明後日の、その先も。


「熱っ……」

 トレーに載せたお味噌汁にばかり気を取られていた私は、すっかり背後を油断していた。
 背中を突き飛ばされて膝から倒れたせいで、せっかく買った唐揚げ定食が学食の床に溢れてぐちゃぐちゃになる。

 ガッカリとする私の後ろで聞こえてきたのは、複数人の女子のクスクスと笑う声。振り返らなくても、彼女たち全員の顔がすぐに頭に思い浮かんだ。

 手は零れたお味噌汁でベタベタ。足元にはぐちゃぐちゃになった定食。それを横目に見ながら、通行人たちが綺麗に私を避けていく。

 彼らの冷たさを恨めしく思いながら、当たり前か……と、私は小さく息を漏らした。
 もし私が逆の立場だったら、こんな面倒臭そうな状況見て見ぬフリをするに決まってる。

 どこから片付けようか。途方に暮れていると、男子生徒の上履きが近付いてきて、ひっくり返したトレーの前でピタリと止まった。

「布巾とか、雑巾もらってきた。これで足りる?」

 驚いて顔をあげた視線の先で、私に布巾を差し出していたのはクラスメートの川名だった。
 平凡な私が言うのも失礼な話だけど、川名はいい意味でも悪い意味でも平凡な男子だ。クラスでの立ち位置も、顔立ちもふつう。

 そんな彼と私は小学校のときからの同級生で、昔はよく近所の公園で一緒に遊ぶ仲だった。
 学年が上がるにつれて自然と一緒に遊ばなくなったけど、同じ高校に進学した川名は今でもたまに私に話しかけてくる。
 そうは言っても、ただのクラスメートでしかない川名が、この状況で私に声をかけてきてくれるとは思わなかった。


「ここ片付けといてやるから、先に手ぇ洗って来いよ」

 川名がそう言って、床に散らばったご飯やおかずを雑巾で拭き取っていく。茫然とその様子を見ていると、不意に顔をあげた川名がにこりと笑った。

「どーした? あ、ついでにこれで制服の汚れも拭いてきな」

 川名がそう言って、汚れていない綺麗な布巾を手渡してくれる。

「あ、りがとう……」
「ほら、早く行ってきな」

 布巾を手にしたまま立ち上がれずにいると、川名が私を手で追い払う。
 彼に促されるままに立ち上がった私は、よろよろと歩いて学食から一番近いトイレに行った。

 お味噌汁をかぶった手を洗って、汚れた制服のスカートを濡らした布巾で拭く。
 汚れは取れても制服についたおかず臭はどうしても消えない。臭いを気にしながら戻ると、定食を溢した床はほぼ綺麗に片付けられていた。

「ごめん。ほとんど片付けてもらっちゃって……」
「そんなこと気にすんなよ。たまたま通りすがっただけだし」

 川名が顔の前で手を振って、あたりまえみたいに笑う。
「ありがとう」
「どーいたしまして」

 くしゃっと崩れた笑顔が、小学生のときに一緒に遊んでいた頃の川名の印象を思い出させる。
 こんなふうに笑ってるとこ、ひさしぶりに見たな。そう思ったら、ほんの少し胸が騒いだ。

 懐かしさに唇の端を微妙に引き上げていると、川名が「それよりさー」と言いながら急にぐっと距離を詰めてきた。
 驚いて身を引くと、彼が周囲を窺うようにちらっと左右に視線を走らせる。

「気になってること、ひとつだけ聞いていい?」
「何?」
三芳(みよし)さ、さっき佐藤達にわざと背中押されてなかった?」

 川名が、小声で私に訊ねながら眉を顰める。

 ただ定食をひっくり返しているところを助けてくれただけなのかと思ったけど……。川名は私がトレーをひっくり返すまでの一部始終を見ていたらしい。

 トレーを持っている私の背中を押してきた誰かの力は強かった。
 悪気なくぶつかったというよりも、意図的に押された。そんな気がした。
 膝をついて転んだあとに後ろから聞こえてきた笑い声は、たぶんクラスメートの佐藤さん達のもの。直接顔は見なかったけど、つい最近まで近くでよく聞いていた笑い声だったから間違いないと思う。

「三芳って、佐藤達と仲良くなかったっけ?」

 川名に訊ねられて、一瞬答えに迷った。

「つい最近までは、そうだったと思います……」
「何で敬語?」
「なんとなく?」
「この前も折り畳み傘壊されて、靴箱に入れられてたじゃん。もしかして、それも佐藤たち?」
「さぁ、どうかな」

 ちょうど1週間ほど前。鞄に入れていたはずの折り畳み傘が鋏で切り裂かれて私の靴箱に入っていた。
 壊れた傘を持って途方に暮れていたところにたまたま通りががったのが川名で。そのときも、彼が私に声をかけて助けてくれた。

 普段はクラスメートとしての関わりしかないのに、ピンチのときに手を貸してくれる川名はいいやつだ。 
 思えば、川名はよく一緒に遊んでた小学生のときからいいやつだった。


「三芳が佐藤たちにされてるのって、ふつーに嫌がらせだろ?」
「そうかも」
「なんで仲良かったのに、嫌がらせ受けてんの?」
「なんでだろう。ていうか川名、ひとつだけって言ったわりにいろいろ聞いてくるじゃん」

 自嘲気味に笑うと、なぜか川名の眉が悲し気に下がった。

 地味な嫌がらせを受けている理由は、私にもよくわからない。
 1ヶ月くらい前から、仲が良かったはずの佐藤さんたちの話題についていけないなと思うことが多くなって。みんなが私だけを外したトークグループでメッセージのやり取りをしているのだということに気が付いた。
 多分、グループのメンバーの誰かの気に障るようなことをしたのだろうけど。はっきりと思い当たることがなくてよくわからない。

 平凡な立ち位置で、平凡にやってきたつもりでも、よくわからない理由でグループからはじかれてしまうらしい。

「私も、気になってることひとつ聞いていい?」
「何?」

 私の質問に、川名が首を傾げる。

「なんで、私のこと助けてくれたの?」

 だって、みんな見て見ぬふりで通り過ぎていくんだよ。
 私が佐藤さんたちから嫌がらせを受けているのは明らかだから。

「んー、なんでって言うか……」

 川名が首に手をあてながら、目線を下げる。

「三芳はなんか、俺の目を惹くんだよね。昔っから」
「え?」

 少し照れくさそうに呟いた川名の言葉を、どう解釈すればいいのかわからなくて困った。

 目を惹くって、どういう意味で? 昔からの顔見知りだから────?

 ぽかんとしていると、視線を上げた川名が慌てたように手に下げた購買のビニール袋の中をガサゴソと探った。

「ごめん、微妙な空気にして。お詫びにこれやるよ」

 川名が私に差し出してきたのは、ハムと卵のサンドイッチだった。

「さっき定食ダメになっちゃったから。腹減ってない?」
「でも、これ……」
「あ、その具材好きじゃなかったっけ?」
「好き、だけど……これ、川名の昼ごはんでしょ?」
「へーき、へーき! 俺、他にも食うものあるし」

 川名がそう言って、強引にサンドイッチを押し付けてくる。

「ありがとう……」

 戸惑い気味に受け取ると、川名がくしゃりと表情を崩すようにして笑った。

「じゃぁ、俺、人待たせてるから行くな」

 川名が私に手を振って、そそくさと学食の外へと駆けて行く。
 早足で去って行く川名の背中を見送りながら、私は少し温かい気持ちになっていた。

***

 その日の午後。ロッカーに置いておいた体操着がなくなった。
 体育の授業に出られず見学し、放課後に学校中を探し回ったら、プール横の更衣室のゴミ箱から汚れた体操着が出てきた。
 上履きで踏まれたのか、足型みたいなものまでついている。

 家に持って帰る前に、下洗いしといたほうがいいかな。
 昇降口のそばにある水道に行って、体操着を洗っていると、ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。

 目立つ汚れは落とし終えたし……体操着をぎゅーっと固く絞って、屋根の下に避難する。

 1週間前に折り畳み傘が壊されてしまったことをまだ母には話せていない。
 傘がないし、本降りになる前に走って帰ろう。その前に、保健室で洗った体操服を入れるビニール袋もらわなきゃ。

「うわ、最悪。雨降ってんじゃん」

 保健室に向かおうとしたとき、昇降口から出てきた男子生徒がため息を吐く。
 少し不貞腐れたような顔で曇り空を見上げているのは川名で。その横顔に、ふっと笑みが溢れた。

 不思議だけれど、川名の顔を見たら、体操着を汚されて落ち込んでいた気持ちが和いだ。

 声をかけてみようかな。なんとなくそう思って一歩踏み出したとき、昇降口から駆け出してきた女子が笑顔で川名の肩をぽんっと叩いた。