「おかえり」

 デイケアから帰ってきたおばあちゃんが、いつものようにわたしを迎えてくれる。ただいま、と短く返して紅茶を淹れていると、のんびりした声がやってくる。

「花音、今日はぼうっとしてるね」
「え、そう?」
「紅茶を淹れたいんだろう? なのに台所から、緑茶の香りがしてるよ」

 言われて気付いた。わたし、紅茶を淹れるつもりが、急須に緑茶の茶葉を入れている……

「おばあちゃん、なんでわたしが紅茶を飲みたいって気付いたの?」
「だって花音は、昔から緑茶より紅茶が好きじゃないか。わたしが昔、言ったんだよ。年寄りには緑茶より紅茶のほうがいいって。身体が温まるからね」

 そんなこと言われた記憶はないけれど、たしかにわたしは緑茶よりも紅茶党だ。

 なんでもかんでもずばりと言い当ててしまうおばあちゃんが、時々ちょっと恐ろしくすらある。

 部屋に入ると、シンバは机の上でスクワットをしていた。

「何してるの」
「身体を鍛えてんだよ。今度、山狩り行くからな」
「ふぅん」
「お前もやっといた方がいいぜ。そんな棒っきれみたいな脚じゃ、山なんか登れないぞ」
「うるさいよ」


 言いながら、無意識に自分の言葉が冷たくなってしまったことに気付く。シンバがスクワットをやめ、真面目な顔でわたしを見る。


「花音、変わったよな。男ができた途端」
「な、何よそれ……男って。別に敦彦くんは彼氏ってわけじゃ」
「友だちなんだろう? でも花音は、そいつのこと意識しまくってる」


 本当のこと過ぎて、反論できない。敦彦くんとの電話にドキドキしたのも、他愛もない会話に胸がときめいたのも、ラインを待っていたのも本当だ。

 でもそれは敦彦くんが好きなわけじゃなくて、わたしがまったく男の子に慣れていないから生じる感情なのに。


「今の花音、見ていたくない。俺、帰るわ」
 シンバはそう言って、さっさと屋根裏に戻ってしまった。母猫に置いて行かれた子猫のように、心に冷たい隙間風が吹いた。


 シンバがいなくなった部屋の中で、ひとり、お母さんが帰ってくるまでの時間を潰した。宿題をやったり、明日の予習をしたり、今日の復習をしたり。今日授業で習った数学の応用問題がどうしても理解できないから、今度敦彦くんに教えてもらおう。敦彦くん、数学得意って言ってたし。


 こんなふうに考えてしまうのって、好きではなくても、相手を意識してるってことになっちゃうんだろうな。


 夕飯を食べ、お風呂に入ってからがわたしと敦彦くんとのラインのやり取りの時間。今日は茉奈は気を遣っているのかラインが来ないから、わたしは塾が終わった敦彦くんと思う存分スマホを通しておしゃべりした。


『花音ちゃんは、映画は洋画派? 邦画派?』
『わたし、海外の映画あんまり詳しくないんだよね。ライフ・イズ・ビューティフルは好きだけど』
『僕も好き。花音ちゃん、恋愛ものが好きなんだ?』
『そうだね。好きな漫画が実写化されると観に行くよ、友だちと』
『今もやってるよね。交換ウソ日記』
『そうそう、わたし、あれ観たいのー!』
『じゃあ、僕と観に行く?』

 スマホを持つ手が止まる。
 えっと、これって、デートのお誘い?

 たしかに交換ウソ日記は小説から漫画化されて映画化もされて今話題になってるけれど、里美たちと仲違いしてしまったから観に行ってない。だいたい、映画って、高校生にとっては結構高い。学割を使っても、千五百円もする。飲み物を入れたら、二千円くらい。

『僕、おごるよ。花音ちゃんの分』

 心を読まれたようにラインが来る。たしかに星が丘に通ってるってことはお小遣いもわたしよりは貰ってるんだろうけど……そして里美や鈴子が「デートでおごってくれない男なんてサイテー」なんて言ってたけど。付き合ってもいない男の子に、甘えちゃっていいものなの?


『それは悪いよ。自分で出す』
『それは、僕と一緒に行ってくれるってこと?』


 また、返信に困る。なんと答えていいのかわからず、スマホを投げ出した。
 どうしよう。既読スルーしちゃった……

 早い。あまりにも展開が早い。ラブレターをもらって、電話して、ラインして、それからデート! 恋愛経験値ゼロのわたしにはついていけない。だいたいまだ敦彦くんのこと、好きかどうかもわからないんだ。

 なのに、デートしちゃっていいものなの……?


「そんな格好してたら風邪引くぞ馬鹿」
 シンバの声がする。いつのまにかシンバは屋根裏から降りてきて、枕元にいた。わたしは部屋着のTシャツにショートパンツ姿で、ベッドに身体を横たえていた。


「いつからいたの」
「ずっと見てたぞ、お前のこと。スマホ見ながらニヘニヘニヘニヘ」
「だから、ニヘニヘなんかしてないってば!」
「してたよ。で、どうしたんだ? なんかお前、すんげぇ困った顔してるぜ」


 困っているのは本当だった。敦彦くんとわたしは、今は友だち。でも、友だちだって、男女二人で映画を観に行けば、それはデートになっちゃうんじゃないの? わたし、本当にそれでいいの?


「……デートに誘われた」
 そう言うと、シンバはさして驚かなかった。

「そんなことだろうと思ってたぜ。で、どうすんだ? 行くの?」
「迷ってる……敦彦くんのこと、好きかどうかまだよくわからないから」
「その、ラインってやつやめればいいじゃねぇか。そんなん使ってるから、言い寄られるんだぞ」

「やめられたら苦労しないよ。今どきの高校生はみんなスマホ持ってるし、みんなラインしてるし、ラインがなかったら人間関係が破綻しちゃうの」
「破綻って、そんな大袈裟なもんじゃねぇだろ。しかし、花音ってほんと面倒臭い性格してるよな」

 吐き捨てるようにシンバが言った。不思議と、腹は立たない。


「友だちとの事だってウジウジ、今は敦彦とかいう男の事でニヘニヘ。きっぱりはっきり、ものを言ってやりゃあいいのに。本音を言わないで相手の事ばっかり考えて自分を置いてけぼりにするから、そんな面倒臭い事になるんだよ」
「きっぱりはっきり、ものを言えたら苦労しないよ。わたし、シンバじゃないもん」


 シンバが親友なのは、シンバにはなんでもストレートに言え合えて、それでもなぜかお互い怒りの感情が湧いてこないことだ。でもわたしはシンバ以外の誰かには、どうしても気を遣ってしまう。嫌われたくないから。嫌な気持ちにさせたくないから。わたしを駄目な子だって思ってほしくないから。
 要は、自分に自信がないんだ。


「花音は好きなのかよ。そいつのこと」
 シンバが言う。ターコイズブルーの瞳に、小さな怒りが潜んでいる。


「わからないけど……もしかしたら、これから好きになるかもしれないし。そうなったら、楽しいかなって」
「ふーん」
 つまらなそうに言って、シンバは立ち上がった。

「ま、決めるのは花音だからな。そいつとデートする事になっても、俺に止める権利はない」
「……うん」
「でも、うっかりケツ揉まれるなよ」
「だから敦彦くんはそんな事はしないってば! シンバとは違うの!」
「わかんねぇぜ。男はみんな狼なんだからな」
「シンバもなの?」

 そう訊くと、シンバはちょっと口ごもった。

「花音の胸、ブラジャーの上からだからごつごつしてたけど、結構いい感触だったよ。ちょっと、ドキドキした」
「……」
「男なんてそんなもんなんだ。よく覚えとけ」

 照れているのか、カッコつけたつもりの台詞の最後が、ちょっとごにょごにょしていた。