夜の闇に、銀の光が尾を引き落ちていった。
 河面を揺らす、小さな波紋。
 膝を抱えていた子どもは、針金のような足で立ち上がる。

「いやだ、失くしてしまったわ! 神よ、お許し下さい。大事な指輪を、どうか御許に」

 橋を見上げたら、くすんだ瞳の髪を巻いた女と視線がぶつかった。
 女は薄汚い子どもに眉をひそめ、首をひっこめてしまう。

 誰も降りてこない。
 そうこうしている間に、指輪は“失せものの河”へ流れていってしまうのに。


 この世のものは、神さまからの預かりものだ。
 物も人も、獣もすべて。
 だが大事にしていても人の手から離れてしまう事がある。
 そうした失せもの、壊れたものには、祈りを捧げて許しをこうのだ。
“失せものの河”へ流れゆき、御許へ還りますように――と。


 子どもはざぶざぶと河へ入った。
 重くたゆたう夜の河は、底が見えない。
 手探りで水をわけて砂利を撫でる。
 
「あんた、この寒いのにどうしたの」
 向こう岸から声がかかった。
 橋のたもとの暗がりで、老婆が赤ん坊をきつく抱き、痛いほどの夜気をこらえている。

「だいじなの、なくしたって」
「およし。失せものの河へ迷いこんだら、おまえが怖い魔女に拾われちまうよ」
「まじょ?」
「そうさ。神さまから失せものを横奪りする、悪い魔女がいる」

 子どもはふうんと頷き、また水に手を突っこんだ。

 ――魔女でも、だれかひろってくれるなら、すてきなのに。

 次第に、凍える水がぬるく柔らかに脚を包んで流れゆくようになった。
 失せものの河に近づいたのかもしれない。

 霧の中で首を巡らせた、その時。
 足の指に、硬い、丸いものが引っかかった。



 きっと、ありがとうって抱きしめてくれる。

「これ」
 子どもの手のひらで、大粒のダイヤが得意げに輝いた。
「河に落としたの。よかったね」
 女は絶句して、子どもと指輪を何度も見比べる。

 連れの紳士が胡散臭げに子どもを覗きこみ、悲鳴をあげた。
「私が買ってやった指輪だ! お前、失くしていたのか!?」
「まさか、ちがうわよ! ――盗まれたの、この子に! 拾ったなんて小銭をたかる気だわ!」

 子どもは震えて後ろに飛びすさった。

「返せ、泥棒猫め!」

 子どもは通行人を跳ねのけ、石畳の道を駆ける。
 警笛が、大人たちが、子どもを追いかけてくる。

「おいで!」

 路地裏から、男が子どもを手招いた。
 子どもは彼のもとへ転がりこむ。

「ひでぇヤツらだなぁ。指輪、貸してごらん」
 言われて初めて、子どもは指輪を持ってきてしまったのに気づいた。
 強張った指をはがして開くと、男は指輪を街灯にかざす。

「あの女、自慢してうるせぇからさ。『それガラスだぜ』って教えてやったの。鑑定に行こうぜって。そしたらあいつ、本当は自信なかったのな。わざと“失くした”のさ。河に――ぽちゃん」
「それ、にせもの?」
「意外や意外、こりゃあ本物かもしれんぜ」

 警笛が近づいてきた。
「た、たすけて」
 袖をつかんだ子どもの手を払い、男はポケットに指輪をつっこんだ。

「旦那! ここに隠れてますぜ!」
 男が大声で呼ばうなり、子どもは路地から飛びだした。
 その襟首を、警邏の指がかすめる。

 大粒の雨が顔に叩きつける。
 河が、飛沫をあげて怒鳴っている。

 橋の上で囲まれてしまった。

「指輪を出せ!」

 子どもはぶるぶる首を横に振る。
 人の壁が一歩ずつ迫ってくる。

 逃げ場もなく煉瓦の欄干によじのぼった。
 濡れた裸足がすべって、河へ落ちそうになる。
 キャア、と見物の女が声をあげた。

 子どもは真っ直ぐに立ちあがり、雷の轟く空を見上げ――、

 落ちた。

 濁流に弄られながら、誰かに、腕を伸ばす。



 煌めくあぶくをまとう白い手が、水の中をさぐっている。
 その人差し指を、子どもはしっかと掴んだ。

 すると指一本で、体ごと力強く引き上げられた。

「拾ってほしいのかい」

 子どもは瞳をしばたたいて頷いた。
 目の前で輝く、銀の月の瞳。

「なら、そうしよう」
 女は子どもを抱きかかえる。

 あまりにもあっさりと与えられた温もりに、子どもは幾度も目を瞬いた。
「……まじょ?」
「そうさ」
「ひろったものは、魔女のものになる?」
 そうしてくれたらいいのにと、子どもは魔女を見上げる。
「私が拾おうとも、おまえはおまえのものだ。今までも、これからも。河の果てへ流れゆくまでは、おまえはおまえだけのものだ」

 子どもにはよくわからない。
 魔女は子どもの無垢な光の瞳を覗きこみ、唇を笑わせた。
「私はよい拾いものをした。ダイヤなんてものよりも、ずっと貴いものだ」
「なら、……ええと。よかったね? 魔女」

 魔女はまじまじと子どもを見つめた後で、「そのとおりだ」とくしゃり笑った。
「大事におし」
「うん」
 子どもも歯をみせて笑った。

 つかんだ指は、まだそのまま。

 何もかもがわからなくても、この指を掴むこの時のために、腕を伸ばし続けたのだとは、子どもにもわかったから。




・・イラスト jinnさま(https://twitter.com/jinn_tubuyaki)・・





jinnさま、すてきなイラストをありがとうございます!!