満月の夜は、寒かった。部屋の窓を開けると既に冬の匂いがするしんと冷たい山の風が部屋の中に入ってきて、慌ててパジャマの上にコートを羽織り、物音を立てないようにこっそり一階に下りて、聖杯の準備をする。
シンバと一緒に麦茶を飲んだおちょこに、水を注ぐ。魔法に使うものだから水道水じゃないほうがいいと思って、学校の帰りにコンビニで買ってきた外国製のミネラルウォーターにした。
シンバは庭の端っこで待っていた。ここには四人がけの木製テーブルと椅子があって、夏の晴れた日には家族でちょっとしたランチができるようになっている。
満月の明かりを受け、黄色や紫の菊がきれいに咲いていた。
「きれいだな、菊」
シンバがテーブルの上で脚をぶらぶらさせながら言う。わたしは聖杯をテーブルに置いた後、ちょっと菊の匂いを嗅いでみた。芳しい香りが、鼻孔を刺激する。
「じゃ、始めるぞ」
「え」
「え、じゃねぇって。この気温、さすがに小人でもちょっときついんだぜ? とっととしねぇと花音の父さんと母さんが起きてくるかもしれねぇし」
「そう、だね……」
二人、聖杯を間に向かい合う。一心に、満月の光を浴びる。
月の光に照らされて、心の中から淀んだものが洗い流されていく感じがした。
友だち関係が壊れるのが怖くて、ずっと本音を言えなくて里美や鈴子と接していた苦しさとか。
茉奈がいじめられ始めても、助けてあげられなかった悲しみとか。
敦彦くんにアプローチされても、傷つけないように、そればっかり考えて、結果的にあの優しい男の子を傷つけちゃったこととか。
そんな、この数か月間で起こったいろいろな出来事が、その度に心に溜まった情けなさや惨めさや自分への嫌悪感とか、そういうものが洗いざらい、わたしの中から出て行っていく。
風が、吹く。コートの裾が、ひらりと舞う。菊の匂いと枯れ落ちた葉っぱが朽ちる匂いが混ざり合って、庭の木々をざらざらと揺らす。
「花音、言うぞ。結婚の誓い」
「うん」
魔法といっても、特に呪文というものはない。二人の間で考えた言葉は、あらかじめ決めてあった。あの後、満月の夜が来る前にシンバと一緒に何度もノートに下書きして、自分たちで直したノート。
「全宇宙を支配する小人の神様へ」
わたしたちは、頭の中にある言葉に魂を込めて呼びかける。二人を照らす満月に届くように。その先でわたしたちを見ている神様へ届くように。
「わたし、荒川花音と」
言った時、声が震えた。シンバが続ける。
「俺、シンバは」
ちょっと間があった。二人、目を合わせて、次の言葉に力を込める。
「夫婦として、共に生きていくことを誓います。病める時も健やかな時も、相手を敬い、相手を思い、相手に寄り添い、一生を生き通します。小人の神様、どうかわたしたちに、魔法を授けて下さい――」
誓いは、これで終わり。わたしはおちょこに手を添え、水をぐっと一気飲みした。喉を流れる水がやたらと冷たい。シンバもおちょこを両手で抱え、ぐいと飲み干す。
「花音、ちょっと屈めよ」
「え」
「このままじゃやりづれぇだろうが」
シンバが急かすように足をとんとん鳴らす。もちろん、口移しで気を送り込むっていうのは聞いてたけど、やっぱりほんとにやるなんてーー。
「ほ、ほんとにしなきゃ駄目……?」
「馬鹿かよお前! このままじゃ俺、人間になれねぇぞ」
「わかってるけど! で、でも、いざとなると心の準備が……」
「いいから黙って屈んで、こっちに顔向けろよ」
言われた通りに膝を曲げると、シンバがたたたっ、と駆けてきてひょいとジャンプした。
シンバのちっちゃな唇が、わたしの唇に触れる。
その瞬間、白くて大きな清らかなものが身体の中心部からぐわあっ、と溢れ出した。
それはたとえるなら津波とか雪崩とか、大規模な自然災害を想起させるようなダイナミックなもので、シンバと触れているそこだけが、激しい嵐の中ですっくと立っている一本の大きな樹みたいにわたしを支えていた。
小人の神様がくれたエネルギーが、二人を繋ぐ。目を瞑った向こうの世界が、白くぱあっと輝く。
その唇がゆっくり離れた後でも、怖くてしばらく目を開けていられなかった。何が起こったのか、確かめる勇気がなかった。
やがて大きな風が吹いて、木の葉が空になったおちょこに当たるカサリという音がした時、ようやく目を開いた。
シンバはもう、そこにいなかった。
テーブルの上にも、テーブルの下にも、菊の花のところにも。
「……シンバ?」
呼びかけても、答えてくれる声はない。
わたしはパニックになって、おちょこを手にして家の中に駆け込む。
「シンバ! シンバ、どこにいるの!? 出てきてよ! 隠れるなんて、変なことしないで!」
いくら叫んでも、家じゅう捜し回っても、シンバが現れることはない。自室の天袋を開け、そこを覗いても、さっきまで小人がいたという形跡はなかった。
魔法は、本当だった。
小人は人間になる代わりに、三年間会えないんだ――。
シンバと一緒に麦茶を飲んだおちょこに、水を注ぐ。魔法に使うものだから水道水じゃないほうがいいと思って、学校の帰りにコンビニで買ってきた外国製のミネラルウォーターにした。
シンバは庭の端っこで待っていた。ここには四人がけの木製テーブルと椅子があって、夏の晴れた日には家族でちょっとしたランチができるようになっている。
満月の明かりを受け、黄色や紫の菊がきれいに咲いていた。
「きれいだな、菊」
シンバがテーブルの上で脚をぶらぶらさせながら言う。わたしは聖杯をテーブルに置いた後、ちょっと菊の匂いを嗅いでみた。芳しい香りが、鼻孔を刺激する。
「じゃ、始めるぞ」
「え」
「え、じゃねぇって。この気温、さすがに小人でもちょっときついんだぜ? とっととしねぇと花音の父さんと母さんが起きてくるかもしれねぇし」
「そう、だね……」
二人、聖杯を間に向かい合う。一心に、満月の光を浴びる。
月の光に照らされて、心の中から淀んだものが洗い流されていく感じがした。
友だち関係が壊れるのが怖くて、ずっと本音を言えなくて里美や鈴子と接していた苦しさとか。
茉奈がいじめられ始めても、助けてあげられなかった悲しみとか。
敦彦くんにアプローチされても、傷つけないように、そればっかり考えて、結果的にあの優しい男の子を傷つけちゃったこととか。
そんな、この数か月間で起こったいろいろな出来事が、その度に心に溜まった情けなさや惨めさや自分への嫌悪感とか、そういうものが洗いざらい、わたしの中から出て行っていく。
風が、吹く。コートの裾が、ひらりと舞う。菊の匂いと枯れ落ちた葉っぱが朽ちる匂いが混ざり合って、庭の木々をざらざらと揺らす。
「花音、言うぞ。結婚の誓い」
「うん」
魔法といっても、特に呪文というものはない。二人の間で考えた言葉は、あらかじめ決めてあった。あの後、満月の夜が来る前にシンバと一緒に何度もノートに下書きして、自分たちで直したノート。
「全宇宙を支配する小人の神様へ」
わたしたちは、頭の中にある言葉に魂を込めて呼びかける。二人を照らす満月に届くように。その先でわたしたちを見ている神様へ届くように。
「わたし、荒川花音と」
言った時、声が震えた。シンバが続ける。
「俺、シンバは」
ちょっと間があった。二人、目を合わせて、次の言葉に力を込める。
「夫婦として、共に生きていくことを誓います。病める時も健やかな時も、相手を敬い、相手を思い、相手に寄り添い、一生を生き通します。小人の神様、どうかわたしたちに、魔法を授けて下さい――」
誓いは、これで終わり。わたしはおちょこに手を添え、水をぐっと一気飲みした。喉を流れる水がやたらと冷たい。シンバもおちょこを両手で抱え、ぐいと飲み干す。
「花音、ちょっと屈めよ」
「え」
「このままじゃやりづれぇだろうが」
シンバが急かすように足をとんとん鳴らす。もちろん、口移しで気を送り込むっていうのは聞いてたけど、やっぱりほんとにやるなんてーー。
「ほ、ほんとにしなきゃ駄目……?」
「馬鹿かよお前! このままじゃ俺、人間になれねぇぞ」
「わかってるけど! で、でも、いざとなると心の準備が……」
「いいから黙って屈んで、こっちに顔向けろよ」
言われた通りに膝を曲げると、シンバがたたたっ、と駆けてきてひょいとジャンプした。
シンバのちっちゃな唇が、わたしの唇に触れる。
その瞬間、白くて大きな清らかなものが身体の中心部からぐわあっ、と溢れ出した。
それはたとえるなら津波とか雪崩とか、大規模な自然災害を想起させるようなダイナミックなもので、シンバと触れているそこだけが、激しい嵐の中ですっくと立っている一本の大きな樹みたいにわたしを支えていた。
小人の神様がくれたエネルギーが、二人を繋ぐ。目を瞑った向こうの世界が、白くぱあっと輝く。
その唇がゆっくり離れた後でも、怖くてしばらく目を開けていられなかった。何が起こったのか、確かめる勇気がなかった。
やがて大きな風が吹いて、木の葉が空になったおちょこに当たるカサリという音がした時、ようやく目を開いた。
シンバはもう、そこにいなかった。
テーブルの上にも、テーブルの下にも、菊の花のところにも。
「……シンバ?」
呼びかけても、答えてくれる声はない。
わたしはパニックになって、おちょこを手にして家の中に駆け込む。
「シンバ! シンバ、どこにいるの!? 出てきてよ! 隠れるなんて、変なことしないで!」
いくら叫んでも、家じゅう捜し回っても、シンバが現れることはない。自室の天袋を開け、そこを覗いても、さっきまで小人がいたという形跡はなかった。
魔法は、本当だった。
小人は人間になる代わりに、三年間会えないんだ――。



