――かくして。
 槍峰苑に、月倉の会の面々は身を潜めている。
(まさか、こんなことになるなんて)
 空に大きな月がかかり、深夜にしては、やけに明るい。
 天幕で囲われた槍峰苑には、まばらに灯篭の火がともっていた。
 あちこちが掘り起こされているのは、蟲捜しの途中だからだろう。
(狙うは大将首ひとつ……とは言うけれど……そう簡単に事が運ぶのだろうか)
 ――姜夫人が、皇帝からの誘いを装い、文を書いた。
 嘘の手紙でおびき寄せ、取り囲んで尋問する――というのが姜夫人の作戦である。
 徐夫人は、とうに眠っている時間のはずだ。手紙は宿直(とのい)の女官に渡したのだろうが、必ず来るとも限らない。
 どれほどの時間が経ったろうか。
 虫の声に、さらさら、と衣ずれの音が交った。
(――来た)
 岩の上に下ろしていた腰が、浮きそうになる。
「――啓進様?」
 ひそやかな声が、聞こえてきた。
 徐夫人の声だ。
 絹のような、柔らかな声。
「啓進様? 私です。()(じょう)です」
 呉娘、というのが、徐夫人が養女に入る以前の通称だったようだ。
 囁く声の優しさに、ちくり、と胸が痛んだ。
 徐夫人の指に巻いた、糸の彩りが脳裏に蘇る。
 キラキラと輝く、美しい紅色。
 彼女はあれほど純粋な恋を、明啓との間に育んだのだろうか?
(……今は、そんな場合じゃないのに)
 嫉妬に悶々とするなど、もっと暇な時にするべきだ。
 雑念を振り払おうと努めるが、人の心とはままならぬもの。勝手な想像をするだけで、どす黒い嫉妬が次から次へと湧いてくる。
 衣ずれの音はひとつきり。女官もつけず、ひとりで来たらしい。
 木の陰から――姿が見えた。
 きらり、と大きな花の飾りが、月明かりを優しく弾く。
 いつもの紅色ではない。月明かりと、わずかな灯篭の灯りではほぼ白に見える淡い色の袍。月に映えるよう選ばれた装いなのだろう。
 ここで、ピッと短く指笛を吹いたのは、姜夫人だった。
 身を潜めていた、姜夫人の侍女たちがサッと立ち上がる。
 徐夫人は、びくりと身体を震わせ、素早く辺りを見回して「なんなの?」といら立ちを声に示した。
「ごきげんよう、徐夫人。ご足労いただきましたね」
 姜夫人が立ち上がり、木の陰から姿を現す。
 月倉の会一同と、侍女たちも続いた。
「……ごきげんよう」
 徐夫人は会釈せず、姜夫人、周夫人、それから、翠玉と李花を順に見た。
「こうして、今いる後宮の夫人が、四人全員そろうのははじめてです。少し、おしゃべりでもいたしませんか?」
 にこやかに姜夫人は、徐夫人に話しかける。
 徐夫人の目線の向かう先が、翠玉と、李花に絞られた。
 翠玉が着ている翡翠の袍と、李花の着ている空色の袍。月明かりの下では、色の違いを見分けるのは難しいだろう。
 だが、徐夫人の目は、まっすぐに翠玉を射た。
「はじめまして。貴女が潘夫人ね。……本当に?」
 華やいだ声を、徐夫人は上げた。
 なんと答えたものか、翠玉は戸惑う。
 もちろん、本当か嘘かと問われれば、嘘だ、と答えるのが正しい。
「はじめまして」
 だが、この場合は答えないのが正解だろう。
 翠玉は、膝を曲げて会釈をした。
 槍峰苑の中央にある、円の形の石畳に四人が集まる。
 全員が華やかな袍で着飾ってはいるが、ここは戦場だ。
 張りつめた空気が、ピリピリと頬を刺す。
「――勝ったつもりですか?」
 穏やかな笑みをたたえた徐夫人が、実に和やかな調子で言った。
 その態度が、確信させた。
(やはり、呪詛の主は徐夫人だ)
 恐らくは、翠玉だけでなく、この場の全員に。
「逃げ場はありませんよ?」
 姜夫人は、さらに一歩前に出た。
 同時に、姜夫人の侍女たちも、じり、と前に出る。
「この程度で勝ったとお思い? 甘いのね」
 ふふ、と徐夫人は笑む。
「貴女は呪詛を行ったのでしょう? 陛下を殺すために」
 いきなり、姜夫人が核心に迫る。
 緊張のあまり、翠玉の拳にも力が入った。
 しかし、徐夫人は怯む様子がない。
「呪詛? まさか。恐ろしい呪詛を行ったのは三家だ、と祈護衛の者が言っていたではありませんか。おぞましい呪符も、祈護衛が焼いてくれましたわ。片づいたはずではなくて?」
「この場で白を切る度胸は認めますが、こちらをあまり侮らぬことです。――そなたは陛下が邪魔なのでしょう? 思う相手と添うために、陛下を呪詛で殺そうとしたのですね?」
 姜夫人が、さらに踏み込んだ。
 徐夫人の朗らかな口元の笑みが、スッと消える。
「――……」
 なめらかだった舌も、いったん止まっていた。
 しばし、虫の声だけが辺りに響く。そして――
「徐夫人。取引を――なさいません?」
 姜夫人が、ゆったりとした口調で言った。
 ぎょっとして、翠玉は姜夫人を見る。
(取引? そんな話に、いつの間になっていたの?)
 打ち合わせにはなかった流れだ。徐夫人を罠にかけ、自白に追い込む、としか聞いていない。
「……取引、ですって?」
 徐夫人の眉間に、深いシワが寄った。
「えぇ、取引を。呪詛の件は、我々の胸ひとつに収めます。一切口外せぬと誓いましょう。ですから、今すぐ呪詛を解いてくださいな」
 この取引は、姜夫人の独断だ。
(それでいいの? いえ、いいわけがない。皇帝への呪詛を不問にするなんて)
 ちらりと李花の方を見れば、やはりハラハラしている様子だ。勝手なことをされては、このあとがやりづらい。