しばらくそうして震えが収まった頃にようやくハッとして、おずおずと伝えてみた。
「あの店長、触れてますよ」
指摘した瞬間に驚いたように体が離れた。もしかして無意識だったのだろうか。
それならと手のひらを差し出してみた。私の意図することが伝わったのか店長の手がゆっくりと伸びてきて、そして私の手に重なった。何だか今の〝お手〟みたいだななんて失礼なことを頭の片隅に思う。
「……触れてますね」
「……触れたな」
咄嗟に助けるときですら触れることを避けたというのに、どうして今急に触れられるようになったのか分からなかった。だけど私が分からないだけで店長の中では腑に落ちる何かがあったようだった。それを語ることは触れられなくなったトラウマの理由を語ることにも繋がるので店長は話してくれなかったけど。
まぁきっかけが何にせよ問題が解決したのなら良かった。
一階で店長と話をしているうちに落ち着いてきて、そこからふつふつと色々な疑問がわいてきた。
「ところで店長、店を閉めてどこに行っていたんですか?」
「あー……」
言いにくそうだ。店長が口ごもるのは珍しい。
「別に言いづらい理由だったらいいんですが」
「いや。少し買い物に常世に出ていた。まさか俺にあんな言い方をされたお前さんがすぐ翌日に来るとは思わなかったからさ」
「そうでしたか。時間が開くほど行きづらくなるかと思いまして」
「あんな態度をとって悪かった。焦っていたのは本当だ。だから少し苛立った。だがお前さんが協力してくれることを負担だなんて思ったことはない」
「いえ、私も言葉が足りなかったです」
「いや、俺が聞く耳を持たなかっただけだ。それで結果お前さんをこんな目に遭わせた」
「それは店長のせいじゃないですよ。それに店長は格好よく助けに来てくれ……」
そこで私はふと思う。
「何だ?」
「いえ、今思い返せば本当にタイミングが良かったなと思いまして。あ、決して何かを疑っているとかそういうわけではなくて」
「なるほどな。だが本当にタイミングが良かったらもっと早くに助けてる」
それもそうか。
「では偶然ですか?」
「いや、鬼火が気づいて知らせてくれたんだ。お前さんよく残り火使ってるだろ。こんな時間には動かないんだが気に入られてるようだな」
「鬼火が」
次に鬼火が来たらお礼を言おう。というか鬼火の声は見鬼の才を持つ私には聞こえないけどあやかしには聞こえるのか。
そのとき外から物音がした。さすがにあんなことがあった後なのでドキリとしてすぐに音がした方を向いた。店長も立ち上がり戸を見つめて警戒している。だけど次いで聞こえてきたのは、店内の緊張感を一瞬で消し去るほどの間の抜けた聞いたことのない動物の鳴き声だった。何だろう。
「……、あ!!」
最初は不審がっていた店長が何か思い出したように声をあげ、戸を開けた。するとそこにいた何かは大きく羽ばたいて空に飛んでいってしまった。チラリと見えたけど今のは鶴だろうか。
そして入り口には風呂敷が置かれていた。今の鶴が置いていったのだろうか。風呂敷には手紙のようなものが結ばれていて、それを広げて読んだ店長はおもむろに風呂敷を開いた。包まれていたのはどうやら着物のようで、店長はそれを手に取ると私に差し出した。
「山岡、遅くなったがこれ制服だ」
「え、うちに制服なんてあったんですか?」
渡されたのは店長が着ている真っ黒の着物ともまた違う着物だ。制服というからには店長とお揃いだと思ったのだけど。
「なかったから作ることにした。あやかしの世はお前さんらの現世と違って和装が基本だ。今後そっちのほうが何かと都合がいいかもしれないと思ってな。だが強制じゃない。面倒だったり気に入らなければ別に着なくてもいい」
「いえ着ます。ありがとうございます。ですがお着物って自分で着たことがなくて」
「だろうと思って簡単に着れるように簡易的なやつにしてやった」
「どうしたんですか店長、気が利きすぎでは」
「俺は元から気が利く男だろ」
「……」
「……呉服屋の入れ知恵だ」
「なるほど」
不服そうな店長は置いておいて、早速着物を広げてみた。
「綺麗な色──黄緑、じゃないんですよねきっと」
美しい黄緑色に、裾には白い霞草が散りばめられていてとても綺麗だ。
「別にそれも間違いじゃない」
「いえ、色屋として正確なところを教えてください」
「言うなればこれはお前さんの色だ」
「山岡の山ですか?」
「違う、早苗の方だ。これは若苗色。夏に代表される柔らかく瑞々しい黄緑色だ。さすがに由来は分かるな?」
「若苗色……。わざわざこの色を探してくださったんですか?それとも色を変えて?」
「色を変えるのは客にしかしないって決めている」
「てことは探してくださったんですね。私の名前、嬉しいです」
「名前に色がついているならそれと相性がいいに決まってるだろ。名は体を表すんだ。だからお前さんには一番それが似合うと思った」
「ありがとうございます。大切に着ますね」
この世界に存在する美しい色の名を一つ知って、今までよりも少しだけ世界が鮮明になった気がした。
「山岡」
「はい」
「もう一回手出せ」
「何ですか?」
先程と同じように手を差し出すと、店長はその上にもう一度手を重ねて屈託なく笑った。
「ああ。触れるな」
あ、まずい。今物凄くキュンとしてしまった。何でいい年してこんな子供みたいに笑えるんだこのあやかし。
そして私は愕然としてもう一度あることを思い出す。
──大変だ。白蛇の予言が当たったかもしれない。