その日の三夕の刻。
 斉照殿の裏の部屋にいた翠玉は、央堂に呼ばれた。
 呼ばれたのは翠玉だけだった。対立しがちな翠玉と李花を、一緒に呼ばぬよう清巴あたりが進言したのかもしれない。
 青い壺のある廊下を抜け、通されたのは央堂の横にある、書画骨董を置いてある部屋のうちのひとつだった。鶴の彫刻があるので、きっと右鶴の間だろう。
 このひと部屋だけでも、翠玉が住んでいた長屋の部屋より広い。
 よくわからないが、たしかに書と画と、壺やら彫刻やらが置いてある。
「待たせたな。こちらもやっと解放されたところだ」
 真紅の敷物が敷かれた長椅子に座っていたのは、啓進――いや、明啓である。
 着替えを済ませたらしく、皇帝の証である冕冠などは身につけていない。落ち着いた藍の袍を着て、高い場所でまとめた髪は布で包んだだけの姿だ。長屋を訪ねてきた青年が、そのままそこにいる。
 昨夜が初対面だが、やっと顔見知りに会えたという安堵があった。
 食事のあとは、斉照殿にいるのは秘密を知る者だけになる、と清巴が言っていた。明啓も、長い身代わりの一日を終えたところなのだろう。
「ご政務、お疲れ様でございました」
「今、清巴が桜簾堂にいる祈護衛の者を下がらせている。腰の重い連中だ。ここで、茶でも飲んで待っていてくれ。酒がいいか?」
「では、お茶をお願いいたします」
 茶など飲んだことはないが、酒を飲む気分ではない。これから、大きな仕事が待っている。
 女官が扉の前で待機していたらしく「ただいまお持ちいたします」と小さな声が聞こえたあと、衣ずれの音が遠ざかった。
 明啓に席を勧められ、卓をはさんだ向かい側に腰を下ろす。
 待つ間、見るともなしに書画の類を眺めていた。
「連中が出ていくのを待つ間、貴女にいくつか尋ねておきたい」
「どうぞ、なんなりと」
 ふぅ、と翠玉は吐息まじりに応じた。
「……どうした。活きが悪いな。今更、怖気づいたか?」
「もっと……単純な話だと思っていました。まさか、角が生えているかどうかを確認されるとは……」
 明啓は「あぁ、それか」と気まずそうな表情を見せた。
「角はなかった、と昨夜のうちに報告を受けている」
 がっくりと肩を落とし、翠玉の口からは、深いため息がもれた。
「角などありません」
「そのようだな。かく言う俺も、初めて会った時、貴女が布を被っていたので多少は構えた。すまん。心から謝る」
 もう、ため息さえ出ない。翠玉は頭を抱えた。
 そこに、茶が運ばれてくる。かぎ慣れぬ香りだが、不思議と心地いい。
「我らは、ただの人です」
「それほど強く、宋家は三家の呪いを恐れてきたのだ。……言い訳にはなるまいが」
 顔を上げ、翠玉は「ただの人です」と繰り返しておいた。
「それで、お尋ねになりたいこととは?」
「呪詛についてだ。これまで祈護衛に任せてきたが、これ以上、連中には任せられん。弟は優秀な男だ。必ずや世をよりよいものにするだろう。肉親の情もあるが、国の未来のためにも弟を助けたい」
 明啓の言葉は、耳に優しい。蔑みや偏見が含まれていないせいだろうか。
 こちらも、真摯に答える気力がやっと戻ってくる。
「たとえば天算術などは、生まれた年、月日、時間から占いますので、本人がその場にいなくとも成立します。ですが、私が用いる気を通す――糸を使った蚕糸彩占や四神賽は、気に触れねば答えが出ません。気は触れて通すものでございます。呪詛は必ずしも触れずとも成立しますが、呪詛とは気を乱すもの。気に関わる以上、距離の影響を受けます」
 明啓は茶を一口飲み、翠玉にも勧めた。
 恐る恐る、淡く緑がかった液体を一口飲めば、爽やかな芳香が鼻に抜けた。美味しい、とは思わないが、心地いい感覚である。
「下馬路から天錦城ほど離れては、呪詛などできんのだったな?」
「はい。距離もそうですが、柱、屋根、道、塀、といった建造物は、気を遮る遮蔽物です。内城はぐるりと塀で囲われておりましたので『(むし)』は――蟲というのは、呪詛の根源のようなものです。大抵は壺や箱に、虫、(ねずみ)、蛇、(ひきがえる)といった生き物と呪符を入れて埋めるのですが――この内城の内部にあると思われます」
「なぜわかる?」
「気は、建物の壁は超えられても、塀を超えられません。内と外を隔てるものでございますから。――あぁ、だからといって呪詛にかかった者を急に塀の外へ移動させますと、これも気が乱れますのでかえって命を縮めます」
 ふむ、と唸って、明啓は腕を組んだ。
「そういうものか……」
 翠玉にとって、気の扱いは日常だ。
 だが、明啓にはそうではないのだろう。納得しかねている様子だ。
 ここは、かみ砕いて説明する必要がありそうである。
「たとえば、琴都一の剛力の男がいたとします。抱えられる人の数は、何人程度だと思われますか?」
「なんだ、急に。……まぁ、そうだな。片腕にひとりずつ、肩車でもすれば、三人は抱えられるか」
「人の為すことですから、おのずと限界があります。塀を超える呪詛は、人を百人抱えるような、人の範疇を超えたことなのです」
 明啓は「なるほど」と納得した様子だ。
 理屈が通じたことに、翠玉はホッとする。
「では、二百年続く呪いも、人には為せぬか?」
「死者は呪いを保てません。有効なのは、せいぜいその手を汚した当人が生きているうちだけでしょう。三家を滅ぼした高祖当人は、長命であったはずです」
 明啓は、小さく苦笑した。
「たしかに。建国当時、青年だった高祖が九十六歳まで生きている。高祖本人さえ呪い殺せなかった三家に、二百年後の子孫までは殺せぬか。……ますます、これまで信じてきたことがバカバカしく思えるな。早く弟にも教えてやりたい」
「子孫なり縁者なりが、代を重ねて強い怨恨と、正しい呪詛を一日も欠かさず続ければ可能かと思います。しかし今、江家で異能を有するのは私のみ。私が琴都に住みはじめたのは三年前。それ以前は、祖父の代から葬儀の際しか琴都に入っておりません。琴都で廟を守る伯父には、異能はございませんし……ですから、江家が代を重ねて呪いを保つのは不可能です」
 翠玉の頭の中で結論は出ている。
 ――三家は、この呪いに携わっていない。
「――偶然ではないか、とも思うのだ。あれは、呪詛と時期が一致しただけの、ただの病ではないか、と」
 呟くように、明啓が言った。
 翠玉は、とっさに返事をしかねて、茶を口にした。
(……ご自分でおっしゃるなんて)
 そうだ。人が倒れれば、病だと思うのが普通だ。いきなり呪いのせいだ、とは思わないだろう。
 三家を滅ぼした高祖本人が、呪いに倒れたと噂されるならば、まだしも理解できる。実際、高祖の手は血にまみれていたのだから。
 だが、もはや皇帝も代を十以上も重ねている。離宮で暮らしていた皇太子が即位した直後に倒れた――という事実から、すぐ様呪いを連想するのは難しい。
「薬師の診立ては、いかがでしたか?」
「原因はわからぬそうだ。……だが、原因のわからぬ病などいくらでもある。このまま加冠を待たずに――弟は死ぬかもしれない」
 二百年続く、三家の呪い。
 三十三番目の子。
 加冠を前に殺される。
 そう幼い頃から繰り返し聞かされ、双子はひとりの皇太子として扱われたというのだから、疑う余地はなかったのかもしれない。
 翠玉にとっては、人が人を百人抱えるような話だ。だが、先帝や、離宮にいた腹心たち、祈護衛、そして当の双子にとって、呪いはたしかに存在していたのである。
 いや、明啓以外の人にとっては、今も変わらず存在しているのだろう。
(このまま陛下――洪進様が身罷(みまか)られたら、呪いは三家のものだと断定されてしまう)
 ここに来るまでは、楽観していた。
 三家を皆殺しにしたところで、宮廷が得るものなどなにもない。バカバカしい、とさえ思っていた。
 だが、違う。それでもなお、疫鬼を殺すに値する、と判断する者がいるのだ。
「勝手を申しますが、もし洪進様が病でしたら、三家の冤罪は晴らせません。祈護衛の人たちに、どんな目にあわされるやら……」
「必ず守る」
 思いがけない言葉に、翠玉はぱちぱちと睫毛を忙しく上下させた。
「……え……」
「長く、三家の末裔は、不当に我らを狙っていると思いこんでいた。己を殺す者として、怨みさえしてきた。だが、貴女に会って、話して、認識を改めた。角が生えているだのと、世迷い事を信じていた己を、今は恥じている。先祖を酷く殺した一族の城に入るのとて、さぞ勇気が要ったろう。俺は身代わりに過ぎないが、必ずや約束を果たす。――改めて、よろしく頼む」
 明啓が、頭を下げる。
 翠玉も、慌てて頭を下げた。
「も、もったいないお言葉です」
「面を上げてくれ」
「明啓様がお先にどうぞ」
「頼んでいるのは私の方だ」
「そうは言っても、はい、そうですか、と言えるわけがありません」
 頭を下げたまま、言いあいをした挙句、
「では、一、二、三、で上げよう」
 と明啓が無茶なことを言いだした。
 だが、逆らうわけにもいかず、
「「一、二、三」」
 と声をそろえ、同時に顔を上げる。
 目が合った途端に緊張が解け、翠玉は小さく笑った。明啓も、笑んでいる。
 今、三家が無実だと信じてくれるのは、目の前にいる身代わりの皇帝ただひとり。実に心もとない。
(いえ、どんなに小さな灯りでも、真っ暗闇よりずっとマシだ)
 最初に会った時に感じたとおり、明啓は生真面目な人である。
 理屈も通じる。会話も成立する。三家を不当に蔑まない。守る、と約束し、罪と則を撤廃すると誓ってくれたのだ。
(この灯りに、すがるしかない)
 翠玉は、気を取り直して茶杯を干した。
「私だけでなく、劉家の末裔も参っております。よほどの覚悟だったでしょう」
「そうだな。大した度胸だ。彼女は成功の報酬に入宮を希望している」
 劉家の娘が入宮するには、罪と則の撤廃が前提になる。かつ、撤廃を世の人々に広く認識させるだろう。劉家の名誉が、一挙に回復できる。良案だ。
「あくまでも、我らが呪いを明らかにできれば……という話ですね」
「そのとおりだ。期待しているぞ」
 コンコン、と扉が叩かれた。
 清巴が「準備が整いました」と扉の向こうで言う。
(いよいよだ)
 これから翠玉は、皇帝を蝕むものが呪詛か否かを絹糸で調べる。呪詛は気を乱す。呪詛であれば、糸がその答えを示すはずだ。
 三家の冤罪を晴らし、自由を得るための大きな一歩である。
 明啓が立ち上がったのに続き、扉を出る。
 央堂を経て、廊下に出る。途中で李花と合流した。
 青い壺の横の扉から、中庭に出る。外はすでに暗く、吊るされた灯籠が明るい。
 渡り廊下の向こうに、小さな廟のような建物があった。
(これが、桜簾堂か。……廟に似ている)
 堂の形は六角で、屋根の端は反り上がっている。廟と同じだ。
 衛兵が、重い扉を開ける。
「あ」
 驚きに、翠玉は小さく声を上げていた。
 目の前に、淡い紅色をした、玉を連ねた簾が垂れている。 内部の灯りをキラキラと弾く様は、夢のように美しい。
(あぁ、そうか。これは魔除けなんだ)
 枝垂桜は、破邪の力を持っている――と聞いている。
 この堂の桜を模した簾は、そのために用意されたのだろう。
 まず明啓が簾をくぐる。翠玉と李花も続いた。
 簾はぐるりと堂の内部を一周していて、内部に入ればいっそう幻想的に見える。
「大康国第十五代皇帝・宋啓進様――明啓様の弟君にあたる洪進様でございます」
 後ろにいた清巴が言った。
(康国の皇帝――この人が……)
 緊張が、翠玉の足を強張らせた。