階段をゆっくりと上がってくる音が聞こえ、その気配は私が逃げ込んだ部屋の前で止まった。
「何だ、もうしまいか?こんな障子戸すぐに開いてしまうぞ?」
だけど男の指先が障子に触れた瞬間、弾かれるような音がした。
「チッ、なんで護りなんてしてある!」
今度は八つ当たりするように障子に強く腕を打ち付けたけど、びくともしない。ここは店長が念のためにと〝護り〟を施してくれていた部屋だ。護りがある部屋にあやかしが入ることはできない。話しに聞いてはいたけど実際にちゃんと機能してくれるかは分からなかった。良かった。もしこれが効かなかったら完全に詰んでいた。
「あなた、店長の知り合い?」
「お前は何だ」
「……」
「答えろ」
障子を挟んで互いに話しかける。今ならまだ冷静に話し合いができるかもしれないとも思ったけど、自分は質問には答えないのに自分の質問には答えさせようというのは随分と暴力的だ。
「言ったでしょ、私はここのアルバイト。従業員なの」
「本当にそれだけか?」
「それ以外に何があるのよ」
「クッ、可哀想になぁ」
私の言葉に男は笑う。
「可哀想?」
「お前騙されてるんだよ」
「どういう意味?」
「お前は生き餌みたいなものだろ。見鬼を持つ人間はとりわけ旨いからな。たとえ自分で食わないとしても高値で売れる」
「…………それはつまり店長が私を食べるためか売るためにここに置いていると?」
自分で言ったその言葉にすっと心の奥の方が冷えていくのが分かった。
「侮辱するのもいい加減にして。店長はそんなことしない」
そんなことは有り得ないと断言できる。自分がここまで店長のことを信じているなんて、自分ですら思いもしなかった。だけど今日までの間に積み重ねてきたものを考えればこのあやかしの言葉などでは何も揺るがない。
だけど男は私を無知だと嘲笑った。
「お前あいつがどんなあやかしか知ってるのか?私利私欲のために帝から禁色を奪うようなやつだぞ」
──禁色?
「俺はあいつのそういう強欲なところが気に入ってる。さて…………これでもう護りは解かれたわけだが、どうする?」
その瞬間ゆっくりと障子が開き、嫌なと笑みを浮かべた男が部屋の中に踏み込んできた。私は頭が真っ白になって座り込んだ。
「嘘、どうして」
「護りは厄介だがこっちも伊達に高利貸しやってないんだよ。ある程度時間をかければ破れる」
「!」
高利貸し。きっと店長が言っていた借金取りはこの男のことだ。
「万策尽きたって顔だな。まぁまだ一策しか見せてもらってないが」
「……っ」
それでもこんなところで食べられるつもりは毛頭ない。部屋の出入り口の前には男。その隙間を掻い潜って逃げるのは無理だ。それなら逃げ道はもう一つしかなかった。
私は男を見据えたまま立ち上がり、視線を逸らさないまま背後の窓を開けた。
「へぇ」
男は口角を上げた。これから私が何をしようとしているのか分かったのだろう。だけどそれでも動かないということは私に本当にそんなことができるのか試しているのかもしれない。
先程のように一瞬で距離をゼロに出来るような力があるのに、敢えてじわじわと距離を詰めてくるのはどうにも性格が悪いとしか言えない。男があと一歩進んだらここから飛び降りると決めて、ごくりと息を呑んだ。
だけどそのとき一階から大きな音がした。入り口の戸が乱暴に開いた音だ。そのすぐ後に階段をかけ上がってくる足音が聞こえた。
そして次いで聞こえたのは。
「山岡!!!!」
「店長!?」
酷く息を切らした店長だった。まさかこんなタイミングで来てくれるなんて思わなかった。だってそんなのズルい。だってそんなの格好良すぎるじゃないか。
だけど気づいたときには私の体は男によって拘束されていた。逃れようとしてもびくとも動かない。今回は先程のように離してくれるつもりはないらしい。
「遊佐テメェ!!!!」
店長の怒声にも男は動じない。それどころか腕の拘束を余計に強めた。
「なぁ秋月、この人間俺に売ってくれないか?」
「は?」
「いいだろ、言い値で買ってやるから。どうせ食うか売るつもりだったんだろ」
「くだらない話に付き合ってやるつもりはない。そいつを離せ」
低く唸るような声。その怒りは私に向けられたものではないと分かっていてもゾクリとしてしまった。
「くだらない……?俺との話がくだらないって?」
「くだらないだろ。本当ならこうして言葉を返す価値もない」
──店長、助けに来ていただいたのは大変有り難く光栄なのですが、今かなり犯人を煽っています。