第十一章 さよならの足音
すっかり秋も深まった頃、わたしはデニムの上に半袖Tシャツ、上はパーカーという格好に着替え、お肌の手入れをした後日焼け止めだけ塗った。
シンバに「この格好、どう?」と訊いてみると、満足そうにうん、と首を縦に振った。
「山に上る時は長袖長ズボン。山狩りの基本だ」
「長ズボンって……デニムって言ってよ! 高校の入学祝いにおばあちゃんに買ってもらったお気に入りなのに!」
「とにかく、俺は鳩で行くからな。花音とは、東屋で待ち合わせ。行き方は覚えてるだろ?」
夕べ、シンパと一緒に地図を描いて、山の中腹まで上がったところにある東屋への行き方をチェックした。
シンバは窓辺にちょこんと座って、鳩に跨っている。鳩には馬のように手綱がつけてあり、シンバの背中には弓矢。シンバは顔立ちが外国人みたいだから、そんな格好をすると中世の狩人みたいだ。
「ていうかお前、そんな細っこい脚で山上れんのかよ、ほんとに」
「ちっちゃい頃は、おじいちゃんによく山に連れて行ってもらってたんだもん! 体力はないけど、根性ならあるよ!」
「子どもの頃の体力なんて、アテにならないぜ。今はとくに運動もやってないんだろ」
「そうだけど……」
「じゃ、俺、行くわ」
シンバが鳩のお尻を軽く叩くと、それが合図のように鳩は秋の青空に飛び立っていく。たちまち遠ざかっていく鳩とシンバを、わたしはしばらく見送っていた。
シンバって、すごく近くにいると思ってたけど、やっぱり別の世界の住人なんだな。鳩に乗って山で狩りをするなんて、わたしの生活にはなかったことだ。
鳩に乗って秋の空に消えていくシンバが、めちゃくちゃに格好いい。
リュックサックを取り出し、荷物を詰める。喉が渇いた時用の水筒に麦茶を詰め、お弁当は朝ご飯と夕べの残り物。
ハンカチ、ティッシュ、スマホ、お財布。あと必要なものは……そう、日焼け止め。秋だからって、こんなに気持ちよく晴れた日の紫外線は馬鹿にできない。
「あら花音、そんな大きなリュック背負って、どこへ出かけるの?」
玄関でスニーカーを履いていると、お母さんに背中から声をかけられた。最近、土日は友だちと遊ぶこともなかったから、こんなよく晴れた休日にカジュアルな格好でお出かけなんて、そりゃ親からしたらおかしいと思うだろう。
「ちょっと……ハイキングに」
「ハイキングぅ!? ひとりで!?」
「一人……」
まさか小人と一緒に、だなんて言うわけにもいかない。お母さんがびっくりした顔をしている。
「花音にそんな趣味があるなんて知らなかったわ」
「おぉ、花音もついに、山に目覚めたか。今流行りの、山ガールってやつだな」
リビングからお父さんののんびりした声が聞こえてくる。
登山道までは、徒歩二十分。そこから先、東屋まで三十分までの山道がある。古い登山道で、手すりもない。
時々すっ転びそうになったり、ハンカチで汗を拭ったり、麦茶を飲んだりしながら、ようやく東屋までたどり着くと、運のいいことにこんなハイキング日和の日にも関わらず東屋には誰もいなかった。
ふと天を見上げると、抜けるように広い青空が広がっている。
「遅いぞ、お前」
「ごめん……」
ぜいぜい息を吐きながら言うと、シンバがはーぁ、とため息をついた。
「ほんと花音って体力ないのな」
「高校生活は基本運動不足だもん」
「部活ってやつに入りゃあいいじゃねぇか」
「それはそれで……人間関係とか余計にややこしくなるし」
「お前ってつくづく、損な性格!」
シンバがぴょこん、と鳩に飛び乗った。鳩はシンバの愛犬……いや愛鳩なのか、よく訓練されているらしく、シンバと通じ合っているみたいに見える。
「行くぞ、山狩り!」
「ちよっと、待ってよー! シンバの馬鹿! わたしはそんなに速く飛べないし走れないのに!!」
「今日は運動不足の花音を鍛える日だ!!」
シンバが鳩に乗って空へ飛んでいく。
シンバと一緒に、どんぐりを集めた。どんぐりにもいろいろな種類があって、どれに虫が入っているか、いないのか、シンバが細かく教えてくれた。
紅葉も拾った。真っ赤な紅葉の葉っぱを集めて持ち帰るなんて、幼稚園の頃以来だ。後でシンバとの思い出に、こっそり使っていないノートに貼り付けることにした。
「やだっ! シンバ! 蛇! 蛇がいるよぉっ!」
紅葉狩りをひとしきり楽しんだ後、東屋へ戻ると東屋への道すがら、蛇がちょこんと顔を出しているのでびっくりした。
「なんだよお前。蛇、駄目なのか?」
「だ、だ、駄目に決まってるじゃない! わたし、町育ちなんだから! 蛇なんてペットショップでしか見たことないよ!!」
「これはアオダイショウだ。どこにでもいる野生の蛇。せっかくだから、今夜の飯にしとくか」
「ええ!?」
シンバが弓をめいいっぱい引き、矢を射る。矢はびゅーんとアオダイショウの目に飛んで行って、痛みにアオダイショウがくねくねと身体をひねらせた。
「や、や、やだシンバ! うねうねいってるよぉ!!」
「そう、ぎゃあぎゃあ騒ぐな。今仕留めてる最中だ」
シンバは言いながら何発かの矢をアオダイショウめがけて打った。その度にアオダイショウはひどく悶えるので、わたしは勝手に悲鳴を上げる口を両手で押さえる。
何発矢を使っただろう。アオダイショウはやっと動かなくなり、シンバは絶命したアオダイショウを触って、息絶えたかどうかたしかめている。
「うん、もう大丈夫だ。血抜きすれば今夜の飯に使える。花音、これ、リュックに入れて持って帰れよ」
「い、嫌だよ! 蛇をリュックに入れるなんて!!」
「なんだよ。俺の努力、無駄じゃねぇか」
「お腹空いたなら、お弁当があるよ。夕べの残り物と、今朝の余りものだけど」
「お、食いもんあるのかよ。じゃあそれ、食おうぜ」
シンバと二人きり、東屋の中でお弁当を食べた。といっても、シンバが食べるのはほんのちょっとの量だから、ほとんどはわたしの胃袋に収まったんだけど。シンバが乗ってきた鳩は、東屋の天井で静かに身を休めている。
「美味いよなーこれ。ウインナーだっけか?」
「そう。あらびきウインナーだから、美味しいよ」
「人間っていいよな、美味い食いもん、いろいろあって」
「シンバは、人間のこと羨ましいって思う時ある?」
「どうだろうな。花音見てると、人間は人間で大変だなって思うよ。俺、小人で良かったな、って。でも、もし俺が人間に生まれてたら、楽しいこともいっぱいあるのかな、って思う」
そこでしばらく、会話が途切れる。山の鴉は都会の鴉と違って、くわぁー、くわぁーとのんびりと鳴く。秋の短い日が暮れかけていた。
「花音は、将来の夢とかあるのか?」
「夢?」
「人間って、そういうの考えなきゃいけないんだろ?」
「うーん、ちゃんと自立した普通の女性になりたいとは思うけど……しいていえば……」
恥ずかしくなって、言葉尻がごにょごにょとする。シンバがわたしが小人用に小さく丸めおにぎりを食べ、ほっぺたにご飯粒をつけながら言う。
「どうしたんだよ。なんだよ」
「いや、しいていえば……シンバとずっと一緒にいたいかな、って」
特に夢なんてない。普通の、どこにでもいるお母さんになりたい。そんなわたしの今の夢は、シンバとずっと一緒にいることだ。
いつまでもいつまでもあの家で。いつまでもいつまでもあの部屋で。
夜遅くまで、どうでもいい話をずっとしていたいんだ。
「わたし、地元、離れたくないんだ。親も高校卒業と同時に娘が地元から出て一人暮らしなんて始めたら心配するだろうし。
だからあの家で、ずっと、シンバと、お父さんと、お母さんと、おばあちゃんと、一緒に暮らしていたい。大学も、今の家から通える範囲の大学を捜す。それが、わたしの夢」
生まれたての卵みたいな太陽を見上げながら、呟く。
本当に小さな、些細な夢だ。
大好きなシンバと、ずっと一緒にいたい。
たったそれだけの、ひそやかな夢。
自分で口にするのも恥ずかしいほど、くだらない。
「いいんじゃねぇか」
シンバがいつものそっけない口調で言ったけれど、顔を見ると、にまっと笑っていた。
「花音が、ちゃんと考えて、ちゃんと決めたことなら、俺は応援する。俺だって、花音とすっと一緒にいたいし」
「ありがとう……シンバ」
そのまましばらく、二人でお弁当を食べていた。ポーポー、と鳩が鳴くので、お弁当の残りを少し分けてあげる。
帰りは登山道をシンバに案内されながら階段を下り、家まで歩いた。
帰り着いた頃にはとっぷり日が暮れていて脚はビリビリ痛くて、お母さんは「ハイキングなんて慣れないことするからこんなことになるのよ!」と案の定、愚痴をこぼしていた。
すっかり秋も深まった頃、わたしはデニムの上に半袖Tシャツ、上はパーカーという格好に着替え、お肌の手入れをした後日焼け止めだけ塗った。
シンバに「この格好、どう?」と訊いてみると、満足そうにうん、と首を縦に振った。
「山に上る時は長袖長ズボン。山狩りの基本だ」
「長ズボンって……デニムって言ってよ! 高校の入学祝いにおばあちゃんに買ってもらったお気に入りなのに!」
「とにかく、俺は鳩で行くからな。花音とは、東屋で待ち合わせ。行き方は覚えてるだろ?」
夕べ、シンパと一緒に地図を描いて、山の中腹まで上がったところにある東屋への行き方をチェックした。
シンバは窓辺にちょこんと座って、鳩に跨っている。鳩には馬のように手綱がつけてあり、シンバの背中には弓矢。シンバは顔立ちが外国人みたいだから、そんな格好をすると中世の狩人みたいだ。
「ていうかお前、そんな細っこい脚で山上れんのかよ、ほんとに」
「ちっちゃい頃は、おじいちゃんによく山に連れて行ってもらってたんだもん! 体力はないけど、根性ならあるよ!」
「子どもの頃の体力なんて、アテにならないぜ。今はとくに運動もやってないんだろ」
「そうだけど……」
「じゃ、俺、行くわ」
シンバが鳩のお尻を軽く叩くと、それが合図のように鳩は秋の青空に飛び立っていく。たちまち遠ざかっていく鳩とシンバを、わたしはしばらく見送っていた。
シンバって、すごく近くにいると思ってたけど、やっぱり別の世界の住人なんだな。鳩に乗って山で狩りをするなんて、わたしの生活にはなかったことだ。
鳩に乗って秋の空に消えていくシンバが、めちゃくちゃに格好いい。
リュックサックを取り出し、荷物を詰める。喉が渇いた時用の水筒に麦茶を詰め、お弁当は朝ご飯と夕べの残り物。
ハンカチ、ティッシュ、スマホ、お財布。あと必要なものは……そう、日焼け止め。秋だからって、こんなに気持ちよく晴れた日の紫外線は馬鹿にできない。
「あら花音、そんな大きなリュック背負って、どこへ出かけるの?」
玄関でスニーカーを履いていると、お母さんに背中から声をかけられた。最近、土日は友だちと遊ぶこともなかったから、こんなよく晴れた休日にカジュアルな格好でお出かけなんて、そりゃ親からしたらおかしいと思うだろう。
「ちょっと……ハイキングに」
「ハイキングぅ!? ひとりで!?」
「一人……」
まさか小人と一緒に、だなんて言うわけにもいかない。お母さんがびっくりした顔をしている。
「花音にそんな趣味があるなんて知らなかったわ」
「おぉ、花音もついに、山に目覚めたか。今流行りの、山ガールってやつだな」
リビングからお父さんののんびりした声が聞こえてくる。
登山道までは、徒歩二十分。そこから先、東屋まで三十分までの山道がある。古い登山道で、手すりもない。
時々すっ転びそうになったり、ハンカチで汗を拭ったり、麦茶を飲んだりしながら、ようやく東屋までたどり着くと、運のいいことにこんなハイキング日和の日にも関わらず東屋には誰もいなかった。
ふと天を見上げると、抜けるように広い青空が広がっている。
「遅いぞ、お前」
「ごめん……」
ぜいぜい息を吐きながら言うと、シンバがはーぁ、とため息をついた。
「ほんと花音って体力ないのな」
「高校生活は基本運動不足だもん」
「部活ってやつに入りゃあいいじゃねぇか」
「それはそれで……人間関係とか余計にややこしくなるし」
「お前ってつくづく、損な性格!」
シンバがぴょこん、と鳩に飛び乗った。鳩はシンバの愛犬……いや愛鳩なのか、よく訓練されているらしく、シンバと通じ合っているみたいに見える。
「行くぞ、山狩り!」
「ちよっと、待ってよー! シンバの馬鹿! わたしはそんなに速く飛べないし走れないのに!!」
「今日は運動不足の花音を鍛える日だ!!」
シンバが鳩に乗って空へ飛んでいく。
シンバと一緒に、どんぐりを集めた。どんぐりにもいろいろな種類があって、どれに虫が入っているか、いないのか、シンバが細かく教えてくれた。
紅葉も拾った。真っ赤な紅葉の葉っぱを集めて持ち帰るなんて、幼稚園の頃以来だ。後でシンバとの思い出に、こっそり使っていないノートに貼り付けることにした。
「やだっ! シンバ! 蛇! 蛇がいるよぉっ!」
紅葉狩りをひとしきり楽しんだ後、東屋へ戻ると東屋への道すがら、蛇がちょこんと顔を出しているのでびっくりした。
「なんだよお前。蛇、駄目なのか?」
「だ、だ、駄目に決まってるじゃない! わたし、町育ちなんだから! 蛇なんてペットショップでしか見たことないよ!!」
「これはアオダイショウだ。どこにでもいる野生の蛇。せっかくだから、今夜の飯にしとくか」
「ええ!?」
シンバが弓をめいいっぱい引き、矢を射る。矢はびゅーんとアオダイショウの目に飛んで行って、痛みにアオダイショウがくねくねと身体をひねらせた。
「や、や、やだシンバ! うねうねいってるよぉ!!」
「そう、ぎゃあぎゃあ騒ぐな。今仕留めてる最中だ」
シンバは言いながら何発かの矢をアオダイショウめがけて打った。その度にアオダイショウはひどく悶えるので、わたしは勝手に悲鳴を上げる口を両手で押さえる。
何発矢を使っただろう。アオダイショウはやっと動かなくなり、シンバは絶命したアオダイショウを触って、息絶えたかどうかたしかめている。
「うん、もう大丈夫だ。血抜きすれば今夜の飯に使える。花音、これ、リュックに入れて持って帰れよ」
「い、嫌だよ! 蛇をリュックに入れるなんて!!」
「なんだよ。俺の努力、無駄じゃねぇか」
「お腹空いたなら、お弁当があるよ。夕べの残り物と、今朝の余りものだけど」
「お、食いもんあるのかよ。じゃあそれ、食おうぜ」
シンバと二人きり、東屋の中でお弁当を食べた。といっても、シンバが食べるのはほんのちょっとの量だから、ほとんどはわたしの胃袋に収まったんだけど。シンバが乗ってきた鳩は、東屋の天井で静かに身を休めている。
「美味いよなーこれ。ウインナーだっけか?」
「そう。あらびきウインナーだから、美味しいよ」
「人間っていいよな、美味い食いもん、いろいろあって」
「シンバは、人間のこと羨ましいって思う時ある?」
「どうだろうな。花音見てると、人間は人間で大変だなって思うよ。俺、小人で良かったな、って。でも、もし俺が人間に生まれてたら、楽しいこともいっぱいあるのかな、って思う」
そこでしばらく、会話が途切れる。山の鴉は都会の鴉と違って、くわぁー、くわぁーとのんびりと鳴く。秋の短い日が暮れかけていた。
「花音は、将来の夢とかあるのか?」
「夢?」
「人間って、そういうの考えなきゃいけないんだろ?」
「うーん、ちゃんと自立した普通の女性になりたいとは思うけど……しいていえば……」
恥ずかしくなって、言葉尻がごにょごにょとする。シンバがわたしが小人用に小さく丸めおにぎりを食べ、ほっぺたにご飯粒をつけながら言う。
「どうしたんだよ。なんだよ」
「いや、しいていえば……シンバとずっと一緒にいたいかな、って」
特に夢なんてない。普通の、どこにでもいるお母さんになりたい。そんなわたしの今の夢は、シンバとずっと一緒にいることだ。
いつまでもいつまでもあの家で。いつまでもいつまでもあの部屋で。
夜遅くまで、どうでもいい話をずっとしていたいんだ。
「わたし、地元、離れたくないんだ。親も高校卒業と同時に娘が地元から出て一人暮らしなんて始めたら心配するだろうし。
だからあの家で、ずっと、シンバと、お父さんと、お母さんと、おばあちゃんと、一緒に暮らしていたい。大学も、今の家から通える範囲の大学を捜す。それが、わたしの夢」
生まれたての卵みたいな太陽を見上げながら、呟く。
本当に小さな、些細な夢だ。
大好きなシンバと、ずっと一緒にいたい。
たったそれだけの、ひそやかな夢。
自分で口にするのも恥ずかしいほど、くだらない。
「いいんじゃねぇか」
シンバがいつものそっけない口調で言ったけれど、顔を見ると、にまっと笑っていた。
「花音が、ちゃんと考えて、ちゃんと決めたことなら、俺は応援する。俺だって、花音とすっと一緒にいたいし」
「ありがとう……シンバ」
そのまましばらく、二人でお弁当を食べていた。ポーポー、と鳩が鳴くので、お弁当の残りを少し分けてあげる。
帰りは登山道をシンバに案内されながら階段を下り、家まで歩いた。
帰り着いた頃にはとっぷり日が暮れていて脚はビリビリ痛くて、お母さんは「ハイキングなんて慣れないことするからこんなことになるのよ!」と案の定、愚痴をこぼしていた。



