翌日の昼休みから、図書館で図書新聞の入力作業を始めることにした。

雪見さんに図書委員会用のノートパソコンとUSBメモリーを出してもらい、カウンターに近い机で開いてみる。一緒に来た大鷹の指示にしたがって入力用のファイルを開き、以前のデータを参考にしながら、まずは自分の担当コーナーから打ち込んでいく。

「鵜之崎くん、ブラインドタッチ? パソコン得意なのね」

キーボードを打つ俺の手を見て、大鷹が少し驚いた様子で言った。感心してくれたらしいことに気分が上がる。

「中学生のころに兄貴と勝負するために練習したんだ。何度やっても勝てなかったけど」
「そうなんだ? お兄さんとはいくつ離れてるの?」
「4つ」
「じゃあ、勝てなくても仕方ないね」

思わず手が止まった。上がりかけていた気分がゆっくりと下降していく。

「うちの場合はちょっと違うんだ」

言いながら苦い笑いが浮かんできた。

「俺がそのときの兄貴の年齢になっても追いつけない。全然」
「そんなことないよ、きっと」

彼女の軽く励ます口調が胸の中を微かにひっかいた。

このままスルーすることもできるし、普段はそうしている。諒のことを説明するときに自分の中に生じる苦味を味わわないために。

けれど今は話したい気がする。彼女なら分かってくれるかも知れないから。似た境遇にある彼女なら。

だから手を膝におろし、そっと息を吐いて椅子の背に寄りかかった。

「うちの兄貴は特別なんだ。ものすごく優秀で」

大鷹ははっと目を見開いた。

「小さいころからずっとそう。大学でも。勉強ができて、みんなから頼りにされて。この学校に通ってたから、今でも兄貴のこと覚えてる先生もいる。当時の全国規模のコンクールの賞状も飾ってあるし、生徒会長も務めてたんだ」
「そのひと、いちごの……だよね?」
「そう。だからいちごも諒――兄貴のことはあんまり話さなくて済むようにしてるって言ってた。自慢してると思われると困るからって。俺たちにとってはただの兄貴なんだけど、周りにとっては “すごいひと” だから」
「そうなんだ……」

彼女は静かに視線を落とした。深刻になるつもりはなかったから、急いで笑顔をつくってフォローする。

「でも俺、兄貴のことは好きなんだ。仲もいいよ。ただ、自分が情けないっていうか、どうして俺には何もないんだろうって、ときどき勝手に落ち込んじゃうだけで」
「あ! あたしも同じ!」

勢いよく彼女が顔を上げた。すぐにバツが悪そうに周囲を見回し、微笑んで肩をすくめると静かに話し出した。

「鵜之崎くんも聞いてるかも知れないけど、あたし双子で――似てないんだけどね、片割れはモデルやってるの。中学のときからで、結構人気あるんだ」
「聞いたことあるよ。クラスでもときどき名前出てるよね?」
「そうなの。この学校に入ってすぐに知れ渡っちゃって……、雑誌で見たよって言ってくれるひともいるし、知らないひとから声をかけられることもあるの。そういうとき、みんな、あたしのことは “モデルのKuranの片割れ”って思ってるんだなって思うんだ」
「それ! 俺もあるよ」

思わず人差し指を向けてしまった。けれど、彼女が言ったことはまさに俺が感じていたことで。

「みんなきっと、すごいのは俺の兄貴で、俺は影みたいな、おまけみたいな……どうでもいい存在って思われてるんだなって」
「うん。Kuranがいなければ、あたしは普通の生徒にもなれないのかなって思ったりね」

まさにそのとおり。

深くうなずく俺を見て彼女が微笑む。分かり合えた仲間の微笑みだ。

「でもね、今はちょっと変えていこうと思ってるの」

彼女が明るい瞳を向ける。

「きのう借りた『五輪書』ね、あれの最初のところ。鵜之崎くんも読んだはずだよ」
「最初のところ? 十代から剣の勝負で負けたことがないって……」
「そうそう! そのあとに、自分が本当に強いから勝ったのか、相手が練習不足とか問題があったから自分が勝てたのか分からないって書いてあった」
「ああ」

そうだ。だから、もう剣の試合をするのはやめたと。

「あれって他人と自分を比べても、ほんとうの自分の強さは分からないってことだよね? だからもう比べるのはやめて、自分で精進しようって考えたわけでしょう? そこのところではっとしたの。あたしも比べてるんだって」
「比べてる……」

大鷹の言いたいことがおぼろげに見えてきた。

「自分がダメだと思うときって、たいてい誰かと比べてる。で、落ち込んだり、諦めたり。でも、思ったの。比べることから自分を解放してみようかなって」
「解放」
「そう。まあ、勝ち続けても自分の強さに確信が持てなかった宮本武蔵とは大違いだけどね」

にっこりして彼女は続ける。

「『解放』って、いい響きじゃない? 一気に自由になったような気がする」
「そうだね」

晴ればれとした笑顔を浮かべる大鷹。なんだかまぶしくて、思わずまばたきをした。

「他人が勝手に比べるのは仕方ない。止められない。でも、自分で比べるのは決心次第でやめられるでしょう? で、レベルが低い自分に落ち込む代わりに、何を頑張るか考えるの」
「何を頑張るか? 落ち込む原因をなくすように頑張るんじゃなくて?」
「ふふふ、そうなの。だって、背が低いとか運動音痴だとか、努力してもどうにもならないことはあるよ」

たしかにそうだ。俺がイケメンになりたいと思っても……金をかければできるのか?

「だからその分、ほかのことで自信を持てるように努力するの」
「なるほど。平均点で勝負するわけだな」
「あ、たしかにそういうことかも!」

一緒に笑ってから思い出した。

「まあ、大鷹には本を読むことがあるからな」

ため息をつく俺を見て、彼女が不思議そうな顔をした。

「ちゃんと頑張りたいことがあるじゃん? でも、俺は何も見つからないんだ」

彼女は小さく首を傾げた……と思ったらニヤリと笑った。

「鵜之崎くん、もう比べてる」
「え?」
「頑張りたいことがあるかどうかであたしと比べて落ち込んでる」
「あ」

たしかに比較してる!

「そんなことを比べる必要なんてないよ、人それぞれだし。それにね、あたしの読書は頑張りたいこととは違うから」
「違うって?」
「本を読むことはね、なんて言うか……」

言葉を探して視線をさまよわせる。それからにっこりした。

「息をするのと同じ。生きることに付随するもの。頑張るものではないんだよね」
「ふうん」
「ってことで」

俺にひたと視線を合わせ。

「一緒に頑張ろう」
「え?」
「比べるのをやめる同盟。お互いに注意し合えば上手くいきそうじゃない?」
「あ、なるほど」

一緒になんて……俺でいいのか? そんなに簡単に俺と一緒にやるって決めていいのか、大鷹?

「あのう……」

後ろから控えめな声が。振り向くと1年生がふたり立っている。図書新聞担当の1年生だ。

「1年生の分の原稿を持って来たんですけど……」

おずおずと差し出された原稿を確認してみる。予定より紙が大きいと思ったら、館内の見取り図入りで利用案内が出来上がっていた。これならもう入力せずに貼り付ければよさそうだ。

「ありがとう。この見取り図、よくできてるね」
「あ、それは雪見さんにもらったんです」
「それに必要なことを書きこんで」

ほっとした様子でふたりが顔を見合わせる。

「それじゃ、失礼しました」
「お邪魔しました」

妙に丁寧にあいさつをしてふたりが去っていく。直後に「閉館5分前でーす」と声がかかった。今日はこれまでだ。

「あんまり進まなかったね。おしゃべりしちゃってごめんね」

大鷹が申し訳なさそうな顔をした。

「全然。しゃべってたのは同じだから。それに、1年生の分は入力しなくて良さそうだし」
「そっか」

雪見さんに一式を返し、一緒に図書館を出た。階段を上りながらの会話が今までよりも滑らかになって、自分の笑い声が大きくなっているのを感じた。

――同盟、か。

午後の授業の準備をしながら彼女の後ろ姿をそっと窺う。

比べることから自分を解放するという彼女の考え方にとても励まされた。彼女と話したあとはいつも明るい気分になる。だから……。

もっと話したいと思うのは当然のことだよな?