かくして――ふたりは、牢の中で身を寄せあっている。
 牀をふたつ繋げた程度の、狭い牢。内城の門を出て、ややしばらく歩いてたどりついた。皇帝の居城の一部とは思えない場所だ。月の光も、小さな窓からはほとんど差し込まない。
「月倉の会は、儚かったな」
 ぽつり、と李花が呟いた。
 結成から、わずか二刻で解散。実に儚い会であった。
「石礫と毒矢では、まぁ、敵いませんよ。こちらに利があるとわかれば、また味方してくれるでしょう。……そんな機会があればの話ですが」
 勝機を逃さず果敢に攻め込み、時に老獪な罠さえ仕掛ける。それでいて、己が傷つくとわかれば執着せずに去る。まさに獅子の知恵だ。
 おろおろするばかりで、最後は罠にかかった自分たちは、やはり鼠であった。
 はぁ、とそろってため息をつく。
「しかし、まさかこんな牢に入れられるとはな。明啓様さえ気づいてくだされば、すぐにも出してもらえるだろうが……」
 この徐夫人の筋書きが通れば、まず祈護衛が処刑され、最終的には自分たちも処刑されるだろう。
 だが、さすがにそれはない――はずだ。
 徐夫人が陰謀を巡らそうと、一夫人にできることはそう多くはない。
 そちらが徐氏なら、こちらは潘氏。それぞれ後ろを守る家がある。簡単に首を取られるとは思っていない。
「潘夫人とその侍女だとわかれば、すぐに解放されるでしょう。仮に牢に入れられるにせよ、罪を犯した妃嬪の行先は冷宮(れいぐう)のはずですから」
 冷宮がどんなところだか知らないが、少なくとも、かび臭い牢ではないだろう。
 ケホケホと咳の音がする。隣の牢に、人がいたようだ。
「――そう簡単にはいかないぞ。ここは内城と外城の狭間(はざま)だ」
 近い場所で聞こえた声を、翠玉は知っている。
 祈護衛の呂衛長だ。仇敵とも呼ぶべき人と、薄い壁を挟んだ背中あわせの位置にいるらしい。
「呂衛長……? どうして牢にいるのです?」
 翠玉は、ひどく驚いた。彼らは、宿舎で謹慎中のはずだ。
「あの倉庫から、まっすぐここに入れられた。私だけではない。衛官全員だ。……お前たちこそ、占師のふりの次は、夫人のふり。やっと化けの皮がはがれて、今度は囚人か。やっと身分相応になったな」
 ふん、と呂衛長が鼻で笑う。
「なんの罪です? まさか、呪詛をしかけた罪ですか?」
「あぁ、そうだ」
 もう徐夫人が手を回したというのだろうか。
 なんとも手際がいい。翠玉は、はぁ、とため息をついた。
「呪詛は、祈護衛の自作自演。徐夫人は、そういう筋書きで進めるそうです」
 深いため息が、壁の向こうから聞こえる。
「わかっている。まさか、こんなことになろうとは……」
 呂衛長の声には、深い疲労が滲んでいた。
 徐夫人の名を聞いても、呂衛長は驚かなかった。すでに、呪詛の主として、目星をつけていたのかもしれない。
(誰のせいで、こんな騒ぎになったと思っているの!?)
 翠玉の眦は、キッと上がった。
「祈護衛が三家皆殺しなどと言い出さなければ、こんな事態にはなりませんでした。先帝陛下の頃には、信頼も厚かったのでしょう? 明啓様と洪進様がお生まれになった時など、殿や庭の改名を任されていたではありませんか」
「なぜそれを……」
「書庫から、資料をお借りしました。気になっていたんです。北方出身の宋家の居城の庭に、なぜ南方の神話に由来した――庭の雰囲気とかけ離れた名がついてるのか」
 チッと呂衛長が舌打ちする。
「先帝陛下は我らを厚く信用してくださった。にもかかわらず……先帝陛下の崩御直後に、呪詛は発動したのだ。起こると思うか? 二百年越しの呪詛など」
「起きるわけないじゃないですか。そもそもでっち上げなんですから」
 ぶっきらぼうに、翠玉は答えた。
 祈護衛にも、三家の呪いなど存在しない、という認識はあったらしい。それが、また腹立たしいところだ。
「三家以外に呪詛などできない。不可能だ。……異能のない我らに太刀打ちなどできん。すべて殺すのが、唯一の道だった」
 三家皆殺し――などという、どの資料にも書かれていなかった方針は、呂衛長の独断であったようだ。
(彼らは、最初から真実に迫っていたのね)
 誰ぞの入れ知恵でもあったのではないか、と思ったのだが、違ったらしい。
「それで、我々を襲って殺そうとしたんですね」
「捜していたのは陶家の者だ。呪詛は、執行者にしか成し得ない。呂家の本家に依頼し、江家と劉家から情報を集めるつもりだった。殺すために襲ったのではない」
「家の裏から、武装した人たちに侵入されましたけれど」
 翠玉は、苦笑した。ただ情報を集めたかったのならば、裏の窓から侵入する必要はないだろう。剣も不要だ。
 また、チッと呂衛長が舌打ちをした。
「違う。江家と劉家を訪ねようとした呂家の者が尾行されていた。賊は我らと別口だ。我らが三家皆殺しを提案したのは事実だが、なんの情報も得ずに殺す理由がない。結局、なにもわからぬまま、明啓様の信頼も失い、最後はこの様だ」
 いったんは核心に迫りながら、行きついた場所が牢というのもやり切れない話だ。
「護符を、後宮の真ん中で焼いたのがまずかったのでは?」
「……三家に手柄を取られてたまるか。洪進様をお助けするのは、我々だ」
 聞き取るのがやっとというほどの小さな声で、呂衛長は言った。
「手柄?……呆れた。それどころではないでしょう」
「貴様らも、手柄ほしさにのこのこ後宮まで来たのだろう」
「それは……」
 罪と則の撤廃を求め、手柄に飢えていたのは事実である。
 翠玉も「たしかに、そうですね」とぽそりと答えた。
「こちらも、浄身にさせるために、一族の多くを失っている。過酷な処置だ。簡単に死んでいく。……私の息子もひとり死んだ。兄もだ。二百年の呪詛を前に、手柄も得られぬまま放逐されては、犠牲になった者に申し訳がたたない。先帝陛下のお気持ちに応えるためにも、我らの手で洪進様をお守りしたかった」
 呂家には呂家の、理屈があった。本人に聞けば理解はできる。――納得などはできないが。
「三家の廟を焼いたのは、祈護衛ですか?」
「まさか。三家に呪われては困る。――陶家の脅しではないのか? 裁定者と守護者に、邪魔をされたくなかったのだろう」
 呂衛長の推測は、翠玉のものとも一致している。
 先ほど徐夫人は、念入りに脅した、と自ら言っていた。実家の力を借りたのかもしれないが、なんにせよ、彼女の意思ではあったのだろう。
「そうですね。……実際、我々は徐夫人の邪魔をしています」
「しかし、それらの罪をまとめて我らに被せるとは……二百年前の怨みを、陶家に返されたわけだ。因果なものだな」
 ふっと呂衛長が笑った。
 三家を裏切り、我が身を保った呂家。
 その呂家が、今、陶家に罪を着せられようとしている。
 因果は巡っている、と感慨にふける気持ちも、わからないでもない。
 だが――
「冗談ではありませんよ。罪は罪。冤罪は冤罪です」
 呂衛長には呂衛長の理屈があった。
 徐夫人には徐夫人の理屈があった。
 理屈に従って犯した罪はその人のものであり、他の誰かが担うべきものではない。まして二百年前の因果など、知ったことではなかった。
「手遅れだ。ここは狭間だと言っただろう? この牢は、内城の目に触れぬ場所にある。外城の裁きも受けられん。死罪が内々に確定した囚人を入れる牢だ」
「え――」
 サッと血の気が引く。
「先ほど、刑部尚書――徐夫人の養父(ちち)君がお見えになった。……まさか、陶家の末裔が、徐家の養女になっていたとは。まったく足取りがつかめなかったわけだ」
「それで、刑部尚書はなんと?」
「祈護衛がすべての罪を被れば、族誅だけは免じてやるそうだ。祈護衛だけならば、死ぬのは二十一人。族誅となれば百人を超える。比べるまでもない」
 呂衛長の言葉が引き金になったのか、しくしくとすすり泣く声が聞こえてきた。
 ひとつではなく、あちこちから聞こえてくる。すぐ隣の牢以外にも、祈護衛の衛官が捕らえられているようだ。
「信じたんですか……?」
「信じるわけがないだろう。だが、賭けるしかない」
 皇帝への呪詛は大罪だ。族誅は免れない。養女の暴挙から一族を守るため、徐家は他家に罪をなすりつけようとしているのだ。
 徐家の刃は、呂家だけでなく、江家にも迫っている。
(いえ、まだわからない。私たちを処刑するにしても、呪詛の成就を待つはず)
 徐夫人がほしいのは、罪をなすりつける相手だ。
 まず呂家。次に、江家と劉家。順番に罪を着せ、殺す気でいる。
 呂家の処刑は早いだろう。だが、翠玉たちの処刑は洪進の死ののちになるはずだ。
(明啓様。どうか、気づいて――助けて――どうか――)
 翠玉は、手をあわせて祈った。
 明啓ならば、きっと助けてくれる。きっと。
 ――すすり泣く声が聞こえる。
 この嘆きは、今は彼らのものだが、いずれ自分たちのものになる。
 李花は、翠玉の手をぎゅっと握った。
「明啓様は、決して我らを見捨てはしない。信じて待とう」
「……はい」
 しかし、心細さはいかんともし難い。
(あの時――廟を焼かれた時に、黙って引き下がっていれば――)
 後悔が、ちらりとよぎる。
(いえ、あの時、怯まず進んだからこそ、見えるようになったものがある)
 かすかな後悔を、翠玉は振り払った。
 もう一度、徐夫人の前に立ちたい。そのためには、まずこの牢を出る必要がある。
 強く拳を握った拍子に、ぐぅ、と腹が鳴った。
 つられたのか、李花の腹まで鳴っている。
「腹が減ったな」
「後宮で、空腹に耐える羽目になるとは思いませんでした」
 頭の中に、卓一杯の料理の映像が蘇る。冷めても香り豊かな(あつもの)。とろける豚肉。香ばしい鶏肉。餡のたっぷりかかった白菜。
(お腹が空いた……)
 昨夜は斉照殿に呼ばれていたので、夕食はほとんど喉を通らなかった。緊張続きで忘れていたが、腹はすっかり減っている。
 ガタガタと、扉の向こうで音がした。
(食事? ――いえ、さすがに早すぎる)
 見上げた窓の向こうは、まだ暗い。
 牢は横にいくつか並んでいるようだ。扉は、細い廊下の向こうにひとつだけ。
 檻の中で、翠玉と李花は両手を握りあい、恐怖に耐えた。
 がらりと扉が開き、兵士が数人入ってくる。
「出すのは手前の三つだ。間違えるなよ! 一番奥にいるふたりは残しておけ」
 ヒッと喉が鳴った。
 ここの牢は、死刑が決まった囚人が入る場所だという。出される時は――執行の時しかない。
(早すぎる)
 夜に牢に入れられ、夜明けを待たずに執行するなど、あまりに早い。早すぎる。
 牢のあちこちで、祈護衛の衛官たちの悲鳴が響く。
 いずれ明啓の助けが来る――と信じたかったが、こう早くては、間にあわない。
「縛れ。猿轡も噛ませておけよ。うるさくて敵わん」
 廊下ばかりか、牢も狭い。
 ひとりひとりを縛り、猿轡をかませるには時間が要りそうだ。
「ま、待ってください。今すぐに刑を執行するのですか?」
 牢の近くにいる兵士に問えば、兵士は「そうだ」と答えた。
「上からのお達しでな。()(ぎょう)の刻に、城外で執行だ。皇族への呪詛は大罪だからな。おそらく、車裂きだろう」
 車裂きとは、縄で馬車に四肢を繋ぎ、身体を引き裂く酷い刑だ。
 恐怖に、悲鳴がこぼれそうになる。他の牢から、か細い悲鳴が次々と上がった。
「裁きを受けさせてください。私は……潘家から参りました。潘翠玉です」
「聞いてるよ。潘家から来た夫人だと思い込んだ、気の毒な女官なんだろ?」
「違います! 調べていただければ、必ずわかるはずです」
「アンタらは後回し。六月九日の執行だ。楽しみに待ってろ」
 六月九日は、明啓と洪進の加冠の日の翌日だ。
 やはり洪進を呪詛で殺したあと、翠玉たちにその罪を着せるつもりらしい。
(本当に、徐夫人の筋書きどおりに進んでいる……)
 悲鳴は、少しずつ数が減っていく。
 代わりに聞こえるのは、くぐもった声だけだ。
 ――憎いでしょう?
 徐夫人の言葉が、耳に蘇る。
 ――いい気味よ。
 竹簡に書かれた文章や、彼らが発した言葉は、翠玉の心を深く傷つけた。
 憎い。腹が立つ。どんな目にあおうと自業自得。
 そう思わないと言えば、嘘になる。
 しかし、呪詛は彼らの罪ではないのだ。
 見殺しにはできなかった。
(外に出なければ!)
 ここで――翠玉は、大きな賭けに出た。
「呪詛をしかけたのは、私です!」
 しん、と牢の声も静かになる。