取り付けたばかりのカーテンの隙間から西日が斜めに差し込んできて、うずたかく積まれた段ボールの山を照らす。
引っ越しにあたって、今までサボってきた整理整頓をまとめてやった。小学校の時から着ていた子どもっぽい服はゴミに出したし、読まない漫画や本は古本屋に売った。断捨離、というやつを人生で初めて体験した。手放した時は余計なものをそぎ落とした、こざっぱりした、爽快感みたいなものがたしかにあったはずなのに、それでも必要な荷物はたっぷりあって、こうして段ボールの山を前にするとふうと胸の奥から深いため息が漏れてしまう。結局、断捨離なんてたいていの人間には無理で、捨てられないものをたくさん抱えながら生きていくものなのかもしれない。
「花音―、少し休憩しましょ」
階下からお母さんの声がする。わたしは額に浮かぶ汗を手の甲で拭いながら答える。
「今段ボール一個片付けてるから、終わったら行くー」
その声を了解と受け取ったらしく、返事はなかった。教科書やメイク道具、そして夏休みの宿題など、普段使っているものが詰まっているこの箱だけは今日じゅうに片付けておきたかった。
夏休みはまだあと三日ほど残っているけれど、段ボールの山と共に新学期を迎えたくはない。今日できる事は、今日のうちに。学校でも家でも真面目な子と評されているわたしのモットーみたいなものだ。
箱の中のものを片付けて階段を下りると、一階もわたしの部屋と似たようなもので、所せましと段ボールだらけだった。引っ越しに向けてお父さんとお母さんも断捨離らしきものをしていたみたいだけど、大人でもやっぱり上手くいかないらしい。
まだだいぶ荷物が残っているダイニングルームで、お父さんとお母さんとおばあちゃんが麦茶を飲んでいた。コンビニで買ってきたらしい二リットルのペットボトルがテーブルの隅に置いてある。左手が上手く動かないおばあちゃんのために、おばあちゃんのコップにはストローが刺さっていた。
「やっぱり、引っ越しは大変ね。お風呂場とトイレはなんとか片付いたけど」
首からかけたタオルで額の汗を拭きながらお母さんが言う。朝から働きづめで、声がくたびれていた。
「涼しい日で良かったなぁ。一週間前だったら、熱中症になってたよ」
のんびりと言うお父さんの首にもタオル。大きなビール腹を抱えて作業するのはしんどいのか、額の汗の玉はお母さんの三倍ぐらいびっしりとついている。
「二人とも、私のためにすまないねぇ。私が倒れたりするから」
そう言うおばあちゃんは三ヵ月前に病院で会った時よりはだいぶ言葉がすらすら出てきて、頭の方はすっかり元通りになったみたいだけど、その身体を支えるのは無骨な車椅子。リハビリをだいぶ頑張ったけど、左手と左足は動かないままだ。
「いいのよ、おばあちゃん。これからは毎日一緒だから、安心だし」
お母さんが秋の初めの雲みたいにやわらかく笑いかけた。おばあちゃんが入院して、いちばん大変だったのはお母さんだ。仕事の後毎日病院に通って、ケアマネさんとのやり取りもお母さんが中心で。結果的におばあちゃんは車椅子生活になってしまったけど、それでも命があるだけよかった、とよくお母さんは言う。
「手すりをつけただけでだいぶ、雰囲気が違っちゃったわね、この家。さっき段ボールを運んでたら、手すりにぶつかりそうになっちゃった」
「俺もだよ。おばあちゃんにとっては便利だけど、健常者にとっては障害にもなるんだなぁ、手すりって」
「気を付けて荷物片づけないとね。私たちまで怪我したら大変だから」
お母さんがコップを置いて、麦茶と一緒に買ってきたらしいお煎餅に手を伸ばした。
同じ町内で暮らす母方のおばあちゃんが倒れたのは、五月のこと。脳出血だった。わたしが小さい時おじいちゃんが亡くなって以来、一人で暮らしてたおばあちゃんをお父さんもお母さんもすごく気にかけていたけれど、病気はどうしようもない。
おばあちゃんは身体が動かなくなってすぐ、床を這って自分で携帯電話から救急車を呼び、処置が早かったから命は助かった。でも左手と左足が麻痺してしまって、車椅子での生活を余儀なくされた。
そんなおばあちゃんを一人で暮らさせるわけにはいかなくて、わたしたち一家はおばあちゃんの家に引っ越すことになった。わたしたちの家で暮らすより、おばあちゃんが住み慣れて、しかも四人でものびのび暮らせる大きな家がいいからという上での決断だ。
元の家は今でも大きな家具はそのままに、使えるようにしてあるけれど、いつ戻ることになるかわからない。引っ越しといっても同じ町内だしなぁ…….と軽く考えていたけれど、いざやってみると初めての引っ越しは想像以上に大変だった。
でも、小さい頃からわたしを可愛がってくれたおばあちゃんとこれから一緒に住めるようになるのは、ちょっと嬉しい。
「花音は、荷物片付いた? 二学期が始まる前に、片付けておきなさいよ」
「わかってるって。夏休みのうちには片付くよ」
言いながら、山と積まれた段ボールを思い浮かべて思わずため息がこぼれそうになる。本当に、あと三日で片付くのかなぁ。宿題を早めに終わらせておいてよかった。
「今夜は引っ越し蕎麦にしましょう。四人前、出前とって」
「おっ、いいねぇ。天ぷらもつけよう」
「じゃあ、天ぷら蕎麦四人前ね」
「ビールも買ってきていいかい?」
「もちろんよ」
お父さんがじゃあもう少し頑張るか、と麦茶を飲みほして席を立った。
引っ越しにあたって、今までサボってきた整理整頓をまとめてやった。小学校の時から着ていた子どもっぽい服はゴミに出したし、読まない漫画や本は古本屋に売った。断捨離、というやつを人生で初めて体験した。手放した時は余計なものをそぎ落とした、こざっぱりした、爽快感みたいなものがたしかにあったはずなのに、それでも必要な荷物はたっぷりあって、こうして段ボールの山を前にするとふうと胸の奥から深いため息が漏れてしまう。結局、断捨離なんてたいていの人間には無理で、捨てられないものをたくさん抱えながら生きていくものなのかもしれない。
「花音―、少し休憩しましょ」
階下からお母さんの声がする。わたしは額に浮かぶ汗を手の甲で拭いながら答える。
「今段ボール一個片付けてるから、終わったら行くー」
その声を了解と受け取ったらしく、返事はなかった。教科書やメイク道具、そして夏休みの宿題など、普段使っているものが詰まっているこの箱だけは今日じゅうに片付けておきたかった。
夏休みはまだあと三日ほど残っているけれど、段ボールの山と共に新学期を迎えたくはない。今日できる事は、今日のうちに。学校でも家でも真面目な子と評されているわたしのモットーみたいなものだ。
箱の中のものを片付けて階段を下りると、一階もわたしの部屋と似たようなもので、所せましと段ボールだらけだった。引っ越しに向けてお父さんとお母さんも断捨離らしきものをしていたみたいだけど、大人でもやっぱり上手くいかないらしい。
まだだいぶ荷物が残っているダイニングルームで、お父さんとお母さんとおばあちゃんが麦茶を飲んでいた。コンビニで買ってきたらしい二リットルのペットボトルがテーブルの隅に置いてある。左手が上手く動かないおばあちゃんのために、おばあちゃんのコップにはストローが刺さっていた。
「やっぱり、引っ越しは大変ね。お風呂場とトイレはなんとか片付いたけど」
首からかけたタオルで額の汗を拭きながらお母さんが言う。朝から働きづめで、声がくたびれていた。
「涼しい日で良かったなぁ。一週間前だったら、熱中症になってたよ」
のんびりと言うお父さんの首にもタオル。大きなビール腹を抱えて作業するのはしんどいのか、額の汗の玉はお母さんの三倍ぐらいびっしりとついている。
「二人とも、私のためにすまないねぇ。私が倒れたりするから」
そう言うおばあちゃんは三ヵ月前に病院で会った時よりはだいぶ言葉がすらすら出てきて、頭の方はすっかり元通りになったみたいだけど、その身体を支えるのは無骨な車椅子。リハビリをだいぶ頑張ったけど、左手と左足は動かないままだ。
「いいのよ、おばあちゃん。これからは毎日一緒だから、安心だし」
お母さんが秋の初めの雲みたいにやわらかく笑いかけた。おばあちゃんが入院して、いちばん大変だったのはお母さんだ。仕事の後毎日病院に通って、ケアマネさんとのやり取りもお母さんが中心で。結果的におばあちゃんは車椅子生活になってしまったけど、それでも命があるだけよかった、とよくお母さんは言う。
「手すりをつけただけでだいぶ、雰囲気が違っちゃったわね、この家。さっき段ボールを運んでたら、手すりにぶつかりそうになっちゃった」
「俺もだよ。おばあちゃんにとっては便利だけど、健常者にとっては障害にもなるんだなぁ、手すりって」
「気を付けて荷物片づけないとね。私たちまで怪我したら大変だから」
お母さんがコップを置いて、麦茶と一緒に買ってきたらしいお煎餅に手を伸ばした。
同じ町内で暮らす母方のおばあちゃんが倒れたのは、五月のこと。脳出血だった。わたしが小さい時おじいちゃんが亡くなって以来、一人で暮らしてたおばあちゃんをお父さんもお母さんもすごく気にかけていたけれど、病気はどうしようもない。
おばあちゃんは身体が動かなくなってすぐ、床を這って自分で携帯電話から救急車を呼び、処置が早かったから命は助かった。でも左手と左足が麻痺してしまって、車椅子での生活を余儀なくされた。
そんなおばあちゃんを一人で暮らさせるわけにはいかなくて、わたしたち一家はおばあちゃんの家に引っ越すことになった。わたしたちの家で暮らすより、おばあちゃんが住み慣れて、しかも四人でものびのび暮らせる大きな家がいいからという上での決断だ。
元の家は今でも大きな家具はそのままに、使えるようにしてあるけれど、いつ戻ることになるかわからない。引っ越しといっても同じ町内だしなぁ…….と軽く考えていたけれど、いざやってみると初めての引っ越しは想像以上に大変だった。
でも、小さい頃からわたしを可愛がってくれたおばあちゃんとこれから一緒に住めるようになるのは、ちょっと嬉しい。
「花音は、荷物片付いた? 二学期が始まる前に、片付けておきなさいよ」
「わかってるって。夏休みのうちには片付くよ」
言いながら、山と積まれた段ボールを思い浮かべて思わずため息がこぼれそうになる。本当に、あと三日で片付くのかなぁ。宿題を早めに終わらせておいてよかった。
「今夜は引っ越し蕎麦にしましょう。四人前、出前とって」
「おっ、いいねぇ。天ぷらもつけよう」
「じゃあ、天ぷら蕎麦四人前ね」
「ビールも買ってきていいかい?」
「もちろんよ」
お父さんがじゃあもう少し頑張るか、と麦茶を飲みほして席を立った。