ちゅうりっぷ組の扉をそっと開けた私は、室内へ向かって声をかけた。
「お世話様です。鬼山悠です」
「悠くん、お迎えでーす」
 先生の明るい声が室内に響き渡る。
 ジョイントマットをしきりに手で触れていた悠は、くるりとこちらを向く。
 先生の声につられて、ほかの子もいっせいにこちらを向いた。自分の親ではないか、みんな逐一確認するのだ。
 保育所に預けられた子どもたちは親と離れる寂しさに耐えているので、お迎えを心待ちにしているのである。
 それも小さいうちだけという話なんだけどね。
「あぶうぅ」
 小さな足で駆けてきた悠は、両手を掲げてバンザイをした。
 抱っこの合図に応え、私は悠を抱き上げる。
 温かくて重みのある悠の体が腕の中に収まる感触に、ほっとした。数時間離れていただけなのに、深い安堵を覚えるのはなぜだろう。
「いい子にしてた? 悠はもう泣かなくなったのね」
 入園したての頃は私が先生に預けて去ろうとすると、「ふえぇ」と涙目になっていたものだ。そして夕方になり迎えに行くと、睫毛を涙で濡らしつつ、怒った声をあげていたのである。
 けれどそれも数日のことで、ひと月が経過した今ではすっかり園に慣れたようだ。
「悠くんはとってもおりこうさんでしたよ。今日はたくさんお昼寝できたので、午後は元気いっぱいでした」
 歌うように朗々と述べる保育士の先生は、園での様子をつぶさに報告してくれるので安心できた。
 先生に「さようなら」と挨拶し、悠の着替えなどが入ったバッグを持って部屋を出る。
 園の玄関で悠を座らせ、十二センチの小さな靴を下駄箱から取りだす。
 両足に履かせようとすると、悠は靴に、ぺたりと手で触れた。
「う」
「今日はお庭で遊んだの? 楽しかったね」
 まだ小さいので短い時間だけれど、園庭で遊ぶこともある。
 悠はなんにでも興味を持ち、いろんなものに手で触れようとするので、面倒を見ている先生たちも大変だろう。危険なものを子どもにさわらせないよう注意を払うのは、とても神経をすり減らすことだと、自分が親になって初めて知った。
 子育てをしていると苦労も多いけれど、それらは子どもを抱っこしたときの柔らかさや温かな重みですべて昇華された。
 子どもに靴を履かせるというなんでもない日常さえ、たまらない幸福を感じられる。
 そう思うのは、私が寂しい人生を送っていたからなのかな……。
「悠は私の宝物だよ。大好きだよ」
 感極まり、ぎゅっと抱きしめる。
 悠は私とほっぺたとくっつけながら、平然として外に目を向けていた。
 まだママの愛が理解できないようだね……。
 少々恥ずかしくなった私は悠を抱きかかえて玄関を出た。
「ヤシャネコ、いるのよね?」
 小声で囁き、辺りを見回す。
 あやかしの見えなくなった私にヤシャネコの姿は見えず、声も聞こえない。
 けれど変わらず悠と一緒に登園してくれているはずだ。
 ふと悠は私を見て、こう言った。
「なーな、なあ」
「いるの? それならいいけど」
「なあ、なあ、あぶぅ」
 悠にはヤシャネコが見えているわけだが、まだお話しができないので状況がよくわからずもどかしい。
 でも、いてくれると信じよう。
「今日もありがとう。ヤシャネコ」
 小さくつぶやいた私は、悠を自転車のチャイルドシートに乗せてベルトを締めた。
 送り迎えのために購入した自転車は、ハンドルの前方部にチャイルドシートがついている前乗せタイプだ。
 一歳の幼児といえど、体重はすでに九キロほどある。
 生まれたときには三キロあったが、瞬く間に子どもは大きくなっていく。自転車に乗せるときは車体が傾かないよう、いつも緊張する。もう少し大きくなったら、後ろタイプのチャイルドシートに替える予定だ。
「わあ、風がきもちいいね」
 自転車を漕ぐと、爽やかな風が吹き抜けていく。
 保育園から自宅マンションまでの道のりは、河原沿いの遊歩道を通れるので自然の林や川があり、四季の美しい景色を眺めることができた。
 ここを初めて訪れたのは、会社の飲み会の夜だった。雨の中、柊夜さんと手をつないで通ったことを懐かしく思いだす。
 ふと、シートに座っていた悠が顔を上げた。
「あぁうあ」
 彼は手を掲げて、懸命になにかを訴えている。
「どうしたの、悠」
 自転車を止めた私は振り仰いでみたが、そこには木々が立ち並んでいるだけだ。
 木立からは、かすかに鳥の鳴き声が聞こえる。
「あっ……」
 視線を巡らせると、樹木の根元に小さなものが落ちているのを見つけた。かすかに羽を震わせているそれは、鳥の雛らしい。
 自転車から降り、悠をチャイルドシートから下ろす。
 すると悠は落ちている雛めがけて駆けていった。
 私も悠の後ろから、かがんで見てみる。
 小さな灰色の鳥の雛は、きつく目を閉じていた。体を横倒しにして足を投げだし、だらりと広げた羽が震えている。
 この子の命は、もはや尽きようとしているのだった。
「かわいそうに。巣から落ちたのかしら……?」
 見上げると、無数に張り巡らされた枝の狭間に、ひとつの鳥の巣を見つけた。