日没まで段ボールを開けては中身を出す作業を繰り返した。使い慣れたベッドと本棚と学習机を運び込むと、昔はおばあちゃんが使っていたというこの部屋は新しいわたしの部屋になった。
お気に入りの漫画や本は本棚へ。冬物の洋服はクローゼットの奥、夏物の洋服はクローゼットの手前へ。無心に作業に打ち込んでいると、夕飯の前には山と積まれた段ボールは半分くらいになった。このペースなら、夏休みが終わる前には片付くだろう。
夕飯はお父さんとお母さんの希望通り、天ぷら蕎麦だった。お父さんは買ってきたビールまで飲んでいる。天ぷらの香ばしい匂いがツンと食欲を刺激する。海老もイカもかぼちゃも、すごく美味しい。労働の後のご飯は細胞ひとつひとつに栄養分がじわじわ染みわたる。
「懐かしいわね、この部屋から見渡す庭の景色。ヒマワリはもう枯れちゃったけど、コスモスがもう咲いてる」
天ぷら蕎麦を啜りつつ、目を細めて言うお母さんの視線の先でオレンジのコスモスが月明りに照らされ、花を広げている。考えてみれば、ここはお母さんが子どもの頃から育った家なんだ。実家に戻ってきた、という感慨みたいなものがあるのかもしれない。
「この家って、築何年なの?」
わたしが訊くと、んー、とお母さんが頭を捻る。隣で、小鳥のようにちょこちょこと天ぷらを齧っていたおばあちゃんが言う。
「私が子どもの頃からここに住んでたから、築七十年くらいだね。何度もリフォームはしてるけど」
「築七十年!? それって、地震とか大丈夫なの!?」
「大丈夫ではないだろうねぇ」
と、おばあちゃんはカラカラ笑う。顔が引きつってしまったわたしに、お母さんが言葉を継ぐ。
「大丈夫よ、後で本棚とか、大きい家具はお父さんに固定してもらうから」
「そんな事しても、地震で家自体が潰れちゃったら無理じゃない!」
「花音が思ってるより、この家は丈夫だよ。家を守ってくれる神様がいるからねぇ」
おばあちゃんがのんびりと言った。
「家を守ってくれる神様? 何、それ?」
「文字通りの意味だよ。大事に使われてきた古い家には、そこを守ってくれる神様が宿るもんさ」
「ふーん」
半信半疑で相槌を打つ。神様なんて大きな存在がこんな小さな家に棲みつくなんて、そう簡単に信じられるわけがない。いたとしても、せいぜい座敷わらしあたりがいいところだろう。
「花音、食べたらお風呂入っちゃいなさい。もう沸かしてあるし、タオルの準備もしてあるから」
「わかった」
お母さんに言われた通り、食事を済ませるとすぐお風呂に入った。慣れない浴室は、おばあちゃんのために手すりをつけたこともあり手狭だ。でも湯舟は、今まで使っていたものより広い。古い家だけどリフォームされて、ちゃんと追い炊き機能もついている。一見したところでは、築七十年も経っているとは思えない家だ。
パジャマに着替えて自室に戻る。今日はもう、じゅうぶん働いた。頭のてっぺんから足の先っちょまでくたくた。ベッドに寝転がるとずっしり疲労感が襲ってきて、わたしはそのまま目を閉じた。今日はもう、このまま寝てしまおう。荷ほどきの続きは、明日。大丈夫、このペースなら明日と明後日で作業は終わるはず。
電気を消し、タオルケットを身体にかけて目を閉じる。まもなく微睡みがやってきて、夢と現実の境目の中、妙な違和感があった。真っ暗闇の中なのに、誰かにじっと見られているような、変な感じ。
違和感はだんだん大きくなってきて、やがて眠気も吹き飛んだ。目を開けて身体を起こし、辺りを見渡す。当然、誰もいない。ほっとして身体を再び横たえ、目を閉じると、まもなくしてまた違和感を覚えた。変だ。誰もいないはずなのに、誰かがいる。誰かがわたしのことを、じっと見ている。
おばあちゃんの言葉を思い出す。大切に使われてきた古い家には、家を守ってくれる神様が宿る、と。この視線の主は、神様。それとも、もっと低級な、オバケ的なもの……?
「あぁもう!」
怖くて、違和感が鬱陶しくて、わたしは頭まですっぽりタオルケットを被った。眠ろうとしたけれど、暗闇の中の得体の知れない視線はびっちり付き纏って離れてくれなかった。
八月三十一日の朝、貴重な惰眠を貪って九時頃目覚める。くぅー、とベッドの上で伸びをした。ふと、視線を感じる。最初の夜、覚えたあの違和感。
わたし以外誰もいない部屋のはずなのに、たしかに第三者の目がどこからかじっとこちらを見ている。カーテンの隙間が怪しいと思い立ち、さっとカーテンを開けた。秋の初めの元気いっぱいの日差しが部屋をいっぺんに明るくする。
窓の向こうには隣の家があるだけで、窓は閉まっていて誰かの気配はない。外から覗かれている、ということはなさそうだ。
お腹が空いているのに気付き、ちゃんと朝ご飯を食べなきゃな、と思いつつ、ついつい机の上に置きっぱなしにしていた夕べの食べかけのお菓子に手が伸びる。そこでまた違和感が頭を過ぎる。
最後に食べた時より、少し、中身が減っているような気がするんだ。いや、さすがに、そんなことはありえない。たとえこの部屋にオバケが棲みついていようとも、オバケは物理的に何かを食べたりなんてしないんだから。
きっとただの思い過ごし。そう、自分に言い聞かせ、首を振りながらお菓子をひとつ口に放り込んだ。空腹は癒えなかった。
一階に下りて洗面所で顔を洗い、リビングに行くと、おばあちゃんが車椅子に身体をのせ、テレビを観ていた。朝の情報番組は最新のキッチングッズについてテンション高めに報じている。
「おばあちゃん、デイケアは?」
「今日はお休みだよ」
「あ、そっか」
一緒に住むことになったといっても、お父さんもお母さんも仕事でいないから、昼間はおばあちゃん一人。だから週に三回のデイケアと、週に二回の入浴介助サービスを利用することになった。介護ってこんなにお金がかかるのねぇ、とびっくりしたようにお母さんが言っていたことを思い出す。
ダイニングテーブルの上に寝坊した娘のための朝ご飯が用意されていた。オムレツとウインナー、レタスときゅうりとトマトのサラダ。炊飯器にはまだご飯が残っていたけれどパンが食べたくなって、トースターに食パンを入れる。
じいいい、と古いトースターが唸り声を上げる。パンが焼けるまで、することがない。ダイニングルームからは、リビングにいるおばあちゃんの後頭部がよく見える。七対三の割合で白髪と黒髪が混ざった、小さな頭。
「おばあちゃん、この家でオバケって見たことある?」
小さな頭に向かって問いかける。おばあちゃんはテレビに目をやったまま、のんびりと答える。
「ないねぇ。この家でも外でも、オバケなんてものは、この歳まで生きてきてついぞ見たことがないよ」
「そ、か……」
もしこの場にお父さんやお母さんがいたら、花音、高校生にもなって何馬鹿なこと言ってるの、なんて笑われるだろう。おばあちゃんだから、こんな事も素直に話せる。おばあちゃんは昔から、わたしに優しい。どんなに馬鹿らしい事でも、突拍子のない事でも、おばあちゃんなら受け止めてくれる。
「花音は、この家でオバケを見たのかい?」
「見たわけじゃないけど……なんか、そういう得体のしれない何かの存在を、感じるっていうか」
上手く説明できなくて、言葉尻がごにょごにょした。視線を感じるとか、食べかけのお菓子が減ってるかもしれないとか、具体的なことはさすがに言いづらい。
「たしかに古い家だから、何かがいても不思議じゃないねぇ」
おばあちゃんは相変わらず目線はテレビのまま、ゆったりと言う。
「でもそれは、悪いものじゃないよ。むしろ花音や私たちを見守ってくれる、いいものさ」
「それって、この前言ってた神様みたいなもの?」
「そうだね。神様みたいなものだよ」
何の確証もあるわけじゃないのに、わたしより遥かに長い時間を生きてきたおばあちゃんの言葉には重みがあって、すんなり受け入れられた。一人の部屋の中で感じる、正体不明の視線。まだ怖いけれど、おばあちゃんが言うなら、本当にそんなに悪いものじゃないのかもしれない。
チン、とトースターが出来上がりの音を告げた。
夏休み中、ずっと夜更かしして朝の九時か十時に起きる生活をしていたので、新学期は朝からバタついた。スマホにアラームをセットしていたけれど、無意識のうちにスヌーズしてしまって、いつのまにかぎりぎりの時間。
大慌てで顔を洗い、歯を磨き、髪を巻いて軽くメイクをする。眉毛とアイラインとマスカラ。中学生の頃は、メイクなんて一部のおしゃれな子だけがするものだと思ってた。
でも四月から高校に上がって属した今のグループでは、メイクして登校するのは当たり前。本当は面倒臭いけれど、友だちに合わせるためには仕方ない。
「花音―、早く朝ご飯食べちゃわないとバスに乗り遅れるわよ」
「わかってるー!」
半分怒鳴り声で答えながら、下睫毛にもマスカラを塗る。
朝食の席でお父さんが新聞を広げながらコーヒーを飲み、おばあちゃんがヨーグルトを口に運んでいた。お母さんはキッチンとダイニングルームを往復しながら、てきぱきと動いている。
「まったく花音ってば、夏休み中ダラけた生活してるから起きれないのよ」
「わかってる、今日からちゃんとするって」
お母さんの小言を右から左へとスルーし、高速でトーストを齧る。お父さんが新聞をどけ、顔を覗かせた。
「花音は今日から、バス通学か」
「そうだよ」
「学校まで何分かかるんだ?」
「たぶん、五十分くらい」
「そうか。前の家からだったら、電車でたったひと駅だったのにな。高校、遠くなっちゃったな」
「これぐらい、別にいいよ」
同じ町内とはいえ前の家と今の家まではだいぶ距離があるから、通学時間も自然と長くなる。朝はぎりぎりまで寝ていたいからいちばん近いところ! と、安易な理由で決めた高校だけれど、こうなると意味がない。バス停までは歩いて十分くらいかかるから、家を出たらダッシュしなきゃだ。
「花音、急ぎなさいよ。おばあちゃんももうすぐデイケアの車来るから、食べ終わったら早く支度して」
お母さんが洗いものをしながら言う。わたしは言われなくてもわかってるって! と答える代わりに口の中のトーストをほぼ丸のみして牛乳で流し込む。
今の家は町内でも寂れた山間部にあるから、バスは一時間にたった三本。乗り遅れたら遅刻確定だ。ぎりぎりの時間に家を出てバス停まで走ると、幸いにも時間までまだ二分あった。他にバスを待つ人はいない。
定刻通りにやってきたバスに乗り込み、奥の席に座る。バスはゆるゆると走りながら時々停まり、その度に乗客が入れ替わる。朝の時間帯だから、わたしと同じくらいの制服姿の高校生も多い。バスの振動に身を委ねながら、グループラインをチェックする。
里美からも鈴子からも茉奈からもメッセージは来ていない。誰かにメッセージを送る必要さえなければ、スマホを見ている理由もない。スマホをカバンに仕舞って、外の景色を見る。
引っ越した家がある山間部から、景色は徐々に街中のものに移り変わり、住宅街や商店が多くなってくる。終点近くが、高校にいちばん近い停留所だ。
わたしと同じ何人かの制服に続いて、バスを降りる。いつも駅から歩いてたから、バス停からだと通学路が違う。でもこっちの方が、遥かに学校まで近い。朝の陽光に目を細めながら歩いていると、ふうと欠伸が込み上げてきた。やっぱり、ちょっと睡眠不足だ。
「花音―! ひっさしぶりー!」
校門をくぐったところで、後ろから不意打ちに飛びつかれる。声の主は里美。いつもつるんでいるメンバーの一人で、高い位置で括ったポニーテールが目印の快活な子だ。
「里美、久しぶり。夏休み中、全然会えなかったね」
「八月の初めにみんなでプール行ったきりだったっけ? ほんと、久しぶりー! 懐かしいー!」
この子の語尾にはやたらと「―」と「!」がつく。そんなに元気で疲れないのかと思うほど、いつもテンションが高い。
「花音は夏休み中、何してたのー?」
「後半は引っ越しで慌ただしかったからな、その準備ばっかり。部屋、やっと片付いたよ」
「そっかー花音、引っ越したんだっけ。たしか、おばあちゃんが倒れたとかー?」
「そう、脳出血で。それでリハビリしたんだけど上手くいかなくて、今までみたいに一人で住まわせるの不安だからって、うちの家族と一緒に住むことになったの」
「そっか。花音も大変だねー!」
大変、という割にはずいぶん軽い言い方だった。わたしはそうでもないよ、昼間はデイケアもあるし、と薄く笑いながら付け加える。里美に引っ越しや介護の大変さなんて説明したって、わかってもらえるわけない。里美は頭の中身の九十パーセント以上、彼氏とおしゃれで占められてる、そんな子だから。
「花音、里美、おはよー!」
「二人とも久しぶりー!」
教室に入ると既に登校してきていた鈴子と茉奈に迎えられた。机自分のカバンを置いて、いつもの定位置へ。窓際の里美の席の周辺が、休み時間のわたしたちのポジションだ。
「鈴子、どうしたの? 今日の巻き髪、気合入ってんじゃーん!」
里美の言う通り、鈴子のロングヘアはいつもよりボリューミーで、パーマでもかけたみたいだ。えへへ、と鈴子が笑う。
「今日放課後、たっちゃんとデートなんだ」
「おー。いいねぇ。まぁ、あたしも今日は放課後みっくんとデートなんだけどねー!」
「里美も鈴子も、彼氏と仲良くて何よりだね」
そう言う茉奈の声は、心なしか少し冷めている。四月で高校生になった途端、彼氏ができた里美と鈴子は、教室にいてもいつも恋愛の話ばかり。そのことを茉奈は、たぶんあまりよく思ってない。
それでいて時々こんなふうに嫌味ったらしい言葉を吐くから、いつ茉奈がこの平和な雰囲気をぶち破るひと言を発するか、わたしはびくびく警戒している。
「ねー! お陰様であたし、昨日三ヵ月記念日だよー!」
里美が声を大きくする。おぉ、と鈴子が大袈裟な反応をする。
「三ヵ月記念日、何かした? 何か特別なデートとか、プレゼントとか」
「デートはいつも通りだよ、みっくんの家で家デート。プレゼントはあった。このネックレスー!」
と、ブラウスの胸元からちらりと覗くシルバーのハートを満面の笑みで指さす。ハートの真ん中にはピンクの石が光っていて、高校生のお小遣いで買ったものだから大して高いものじゃないんだろうけれど、彼氏と無事三ヵ月記念日を迎えて意気揚々としている里美がつけていると、特別な価値が宿っているように見えた。
「いいなぁー! あたしもそういうの欲しー!」
「鈴子は来月で三ヵ月でしょ? その時、買ってもらっちゃいなよー!」
「えー、あたしからおねだりするのー?」
「いいんだって、遠慮なんかする必要ない! それが彼女の特権! 付き合ってるんだからプレゼントのひとつやふたつ、当たり前でしょ、ね?」
なんて、なぜか彼氏いない歴イコール年齢のわたしと茉奈のほうを見て言う。茉奈はあからさまにムッとした顔をするので、心臓がばくり、とひとつ嫌な鼓動を立てる。
「当たり前かどうかはわからないけど。もらえるものはもらっといた方がいいんじゃないの?」
「そうだよー! プレゼントくれるっていうのは、大事にされてる証拠だと思うし! 里美のそのネックレス、可愛いねー」
茉奈の素っ気ない言葉を慌ててフォローする。幸い、里美も鈴子も気を悪くした様子はなくて、ホッとする。
「でしょ? まぁ、ティファニーのパクリなんだけどねー! それでももらえただけ、嬉しいっていうか。こういうのはお金より愛でしょ、愛―!」
「でもいつか、たっくんに高いものプレゼントしてほしいなぁ。それこそ、ティファニーとか!」
「そ、男から女へのプレゼントと言えばやっぱティファニー! まだ無理だけど、憧れちゃうよねー!」
まだ見ぬティファニーにうっとりと思いを馳せる里美と鈴子を、茉奈は見下したような顔で見つめている。
休み時間の会話は、いつもこんな感じだ。会話の主導権は「彼アリ」の里美と鈴子にあって、「彼ナシ」のわたしと茉奈はそれについていく感じ。恋愛に浮かれている里美たちを茉奈が実はよく思ってないのはわたしには丸わかりで、その事を里美と鈴子に気付かれないよう、精一杯フォローする。
本当の気持ちは、誰にも言えない。
第二次性徴が始まり、女の子同士の人間関係が複雑になり始める小学校の高学年ごろからいつも、こうだった。浮かないように。嫌われないように。ハブられないように。
仲良しグループの中にいても、いつも身体を丸めたハリネズミみたいに神経を尖らせている。友だちから冷たい視線を向けられるのは、わたしにとって死を意味する。それくらい、思春期の女の子同士の人間関係って重要なものだから。
でもそうやって本当の気持ちを偽り、自分に嘘をつき続けていると、いつしか友だちと話すことが楽しみじゃなくて、義務感のようなものになってしまう。ハブられたりいじめられたりして、教室の隅っこで黙々とお弁当を食べる昼食タイムなんてごめんだから、仕方ないんだけど。
里美と鈴子は、そんな事ないんだろうな。いつも自分の言いたい事をばしばし言って、時々ふざけて。でも茉奈は、どうなんだろう? 茉奈は正直、四人でいる事を快く思っていないんじゃないだろうか? 本当はもっと気の許せる相手とつるみたいんじゃないのか。
少なくともわたしは、こんないつでも神経をぴりぴり張りつめさせている人間関係じゃなくて、もっと何でも言い合える親友が欲しい。互いの汚い部分も情けない部分も惜しみなく見せあって、一緒に悩みや不安を共有出来て。一緒にいる事が、いつも心地よくて。
そんな親友、いつか、わたしにできるのかな……?
「やべ、チャイム鳴った」
鈴子が言って、わたしたちはそれぞれの席へと散って行った。やがて担任の先生が入ってきて、朝のホームルームが始まる。
心の表面だけが明るくて、内側はぼんやりくすんでいるいつもの学校生活が戻ってきた。
引っ越してから早くも一週間が経った。
家の中もすっかり片付いて、おばあちゃんの体調に変わりはなく、お父さんとお母さんは毎朝バタバタと仕事に出かけ、わたしも頑張って早起きして登校する。家の中もほとんど片付き、家族が一人増えた他は今までと変わらない当たり前の日常が続く。
ひとつだけ、当たり前じゃないことが変わった。
初日から気付いていた、部屋にいる時のあの違和感だ。
一人でいるのに感じる、誰かからの視線。食べっぱなしにして、いつのまにか減っているお菓子。それどころか、机の上の物の位置が微妙に動いていることさえある。たとえば、読みかけたままページを下にして机に置いた漫画が、いつのまにかきちんと表紙を上にして置かれてあったり。
「お母さん、今日帰ってきてから、わたしの部屋、入った?」
夕飯の支度を手伝いながら、お母さんに訊いてみた。お母さんははぁ、と眉をひそめる。
「入ってないわよ。今日はまだ洗濯物も片付けてないし」
「そう。ならいいんだけど」
「どうかしたの?」
訝しげなお母さんの顔に、どんな言葉を返すべきか迷う。部屋の中で視線を感じる、なんて言っても、気のせいじゃないのと流されるに違いない。
「夕べ、寝る前に漫画読んでて。途中で眠くなったから、読んだところまでページをめくったまま、机の上に置いたんだけど。帰ってきたら、普通に表紙を上にして置いてあったから…..」
「それ、花音の勘違いよ。お母さんは本当に今日は花音の部屋に入ってないし、おばあちゃんは車椅子だから、二階には上がれないでしょう? たぶん、寝ぼけてたか、朝、無意識のうちに元に戻したのよ」
「だといいんだけど……この家、わたしたちの他に誰かが住んでるってことはない?」
「はぁ?」
半ば呆れたような声だった。
「たとえば、屋根裏に誰かが潜んでるとか……おばあちゃんが入院してる間、三ヵ月もこの家、誰も住んでなかったんでしょ? その時、誰かが忍び込んだのかも」
「そんなわけないでしょう。私、この家の中で他の人の足音なんて聞いたことないわよ」
「だから、足音を立てないように普段は屋根裏に潜んでて、誰もいない時にトイレを使ったり、冷蔵庫のものを盗み食いしたり……」
「花音、怖い漫画の読み過ぎよ。冷蔵庫のものが毎日なくなってたら、さすがにお母さんでも気付くわ。そんな馬鹿な話してる暇あったら、手を動かしてちょうだい」
つっけんどんに言って、お母さんはお味噌汁の鍋に味噌を溶いている。
やっぱり、家族以外の誰かがこの家にいるなんてわたしの思い過ごしなんだろうか。もしわたしの想像通り、屋根裏に知らない誰かが潜んでいたら恐怖で卒倒するけれど、たしかに家族四人、誰にも気取られず上手い事他人の家に潜り込むなんて、普通に考えたら不可能だ。
いや、不可能じゃないのかもしれない。たとえばトイレに行く回数を減らすため、食事を最低限に済ませているとしたら。冷蔵庫の中のものを盗み食いなんてしないで、昼間、デイケアでおばあちゃんがいない間、近所の小さな商店で食料を調達しているとしたら。
不可能では、ないんだ。
夕食が済んだ後、自室でスマホを使ってビデオカメラについて調べた。誰もいない昼間の間、部屋の中を撮っておこうと思ったんだ。調べると個人で使える監視カメラのようなものも、いくつか見つかった。でも、どれも値が張る。中古ならどうか、とフリマサイトで検索をかけてみたけれど、中古でもそれなりの値段はする。とても月々三千円のお小遣いじゃ買えない。
スマホを置き、ふうとベッドに横になる。今は、視線は感じない。視線はいつでもあるわけじゃなく、夜寝ようとしている時や、部屋でくつろいでる時、ふっと思い出したように感じるんだ。それがもう一週間も続いている。家族以外の誰かがこの家に潜んでいるとしたら目的は何か。
斬新なアイディアを思いついたホームレス? それとも、家族の誰かを狙っているストーカー? どちらにしろ、怖すぎる。目的がわからないから、怖い。
いや……考えても仕方ないか。
夏休み中は夜の一時や二時まで起きていたわたしは、強制的な早起きのお陰で生活リズムが戻り、夜の十時を越えたら眠気が襲ってくるようになった。お風呂は済ませた。宿題もやった。グループラインにメッセージはない。今日はこのまま寝てしまおう。
タオルケットを被って、わたしは微睡みに身を任せた。
「父さん、今日もやっぱ、お菓子置いてあるぜ。この子ほんと、これ好きだよな。まぁ、俺も好きなんだけど」
「シンバ、欲張るな。せいぜい三個ぐらいにしとけ。それ以上減ってたら怪しまれるぞ」
「大丈夫だって。俺らがいるなんて、絶対わかんねぇよ」
意識が夢と現実の境界線を彷徨っていて、夢の続きを見ているんだと思った。でも夢にしては声はくっきりと、鮮明な輪郭で耳に届く。これは夢じゃない、と悟った途端、意識ははっきり覚醒した。
「それにしたって、四個は欲張り過ぎだぞ。それ一個で、三人とも一日食べられちゃうんだから」
「腐るもんじゃないから、これくらい持ってくよ。余ったら俺がおやつに食う」
これはいったい何の会話だろう。部屋の中に誰かがいるのはわかってる。でも減ってたら怪しまれるとか、三人とも一日分食べられちゃうとか、どういうこと? まさかこの家には一人どころか、三人も屋根裏の住人がいるの?
いや、そんなにいたらさすがにお父さんもお母さんも気付くはずだ。この声の主は、いったい……?
「ほら、四個も担いだら歩くのも難儀じゃないか。そんなんじゃ、家に帰れないぞ」
「父さん、一個持って」
「仕方ないなぁ」
どういう意味? この会話は何なの?
わたしはそっと声の方向に顔を向ける。声の主は、机の辺りにいるらしい。でも人の気配らしきものは部屋にまったくない。二人も誰かいたら、さすがに気配でわかるはずだ。それがないってことは、この声の主は……
もしかしたら、人じゃない何か?
「誰かいるの?」
勇気を振り絞って、声を出した。返事はなく、電気を消した真っ暗な部屋の中は静まり返っている。
「誰かいるなら、教えて。返事をして」
やっぱり返事はない。会話をしているってことは、部屋の中には少なくとも二人以上がいる。そして返事がないのはつまり、わたしに存在を知られるのがまずいってことだ。
わたしはばさりとベッドから起き上がり、学習机に走り寄った。机の上でことことと何かが動く音がした。やっぱり、何かいる。テーブルライトの電源に手を伸ばす。
カチッ、とスイッチが音を立て、部屋の中が白い蛍光灯の光に照らされる。暗闇に灯ったその光は、今まさに机から降りようとしていた二人をあかあかと照らし出した。
「――!!」
本当に驚いた時は、声なんて出ない。
わたしの目の前でお菓子を背中に担いでいるのは、ちっちゃな人間だった。二人いた。一人は、お父さんと同い年ぐらいのおじさんの姿をしている。もう一人は、わたしと同い年ぐらいの男の子。二人ともしまった、という顔でこちらを凝視している。
「あなたたちは……誰?」
ようやく喉の底から振り絞った言葉は、それだった。日本語をしゃべってるんだから、こちらの言葉も理解できるはず。でも二人は、じっと固まって緊張感を限界まで上り詰めさせた表情のまま、動こうとしない。
「いったい誰……なの? この家に住んでいるの?」
わたしが出す声も、震えている。この人たちは、何なのか。幽霊? オバケ? でも、夜中に人間の食べ物を盗んでいく、こんなに人に近い形の――いや、まるきり人型の――オバケがいるなんて聞いたことない。
わたしが今見ているものは、いったい何なのか。
「見つかっちまったもんはしょうがないな」
男の子の方がふう、と肩を落として言った。意志の強さを表すような、しっかりと芯の通ったテノールの声だった。
「俺はシンバ。この人は父さん。あともう一人、母さんがいる。この家に住んでる、小人だ」
「小人……?」
シンバと名乗った男の子はこくりと頷き、おじさんの方はやれやれ、といった調子でため息をついた。
小人にお茶を出す日が来るなんて、誰が想像できるだろう。
とりあえず二人に敵意はないことはわかったので、詳しい事情を聴くため、逃げないで、そのままテーブルの上にいて、と引き留めた。警戒心を解いてもらうため、咄嗟に、飲み物持ってきます、と言って部屋を出た。
一階に下りてキッチンで自分の分の麦茶を注ぎ、さて小人二人の分はどうしようかと思い悩む。お母さんが引っ越して真っ先に片付けた食器棚の隅っこに、おちょこを見つけた。ちょうど二つある。
「これ、俺の分? それでも相当でかいんだけど」
「シンバ、文句言うな。ありがとうね、お嬢さん」
二人は自分の身体の半分ほどもあるおちょこを持ち上げて、ごくごく、麦茶を飲んだ。それにしても、小さい。たぶん十五センチか、二十センチくらいしかない。小人なんて、子どもが読む絵本や童話の世界にしかいないものだと思ってた。
小学校の時図書室で小人が出てくる本を見つけた時は、夢中で読んだっけ。あまんきみこさんの本だった。とても面白い本だったけど、でも本の中の世界が、現実になってしまうなんて。
やっぱり夢を見ているのかと思い、頬をつねる。普通に、痛い。
「言っとくけど、夢じゃないぞ」
シンバが鋭い声を出した。
「お前が見ているものは、間違いなく現実だ。俺たち家族はじいちゃんの代から七十年、この家の屋根裏、ちょうどお前の部屋の真上あたりで生活している」
「あなたたちは……本当に小人なの?」
「お嬢さん、信じられないかもしれないけれど、本当にいるんだ」
シンバのお父さんが何かを観念したような声を出した。
「今では小人は、子どもが読む本の中の登場人物でしかないだろう? でも人類の歴史を遡ると、遥か昔から、人間が地球に登場したのと同時期に、小人も存在している。昔は、いい時代だった。
人間は小人に狩りで獲った食料を与え、小人はありがたくそれを頂戴していた。人間と同時に、宴を囲むこともあったーーでも人間たちが高度な文明を築き、人間の生活が便利になっていくにつれて、人間は小人を忌み嫌うようになった」
「それは、どうして……?」
シンバのお父さんは、俯いたまま語り続ける。
「人間は自分の生活が豊かになるにつれて、ケチになっていったんだよ。小人に分け与えるわずかな食糧さえ、惜しむようになった。ひいては自分の家に棲みつき生活する小人を、邪魔者扱いした。生活が便利になると、心が貧しくなるのかもしれないね。
しかし人間に依存しないと、人間より遥かに非力な私たちは生きていくことができない。次第に小人たちは人間に姿を隠し、人間に気取られないようにひっそりと人間の家に住みついて生きるようになった。人間と宴を囲むことは、なくなった」
「あの……じゃあ、あなたたちみたいな人は、どの家にもいるんですか?」
シンバのお父さんが弱弱しく首を振る。
「人間が飢餓や戦争や、凄惨な歴史を繰り返すと共に、小人の数も減っていった。今や絶滅危惧種で、地球上から存在すら危うい立場にある。だから小人が住む家は、珍しいよ。今どきのアパートやマンションにはまず住めないしね。小人が住む家は、だいたいこの家ぐらい、古い家だ。その家から生活に必要なものを『借り』て、日々つつましく過ごしている」
「――事情はわかりました」
わかったと口にしてはみても、本当まだ半分も飲み込めていない。これは現実だっていくら厳しく言われたって、まだ夢を見ているみたいに思ってしまう。おとぎ話の設定をこれから受け入れてくれといきなり言われたところで、うんと首を縦に振れるほど、わたしは純真無垢な子どもじゃない。もう高校生なんだ。小人なんて絵本の中にしかいないって、そう思い込んで生きてきた。それが、当たり前のことだから。
でも、シンバもシンバのお父さんもひどく張りつめた表情をしていて、その言葉に嘘はないと信じられた。七十年この家に住み続け、その存在を隠していた小人たちが、こうして人間を前にして、切実に自らの不遇な境遇を訴える。少なくとも二人は、悪い人じゃない。やむにやまれぬ事情があって、こっそり生き続けて来ただけだ。
「それで、お嬢さん。こちらの事情を話した上で、あなたにお願いがあるんだが……」
「なんですか?」
「俺たちを見たこと、誰にも言わないでほしいんだ」
シンバが強い口調で言う。よく見るとシンバの顔はくっきりと彫りが深く、まるで外国人みたいだ。小人のルーツは、外国にあるのかもしれない。
「小人の世界では昔から、ひとつ守らなければいけない掟がある。人間に見られてはいけない、って。弱い俺たちを守るための掟だった。だからお前に姿を見られた以上、俺たちは本当はこの家にいてはいけない」
「引っ越すの?」
「それも大変だ。さっき父さんが言ったけど、俺たちはどの家にも住めるってわけじゃないから。だからこれからも、俺たちはここにいたい。お前が家族にも友だちにも俺たちの存在を明らかにしなければ、俺たちはこれからもこの家に居続けられる。すべてはお前に懸かってるんだ」
シンバの口調は、切実だった。シンバのお父さんがぐい、とシンバの後頭部に手をやり頭を下げさせ、自分も頭を下げる。
「私からも頼む。お願いだ。私たちを見たこと、誰にも言わないでほしい」
頭を下げる、二人の小人。このお願いは、シンバ一家の運命が懸かった大きなものだ。
しばらく、間があった。テーブルライトだけを点けた薄闇の部屋に、時計の秒針がちく、たく、と時を刻む音だけがやたら大きく響く。
「……わかりました」
ほっとした顔で、二人が頭を上げる。シンバに至っては、唇の両側がうっすら持ち上がっていた。
「あなたたちはわたしたち家族に危害を加えるわけじゃない。必要なものを少しだけ『借り』て生活してるんですよね? それならわたしに、あなたたちの存在を拒む理由はありません。どうぞ今までどおり、屋根裏で暮らし続けてください」
「ありがとう……お嬢さん」
「お前、話のわかる奴だな!」
「シンバ、お嬢さんに失礼だろ。奴とか言っちゃ」
シンバがお父さんに頭を小突かれている。そんな姿は思春期のやんちゃな子どもに手を焼く親子そのもので、わたしたち人間とまったく変わりないように見えた。
小人は身体が小さいだけで、心は人間と同じなんだ。
「お前、名前なんて言うんだ? 最近は人間の世界では、キラキラネームだのDQNネームだの、流行ってるんだろ? お前も変な名前なのか?」
「何それ、失礼ね、あなた……たしかにわたしの名前、ちょっと響きは外国人っぽいけど、DQNネームっていうほど変わってないよ。同級生には読めないような名前の子もいるんだから」
「へー、なんて名前だ?」
「花音。荒川花音。花に音って書いて、花音って読むの。死んだおじいちゃんがつけてくれた」
「年寄りが考えたにしては、イケてる名前じゃねぇか。これからよろしくな! 花音! 俺、花音がほとんど毎日食べてるそのお菓子、結構好きなんだよ。明日からも借りてくから!」
「好きにしていいよ、シンバ」
シンバが小さい手を出して、小指を出した。爪の先ほどの、ちっちゃな小指だった。
「とにかく、俺たちのことは絶対に誰にも言うなよ! 指切りげんまん!」
「指切りげんまんって。シンバ、歳は見たところわたしと同じくらいなのに、発想が子どもっぽいね」
「うっせーよ! 早くしよーぜ! 指切り!」
せがむシンバのちっちゃな指に、わたしは自分の小指をそっとあてた。
初めて触った小人の身体の小さな小さな一部分は、やわらかかった。
スマホのアラームの無機質な音が、眠りの世界からわたしを強制的に引きずり出す。直前まで見ていた夢の記憶が、あっという間にばらばらになって頭の後ろに砕ける。まだ眠い。五分だけスヌーズして、このまま眠ってしまいたい。まだ身体じゅうに眠気がびっしり詰まっていて、ベッドから這い出したくない。五分だけなら。そう、たったの五分。
スマホに伸ばした手を、思いっきり誰かにはたかれる。
「起きろよ! 花音! 遅刻するぞ!」
どこか楽しそうな声に眠気のせいで重たい身体をむくりと持ち上げると、枕元にシンバがいた。朝が来たことを心から喜んでいるかのように、顔全体が輝いている。
「さっさと起きて支度しろよ! 人間の子どもは、学校ってやつに行くんだろ?」
「うるさいから、朝から騒がないでよ……シンバ。耳がキンキンする」
シンバのはしゃぎ声が寝起きでまだ上手く働かない耳を容赦なくひっかく。小人の声帯って、いったいどうなってるんだろう。身体の割に、声が大きい。
ようやくベッドから身体を起こして、改めて枕元にちょこんと立っているシンバを見やる。まず間違いなく、小人だ。小さい頃童話の中で読んだ小人の姿と、そっくりそのまま。
夕べテーブルで麦茶を一緒に飲み、話したのは、夢じゃなかったんだ。
「花音、夢じゃなかった、って今思ってるだろ?」
「……なんでわかるの」
「顔でわかるよ。残念でしたー! 俺たち小人は、まぎれもなく現実にいるんだぜ! ほら、こんなちっちゃえ身体でもここまでジャンプできる!」
と、ぴょんぴょん、ベッドの上でトランポリンみたく撥ねてみせる。十回ぐらい跳ねたところで、バランスを崩してうぉ、と着地に失敗してお尻をついた。思わずぷ、と笑ってしまう。シンバが露骨に顔をしかめる。
「何笑ってんだよ、花音」
「ううん。話し相手ができて、嬉しいなって思っただけ」
こうして、わたしとシンバたちとの共同生活が始まった。
第三章親友は小人
「目が悪いわけでもないのにコンタクトレンズつけるなんて、人間も馬鹿げたこと考えるもんだよな」
「馬鹿げたことじゃないよ。カラコンつけると、目が大きく見えるんだもん。ほら、ちょっと違うでしょ?」
「まぁ、本当にちょっとだけだけどな。でも学校に行くために、なんで毎日化粧したり髪の毛巻いたり、そんなにおしゃれが必要なんだよ」
「わたしたちのグループでは、メイクも巻き髪も常識だから。すっぴんで学校に行ったら、女が見た目に手抜いちゃ駄目だよ、とか言われる」
「面倒臭いんだな。人間のグループって」
いつもは心の内側に隠してる本当の気持ちを、シンバはずばりと言い当てる。それはちょっとドキリとするけれど、でも共感してくれるのがほんのり嬉しい。
シンバと出会ってから、今日で四日目。わたしたちは朝のひと時や、学校に帰ってから、そして寝る前も、いろんなことを語り合う仲になった。
どうもシンバは初めて喋る人間の女の子に興味を示したようで、学校という場所はどういうところなのか、ここは田舎だけど都会と言われる場所はどんなところなのか、果てはこれから人類はどういう未来を歩むのかまで、いろんなことを知りたがる。わたしには難しい、答えられない質問もあった。でも難しい質問に頭を捻ることすら楽しいほど、わたしとシンバの時間は充実していた。
まだお互いいろいろ知らないことだらけだけど、まるでこれはわたしが自分にも欲しいと望んでいた、親友、と呼べるような関係に近い気がする――。
「ちょっとシンバ、家に帰ってよ。これから着替えるんだから」
「いいじゃん、別に。俺、あっち向いてるから」
「そう言っといて、こっそり振り返ったりするんでしょう」
「何だよ、今さら恥ずかしがるなよ。花音の裸なんて、出会う前から何度も見たから既に知ってるし」
「ばっちり覗いてるじゃない!! シンバのスケベ!」
ち、とシンバは舌打ちをして、すごすごと屋根裏に戻っていく。小人と人間、種族が違うとはいえ、人間の姿をしていて人間の言葉が通じるから、動物のようには思えない。シンバも、それは同じなのかもしれない。
「なぁ花音」
パジャマのボタンを二つ目まで外したところで、斜め上から声が振ってきた。ちょうど押し入れの天袋のところ。そこが、屋根裏への秘密通路に繋がっているらしい。
「帰ったらまた、学校の話聞かせてくれよ。この前花音が言ってた文化祭ってやつとか、すげぇ興味ある」
「いいよ。いくらでも話したげる」
シンバがに、と笑った。笑うとシンバは、猫に似ている。
「じゃ、またな、花音」
「またね、シンバ」
天袋が閉まる音が聞こえる。わたしは着替えを再開する。
こんな非日常な日常が、既に当たり前になりつつあった。
もう五分も、里美と鈴子は二人っきりでしゃべり続けている。茉奈は退屈そうに爪の手入れをしていて、わたしはぼうっと二人の話を聞いていた。
「毎回毎回家デートだと、なんか嫌になるよねー。もう、やる事ひとつしかないっつーの!」
「うちもそう。でもそれは嫌だ、たまには公園をお散歩したりとか、それだけでいいって言ったら、近くの公園ぐるっと散歩して、芝生で二人で昼寝したけど」
「鈴子の彼氏は聴き分けいいねぇ。うちなんて、公園でも人気のないところに連れてかれるよ。公園でヤッてみたい、とか言われてー!」
「えーマジ? 野外プレイー!?」
「ちょっと里美、声でかいよっ」
怒りながら楽しそうに笑う鈴子。まるでここは女子校か、と言わんばかりにこういう話を二人は昼休みの教室であけすけにする。まぁ、廊下では男子がキャッチボールをしてはしゃいでいるし、男女混合グループの方がテンション高いから、誰もわたしたちのことなんて気にしてないんだけど。
「花音と茉奈もさぁ、早く彼氏作んなよ。男がいるって、いいもんだよ」
自分の名前をいきなり呼ばれて、びっくりする。わたしはぼうっとしながら、今日はシンバから小人の話をもっと聞きたいな、なんて思っていた。最近いつも、暇さえあればシンバのことばかり考えている。
「えぇっと……いや、あの、その。わたしにはまだ、そういうの早いっていうか……」
「何言ってんのー、早くないよ? あたしなんて初彼、幼稚園の年少さんだったんだからねー!」
「あたしは小五!」
「それ、何度も聞いたよー」
二人に合わせて笑っていると、茉奈につんつん、肩を叩かれる。
「花音さ、トイレ行かない?」
「うん」
「いってらー!」
トイレに行くまでのうるさい昼休みの廊下で、茉奈は一言もしゃべらなかった。疲れた様子で短いトイレを済ますと、その割には手を丁寧に洗いながらようやく口を開く。
「里美も鈴子も、毎日彼氏の話ばっか。正直疲れた」
「そう……」
「テンション高くてウザ過ぎ」
人の悪口を聞くと、心にペパーミントの香りの風が吹く。とってもいい匂いなのに、ちょっと切ない。
茉奈はわたしと二人きりの時は時々こういう悪口を言うので、その度に悪い事をしている気分になってしまう。
「彼氏なんて、別にいなくてもいいじゃん! 高校生になっても彼氏ができなくて、何が悪いのよ!」
「そう……だよね」
「同盟、作ろう! 花音とあたしは、彼氏いない同盟!」
廊下にも聞こえるような大きな声だったけど、茉奈がちょっと元気になった気がして嬉しかった。
「わかった。わたしも高校生の間は、彼氏作らない」
「セックスもしない?」
「うん。しない」
「やっぱ花音は、話がよくわかるよね」
茉奈はにんまりと笑った。
どうして女の子のグループって、四人グループでも二対二でごちゃごちゃしちゃうんだろう。小学校の時も中学校の時も、ずっとそうだった。
「花音と話したらすっきりしたー! 教室戻ろ!」
茉奈は明るい顔で、教室に戻っていく。わたしはその左側を、黙って歩く。
昼休みはまもなく終わって、午後の授業がやってきた。大好きな古文の授業なのに、全然集中できなかった。
学校は楽しいけれど、時々しんどいことも起こる場所だ。
帰りのバスの中で、男の子がおばあちゃんに席を譲っていた。
優先席に座っている人が寝ていたから、その前の席に座っていた男の子が立った。いいものを見たな、という気分になった。こういうことがあると、バス通学もそんなに悪いものじゃない。
「ただいま」
家に帰ると、入浴介助が終わったおばあちゃんが窓辺で日向ぼっこをしていた。おばあちゃんはこの場所が大好きだ。まるで猫みたい。
「ただいま、シンバ」
部屋に入ると机の上でシンバが漫画を読んでいた。クラスメイトが次から次へとメールで秘密を暴露されていく漫画だ。怖いのは苦手なんだけど、この漫画だけは面白くて、何度も読んでいる。
「この本、めっちゃ面白いな。花音が読んでる漫画はどれもありえない展開の恋愛漫画ばっかりだけど、これはありえない設定なのに面白い」
「犯人、誰だと思う?」
「今推理してるところ。でも俺は、この友だちが怪しいと思うんだよな」
と、真犯人とは違う女の子を指差す。違うんだけど、ネタバレしたら可哀相だから黙っておいた。
「花音はこれから出かけるのか?」
「ううん、宿題やる」
「花音って真面目だよな、毎日勉強して」
「わからないところがあると、わかるところまで知りたくなるの」
「だから成績、良いんだな」
「まぁ、クラスの中の上らへんだけどね。わたし、馬鹿だから」
「中の上は、馬鹿じゃないだろ」
シンバはちょっと難しい言い回しや人間の恋愛事情にも詳しい。シンバによると小人の世界では、十二歳から『借り』を始める。その前はお父さんやお母さんから、人間のことをいろいろ学ぶんだそうだ。小人の世界には、代々伝わる歴史の教科書や人間の世界の教科書、数学の教科書まであるらしい。
「今日もいつものやつ、ある?」
「あるよ。学校の近所のコンビニで買ってきた」
「よっしゃあ」
ガッツポーズをするシンバが可愛くて、思わず口元がにやけてしまう。シンバの大袈裟な仕草が、最近可愛らしくて仕方ない。一人っ子なのにいきなり、弟が出来たみたいな気分だ。
「麦茶持ってくるね」
「オッケー」
階段を下りる足音が軽い。台所で、鼻歌を唄いながら麦茶を飲む。aikoの「桜の時」。
「花音、何かいいことがあったのかい?」
おばあちゃんが日向ぼっこしながらのんびりと聞く。
「学校でいいことがあったんだ」
さすがに、シンバのことはおばあちゃんにも言えない。そういう決まりなんだから。
「そうかい。学校が楽しいのは、いいことだねぇ」
「なんでいいことがあるってわかったの?」
「花音は子どもの頃から、いいことがあると鼻歌を唄うんだよ」
おばあちゃんは、なんでも知ってるなぁ。敵わないなぁ。そんなことを思いつつ、グラスとおちょこを運ぶ。
「うちのおばあちゃん、離れて暮らしても家が近所だから、保育園の頃は毎日迎えに来てくれたんだ。その時は腰も曲がってなくて、元気いっぱいで歳より若く見えたのに」
麦茶を飲みながら、シンバに愚痴る。
「おじいちゃんが亡くなっても、元気だったの。毎日自転車で、二キロかけて買い物に行けるくらい。このへん山道なのに、上り坂も押して歩かないんだよ。でも、脳出血になってからいっぺんに老け込んじゃった」
「怖いんだな、脳出血って」
「脳梗塞よりはマシだけどね。しかも、繰り返すらしいし……」
シンバがちょこん、とわたしの腕に飛び乗った。そのままてくてく肩まで移動して、髪を撫で始める。
「花音の髪は、すべすべできれいだな。いい匂いがする」
「そう?」
「髪を大切にする人は、心のきれいな人だって母さんが言ってた。花音は心がきれいだから、おばあちゃんもきっとまた良くなるよ」
「……ありがとう」
じわり、目の奥が熱くなって涙をこらえる。シンバはいつもは弟みたいなのに、時々お兄さんみたいに、優しくて強い。
冬の海みたいだった心に春の風が吹いた頃、シンバは机の上に戻った。小人の身体には大きなおちょこで、ごくごく麦茶を飲み、ぷはぁー、と元気に息を吐いた。
「学校って、楽しいところなんだろう?」
「うーん、楽しいと言えば楽しいけど。退屈な授業もあるし、面倒くさい人間関係もある。でも文化祭や体育祭は、盛り上がるよ」
「みんなでお祭りするんだろ? 人間の祭りって、一回行ってみたいんだよな」
「うちの文化祭は十月だから、もうちょっと先。来週になったらロングHRで、出し物決める」
「HRって、どんな事を話し合うんだ? いわゆる、学級会だろ?」
「その日によって違うよ、特に変わったことがなければ、すぐに終わっちゃう。うちの学級委員長はしっかりしてるから、特に何もない日は夕べのニュースについてどう思いますか、なんて聞いたりするけど」
「結構難しいこと聞かれたりするのか?」
「戦争はどうしたらなくなるのかとか、ね」
「答えはなんだったんだ?」
「人はそれぞれ、信じてる神様が違うから、って」
「……そうかもしれないないな」
シンバはしばしの間黙り込んで、開け放たれた窓から入ってくる秋の風を感じていた。キンモクセイの甘い香りが、鼻孔をつん、と刺激した。
「なぁ花音、俺も学校に行ってみていい?」
「えぇ!?」
思わず、大きな声が出た。シンバの目がきらきらしてる。
「俺も見てみたいんだ、授業とかHRとか、休み時間とか。話には聞いてるけど、実際どういうもんなのか、この目で見てみたい」
「……どうやって行くの」
「花音の机の中に、ひっそり隠れていればいい。スカートのポケットの中でもいいよ」
「別にいいけど……」
正直、不安だ。他の人間に見られちゃいけないシンバを、学校なんて人だらけの場所に連れて行くなんて。
「お父さんとお母さんに聞いてからにしたら?」
「絶対駄目って言うから、山にどんぐりを取りに行くって伝える。どんぐり集めは、一日中かかるからな」
「お父さんとお母さんに嘘つくの?」
「人間だって親に嘘、つくだろ。小人も同じだよ」
たしかにわたしは、お父さんとお母さんにだいぶ嘘をついている。おばあちゃんにも。学校は楽しい? って言われて、いつも楽しい、って答えてる。本当は楽しくない時も、たくさんあるのに。
「じゃ、明日、俺を花音のカバンに入れてくれよ」
「明日ぁ!?」
いくらなんでも急すぎる。シンバはぴょんぴょん、飛び跳ねる。
「思い立ったら吉日、って言うだろ」
「そりゃそうだけど……」
「なんだ? 花音、そんなに俺と出かけるのが怖いのか?」
「万が一人に見られたら……」
「俺がそんなヘマ、するわけないだろ。万が一見られたとしても、普通の人間は小人の存在自体信じないだろうし」
「ま、そうだけど……」
「じゃ、約束なっ!!」
そう言ってシンバは、可愛らしい右手の小指を突き出した。
第四章
「花音、お弁当入れておくわよ」
「やめてっ!」
トーストを齧りながら大声を出したら、お母さんがぎょっとした顔でこっちを見る。
「カバンの中に学校に入れちゃいけないものでも入れてるの?」
「そうじゃないけど。もう高校生だから、自分でやる」
とってつけたような言い訳をしながらパンを咀嚼し、お母さんに見えないように気を付けながら自分でお弁当を入れる。一瞬だけ見えたシンバは、身じろぎもせず膝を抱えて丸まってた。
「花音はえらいねぇ」
おばあちゃんが褒めてくれる。お母さんもそう、とにっこり笑う。
よかった、なんと誤魔化せた……
学校に小人を持ってきちゃいけない、というありえない校則は、わたしが勝手に作った。
高速で朝ご飯を済ませ、ゆっくりバス停まで歩く。一人になるとさっそくシンバはカバンから出てきて、器用に身体をよじ登り、胸ポケットの中に入った。
「ここらへん、都会よりいい場所だろ」
「うん。あっちからもこっちからも、キンモクセイの香りがぷんぷんするけど」
「俺、キンモクセイって好きだぞ。でも花音、ギンモクセイは知らないだろ」
「何それ」
「ギンモクセイは、白い花が咲くキンモクセイなんだ」
山で『借り』をするシンバは、山のことにすごく詳しかった。食べられる木の実。食べられない木の実。食べられる虫と食べられない虫。汚れた水の浄化の仕方。
「あのおばあちゃん、いつも朝から掃除してるよな」
五軒離れた近所の腰が曲がったおばあちゃんが、掃除をしている。シンバか少し声を落とす。
「働き者で、すごいマメなおばあちゃんなんだ。俺、働き者は好きだぜ」
「わたしも、働き者は好き。うちのおばあちゃんも、朝五時に起きて庭を掃除してた」
「歳とっても元気に身体を動かせるっていいよな。俺もそうなりたい」
そう言って、シンバはひょこっと頭を隠した。
「おはようございます」
「はい、おはよう」
箒の手を止めて、のんびりした声が返ってくる。もう八十歳を超えているだろうけれど、とても優しいおばあちゃんだ。
「またどんぐり狩り、行かなきゃなぁ」
おばあちゃんの家を過ぎると、シンバがまた首をひょっこり出す。
「どんぐりは、日持ちするんだよ。すりつぶして粉にして、パンケーキの材料にする。小人は秋になると、一年分のどんぐりを集めるんだ」
「今度山狩り、シンバと一緒に行きたい。鳩に乗るシンバを見てみたい」
「お前、山なんか登れるのかよ。そんな、棒みたいな脚で」
「体力に自信はないけど、根性はあるよ」
そう言って筋肉も脂肪もない腕でガッツポーズをしてみせると、シンバはにい、と歯を見せて笑った。