気が付けば一年の歳月が過ぎ、先輩は三年に、私は二年になっていた。あと一年もせずに先輩は卒業してしまう。
 とはいえ、何か行動を起こすつもりはなかった。
 なんのとりえもない私が先輩に振り向いてくれる可能性はミジンコほどもありはしないのは自覚済みだ。
 自分で言うもなんだが、身長体型は平均的だし、顔は「見慣れると愛嬌があるよね」と言われる程度。ちょっとくせがある髪の毛を毎朝ブローする気力はないので、いつも後ろで無造作にひとつ結びで誤魔化すほどの女子力しか持ち合わせていない。
 この恋は叶わないと、私は自覚していた。
 うっかり運命がひっくり返って、私が神様の加護を受けて美少女になるとか、先輩の頭に隕石が起きて地球外生命体に身体を乗っ取られるみたいな、とびきりのキセキが起きない限りは、妄想は妄想のままだ。
 でも、生まれて初めての恋、幸せだった。初恋を先輩に捧げられて、私は。

「最低だよこのクソ野郎!」

 上履きを先輩の顔面にヒットさせた瞬間、私の初恋という幻想は砕け散った。


 状況を思い返せば儚くもなんともないな。むしろ大破だ。
 だって仕方ないじゃないか。先輩があんなクソ野郎だなんて私は知らなかったのだ。
 いや、言葉が汚くてよくないな。顔だけ野郎と呼ぶことにしよう。
 淡く清らかな思い出として終わるはずだった初恋を汚してくれた先輩は放課後の生徒で溢れる下駄箱の前でこう言ったのだ。

「俺、胸の小さい子にキョーミないんだ」

 悪かったな!私の胸は発達途上なんだよ!クソが!いや、それは個人の主義趣向、ギリギリそこまでは許せた。むしろおためごかしに「俺に君はもったいないよ」なんて期待を持たせるようなお断りをするよりは、具体的かつ納得のいく理由だ。好感が持てない事もない。
 光の速さで「胸 大きくする方法」と検索したのは極秘事項だ。
 でもその後に続いた言葉は最悪の最悪。パパの靴下とお気に入りの下着を一緒に洗濯された時よりも最低だった。

「でも処女なら貰ってあげるよ」

 その言葉が耳に入った瞬間、私は流れるような動きで右足に履いていた上履きを脱ぎ捨て右手に握りしめ、華麗なフォームでそれを顔だけ野郎の顔面へと投げた。
 野球は未経験ですが、おつまみ目当てにパパの野球観戦に付き合っていた事が幸いしたのでしょう。
 私の上履きは、見事、顔だけ野郎の顔面センターにぶつかり時間を止めた。しかもしっかり裏ゴムの部分が顔側にヒットしている。

「ッッシャ!!」

 思わずガッツポーズ。謎の達成感に私が腕を震わせている中、周りの生徒、顔だけ野郎の友達、そして顔だけ野郎に暴言を吐かれた可愛い女生徒、全ての時間が止まったような静寂が流れている。

 そう、問題の発言は私に向けられたものなのではない。

 他の生徒もまだたくさんいる放課後の下駄箱という勇気あるシチュエーションで、先輩に告白をした女生徒に向けての発言だ。
 先輩を盗み見、もとい、影からそっと見つめるルーティンをこなしてた私の前を、甘い匂いをさせながらふわりと横切った少女は、私が妄想の中でしか口にした事がない先輩の下の名前を舌ったらずな声で呼び、その動きを止めさせた。
 私などとは雲泥の差の美少女だった。華奢で小柄な身体。ニキビひとつない真っ白な肌に大きくてくりくりした瞳。ふわふわと軽くカールした色素の薄い髪の毛を可愛らしく緩く結んで、ぷっくりとした唇にはイチゴ色のリップ。誰もが目をハートにして彼女を見ていた。
 その彼女は大きな瞳を困ったように潤ませ「私、せんぱいがずっと好きだったんです」と期待を裏切らない可愛い声で想いを告げた。
 漫画のワンシーンのようなその光景に私は息を飲む。完璧だった。なんて完璧な告白シーンだろうか。もう仕方がない。これは失恋確定だわ。幸せになってください御両人。
 そんな気持ちで失恋の痛みを乗り越えようと背中を向けた私の耳に届いたのが、先程の発言。
 弾かれたように振り返れば、あの爽やかな笑顔は私の見ていた幻影だったんかと思う程にゲスな笑みを浮かべてる先輩の顔が。告白を想像以上のカウンターで返されショックを受けている女の子を値踏みするような視線。
 私の初恋フィルターは音を立てて崩れ去り、頂点に達した怒りが体を動かした結果、私の上履きは空を切った。
 女の私だって抱きしめて頬すりしたくなる可愛い女の子に対してあの発言!許すまじ!くらえ正義の上履きを!
 

「…………」

 沈黙が周囲を包む中、私の正義が音を立てて床に落ちた。
 顔だけクソ野郎の顔面には、見事に上履き型のくっきりとした赤い跡。そんな無様な跡が残っているにもかかわらず、顔だけクソ野郎はやはり顔がいい。
 彼は床に落ちた上履きを無言で拾い上げる。しげしげとそれをひっくり返し、何かを確かめているようだ。そんなに確かめなくても、それは何の変哲もない上履きですよ。
 と、私はようやく自分のやらかした事に気が付いた。
 いくら先輩の発言がゲスだったからといって、常識的に考えて上履きを投げてはいけない。しかも、何の関係もない外野である私が。
 周りは衝撃的な光景にショックを受けているのか、まだ私の方は見ていない。上履きを握りしめている先輩を見つめている。
 逃げるなら、いまだ。
 私は素早く踵を返すと、片足だけ上履きを履いていると言う不思議な状態のまま逃げ出したのだ。
 走り出した私の気配にきがいついて、止まっていた時間が動き出す。誰かが「逃げたぞ」と叫んだ。余計な事を!

「ちょっ、待ってくれ!」

 先輩の慌てた声が私の背中に投げかけられた。
 待てと言われて待つバカがどこの世界にいるのだろうか。