学校で、シンバはおとなしくしていた。わたしはいつも学校についてすぐ自分の席に座って、教科書やノートを机に入れてから里美たちと話すんだけど、シンバはその時えいやっとカバンから飛び出して一緒に机の中に飛びこんだ。手にくるんで入れてあげるつもりだったのに、本当に運動神経抜群だ。
朝のHRも授業中も、シンバは息ひとつせず静かにしていた。あのおしゃべりなシンバが、よくじっと黙っていられるなぁ、と正直感心していた二時間目の英語の授業中、シンバが教科書の陰にのって机の上に飛び乗ってきた時は、本当にびっくりした。
「何してるの」
ひそひそ声で話しかける。シンバもひそひそ声で答える。
「みんな発音悪ィんだもん」
たしかに今英語の授業中だけど、そんな事が気になるのか!
シンバは外国人みたいな彫りの整った顔をしているから、英語にうるさいのかもしれない。
「しょうがないよ。ネイティブの高速の発音聴きとれる子なんて、よほど耳がいい子しかいないんだから」
小学校の頃から英語の授業はあったけど、みんなやっぱり発音は苦手だった。わたしも今だに、RやVが上手く発音できない。
「発音記号ってわけわからないんだもん」
「簡単じゃねぇか」
「どうやって、唇をぶるって回すの」
「簡単じゃん」
「その簡単、がわからないんだよ」
わたしは本当に口が不器用だ。蕎麦も啜れないし、口でおならもできないし、典型的なクチャリャー。よく噛んで食べなさい、と言われて育ったから、どうしてもそうなる。
「荒川、ひとりで何しゃべってるんだ」
先生の声がしんとした教室に響き渡る。みんなが一斉にこっちを見る。
ばくん、と心臓が胸の真ん中で大きく跳ねた。
「何しゃべってたのか、英語で言ってみろ」
必死に頭を動かす。
「アイアムスピーキングピークドロファー!」
咄嗟にそう言うと、クラス中が爆笑に包まれた。
シンバが笑いをかみ殺している。わたしは顔が耳まで熱くなった。
「花音って天然だったんだねー!」
里美の元気な声がクラスじゅうに響き渡る。良かった……ほんとに小人かいるって思われなくて、本当に良かった。
「荒川って、真面目だけど冗談も言える子だったんだな。新たな発見だ。ユーアーソーユニーク!」
「スーパー!!」
クラスじゅうが一斉に笑い声に包まれた。
爆笑の渦の中で、恥ずかしいけれど、ハートがほんのり、赤くなった。
さっきからずっとドキドキしている。
昼休みの教室で、いつもの四人組で喋っていても、心はここにあらずだ。胸ポケットにいるシンバがバレないか、気になってしょうがない。
「紫のリップ欲しいんだよねー」
「スリーコインズで、三百円で買えるよー!」
「あれ、発色悪いじゃん。もっと発色のいいやつが欲しい!」
「紫のリップなんてキモい」
茉奈の発言に、里美と鈴子がえーっと声を合わせる。
「紫リップ、カッコイイじゃん! 海外のアーティストみたい!」
「あたしも紫リップ、好きー!」
「リップはピンクが一番いいよ。わたし、赤のリップすらつけられないし。花音もそう思うでしょ?」
茉奈に同意を求められ、色付きのリップクリームしかつけないわたしは慌てて頷く。
「ほらね、花音もそう言ってるじゃん」
「花音はリップ、何色がいちばん好きー?」
「ピンクかな」
小声でそう言うと、胸ポケットの中のシンバが身じろぎをした。
「ほら、やっぱリップはピンクだよ。夏はオレンジだけど」
「えー! あたし、夏でも真っ赤なリップつけたいー!」
里美が大声を出して、里美&鈴子VS茉奈のリップは赤かピンクか論争が始まった。この子たちって、なんでこんなに気が合わないのに友だちやってるんだろう……
そんなことを思いながらぼけっとしていると、シンバが動き出した。え、ちょっと、シンバ、何やってるの?
すぐわかった。ブラジャーの上からだから最初は気付かなかったけれど、シンバが胸を揉んでいる。この変態小人!! 小さな手でごりごり胸を揉むのに、すごい力だ。初めて男の子に胸を揉まれたドキドキ感で顔が熱くなる。
シンバの馬鹿! スケベ! 何やってるの!!
「花音の胸、今、動かなかった?」
鈴子が言う。シンバの動きがびたっと止まる。
ヤバイ……
二人同時に、そう思っていたのは間違いない。
「な、何言ってるの。胸が勝手に動くわけないじゃん……」
慌てて笑いの顔を作りながら喋る。
「でも花音、今日胸ポケ、大きいよねー? なんか入ってるのー?」
「飴入れてきた」
「あ、じゃあそのせいかもしれないねー?」
ひとつ頂戴、と言われなくて本当に良かった……と胸をなでおろす。
まったくシンバってば、女の子の胸勝手に揉むなんて! 何考えてるの!!
「それよりさー、みっくんがさー!」
と、里美が彼氏の話を始める。
「マジ最近、ヤリたがってばっかで、正直ウザいー!」
「高校生の男の子なんてそんなものじゃない? 里美が見る目ないんだよ」
「鈴子の彼氏はいいなー! ヤリたがりじゃないから」
「たっちゃんもヤリたがるよ。だからなるべく、家には呼ばないようにしてる」
「マジかー! そうすればいいのかー! でも、彼氏がいるだけいいよねー!」
「うん、男はいい」
「茉奈と花音はなんで彼氏作らないのー?」
里美があっけらかんと問いかける。わたしは、ぼうっとしててついしどろもどろになる。
「わたしは……片想いしかしたことないから。小学校も中学校も、気になる男の子をずっと目で追ってるだけ」
「でも、このクラスにタイプの男子とかいるでしょー? 誰―?」
「いや……今は特に、いないか、な」
運動神経が悪くて外遊びが苦手だから、幼稚園の頃からひとりで教室で本を読んだり、お絵描きしているのが好きだった。人見知りが激しくて、誰かに声をかけられるまでじっと机に座っているタイプで、小学校も中学校も好きな男の子はいたけれど、遠くから見ているだけ。
わたしは、男子とあけすけな話ができるタイプじゃない。男の子の友だちは、シンバが始めてだ。
「花音、トイレ、行こ」
茉奈が立ち上がる。里美と鈴子が揃っていってらー! と声をかける。
「あーあ。あたしだって、高校生になったら彼氏作ろうって、中三の春休みぐらいには思ってたのになぁ……」
ツインテールを鏡の前で手櫛でとかしながら、茉奈が言う。わたしも、手櫛で前髪の乱れを直し、ほんのり発色する色付きのリップクリームを塗る。
「花音、今好きな人っている?」
「特には……いないかな」
「そうだよね。高校生になって彼氏どころか好きな人もいないなんて、全然、普通だよね?」
念押しするように茉奈が言った。
「恋愛なんて、大人になってからいくらでも出来るじゃん。里美も鈴子もちっとも勉強しないで、彼氏とおしゃれの話ばっか。最初は気が合うと思ってたけど、今はなんか無理」
「うん……」
か細く答えるわたしの胸ポケットで、シンバがひとつ、ちいさな身じろぎをした。
「あたしマスカラ直してくから、花音は先、教室戻ってて」
「わかった」
昼休みの蜂の巣を突っついたような大騒ぎの廊下をひとり歩く。遠くで、昼連をしている野球部の校舎の周りを走る掛け声が聞こえる。
わたしはこういう、自分が嫌いだ。友だちの話に合わせてばっかりで、本音を言えない。自分のこういうところ、本当に何とかしなきゃいけないと思う。
「花音―! おかえりー!」
教室に戻ると、里美の元気な声に迎えられる。慌てて笑顔を作る。
「今さ、鈴子と二人で、茉奈ってウザいなって話してたんだよねー!」
「え」
思わず、声が固まった。
「うちらが彼氏いるからって、絶対僻んでるよ! あいつ」
鈴子も大きな声で言う。心臓がひやりと縮んだ。
「だいたい、茉奈ってダサいんだよねー! 何よ、高校生になってもあのツインテール! 背が低いからロリキャラ狙ってるんだろうけど、胸が断崖絶壁だから、まるで小学生みたいー!」
「わかるわー! 彼氏作る以前に、あのダサいメイクなんとかした方がいいよね」
「花音もそう思うでしょー?」
薔薇の棘みたいな言葉みたいに、黙って首を縦に振った。