翌日、講義に出ていても集中できなかった。考えてしまうのは昨日の出来事ばかり。

 そんな意図はなかったけど、もしかして店長は私が見捨てたとか諦めたとか思ったのではないだろうか。そんな湾曲した受け取り方をしなければあの後のあんな対応にはならない気がする。

 なんだかそう考えているうちに段々と腹が立ってきた。こんな関わり方をして、今さら見捨てられるわけがない。確かに私も伝え方が悪かったかもしれないけど、途中から聞く耳を持ってくれなくなったのは店長だ。

 もう一度話そう。それでしか解決できない。

 店長はしばらく来なくていいという言い方をしていたけどあれは実際は来るなという意味だろう。だけどこのまま時間を置けば置くほど行きづらくなるはず。だから講義が終わった昼過ぎに十五夜堂に向かった。

 なんだか緊張してきた。私は店の前で大きく深呼吸をして戸を引いた。が、なぜか開かない。正規の営業時間であるこの時間に鍵が閉まっているなんて珍しい。いや初めてのことだ。


「店長いますかー?」


 外から声をかけてみても返事はないし、中に誰かがいそうな気配もない。まさか留守なのだろうか。どうしよう、中で帰ってくるのを待っていてもいいかな。迷った結果鍵を開けて中で待つことにした。これは決して不法侵入ではない。鍵を持っているんだから大丈夫大丈夫──と考えながらも一人で店にいるのは初めてで妙に緊張してしまう。

 そうしてしばらく待っていると外から足音が聞こえてきた。帰ってきたのだ。私はこれぞ先手必勝とばかりにこちらから戸を開けた。


「すみません店長、話があって来ま」


 ああそうだった。誰か来たからそれが店長(・・)に違いないだなんて、思考があのときから何も変わっていない。

 そこにいたのは店長ではなく知らないあやかしの男だった。長く赤い髪に赤い瞳。人間のように見えるけど額にある黒い二つの角がそれを否定する。──鬼、だろうか。

 目が合った瞬間感じたことのない威圧感に気圧されそうになったけど、私は慌てて営業スマイルを浮かべた。


「いらっしゃいませ。色をお買い求めでしょうか」

「……秋月は?」


 男は私の言葉を無視して店内に入ると、店内を見渡した。感じが悪いけど貴重なお客様だ。だけど名前を知っているということは店長の知り合いだろうか。確かに店長も柄の悪い話し方をするときもあるけど、それでもこんな態度をとることはしない。


「申し訳ありません、只今店長は留守にしておりまして」

「へぇ。ていうか何で人間がここに?」

「ここで働かせていただいております」

「働く?人間がここでか?」


 嘲笑うような馬鹿にした言い方にカチンときそうになるけど、冷静さを装うのは本来得意だ。それもこちらへ来てからは少し崩れつつあったけど。なんにしても相手は客だ。多少のことは許そう。


「はい」

「悪いことは言わない。今すぐ辞めたほうがいい。ここは人間がいるような場所じゃない」

「ご心配ありがとうございます」

「じゃあ今日付けで退職ってことで」

「は?」

「だって人間が働くなんておかしいだろ」

「ここは狭間ですから、そこまでおかしくないのではないでしょうか」


 思わず言い返してしまうと、男は口元にわずかにあった笑みを消して真顔で私を見下ろした。怖い。このあやかし、すごく怖い感じがする。


「人間の小娘が随分と知った口を利くな」


 一瞬で距離を詰めた男の手が私の腕を掴み、めちゃくちゃな力で引き寄せた。痛みに顔を歪める。なんて力。腕がひきちぎられそうだ。


「そうだな、このまま食ってしまうか」


 耳元で囁かれた言葉に私は息を止めた。

〝見える人間は狙われやすい。そういう人間を食おうとするあやかしはいるからな〟──ヒヨコさんが言っていた言葉をこんな状況で思い出すなんて。

 逃げなければ食べられる。そんな恐怖に奮い立たされ、思い切り身を捩って手を引いた。それでもこの力差では容易には振り払えない、そう思ったのになぜか簡単に振り払えた。違う、男が意図的に手を離したのだ。なぜ男が手を離したのか考えるよりも先に私は駆け出した。外へ逃げてもあの速さではすぐに捕まる。それなら一か八か、階段をかけ上がった。


「上に逃げるのか?下にしか逃げ道はないぞ?それくらいの頭も使えないのかよ」


 笑い声が聞こえる。男は私が逃げるのを楽しんでいるのだ。悪趣味すぎる。店長の知り合いだったとしても貴重なお客様だったとしても、私はこのあやかしが嫌いだ。

 客なら何をしても許されると思っているなら大間違いだ。お客様は神様?あいにく自称神なら間に合っている。

 とある部屋に逃げ込み、障子戸をぴたりと閉めた。息を整えながら祈るように両手を握る。大丈夫。私は店長の言葉を信じている。