ある日突然この世界の猫がお喋りを始めた。それを皮切りにこの世界には今までにいなかったはずの生き物が現れた。例えば手のひらサイズの小さな人間、例えば足の生えた壺、例えば目が三つある犬、例えば尻尾が四つある狐、例えば川で悠然と泳ぐ河童。例えば空を飛ぶ天狗。
一瞬にしてこんなにも大きく世界が変わったというのに親や友人は何も言わないし、テレビや新聞、そういうネタが大好きそうなネットですらそのことを報じないし触れもしない。そんなことがあるだろうか。
どうやら周りの反応を見るに、変なものが見えているのは私だけらしい。そこで私は思った。変わったのは世界ではなく私の方なのではないだろうかと。
そう思うとやはり自分の体が心配になって病院に行くことにした。最初はかかりつけの町医者に。先生におかしなものが見えるし聞こえるという症状をありのまま話すと、大きな病院で検査したほうがいいと言われて紹介状を出された。
その紹介状を持って向かったのはこの辺りでは一番大きくて設備が整っている病院だ。その病院で目の検査をして耳の検査をして血の検査をして脳の検査をして、とりあえず他にも色々体の隅々まで調べてもらった。
だけど先生はこう言った。「どこも異常はありませんね」と。私はこれだけ調べてもらったのだから「そうですか」と言うしかなかった。神妙な面持ちで私と私のカルテを見つめる先生の頭にはなぜかずっとヒヨコが乗っていたけど。ぬいぐるみ。趣味だろうか。場の空気を和ませるためとか。
「ですが先生、こうなったきっかけはあったように思うんです。最初に私の前でお喋りを始めた猫です」
「猫ですか」
「はい、猫です。一週間前、怪我をした猫が木の上から降りられなくなってるのを見つけたので助けてあげようと手を伸ばしたら、腕を思い切り引っ掻かれてしまって。そうしたら猫が私を見て『すまない人の子よ!うっかり引っ掻いてしまった!許せ!私は早く行かねばならんのだ!』って喋ったんです。いやこれうっかりってレベルの傷じゃないんだけどと思っているうちにその猫はどこかに行ってしまって、その日から変な生き物を見るようになったんです」
「猫に引っ掻かれて傷から何かに感染したのだとしてもそんな症状は聞いたことがないですね」
「お前、そりゃあ見鬼の儀をしちまったなぁ」
「えっ」
今何か妙な言葉が聞こえたような。声がしたのは先生からではなくその後ろにいる看護師さんからでもなく、先生の頭の上。喋ったのはずっと黙ってぬいぐるみよろしくしていたヒヨコだった。
「今、なんて」
「ですから猫に引っ掻かれて傷から」
「先生違います!そのヒヨコ!今何て!?」
「わしはヒヨコではない。雀だ」
「雀?黄色い雀なんている?」
「わしは特別なのだ」
「まぁヒヨコでも雀でも何でもいいんだけど、それよりさっき何て言ったの!?」
「山岡さん」
「だからお前はその猫と見鬼の儀をしちまったんだよ」
「何?見鬼の儀?」
「あやかしを見えるようにするための儀式さ」
「そんな儀式した覚えないんだけど!?」
「山岡早苗さん!!」
「え!は、はい!」
先生が勢いよく立ち上がった衝撃でヒヨコは床にぽてっと落ちてしまった。鳥なのに飛ばないのか。あ、そういえばニワトリは飛べないんだった。
「紹介状を書きますので今すぐそこで診察を受けてください。いいですね。今すぐにです」
「え、あ、はぁ」
うっかり余計なことを考えている間に診察室を追い出されてしまった。セカンドオピニオン、いやサードオピニオン?もっと精密検査を受けろと言うことだろうかと思って渡された封筒を見ると、精神科宛だった。なるほど、確かに体に異常がないと分かれば次は心の病気じゃないかと疑うのが普通だ。私だって今この手がかりがなければ、藁にも縋る思いで精神科に駆け込んでいたかもしれない。
「おい、どうしてわしを連れてきた」
病院を出ると、私の鞄の中からヒヨコが不満そうに顔を出した。診察室を追い出される寸前に床に落ちたままのヒヨコを拾って鞄に入れて持って出てきたのだ。それにしても可愛い見た目とは裏腹に低音のダンディーボイスだ。
「だって出来るなら自分の心を疑いたくないじゃない。あれもこれも全部私の頭の中の妄想だなんてそんなの嫌でしょ。あなたがそうならないための唯一の手がかりなのよ」
「わしはこの病院の守り神だぞ」
「え、そんなにすごいヒヨコなの?」
「雀と言っておる」
「そっか神様なんだ。私神様まで見えるようになったのか。あ、だけどそれだと連れ出すとまずい?私の身に何が起きたのか聞きたかっただけなんだけどどうしよう、戻った方がいい?」
「ふん、まぁ仕方ない。少しくらいなら許してやろう。わしは思慮深く縁を大事にするからな」
「ありがとう」
本当に思慮深い人は自分のことを思慮深いとは言わないだろうけど。