しん、と倉庫が静かになる。
月明かりだけが差す倉庫に、夫人がふたり。三家の末裔がふたり。
翠玉たちも立ち上がり、微妙な距離を取りつつ、それぞれがそれぞれを見ていた。
「つまり――余計な枝葉を落とすとこういうことですね? 呪詛に倒れた陛下を救うために、その蟲とやらを排除する必要がある、と」
姜夫人が、翠玉に問う。
「はい。根本的な解決のために、呪詛の主を特定せねばなりませんが――」
翠玉は、これまでの経緯をふたりの夫人に説明した。
劉家の護符により、呪詛の蟲の位置が特定されたこと。槍峰苑から、ひとつ蟲が発見されたが、解除には至っていないこと。蟲が複数ある可能性もあり、解除の仕方も呪詛の主に聞くのが一番早い、というところまで説明した。
そこに李花が「呪詛専門の祈護衛が、思いがけず無能であったので、難航しております」と言葉を添えた。
「どうぞ、お力を貸してくださいませ」
翠玉は、ふたりの夫人に協力を乞うことで話を締めくくった。
「私は――不本意です。鼻持ちならない左僕射の娘に、三家の娘。誇り高い姜家と共闘する相手には、相応しくありません」
と姜夫人が言えば、
「私とて不本意だわ。北の海賊に、南の異能者。まるで見世物小屋じゃないの」
と周夫人が返す。
到底、手を携える雰囲気ではない。
しかしながら、彼女たちを巻き込むしか、道はないのだ。最悪でも、口を閉ざす約束だけはほしい。
翠玉は、三人の顔を順に見てから、口を開いた。
「ここで確認させていただきますが――私は身分を偽って後宮に入り、李花は秘中の秘を外に漏らしました。姜夫人は潘氏の娘を拉致監禁。周夫人は拘束中の呂衛長を無断で解放。――つまり、それぞれ、脛に傷持つ身……ですね?」
三人は、不本意そうにうなずいた。
「いったん、この一連の秘密と、都合の悪い所業は、皆様互いに腹へ収めていただきます。できましたら、廟まで連れていってくださいませ」
今度は、三人がそれぞれ、曖昧にうなずく。
忙しく扇子を動かしていた周夫人が、表情を改めた。
「まぁ、たしかにそうね。姜夫人と私は、これから長いつきあいになる。場合によっては陛下よりも長く。三家だって、私たちの実家を敵には回したくない。他言無用。ここを守ってくれないと、手の貸しようはないわ。あぁ、さっきの話は全部聞いていたから。劉家は入宮を報酬に求めたそうね? 貴女とも、長いつきあいになる」
周夫人の視線に、李花は悪寒でも覚えたのか、腕をさすって「左様でございますね」と抑揚のない声で答えていた。
「他言無用。私も、姜家の名にかけて誓いましょう」
姜夫人も同意した。
周夫人は、翠玉と李花にも「いいわね?」と確認してきた。
「「もちろんです」」
と翠玉と李花は、声をそろえた。
「さしずめ、月倉の会だな」
と李花は辺りを見渡しながら言った。
味も素っ気もない名だが、その殺伐とした名に相応しい顔ぶれではある。
「では、まず蟲捜しの再開を――」
翠玉の言葉が終わるのを待たず、李花が、
「いっそこのまま、呪詛の主を訪ねてはどうだ? 貴女も、見当はついているのだろう? 疑わしいのは――徐夫人だ」
と言った。
三人の目が同時に注がれ、翠玉は渋い顔になる。
「李花さんが、そう判断された理由は?」
「この荒事の場にいない。なんでも筒抜けの後宮だ。この事態を徐夫人も把握しているだろう。庭の捜索まで行われている今、おとなしければおとなしいほど怪しい」
呪詛の主が、この夜更けに人を攫い、縛り、密談をするとは思えない、と言っているのだ。たしかに、一理ある。
李花は「貴女の推論を聞かせてくれ」と言った。
姜夫人の目も、周夫人の目も、翠玉の意見を求めている。
ここは、いったん推測を述べるしかなさそうだ。
「私も、徐夫人を疑ってはいます。――彼女だけなんです。夫が双子のどちらでも構わない、と思っていない方は」
姜夫人と周夫人が、目を見あわせる。
「徐夫人だけ? そんなことはない。皆が困るだろう」
李花が言うのに、翠玉は首を横に振った。
「兄君の明啓様と、弟君の洪進様は、ひとりの皇太子として育てられました。――どちらでもいいのです。見分けのつかない容貌。同程度の能力。話し方や、筆跡。楽器の腕。今回、洪進様がお倒れになった翌日から、明啓様は政務を行われていますが、なんら支障は出ていません。どちらも宋家の血も間違いなく継いでいます。帝位でさえ、どちらでも構わないのです」
夫人たちも、皇帝が双子だとはまったく気づいていなかった。李花の自白を聞いても、最初は鼻で笑っていたくらいだ。
さらに翠玉は続けた。
「月倉の会の信頼に甘えて言わせていただきますが、夫人がたも、どちらでも構わないはずです。仮に洪進様が亡くなれば、明啓様がそのまま一生身代わりを務めます。でも、困らぬはずです。宋家の男子で、皇帝ですから。縁談の途中で、兄弟のどちらかに相手が変わることは、そう珍しい話でもありません。特に高貴な方ならばなおさらです」
姜夫人にとっては、宋家と姜家の血を継ぐ子が大事だ。
周夫人にとっては、自分を皇后位に就ける者であればいい。
どちらでも、構わないはずである。
ふたりの夫人は、さすがに即答を躊躇っていた。
彼女たちとて、皇帝が死んでも構わない、とまでは思っていないだろう。だが、月倉の会のか細い信頼を足掛かりにしてか、渋々翠玉の言を認めてうなずいた。
「徐夫人は、ご兄弟のどちらかと面識があるそうです。それも、親しかったご様子。兄君はご存じない、とおっしゃっていました。すると弟君のはずですが……確認できていません。兄君は明啓様、弟君は洪進様、と仮の字をお使いですが、おひとりの時は、啓進、と共有の字を使われている。徐夫人は、啓進様、と陛下をお呼びしていましたので、一方だけを知っているのでしょう。どちらでもいいはずの双子の、どちらでもよくはないと思う人。差のごく少ない双子の、どちらかを強く望む者。――だから私は、徐夫人を疑っています」
三人は、押し黙っている。
「……と、ここまで推測だけを述べましたが、実はこの理屈は簡単に覆るのです」
翠玉は、あっさり「すみません」と三人に謝った。
「なに? なんだ、長々と説明しておいて」
李花が不満そうにむくれ顔をする。
「逆なんです。徐夫人が洪進様とお知り合いなら、殺すべきは明啓様のはずですよ」
洪進に恋をして、明啓を殺すならばわかる。
だが、逆なのだ。
「逆? 逆……そうだな。たしかに逆だ」
実の父親でさえ、どちらでもいいように、ふたりを育てた。
どちらでもいい、とは思わない数少ない人であるはずの徐夫人が、ふたりを間違えるとは思えない。
「というわけで、私も疑いはしていますが、この説では辻褄があわないのです」
翠玉は、自分の説を引っ込めた。
そこに李花が「待ってくれ」と食い下がる。
「明啓様が、貴女に嘘をついている――という可能性はないのか?」
翠玉は「あり得ないですよ」と苦笑した。
「洪進様の回復を、誰より願われているのは明啓様です。なんで、そんな嘘を?」
「貴女に気があるからだ」
しん――と倉庫の中は静かになった。
翠玉は浅い呼吸を五度繰り返してから、ごくり、と生唾を飲んだ。
(李花さん……なんと恐ろしいことを……)
さすがは、融通がきかぬと自称するだけのことはある。とんでもないところから、石を投げつけられた気分だ。
「……ちょっと待ってください、李花さん」
身体中から、冷や汗やら脂汗やらわからぬものが、どっと出た。
「明啓様は、貴女を信頼し、好意も持っている。そんな相手に、少年の頃の淡い恋の話などしたくないに決まっているだろう。貴女だって、面白くないはずだ」
ぱっと頭に浮かんだ光景がある。
離宮など見たことはないが、おおよそ後宮の庭に似た場所。
涼やかな容貌の貴公子と、美しい姫君が出会う。
貴公子が、姫君に花を贈る映像は、心に痛みをもたらし――
「そ、そんなことは……」
そのまま、翠玉の表情に出た。
「ほら、見ろ。好意を持つ相手に、そんな顔はさせたくないはずだ」
やられた。
翠玉は、額を押さえてため息をつく。
「わかりました。逆だと思いましたが、逆ではないかもしれないのですね?」
「そういうことだ。やはり、本人に聞くのが一番早い」
話が、一周して戻ってきた。
徐夫人に、直接尋ねればいい――と李花は言っている。
翠玉は「いけません」と李花を止めた。
「一国の皇帝を呪殺せんとする者です。李花さんが言うのももっともですが、正面切って接触するのは危険すぎます」
ここで、姜夫人が一歩前に出る。
「秘密を知る我らが動かず、陛下を見殺しにするつもりですか? 箱だの壺だのと、悠長なことは言っていられません。狙うは大将首ひとつ。本人に聞くのが一番早いに決まっています。――今すぐに」
姜夫人の勇ましさに、翠玉はぎょっとする。
「い、今からですか?」
すると姜夫人は、
「奇襲です。落雷を防ぐ術なし、と言うでしょう?」
と堂々と言い、周夫人は、
「速さは槍に勝る、と言うじゃない。大将首を狙うのに、躊躇いは無用」
ときっぱりに言った。
そろったふたりの言葉に、翠玉は感動さえ覚えた。
生まれた時から日陰暮らしの自分には、及ばぬ考えだ。
「わかりました。鼠の知恵と、獅子の知恵は違うようです」
「鼠には鼠の知恵がある。どちらも侮るべきではありません。獅子ばかりが載った船では、すぐに沈むでしょう。――行きますよ。いったん菫露殿に戻ります」
姜夫人が先に歩き出し、見送った周夫人がこちらを見る。
「私は、思い人のいる皇帝より、いない皇帝の方がいいわ」
そう言って、周夫人も倉庫を出ていく。
翠玉は、李花と共に夫人たちを追いかける。
「もう夜更けです。どうやって、徐夫人とお話しなさるのです?」
「釣るのです。貴女の得意な方法で」
にこり、と姜夫人は微笑んだ。周夫人は、作戦の見当がついているらしい。涼しい顔をしている。
(頼もしいお方たちだ)
一時はどうなることかと思ったが、なんとか前に進んでいる。戦場に向かう夫人たちの表情は、殿にいる時よりも輝いて見えた。