放課後にファミレスでバイトを始めた茉奈と校門前で別れ、一人、バスに乗る。星が丘の制服が、やっぱり多い。でも野々村敦彦くんの姿は、どこにもなかった。頭が良さそうな男の子だったから、放課後は学校で自習するか、駅前の予備校にでも行っているんだろうか。そもそも星が丘は、難関大学へ毎年何十人も送り出す、この辺りではぴかいちの進学校だ。


 バスを降り、色づいた桜の葉っぱを見つめながらふらふらと家まで歩く。デイケアから帰ってきたおばあちゃんは、いつものように車椅子にちょこんと座って、テレビを観ていた。


「おかえり、花音」
「ただいま」


 午後のワイドショーは、どうでもいい芸能人のどうでもいいスキャンダルについて延々と報じていた。スタジオには弁護士やコメンテーターがたくさんいて、どうでもいい問題についてどうでもいい議論を交わしている。


「ねぇ、おばあちゃん」
「なんだい?」
 キッチンでインスタントコーヒーを淹れながら、おばあちゃんに問う。


「おばあちゃんの初恋って、いつ?」


 こんな事、お母さんにはとても訊けない。言ったら、何花音、好きな人でもできたの、なんて大騒ぎするから。親には恋愛の話はできないのに、おばあちゃんにはできる。


「初恋、ねぇ。花音と同じ年頃くらいの頃には、もうおじいちゃんと出会ってたよ」
「そうなの!?」

 つい、声が大きくなる。どうでもいい番組を観ながら、おばあちゃんがふふふ、と口元を緩める。


「おじいちゃんとおばあちゃんは、初恋同士で結ばれたんだよ」
「そう……なんだ」


 リビングの隅っこにある仏壇に目をやる。おじいちゃんの写真もここに飾ってあるんだけれど、小さい頃に見たおじいちゃんの写真は白黒写真で固い顔で写っていて、今でもちょっと怖いから、あんまり見たくない。

 わたしが小さい頃に死んでしまったおじいちゃんの事は、そもそもあまり覚えていなかった。一緒に山に昇った記憶が、ぼんやりとあるくらい。


「花音は山が好きなんだなぁ」
 そう言っておじいちゃんは、ちっちゃなわたしを抱っこしてくれたっけ。
 コーヒーが入ったマグカップを持って部屋に入ると、シンバが机の上で漫画を読んでくつろいでいた。シンバがハマった漫画は、もう最終巻まで来ている。


「それ、面白いでしょ」
「あぁ、犯人、意外な奴だった」
「コーヒーあるけど飲む?」
「俺、コーヒー駄目。喉がやたら渇くんだもん、あれ。麦茶は美味いけどな」

 身体全体でページをめくるシンバの前に、椅子を引いて座る。ホットコーヒーを口に運んでいる間、シンバは漫画に集中していた。

「ねぇ、シンバ」
「何?」
「わたし……ラブレター、貰った」
「は!?」
 シンバが振り向いた。ターコイズブルーの瞳がどこか怪訝だ。


「誰だよ、それ! 同じ学校の奴か!?」
「いや……違う高校の人。いつも朝、同じバスに乗ってって……」
「とりあえず見せてみろよ、その手紙」


 カバンから手紙を取り出すと、シンバは憮然とした表情で受け取った。きれいに並んだ文字を見つめた後、うーん、と唸る。


「花音は好きなのか、こいつのこと」
「いや……別に好きじゃないよ。全然知らない男の子だし……」
「だったら、ほっぽっとけよ。勘違いさせると、ストーカーになるぜ、こういうタイプ」
「ストーカーって、そんな。この人、いい人だよ。そんな事しない」
「なんで知らない奴の事庇うんだよ!」
「別に庇ってるわけじゃ……」


 はーぁ、とシンバがため息を吐く。


「花音は話したいのか? こいつと」
「そりゃ……ね。なんでわたしのことが好きなのか、興味あるし、話してみたいって思う。有名な私立の男子校に通ってるから、勉強も出来そうだし……」
「ふーん」


 シンバはなんだか、機嫌が悪そうだ。茉奈は喜んでくれたのに、シンバは違うの? シンバだって、友だちなのに? 親友なのに?


「ねぇ、小人って、どうやって恋愛するの?」
 張りつめたムードを和らげるために、話題を変える。シンバは頭をぽりぽり搔きながら、話してくれた。


「小人は十八歳以上になると、小人同士のパーティーに呼ばれるんだ。そこで、他の家で暮らしてる小人と出会う。酒も出るし、楽器が弾ける奴は楽器も弾くし、ダンスもする。だいたい、小人はそこで、結婚相手を見つけるんだよ。うちの父さんと母さんも、パーティーで出会った」

「へぇ……そんなパーティー、どこでやるの?」

「ここみたいな、古い家の屋根裏とか、誰も住んでいない廃墟とかな。日本じゅうの小人が集まるんだ、鳩に乗ってな。俺も早くパーティー、行きてえなぁ。酒飲めるし、女の子と出会えるし」

「お酒は、わたしも早く飲んでみたいな。小学校の頃、お父さんの気が抜けたビールをお茶と間違って飲んだことあるけど、すごくまずくて。でも大人って、美味しそうにビール、飲むよね。ほんとに美味しいのかなぁ」


 人間はお酒は二十歳以上からなのに、小人は十八歳からOKらしい。いいなぁ、小人って。


「まぁ、そんなことどうでもいいだろ」
 シンバが乱暴に言う。


「で、花音はどうするんだよ。その、野々村敦彦とかいう奴に、電話してみるの?」
「そりゃね……毎朝同じバスに乗るんだもの。無視したら失礼だよ」
「そういう考えも、ありっちゃありだけどな。でも、絶対誤解させるなよ。別に好きなわけじゃないんだから」
「わかってるよ……シンバって、ずいぶん心配性だね。もしかして、わたしに彼氏できるの嫌?」


 そう言うと、シンバはくるんと背を向けた。


「花音は、俺にとって大事な子だからな」
 大事な子、の部分に妙に力が入っていて、胸がぽっと熱くなる。
「だから、いい加減な奴には渡せねぇ。これは、友だちとしての忠告だ」
「……うん」
 友だち、の部分が妙に冷たく聞こえてしまったのは、なんでだろう。


 その日は慌ただしく過ぎていった。夕方、お母さんが帰ってきて、いそいそと二人で夕飯の支度をして、七時を過ぎて帰ってきたお父さんを迎え、おばあちゃんと一緒に家族みんなでご飯を食べる。お風呂に入っている間、野々村くんのことを考えてしまって落ち着かない。自分に好意を抱いている男の子と夜中に電話するなんて、もちろん初めての経験だ。いったい、何を話せばいいんだろう?


 十時になるまで、わたしは落ち着きなく過ごした。茉奈とラインを交わしたかと思えばSNSが気になり、動画サイトで面白いチャンネルを観てもすぐ飽きてしまう。あまりの緊張に、すっかり落ち着きをなくしていた。

シンバがつまらないと言っていた本棚の中の少女漫画に手を伸ばして、一巻読んだところでやめた。野々村敦彦くんはこの漫画に出てくる男の子みたいに、イケメンで爽やかでちょっと強引じゃない。どこまでも真面目な、まっすぐな子だ。いや、だと、思う。少なくとも、受け取った手紙からはそんな印象を受けた。

 話してみないと、野々村敦彦くんのことはわからない……

 十時になって、ゆっくりスマホに表示された数字をタップしていく。その様子を隣で、シンバが口を真一文字に引き結んで窺っている。呼び出し音が鳴る。一回、二回、三回。五回目で、通話モードに切り替わった。


『もしもし』
「もしもし……あの……」
 緊張で声が掠れる。心臓が身体の真ん中で暴れ回っている。


「今日、手紙をもらって、その……」
『わかるよ。あなただよね。名前、知らないけれど。きっと、電話くれるって思ってたんだ』
 耳に優しい声は妙に落ち着いていた。お陰でわたしの緊張も、少し和らぐ。


『あなたって呼ぶのもあれだから、名前、教えてもらってもいいかな?』
「花音です。荒川花音」
『花音ちゃんっていうんだ。可愛い名前だね』
 男の子に可愛い、なんて言われ慣れていないから名前を褒められただけときめいてしまう。内心の動揺を悟ったように、野々村敦彦くんが言う。


「名前負け、してると思うけど。可愛い名前の割に、全然可愛くないし……」
『そんなことないよ。僕は、花音ちゃんが窓の外を見ている横顔にドキドキしてたんだから』
 ストレート過ぎる告白が、胸のゴールゲートを抜けて行った。


『それで、花音ちゃんはどう? 僕と、付き合ってみる気はある?』
「えっと、それは……わたし、野々村くんのことよく知らないし……」
『それは、お互いそうだね』
 そう言って、野々村くんのふふふ、と笑う声がする。


『じゃあ僕たち、友だちになろう。この番号登録すれば、ラインできると思うから。そこから僕にラインして』
「わかった」
『あと、僕のことは野々村くん、じゃなくて敦彦くん、でいいよ。僕も花音ちゃん、って名前で呼ぶから』
「わかった……」


 スマホ代を節約しなきゃいけないという野々村くんはそこで電話を切ってしまい、わたしたちはその後ラインでメッセージをやり取りし始めた。シンバがいかにもご機嫌斜めといった顔でこちらを覗き込んでくる。


「花音、何ニヘニヘしてんだよ」
「ニヘニヘなんかしてないって」
「してた。いかにも恋に浮かれちゃってる乙女の顔だぜ」
「してないってば!」
「気付いてないのかよ、自分で鏡見てみろよ」


 言われて、メイク用の鏡を見てみると、たしかにほっぺたがほんのりピンクに染まってた。


「それにしても、いけすかない奴だな。何が花音ちゃん、だよ。あいつ、絶対女慣れしてるぜ」
「それは違うと思うけど。敦彦くん、男子校だし。星が丘だし」
「優秀な学校に通ってるからって、真面目な人間になるとは限らないんじゃないのか?」
「そうだけど……」
「花音、気を付けろよ! うっかりしたら、そいつにケツとか触られるぜ」
「人前で胸揉んでた小人が何言ってるのよ」


 後ろめたかったらしく、シンバがぴしりと固まる。そんな姿が可愛くて、ちょっとからかってみたくなかった。


「ねぇシンバ、もしかしてヤキモチ妬いてるの? わたしに男の子の友だちができるのが、そんなに気に入らない?」
「うるせー馬鹿! 俺は、花音が大事な友だちだから、いい加減な奴とくっついてほしくねぇだけだ! 断じてこれは、嫉妬なんかじゃねぇからな!!」
「声大きいよ」


 声を荒げたシンバがふと冷静になって、ひとつだけため息をつくとくるりと背を向けた。


「俺は今日はもう家に帰る。花音も忙しいだろ。敦彦とかいう奴と連絡取らなきゃいけないんだから」
「うん」
「それにこれ以上、ニヘニヘしてる花音を見ていたくないからな」


 それって、どういう意味だろう。シンバはやっぱり、わたしに男の子の友だちが……いずれ彼氏になるかもしれない人ができるのが、気に入らないんじゃないだろうか。そしてその気持ちを、シンバは嫉妬と自覚すらしていない……?

 それ以上問いただせないまま、シンバは天袋の向こうに消えて行った。