離れる寂しさに耐えているので、お迎えを心待ちにしているのである。
 それも小さいうちだけという話なんだけどね。
「あぶうぅ」
 小さな足で駆けてきた悠は、両手を掲げてバンザイをした。
 抱っこの合図に応え、私は悠を抱き上げる。
 温かくて重みのある悠の体が腕の中に収まる感触に、ほっとした。数時間離れていただけなのに、深い安堵を覚えるのはなぜだろう。
「いい子にしてた? 悠はもう泣かなくなったのね」
 入園したての頃は私が先生に預けて去ろうとすると、「ふえぇ」と涙目になっていたものだ。そして夕方になり迎えに行くと、睫毛を涙で濡らしつつ、怒った声をあげていたのである。
 けれどそれも数日のことで、ひと月が経過した今ではすっかり園に慣れたようだ。
「悠くんはとってもおりこうさんでしたよ。今日はたくさんお昼寝できたので、午後は元気いっぱいでした」
 歌うように朗々と述べる保育士の先生は、園での様子をつぶさに報告してくれるので安心できた。
 先生に「さようなら」と挨拶し、悠の着替えなどが入ったバッグを持って部屋を出る。
 園の玄関で悠を座らせ、十二センチの小さな靴を下駄箱から取りだす。
 両足に履かせようとすると、悠は靴に、ぺたりと手で触れた。
「う」
「今日はお庭で遊んだの? 楽しかったね」
 まだ小さいので短い時間だけれど、園庭で遊ぶこともある。
 悠はなんにでも興味を持ち、いろんなものに手で触れようとするので、面倒を見ている先生たちも大変だろう。危険なものを子どもにさわらせないよう注意を払うのは、とても神経をすり減らすことだと、自分が親になって初めて知った。
 子育てをしていると苦労も多いけれど、それらは子どもを抱っこしたときの柔らかさや温かな重みですべて昇華された。
 子どもに靴を履かせるというなんでもない日常さえ、たまらない幸福を感じられる。
 そう思うのは、私が寂しい人生を送っていたからなのかな……。
「悠は私の宝物だよ。大好きだよ」
 感極まり、ぎゅっと抱きしめる。
 悠は私とほっぺたとくっつけながら、平然として外に目を向けていた。
 まだママの愛が理解できないようだね……。
 少々恥ずかしくなった私は悠を抱きかかえて玄関を出た。
「ヤシャネコ、いるのよね?」
 小声で囁き、辺りを見回す。
 あやかしの見えなくなった私にヤシャネコの姿は見えず、声も聞こえない。
 けれど変わらず悠と一緒に登園してくれているはずだ。
 ふと悠は私を見て、こう言った。
「なーな、なあ」
「いるの? それならいいけど」
「なあ、なあ、あぶぅ」
 悠にはヤシャネコが見えているわけだが、まだお話しができないので状況がよくわからずもどかしい。
 でも、いてくれると信じよう。
「今日もありがとう。ヤシャネコ」
 小さくつぶやいた私は、悠を自転車のチャイルドシートに乗せてベルトを締めた。
 送り迎えのために購入した自転車は、ハンドルの前方部にチャイルドシートがついている前乗せタイプだ。
 一歳の幼児といえど、体重はすでに九キロほどある。
 生まれたときには三キロあったが、瞬く間に子どもは大きくなっていく。自転車に乗せるときは車体が傾かないよう、いつも緊張する。もう少し大きくなったら、後ろタイプのチャイルドシートに替える予定だ。
「わあ、風がきもちいいね」
 自転車を漕ぐと、爽やかな風が吹き抜けていく。
 保育園から自宅マンションまでの道のりは、河原沿いの遊歩道を通れるので自然の林や川があり、四季の美しい景色を眺めることができた。
 ここを初めて訪れたのは、会社の飲み会の夜だった。雨の中、柊夜さんと手をつないで通ったことを懐かしく思いだす。
 ふと、シートに座っていた悠が顔を上げた。
「あぁうあ」
 彼は手を掲げて、懸命になにかを訴えている。
「どうしたの、悠」
 自転車を止めた私は振り仰いでみたが、そこには木々が立ち並んでいるだけだ。
 木立からは、かすかに鳥の鳴き声が聞こえる。
「あっ……」
 視線を巡らせると、樹木の根元に小さなものが落ちているのを見つけた。かすかに羽を震わせているそれは、鳥の雛らしい。
 自転車から降り、悠をチャイルドシートから下ろす。
 すると悠は落ちている雛めがけて駆けていった。
 私も悠の後ろから、かがんで見てみる。
 小さな灰色の鳥の雛は、きつく目を閉じていた。体を横倒しにして足を投げだし、だらりと広げた羽が震えている。
 この子の命は、もはや尽きようとしているのだった。
「かわいそうに。巣から落ちたのかしら……?」
 見上げると、無数に張り巡らされた枝の狭間に、ひとつの鳥の巣を見つけた。
 あそこから落下してしまったのかもしれないが、巣はかなり高所にあり、とても手が届かない。
 そのとき、枝の先に小鳥が姿を見せた。
 鮮やかな橙色の頭に茶色の羽は、コマドリの特徴だ。
 もしかすると、この子の親鳥かもしれない。
 期待に胸を弾ませたけれど、こちらを見下ろしていたコマドリはすぐに木々の間に隠れてしまった。
 がっかりして、落ちた雛に目をやる。
 雛はもう動いていなかった。
「あぶぅ」
 じっとその姿を見つめていた悠が、雛に手をかざす。
 その瞬間、ふわりとした光が雛の小さな体からあふれた。
「……えっ?」
 柔らかな輝きは陽の光を受けたシャボン玉のように軽やかだ。
 幾重にも広がった七色の光はとても小さなものだったけれど、慈愛を感じさせた。
 悠が手を引くと、雛の体に光が吸い込まれるように、すうっと消える。
 すると、動かなかったはずの雛が身じろぎをした。
「……ピ……ピ……」
「よかった! まだ生きていたのね」
 この子の命は尽きていなかったのだ。
 悠と笑顔を交わした私は、ハンカチでそっと雛の体をすくい上げる。
 このままにしておくことはできないので、ひとまず家に連れて帰ろう。水や餌を与えて養生させたら、回復するかもしれない。そうしたら、きっと巣に帰れる。
「この子を、うちに連れて帰ろうね。休ませたら元気になって、おうちに帰れるよ」
「ん」
 悠は両手を差しだした。雛を自分で抱いていたいようだ。
「大丈夫? そっとね」
 ハンカチに包んだ雛を悠に預ける。
 しっかりと持っているのを確認して、雛を抱いた悠を自転車のシートに乗せる。
 私はふたたび自転車を漕ぎだす。
 悠の手元からは、ふわりふわりとシャボン玉のような淡い光がこぼれ続けていた。



 マンションに帰宅した私は雛のために、空き箱にタオルを敷いて巣を作る。
「できたよ、悠。雛をここに入れてあげて」
 リビングのテーブルにハンカチごと乗せた雛を、悠はじっくりと見つめていた。
 ふと私は違和感を覚える。
 先ほどは死にかけていたはずの雛だが、すでに身を起こしている。つぶらな黒の瞳をぱちぱちと瞬かせていた。
 それだけではなく、なんだか雛の体が大きくなった気がする。
 外で見たときにはぼろぼろだった灰色の毛は、ふわっとしてツヤが出ていた。
「気のせいかな……。それに、さっきの光はなんだったのかしら。もしかして、この雛は特別な力を持ったあやかしだとか……?」
 私にはもうあやかしが見えないはずだけれど、鬼神に匹敵するほどの能力を持つ種族なら、ふつうの人間にも見えるのかもしれない。みすぼらしかった雛が成長したら白鳥だったという成功譚はありえることだ。
「この子は成長したら白鳥とか、もしかして鳳凰になったりして。ねえ、悠」
「あぶぅ」
 そう思うと希望が湧いてきた。
 ただの人間だったみなしごの私も、柊夜さんや悠の傍にいることにより、半永久的に神気を得られるかもしれない。家族と同じ世界に居続けられる能力が備わるかもしれないのだ。
 未来は変えられる。死を迎えるはずだった雛が不思議な力を発揮して、よみがえることができたように。
「そうだ、水を飲ませてあげないとね。それからお粥を冷まして、ごはんもあげようね」
 俄然やる気が出た私はスポイトを用い、雛に水をやる。
 雛は大きな口を開いて水を飲んでくれた。
 さらにキッチンに立ち、鍋に米を煮込んでお粥を作る。
「悠、その子を見ていてね」
 雛が珍しいのか、悠はまた手を伸ばしていた。
 けれど掴むようなことはせず、そっと羽にさわっている。 
「ピ……」
 巣箱の中で、つぶらな瞳の雛は小さく鳴いた。



 柊夜さんが会社から帰宅すると、私はさっそく雛の話をした。
 ところがネクタイのノットに指をかけていた彼は顔色を変える。
「なんだって? その雛はどこにいる」
「リビングで悠が面倒を見ていますよ」
 硬い表情を浮かべた柊夜さんがリビングに入る。
 部屋の隅で、かがんだ恰好をした悠が巣箱を覗き込んでいた。雛が夜に眠れるようにと、巣箱にはタオルをかけて半分を覆っていた。
 子どもがおとなしいときは悪戯をしているのがお約束なので、どきりとしたけれど、悠は手を出さずに見ているだけだ。初めて世話をする雛に興味津々なのだろう。
 なぜか柊夜さんは、きつい声音で命令する。
「悠。パパに雛を見せなさい」
「ばぶ」
 顔を上げた悠は、私たちになにかを教えるように巣箱を指差した。
 そっとタオルを剥いで、中を覗く。
 雛は丸い体をじっとさせて座っていた。
 犬猫とは違い、眠るときでも鳥は体を横たえたりはしない。鳥が横倒しになっているということは死ぬときなのだ。あのときの雛は瀕死だったのだと改めて思う。
 雛の状態は良好のようだ。お粥を食べてくれたので、体力を回復させているところではないだろうか。
 ほっとしたが、雛の頭がうっすらと橙色に変わっていることに気がつく。
「あれ……? もう毛が生え替わったのかな。体も保護したときより大きくなった気がするし、やっぱりこの子はすごいあやかしなのかも」
 声を弾ませる私に対し、柊夜さんは怪訝に双眸を細める。
 雛を見下ろした彼は淡々とした声音で訊ねた。
「瀕死の雛に悠が手を触れさせたとき、淡い光を発したと言ったな?」
「はい。でも、悠が触れたからというより、たまたまさわったときに雛が光ったんです。悠が邪魔しようとしたわけじゃないですよ」
 悠は雛をじっと見つめている。雛は小さな瞳を、ぱちぱちと瞬かせた。
 わずかな沈黙が室内に流れる。
 柊夜さんが、突然衝撃的な言葉を発した。
「あかり。この雛は、すでに死んでいたはずだった」
 私は、ぱちりと瞬きをひとつした。目の前の小さな雛のように。
 柊夜さんがなにを言おうとしているのか、わからなかった。
 この子はこうして生きているのに、なぜ死を持ちだすのだろう。
「そう……かもしれませんね。でも、この子の能力で生き返ったんですよ。だって不思議な光を発してから、ここまで元気になったんですから。もしかしたら正体は鳳凰だとか、すごいあやかしだったりするんじゃ……」
「コマドリだ。わずかに妖気が感じられる。おそらくあやかしの子孫だろうが、蘇生するような特別な能力はない」
 すべてを否定する険しさに、私の顔から笑みが抜け落ちる。
 希望を粉々に砕かれた気がして、ぽっかりと胸に穴が空いた。
「え……でも……」
「雛を生き返らせたのは、悠の能力によるものだと考えられる。悠は神気の量が尋常ではない。雛自身が光ったのではなく、悠の手から光が発せられたんじゃないか?」
 思い返してみると、そうだったかもしれない。
 自転車で帰宅するときも悠はずっと雛を抱いて、淡い光がこぼれていた。
「だとしたら……悠には人間とは違う、特殊な能力があるということですか?」
 自分で口にして、なにを言っているのだろうと思った。
 私の夫は鬼なのだ。
 彼との間に産まれた子がふつうの人間ではないことくらい、容易に想像できた。一般的な家庭には起こらない問題が生じることも、覚悟していたつもりだった。
 けれどあまりにも日々の暮らしが平穏で満たされていたので、この幸せがずっと続くのだと勘違いをしていた。
 冷たい月のように冷徹な柊夜さんの容貌を真正面から見た私は、今の疑問を発したことにより、彼の心の奥底を傷つけたことを察した。
 こうなることを承知で俺との子を産んだのだろうと、眼差しは語っていた。
 だが柊夜さんは私の失言を責めることはしなかった。
「……治癒能力と推察される。俺も子どもの頃から五芒星を作り、青白い光を発してあらゆることができていた。物を破壊はしても、回復させることはできなかったけれどね」
 私の背筋が震えた。
 悠は、柊夜さんでさえも持たない大きな力を備えているのだろうか。まだ小さくて、意思の疎通も覚束ないほどなのに。
 そういえば、悠は度々物に触れていた。あれはなんにでも興味を持った赤子がやることだと捉えていたけれど、もしかして、本能的に能力を試そうとして行っていたのか。
「あうー」
 先ほどもそうしていたように、悠は雛に向かって手をかざす。
 咄嗟に私は鋭い声を発した。
「ダメッ!」
 びくっと体を跳ねさせた悠は硬直した。
 驚いた顔が、みるみるうちにゆがむ。
「うぎゃああああぁ……」
 盛大に泣きだしてしまった。
 どうしよう。泣かせるつもりじゃなかったのに。
 上向いて口を開け、大泣きしている悠を柊夜さんは抱き上げた。
「あかり。今日は休むんだ。悠は俺が寝かしつける」
「……はい」
 子どもに重大な問題が生じたとき、親はどういった対応を取ればいいのだろう。
 悠の将来は、どうなってしまうのだろう。
 なにが正解なのかわからない。
 考えるほど気分が滅入ってしまう。
 私は泣きわめく悠を柊夜さんに任せて寝室へ入った。
 扉の向こうからは、まだ悠の泣き声が聞こえている。柊夜さんがあやすように、何事かを話しかけている低い声音が耳に届いた。
 うまくいかないときは多々あった。
 悠の歯が月齢に達していても、なかなか生えてこなかったとき。私の頭痛がひどいのに悠がぐずっていて、そんなときに柊夜さんの帰りが遅いとき。くだらないことで柊夜さんが私を悪者にしてケンカになったとき。
 そんなときはいつも、『柊夜さんのせいだ』と心の中で決めつけてしまう。
 今だって、柊夜さんが雛の能力を否定したからこうなった。
 私が妊娠した当初、上司である柊夜さんに騙されて孕まされたのだとしていた。形としてはそうなっていた。
 卑怯にも私は問題が起こると、すべての原因を作った柊夜さんを密かに責めているのだ。
 そして、“交際していなかったから”“結婚式をしていなかったから”というコンプレックスへ辿り着き、そこから抜けだせなくなる。
 でもそれが、私の勝手な言い分だとわかってもいた。
 私たちは想いを通じ合わせて、悠を無事に出産することができたのだ。それ以上の幸福なんてあるだろうか。
 柊夜さんにはとても感謝している。おひとりさまだった私に彼が声をかけてくれなければ、きっと私は生涯孤独な人生を送っただろう。
 そう思っているはずなのに、過程を投げ捨て、事の始まりを作った柊夜さんにすべての責任があるかのように恨んでしまう自分の卑しさが情けない。
 寝室に立ち尽くした私は、あふれる涙を流し続けた。
 雛に特別な能力がなく、ただのコマドリだと指摘されて、それを私の出自と重ね合わせてしまったのかもしれない。だから私のことを否定されたような気になった。そんなことは私の勝手な思い込みなのに。
 気がつくと、悠の泣き声はやんでいた。柊夜さんがミルクを飲ませて寝かしつけたようだ。 
 ややあって、静かに扉が開かれる。
「休んでいなかったのか。悠はリビングに寝かせた。あとでこちらに連れてこよう」
「柊夜さん……私って、だめな母親ですね……」
「そんなことはない。きみはよくやってくれている。悠とふたりきりでいる時間も長いから、育児で疲れているだろう。明日は土曜で会社も保育園も休みだ。ゆっくり休暇を取るといい。俺と悠は、あの雛を親元に帰してくる」
 ポケットからハンカチを取りだした柊夜さんは、泣いている悠にそうするように、私の顔を拭った。
 なんの匂いもしない無地のハンカチは、初めて私たちが体を重ねた夜に借りたハンカチだった。
「雛を、巣に戻せますか……?」
「親らしきコマドリが顔を見せたんだろう? 子は親元に帰すべきだ。雛の体力も回復したようだし、明日には巣に戻れる」
「そうですね。悠は……あの子を救ったということですよね」
「ああ、そうだ。命を救うという、とても尊い行いを彼はしたんだ。明日は悠の手で、雛を帰してあげよう」
 柊夜さんと交わす言葉のひとつひとつが、絆となっていく。
 私は悠の将来を憂えたけれど、悪いことばかりではないのだ。彼が成長する過程で、丁寧に教えていけばいいのだと、柊夜さんと落ち着いて話すことにより認識できた。
「柊夜さん、ごめんなさい……」
 謝罪すると、彼は眉をひそめた。
「なぜ謝るんだ? 謝るより、『愛している』と言ってくれ」
「……今は謝りたい気分だったんです」
 また、愛していると言わせるための無限ループに陥ってしまいそうなので、身を寄せてくる柊夜さんの強靱な胸に手をつく。
 そんなささやかな抵抗などものともせず、私の旦那様は精悍な顔を傾けると、唇を重ね合わせた。



 翌日、私たちは雛を保護した林へ向かった。
 柊夜さんは私を休ませるため、悠とふたりで行くと言っていたけれど、私も同行することにした。
 一晩とはいえ面倒を見た雛が、無事に巣に戻るところを見届けたい。それになにより、家族と一緒にいたかったから。
 河原沿いの遊歩道は晩秋にもかかわらず温かな陽射しが降り注ぎ、ぽかぽかして心地よい。寒くないようにと、悠に厚手のベストを着せたけれど、あとで暑がってしまうかも。
 柊夜さんの押しているベビーカーを覗くと、悠は雛の入った巣箱をしっかりと抱えていた。
 すっかり元気になった雛は朝から鳴いていたので、もしかすると早く巣に帰りたいのかもしれない。
「あそこです。あの木の上に巣があるのを見たんです」
 私が林の一角を指し示すと、雛は同意するように「ピィ」と鳴いた。
 すると、その鳴き声に呼ばれた一羽のコマドリが、木々の隙間から顔を見せる。
 昨日と同じ鳥だ。あのコマドリが、この子の親だろう。
 きっと落下した雛を私たちが触れたので、どうすることもできずに困っていたのではないだろうか。
「あのコマドリだわ。雛が心配になって、出てきてくれたんですよ」
 はしゃいだ声をあげた私は樹木へ近づいた。
 柊夜さんはベビーカーをとめると、悠とともに巣箱を取りだす。
 仁王立ちになった悠は奮起するかのように木の上を見上げて、小さなてのひらに乗せた雛を捧げた。
「ばぶっ」
 まるで、子を帰しに来たと言っているようだ。
 もしかしたら悠は雛を手放したくなくて泣いてしまうかもという考えが頭を掠めていたけれど、雛をおうちに帰そうと思っていてくれたことに、心が温まる。
 だが、そんな私の心を冷淡な台詞が容赦なく踏みにじった。
「なにか、ご用でしょうか? 鬼神さま」
 女性のものと思しき声が迷惑そうに吐かれた。
 周囲には誰もいない。声の主は、枝にとまってこちらを見下ろしているコマドリだった。
 柊夜さんの指摘通り、コマドリたちはあやかしか、その子孫なので言葉を話すのだ。彼女は鬼神の存在も理解しているようである。私にも声が聞こえているのは柊夜さんが傍にいるせいなのかもしれない。
「おまえが、この雛の親か? 昨日は死にかけていたようだが、回復したので帰しに来た」
「まあ……帰さなくてけっこうです。それはひどく小さくて、能力も低いようなのでいりません」
 情のかけらもない返答に、私たちは沈黙した。
 ずしりと石を詰め込まれたように胸が痞えて、呼吸ができなかった。
 コマドリはなにを言っているのだろう。
 この子が、期待通りの子どもではなかったから、いらないというのだろうか。だから昨日も見下ろしているだけで、なにもしなかったのか。
 なにかの間違いであってほしいと願いつつ、私はおずおずと言葉をかけた。
「あの……この子は昨日より、少し大きくなったんですよ。ほら、ここにあなたと同じ橙色の毛が生えているでしょう? きっと成長も早いはずです」
 しかしコマドリは、つんとくちばしを背けた。
 雛は黙って木の上の親鳥を見つめている。その黒い瞳は瞬きすらしなかった。
「わたしの子ではありません。ほかの子たちはみな巣立ちましたから。わたしの子なら、こんなにいつまでも貧弱なままのはずがありませんよ」
「だから巣から落としたのか?」
 柊夜さんの厳しい声音に、はっとした私は彼の顔を見た。
 次に、ひたむきにコマドリを見上げている悠と、彼の手の中にいる雛におそるおそる目を向ける。
 小さなふたりも聞いているのに、陰惨な事実を浮き彫りにしてほしくない。
 コマドリに、どうか否定してほしい。
 けれど、そう願う私の想いは虚しく空を切った。
「なにか証拠でもあるんですか?」
「証拠はないが、今のおまえの証言から、雛がおまえの子であることは明白だろう。親ならばどんな子どもでも愛するべきではないのか」
 突如、コマドリは金切り声のような鳴き声を響かせた。柊夜さんの言い分に腹を立てたようだ。
 ばさりと羽をはばたかせ、飛び立っていってしまう。
 呆然として去っていく姿を見ていた私は、親鳥が雛への責任をすべて放棄して、逃げたことに気がついた。
 川面の向こうに消えていく親鳥を目で追った雛は、「ピー……」と寂しげに鳴いた。
 私の胸にやりきれない憤りが込み上げる。
 許せなかった。自分が産んだ子どもを愛せない親がいるなんて、信じたくなかった。
 私自身が両親と縁遠く、愛情を受けられなかったので、なお責任感のない親を許せない思いが強かった。
「ひどい……」
 拳を震わせる私に、柊夜さんは冷静に説いた。
「野生の者たちは子孫を残すことに対して時に非情なのだ」
「それでも、ひどすぎます! 子どもが聞いているのに、あんなにはっきり言うなんて。子どもの気持ちはどうなるんですか」
「正論をぶつけた俺も悪かった。説得してどうにかなる親ではなかったようだな」
 あの親鳥は、雛を自分の子と認めなかった。それどころか、子どもの死を望んだのだ。育てにくいという理由で。
 私も親として、ふつうの子とは違う子どもの将来に不安を覚える気持ちはわかる。
 けれど、コマドリは無慈悲に子を捨てた。そこに葛藤があってほしかった。事情があったのだと、せめて子どもに納得してもらうために。
「ばぶぅ……」
 雛を抱きしめた悠は、守るように顔を伏せる。
 そんな悠の傍に膝をついた柊夜さんは、彼に言い聞かせた。
「悠、よく聞きなさい」
「あう」
「雛は巣に戻せなくなった。この雛の命をつないだのは、おまえだ。その責任を取らなければならない。わかるか」
 一歳の悠に難しいことを言っても、理解できるわけがない。
 悠は不思議そうな顔をして父親の顔を見つめた。
「雛が死ぬまで、おまえが責任を持って世話をするんだ。できるか?」
「ん」
 表情を引きしめた悠は、ぎゅっと雛を抱きしめる。
 どうやら、雛を巣に戻せないこと、うちで飼うしかないことがわかったらしい。
 この子を放置するなんてできない。私たちが拾ったのだから、命に責任を持つのは当然のことだ。
「この子は、うちの子にしましょう。私も世話を手伝いますね」
 死ぬはずだった雛が生きられたのは、きっとこの子が生きる運命を持っているから。
 たとえ親に愛されなくても、いずれ誰かと愛し合うことができる。私がそうであったように。
 特別な力がなくてもいい。
 誰かを愛するという、ごく当たり前の優しさを持っていたら、それでいい。
 林をあとにした私たちは、帰途に着いた。
「この子の名前を考えてあげないといけませんね」
「あやかしの血を継いでいるから、夜叉のしもべらしい名前にするか。“コマ”はどうだろう」
「どこが夜叉のしもべらしい名前なんでしょう……。コマドリの頭文字を取っただけですよね」
 柊夜さんのセンスのなさに笑いがこぼれる。
 今日から夜叉のしもべとなった雛はまるで賛成するかのように、「ピ」と鳴いた。
「こいつも、コマでいいと言っている。よい名前だろう。なあ、悠」
「ばぶ」
 守るようにコマを抱いてベビーカーに乗っている悠に、私は微笑をこぼす。
 雛の名は、コマに決まった。
 我が子が、優しい心を持っていてよかった。
 心からの安堵を覚え、新たな家族が増えたことに喜びを感じた。
 新たな家族――。
 私の脳裏をふと、とあることがよぎる。
 まだ月経は訪れていない。病院へ行ってみようかと思っては、日常の忙しさに紛れてしまい、後回しになっている。
 どうしよう。やはり、はっきりさせたほうがいいのだろうか。
 悩んでいると、ベビーカーを押していた柊夜さんがさりげなく声をかけてきた。
「そういえば、あかりにプレゼントしたいものがある」
「え……私のものはいいですよ。服とか靴とか、悠のを買ってあげてください」
 独身のときとは異なり、買い物に行っても自分のものより、つい子どもの衣装を購入してしまう。育ち盛りなのですぐにサイズが変わるから、一歳児の服はシーズンが終わったら着られなくなってしまうのだ。
 悠は男の子なのでまだキャラクターのトレーナーくらいで済んでいるが、もし女の子だったなら、フリルやレースをふんだんに用いたお姫様のような衣装で着飾らせたかもしれない。
 もし、次の子が、女の子だったなら……。
 なにも知らない柊夜さんは、ゆったりとした笑みを浮かべた。
「まあ、そのうちという話だ」
「無駄遣いしないでくださいね。すぐに必要なのは、コマの止まり木ですよ。鳥籠を家にしたほうがいいのかしら」
「そうだな。まずは鳥籠を購入しようか」
 話しながら住宅街を歩いていると、とあるものが私の目にとまる。
 柘植の陰からこちらを見ているのは、灰色の毛をした子犬だった。
 鋭い目つきの子犬の眼差しに、なんらかの意図がある気がして、首をかしげる。
 だが、私たちが柘植の傍を通りかかると、すっと子犬は隠れた。
 夕陽を溶かしたような黄金色の、珍しい瞳の色をした子犬だった。
 この家で飼っている犬なのだろう。
 視線を移した私は、すぐにその子犬のことを忘れた。



 さっそく購入した鳥籠がリビングの隅に置かれることになったけれど、コマはまだ雛なので、しばらくは空き箱で作成した巣箱が家になるようだ。
 悠は疲れたのか、ぐっすりと布団で寝入っている。
 バンザイしている腕のすぐ傍に、コマは小さな体を丸くして眠っていた。
 自ら巣箱から出て、悠のとなりに寝ているのだ。
 こんなに小さな生き物なのに、悠が恩人だとわかったのだろうか。今日あったことを思い返すと、切なくなってしまう。
 親に見捨てられたコマが寂しい思いをしないよう、悠とともに愛情を持って育てよう。私はそう心に決めた。
 ふたりの寝顔を見ていると、柊夜さんが私の後ろから覗き込んできた。
「悠は、命を守ることの尊さを学べたのではないだろうか。“治癒の手”を持つ者にふさわしい経験をしたのではないかと俺は思う」
 悠の能力は、“治癒の手”という名称がつけられた。
 死にかけた生物すら治癒できるという素晴らしい力だ。
 クオーターなので、これまでの鬼神とは違った方向性の能力が顕現したのかもしれない。
 我が子がすごい才能を持って生まれたことは喜ばしいのだけれど、親としては不安もともなう。
「……私は柊夜さんみたいに大きなスケールで考えられないです。悠の能力が知れ渡って、悪いことに利用されたらどうしようとか、今から心配ですよ」
「大丈夫だ。俺たちが悠にきちんと向き合っていけば、この能力を正しく使えるだろう。コマを救ったようにな」
 私の肩に手を置いた柊夜さんは、優しい声音でそう言ってくれた。
 ふと、私は胸に湧いた想いをつぶやく。