花弁はほとんど散ってしまったけど小原さんの気が済むまで見てもらおう。
だけど次の瞬間、雨音が一瞬にして消えた。
「えっ」
それがあまりに突然のことだったため、耳がおかしくなったのかと思ったけど、それと同時に私は目も疑わざるを得なかった。
あり得ない光景がそこにあった。
「雪……!?」
雨が降っていたはずなのにその雨が突然雪に姿を変えたのだ。あり得ない。今が冬ならまだ分かる。だけど今は真夏だ。それに気温も暑いほどで決して雪が降るような気温ではない。
小原さんも驚きを隠せない様子で空を見上げていた。一体何が起きているのだろう。異常気象というやつだろうか。大粒のふわふわとした雪はそのまま幾重にも降り積もり、すぐに辺り一面を銀世界に変えてしまった。枯れ木にも枝を覆い隠すほど雪が積もっている。
そしてまた次の瞬間私は驚くことになった。白銀の雪が一瞬でピンク色に色を変えたのだ。
「まぁ……こんなことって……」
小原さんは思わず感嘆の声をあげている。私はその光景に息を呑むばかりで何も言えなかった。
木の枝に積もった雪がピンク色に変わったお陰で、その雪はまるで満開の桜のよう。それだけでなく地面の雪もピンク色に染まり、まるで桜の絨毯のようだった。
綺麗だ。やはりそれ以外の言葉が見つからない。だけど私はすぐにハッとした。これは、こんなことができるのは。
辺りを見渡すとよく知った黒い影が視界の端にちらりと見えた気がして、小原さんに「すぐ戻ります」とだけ告げて急いで走った。雪は小原さんの家だけではなく外にも積もっているようだった。外の雪も全て色が変わっている。その全てがまるで桜の花弁のよう。
「店長!!」
高揚のままに叫ぶとその背中は立ち止まった。まさか店長が現世に来ていたなんて。
だけど見知ったその背中の隣には、和傘をさした十四、五歳くらいの白髪おかっぱ頭の少女がいた。少女は私を見て一度お辞儀をするとすぐに隣の店長に向き直り。
「これ以上の長居は体に毒なので私はこれで。後ほど請求書を送付致しますのでお支払いの方よろしくお願いしますね」
そう言うと少女は雪に巻かれて一瞬で消えていった。少女が消え、店長は私の方に振り返った。
「あの、今の方は」
今聞きたいことは山ほどあるけど、とりあえず目先のそれを聞いた。
「雪童子だ」
「雪童子?」
「雨を雪に変えたのは彼女だ。俺はその雪に植色をした。ネタバラシは十五夜堂でと思っていたんだが」
「どうして店長が植色を」
「こんなことをしてやるつもりはなかったが、まぁお前さんに感化されたとでも言っておく」
「え?」
「それより向こうは放っておいていいのか。俺なら後でいくらでも話をしてやるぞ」
「っ、分かりました。終わったら十五夜堂に行くので待っていてください」
「ああ。風邪引かないように早く拭けよ」
「そうします」
降る雨は雪に変わったけど、濡れた髪も服もそのままだった。あとで小原さんの家で拭くものを貸してもらおう。
「あ、待て、一つだけ問題」
店長が踵を返した私の腕を引いた。
「はい?」
「さて、今俺が植色したのは何色だ?」
「そんなことですか。簡単ですね」
「自信あるようだな。答えてみろ」
店長がニヤリと笑う。雪が色を変えた色──それは紛うことなき。
「桜色」
「大正解」
なぜか店長が誇らしげだった。
それからすぐに小原さんの家に戻ると、小原さんもモモさんもまだその光景に目を奪われていた。ヒヨコさんは寒そうに体を震わせていて、私を見つけるとすぐに頭の上に飛んできた。ここで暖をとるつもりか。雪が降ったせいか気温がぐんと下がった。だけどいつの間にか雪は止んでいて、桜色の雪だけが残っていた。
「山岡さん」
「はい」
「不思議なことってこの世にたくさんあるのね。こんなに長く生きていて真夏にピンク色の雪を見るのは初めてよ」
「そうですね。私も初めてです」
「まるで桜が咲いているようだわ」
「はい」
正直、私が作った桜よりもよほど綺麗で桜らしい。こんな離れ業ができるなら最初から教えてほしかったというのが本音だ。
だけど小原さんは私の手をとった。
「きっと貴女が桜を咲かせてくれたから、奇跡が起きたのね。最後にこんな素敵な光景を見せてくれてありがとう」
〝こんなことをしてやるつもりはなかったが、まぁお前さんに感化されたとでも言っておく〟
ああ、それなら私がしたこともきっと意味のあることだったのだろうと。