今日は勤労感謝の日。大学は休みで、お父さんはゴルフ。お母さんはこの機会だからと、家じゅうにある冬物の洋服の手入れをしている。
わたしは午前中はお母さんを手伝った後、午後、バスに乗って高校一年生の秋、三ヵ月だけ暮らしたあの家を訪れた。鍵はポストの中に隠してある。
電気も水道もガスも通っていない家の中はがらんとしていて、やたらと広く感じた。いつもおばあちゃんが日光浴をしていた、リビングの日当たりのいいカーペットの上にごろんと横になると、西日が目を刺した。
シンバの気配は、どこにもない。
シンバの言うことが本当なら、シンバのお父さんとお母さんも、あの後この家から出て行ってしまったんだろう。
日が落ちる前に、山へ向かう。ちょうど紅葉シーズン、登山にはうってつけの涼しい気候とあって、リュックサックに登山靴姿の人が多い。
はぁはぁ息を切らしながらあの道を上ると、ちょうど東屋の辺りは西日で美しく染められていた。
完全に沈む前の直前が雲間から地上を照らし、筋雲の端切れから覗くオレンジの光が宝石のように美しい。
山の匂いを含んだ風が吹いて、どこかで山鳩がぼうう、と鳴いた。
あの山鳩は、シンバを乗せた鳩なんだろうか。
そんなことを考えて、切なくなる。
夕陽の写真を撮ったり、レジャーシートを広げてお弁当を食べていたり。そんな登山客たちから少し離れたところで、涙を堪えた。あまりにもシンバに会いたくて、シンバが恋しくて、胸が千切れそうだった。
三年間、シンバがいなくてもわたしなりに頑張ってきたのに。
友だち関係も、受験勉強も、荒川花音なりに必死でやってきた。
三年経ったら、シンバに会えるから。シンバのために、大人になろうと思ったから。
だから、褒めてよ。手をくしゅって頭にやって、よくやったな、花音、って言ってよ。
グズグズしてる損な性格してる荒川花音は、もういないから。
シンバに相応しい、自分を持ってる女の子に成長できたから。
いつシンバが現れても、今のわたしなら、シンバの隣に堂々と立っているから。
「なんて顔してんだよ」
声がする。くしゅ、と頭を撫でられる。
その手の体温に馴染みがないのに、声はあの時よりも随分低くなっているのに、すぐにわかった。
ばっと振り向くと、トレーナーにジーパン姿の男の子が立っていた。わたしを見下ろすターコイズブルーの瞳が、愛しさで細くなっている。
「シンバ……だよね?」
「他にいるかよ」
シンバはくくっ、と笑ってどさっとわたしの隣に腰を下ろした。そして、そのへんに生えてる雑草を荒っぽい動作で掴み、煙草を吸うみたいに丸めて葉っぱで口笛を吹く。
今見ているものが、信じられない。たしかに三年経ったら会えるって、わかってた。でもまさかこの場所で会えるなんて、思わなかった。
「三年間……どう、してたの」
「どうも何も、大変だったぞ。人間になったのはいいけど、戸籍とかなんもねぇからな。完全に、山でサバイバル生活」
ふう、とシンバが息を吐く。
「春から秋にかけては、まだいいんだ。食べるものも獲物もたくさんあるし。洞窟で暮らしてたから、火さえ焚ければあったかいし。問題は、冬だな。獲物を捜してきて燻製にしたのを食べてたんだけど、それも尽きるし」
「服は? その服、どうしたの?」
「登山客がキャンプしてる時、寝てる隙に奪ってきた」
「泥棒じゃない!」
「マッパよりはいいだろ。山で暮らしてる全裸の男を見つけました、なんて通報でもされてみ? めちゃくちゃややこしいことになるぜ」
そ、そりゃ、理屈ではそうだけど……。
わたしも安堵のため息を吐きながら、シンバの隣に腰を下ろす。太陽がだんだんと、西の空の奥へ隠れていく。
「じゃあ、シンバって今、無職なの?」
「しょうがないだろ! 戸籍もないのに、どうやって仕事するんだ!?」
「適当な名前をつけて、ハローワークに行くとか……いろいろあると思うけど」
「ハローワークってのがそもそもわかんねぇ」
「わたしが教えてあげるよ」
入ったばっかりだけど、これでも一応大学生。シンバよりは、社会的な知識はある。福祉学科なんだし、シンバみたいに戸籍のない人でも世の中でなんとかやっていく方法はどこかにあるだろう。
「花音は今何やってるんだ?」
「大学生だよ。福祉学科。福祉の勉強して、将来はおばあちゃんの介護をしたいの」
「しっかりしてんだな、花音の割には」
「割には、ってところが余計」
シンバがにかっと笑って、わたしの肩にぎゅっと手を回してくる。そんなことをされるのは初めてで、心臓がドキドキと急に鼓動を速める。
あぁ、これだ。
このときめきを、この温もりを、ずっと求めていた。
わたしはたしかに、シンバに人間になってほしかったんだ。
人間のシンバに、抱きしめられたかったんだ。
「とりあえず、山暮らしはやめにしない? おばあちゃんの家、今誰も住んでないから、あそこに住んだらいいと思う。わたしの、遠い親戚の男の子ってことにして」
「花音の親にはなんて説明するんだよ」
「それは、これから考える」
「なんだか成長したな、花音」
「そう?」
「うん。三年前はそんな、無鉄砲じゃなかっただろ」
「大好きな人のためなら、無鉄砲にもなるよ」
ぎゅっと、シンバの胸に頭を押し付ける。ちょっと汗臭い、人間の男の子っぽい匂いがするけど、嫌じゃない。
「ね、シンバ、あの時と気持ち、変わってない?」
「何がだよ」
「魔法をかける前に、言ってくれたじゃない。シンバの口から」
「なんだよそれ。また言わなきゃいけねぇのか?」
「人間になったシンバから聞きたいんだよ」
シンバがぎゅっとわたしの身体に力を込めてきて、耳元でそっと囁いた。
「結婚しよう、花音」
嬉しくて何度も頷くわたしのほっぺたを、シンバがふざけて笑いながら引っ張っている。
どこかで、山鳩が鳴いている。
わたしは午前中はお母さんを手伝った後、午後、バスに乗って高校一年生の秋、三ヵ月だけ暮らしたあの家を訪れた。鍵はポストの中に隠してある。
電気も水道もガスも通っていない家の中はがらんとしていて、やたらと広く感じた。いつもおばあちゃんが日光浴をしていた、リビングの日当たりのいいカーペットの上にごろんと横になると、西日が目を刺した。
シンバの気配は、どこにもない。
シンバの言うことが本当なら、シンバのお父さんとお母さんも、あの後この家から出て行ってしまったんだろう。
日が落ちる前に、山へ向かう。ちょうど紅葉シーズン、登山にはうってつけの涼しい気候とあって、リュックサックに登山靴姿の人が多い。
はぁはぁ息を切らしながらあの道を上ると、ちょうど東屋の辺りは西日で美しく染められていた。
完全に沈む前の直前が雲間から地上を照らし、筋雲の端切れから覗くオレンジの光が宝石のように美しい。
山の匂いを含んだ風が吹いて、どこかで山鳩がぼうう、と鳴いた。
あの山鳩は、シンバを乗せた鳩なんだろうか。
そんなことを考えて、切なくなる。
夕陽の写真を撮ったり、レジャーシートを広げてお弁当を食べていたり。そんな登山客たちから少し離れたところで、涙を堪えた。あまりにもシンバに会いたくて、シンバが恋しくて、胸が千切れそうだった。
三年間、シンバがいなくてもわたしなりに頑張ってきたのに。
友だち関係も、受験勉強も、荒川花音なりに必死でやってきた。
三年経ったら、シンバに会えるから。シンバのために、大人になろうと思ったから。
だから、褒めてよ。手をくしゅって頭にやって、よくやったな、花音、って言ってよ。
グズグズしてる損な性格してる荒川花音は、もういないから。
シンバに相応しい、自分を持ってる女の子に成長できたから。
いつシンバが現れても、今のわたしなら、シンバの隣に堂々と立っているから。
「なんて顔してんだよ」
声がする。くしゅ、と頭を撫でられる。
その手の体温に馴染みがないのに、声はあの時よりも随分低くなっているのに、すぐにわかった。
ばっと振り向くと、トレーナーにジーパン姿の男の子が立っていた。わたしを見下ろすターコイズブルーの瞳が、愛しさで細くなっている。
「シンバ……だよね?」
「他にいるかよ」
シンバはくくっ、と笑ってどさっとわたしの隣に腰を下ろした。そして、そのへんに生えてる雑草を荒っぽい動作で掴み、煙草を吸うみたいに丸めて葉っぱで口笛を吹く。
今見ているものが、信じられない。たしかに三年経ったら会えるって、わかってた。でもまさかこの場所で会えるなんて、思わなかった。
「三年間……どう、してたの」
「どうも何も、大変だったぞ。人間になったのはいいけど、戸籍とかなんもねぇからな。完全に、山でサバイバル生活」
ふう、とシンバが息を吐く。
「春から秋にかけては、まだいいんだ。食べるものも獲物もたくさんあるし。洞窟で暮らしてたから、火さえ焚ければあったかいし。問題は、冬だな。獲物を捜してきて燻製にしたのを食べてたんだけど、それも尽きるし」
「服は? その服、どうしたの?」
「登山客がキャンプしてる時、寝てる隙に奪ってきた」
「泥棒じゃない!」
「マッパよりはいいだろ。山で暮らしてる全裸の男を見つけました、なんて通報でもされてみ? めちゃくちゃややこしいことになるぜ」
そ、そりゃ、理屈ではそうだけど……。
わたしも安堵のため息を吐きながら、シンバの隣に腰を下ろす。太陽がだんだんと、西の空の奥へ隠れていく。
「じゃあ、シンバって今、無職なの?」
「しょうがないだろ! 戸籍もないのに、どうやって仕事するんだ!?」
「適当な名前をつけて、ハローワークに行くとか……いろいろあると思うけど」
「ハローワークってのがそもそもわかんねぇ」
「わたしが教えてあげるよ」
入ったばっかりだけど、これでも一応大学生。シンバよりは、社会的な知識はある。福祉学科なんだし、シンバみたいに戸籍のない人でも世の中でなんとかやっていく方法はどこかにあるだろう。
「花音は今何やってるんだ?」
「大学生だよ。福祉学科。福祉の勉強して、将来はおばあちゃんの介護をしたいの」
「しっかりしてんだな、花音の割には」
「割には、ってところが余計」
シンバがにかっと笑って、わたしの肩にぎゅっと手を回してくる。そんなことをされるのは初めてで、心臓がドキドキと急に鼓動を速める。
あぁ、これだ。
このときめきを、この温もりを、ずっと求めていた。
わたしはたしかに、シンバに人間になってほしかったんだ。
人間のシンバに、抱きしめられたかったんだ。
「とりあえず、山暮らしはやめにしない? おばあちゃんの家、今誰も住んでないから、あそこに住んだらいいと思う。わたしの、遠い親戚の男の子ってことにして」
「花音の親にはなんて説明するんだよ」
「それは、これから考える」
「なんだか成長したな、花音」
「そう?」
「うん。三年前はそんな、無鉄砲じゃなかっただろ」
「大好きな人のためなら、無鉄砲にもなるよ」
ぎゅっと、シンバの胸に頭を押し付ける。ちょっと汗臭い、人間の男の子っぽい匂いがするけど、嫌じゃない。
「ね、シンバ、あの時と気持ち、変わってない?」
「何がだよ」
「魔法をかける前に、言ってくれたじゃない。シンバの口から」
「なんだよそれ。また言わなきゃいけねぇのか?」
「人間になったシンバから聞きたいんだよ」
シンバがぎゅっとわたしの身体に力を込めてきて、耳元でそっと囁いた。
「結婚しよう、花音」
嬉しくて何度も頷くわたしのほっぺたを、シンバがふざけて笑いながら引っ張っている。
どこかで、山鳩が鳴いている。



