「まぁ、まぁ、まぁ! なんと野蛮なこと!」
のんびりとした声が響く。
「何者です!?」
姜夫人の問いに答えるより早く、その人は月明かりの下に姿を現した。
「さすがは北の蛮族の娘。やり口がいかにも海賊らしいわ」
ほほほ、と笑う口を扇子で隠しているのは、白い袍の周夫人だ。
(あと一息というところだったのに……!)
邪魔が入った。縄は依然、翠玉を縛めている。
「まぁ、ごきげんよう、周夫人。このような夜更けに、なんの御用です?」
姜夫人が、剣呑な声で問う。
「ずいぶん騒がしいようですから、様子を見に参りましたの。ほら、私の言ったとおりだったでしょう? あの護符を私に譲れば、おもしろいものが釣れるって」
周夫人は、李花をちらりと見た。
白鴻殿に貼り直された護符は、やはり姜夫人から譲られたものだったらしい。
(踊らされていたのね……なんてこと)
護符を確認すべく、李花はまんまと白鴻殿に現れた。
攫うのは簡単だっただろう。李花は蟲捜しの指揮を執るべく、翡翠殿と槍峰苑を行き来していたのだから。
(ふたりは共謀して、私たちを攫った。目的は……報復?)
ごくり、と翠玉は生唾を飲んだ。
「あとは当家の問題。周家の手出しは無用に願います」
「そうはいかないわ。その連中が何者なのか、明らかにせねば」
「三家の末裔の娘。陛下の命を受け、呪詛を解くべくここへ来たそうです」
姜夫人は、ちらりとこちらを見た。
「さっきの話なら聞いていたわ、すべて。信じたの? 北の蛮族は単純なのね」
「都の狐は疑り深いようですね。罠にかかった鼠は、簡単になんでも吐きますよ」
姜夫人と周夫人の間に、激しい火花が見えるかのようだ。
「それで? この鼠たちをどうするつもり?」
「鼠の処遇など、どうとでもできます。それより、まずは槍峰苑の作業を再開させるべきでしょう。陛下の危機に、ただ手を拱いて待つわけにはいきません」
翠玉は、心の中で喝采を送った。
槍峰苑に人がいなかったのは、姜夫人が蟲捜しを中断させていたかららしい。なんとか、それだけは再開させてもらいたいところである。
「信じるの? 三家というのは、高祖様にたてついた大罪人。どのような嘘をつくか、わかったものじゃないわ。――連れてきて」
周夫人の合図で、扉の向こうから人が入ってきた。
三人いる。端のふたりは衛兵。中央のひとりは、腰を縄で縛られている。
縛られているのは、暗い色の袍を着た女だった。
「三家は、悪です。悪そのもの。族誅も当然。情けをかけて残した血筋も、こうして呪詛をしかけて参りました。忘恩の徒。皆殺しにすべきでございます!」
いきなりはじまった罵声には、聞き覚えがある。
――祈護衛の、呂衛長だ。
(呂衛長? なんでここに!?)
宿舎で謹慎中のはずの呂衛長が、なぜここにいるのかはわからない。
だが、彼女を連れてきたのは周夫人だ。
この場で、三家の翠玉と、祈護衛の衛長とを闘わせるつもりなのだろうか。
呂衛長の姿が見えた。美声に相応しく、凛々しい顔立ちをしている。四十歳よりは手前くらいだろうか。南から来た一族にしては、背が高い。
「聞いた? 祈護衛は、呪詛をしかけたのは三家の者だと言ってるわ。この鼠たちは三家の末裔なんでしょう? ここで始末すれば、呪詛は消えるじゃない」
周夫人は、ぱちりと閉じた扇子の先で、翠玉と李花を示した。
「祈護衛の者の言葉など、私は信じません」
だが、きっぱりと姜夫人は言った。
あまりに毅然としているので、翠玉は心の中で拍手するのを忘れた。
「なんですって?」
「宇国滅亡の折、最後まで三家の軍と対峙していたのは、我が祖の姜将軍でした。呂氏が恩ある三家を裏切り、族誅の憂き目にあわせたこと、姜家にはしかと伝わっていますよ。そのような小者の末裔の言葉など、私は信じません」
膝をついたままだった翠玉は、その場にへたりこんでいた。
(嘘ではなかった……伯父上の言ったことは、本当だったのね)
感涙が、翠玉の頬を濡らす。
敵方の姜家に伝わっている話ならば、きっと嘘ではない。
「ち、違います! 三家は最後まで高祖様に逆らい、宋家を呪い殺すと――」
すかさず、呂衛長が反駁を試みる。
だが、姜夫人は「お黙りなさい!」と一喝した。
「三家の当主たちは、忠と礼を知っていました。富貴も求めず、ただ宇国の関氏へ忠を貫くため、一切の財産を放棄し、南に去ると宣言していたのです。自分たちに仕えていた者たちを先に南へ逃した判断を、姜将軍は高く評価しています」
「三家は異形の獣です!」
呂衛長の声は、悲鳴に近い。
「我が先祖が、獣と刃を交えたと言うのですか!」
姜夫人の声にあわせ、侍女たちが棒を構える。
さすがの呂衛長も、言葉を失った。
話が予定どおりに進まず、周夫人の機嫌は急降下している。
「いい加減にしてちょうだい! 先祖の話などどうでもいいわ。とにかく、問題の呪詛は三家がしかけたのよね? そうなんでしょう?」
周夫人に問われ、呂衛長は「はい」と答えた。
「そ、そのとおりでございます。三家は恩を忘れ、恐れおおくも皇帝陛下を呪ったのです。抹殺すべきと我々は陛下には言上いたしましたが、残念ながら聞き入れられませんでした。三家の者が誑かしたのでございましょう」
呂衛長の舌は、実になめらかである。
だが、ここで――周夫人が「待って」と呂衛長に近づいた。
「陛下って? 誰のことを言っているの? 呪詛をかけられたのが陛下? 誑かされたのが陛下?」
「え――あ、それは……」
流暢な雑言はどこへやら。呂衛長は、しどろもどろになった。
周夫人は、倉庫の中をうろうろとしだした。
「祈護衛はこの間、庭の前で呪符を燃やしていたじゃない。それと呪いは別の話? 陛下がふたりいるみたいな言い方――ちょっと待って。呪詛をかけられた陛下と、今、政務をされている陛下は、別? ふたりいるの? まさか本当に、陛下は双子だなんて……そんなバカな話ってある?」
この時、翠玉は思った。
(勝てる)
呂衛長は、三家の罪を主張するのに夢中になって、口を滑らせた。
秘中の秘を、外部から来た翠玉や李花が口にするのと、後宮の一部署である祈護衛の衛長が口にするのでは重さが違う。前者は戯言。後者は漏洩だ。
「ち、違います。違うのです。三家の者は、後宮全体に呪詛を行うために、呪符を夫人がたの殿と、庭にも貼り――」
「じゃあ、陛下は自分を呪う者を自ら後宮に招いたの? おかしいじゃない。滅茶苦茶よ。三家の者だって、呪っている相手に招かれて、のこのここ来たりする?」
「呪いは、近い場所でなければ効きませぬ。陛下を騙した三家の者が――」
月明かりだけでは、細かい表情は読み切れない。
だが、声だけでも呂衛長が窮しているのだけはわかる。
すかさず、翠玉は口を開いた。今こそ、この舌を振るうべき時だ。
「申し上げます。夫人の皆様を疑わざるを得なかったのは、徐夫人が五月四日。姜夫人が五日。一日空いて周夫人が七日に入宮されたからです。いずれも、弟君がお倒れになった五月八日の直前。私どもが後宮に招かれたのは、その半月後の五月二十四日でございます」
周夫人は、うろうろと歩き回るのを、ぴたりと止めた。
「……貴女が、一番事情を知っていそうね。話を続けなさい」
扇子をぴしりと翠玉に向け、周夫人が促す。
呂衛長が「黙れ!」と叫んだが、誰もが聞き流した。
「はい。祈護衛が言う三家の呪いとは、高祖様から三十三番めの直系の子孫を、加冠を前に呪殺する、というもの。双子の兄君と弟君は、数え方によってはどちらが三十三番目でもおかしくはない、数奇な運命のもとにお生まれになられました。先帝陛下のご意思で、おふたりは、ひとりの皇太子としてお育ちになられたのでございます」
周夫人の細い眉が、ぐっと寄った。
「では、今、陛下として外城でご政務をされているのは……」
「兄君でございます。斉照殿でお休みになられているのが、弟君。おふたりは、よく似ておられ、先帝陛下でさえ、見分けがつかなかったとうかがっております」
もう、洗いざらい、すべて話すしかない。
嘘はつけばつくほど、深い沼にはまるもの。嘘に嘘を重ねた祈護衛は、自ら沼に足をとられている。ならばこちらは、真実だけを述べて、沼を超えていくまでだ。
「入宮の日、食事をしたのは? あれはどちら? 兄君? 弟君?」
「その直後にお倒れになった、弟君でございます。――しかしながら、三家はこの呪詛に一切関わっておりません。祈護衛は頼むに足らず、と看破された兄君が、我らに呪詛の解除をお任せくださったのです。祈護衛は、二百年にわたって宋家の禄を食みながら、呪詛を阻めず、除けず、三家に罪を被せてきたのでございます」
そこに呂衛長が叫んだ。
「つ、角が生えております! 三家の末裔は、皆、化物です!」
周夫人が「見苦しい! お黙り!」と一喝する。
ふ、ふ、ふ、とくぐもった声がした。横を見れば、柱に縛られた李花が笑っている。祈護衛の不甲斐なさが、いっそ滑稽だったのだろう。
勝敗は、すでに決した。
呂衛長に一瞥もくれず、翠玉は続けた。
「呪詛を、早急に取り払わねばなりません。どうか、槍峰苑の捜査再開をお許しください。三家の異能は、わずかですが我らに残っております。小さな手がかりを頼りにして、やっと、あと少しというところまで参りました。まずは、呪詛の蟲――呪詛を閉じ込めた箱か壺を掘り返し、一刻も早く、少しでも遠くへ送らねばなりません。なにとぞ、なにとぞ――こうしている今も、陛下はお苦しみです。なにとぞ――」
翠玉が頭を下げると、すぐに縄が解かれた。
解放された李花が駆け寄ってきて、ふたりは膝をついたま抱きあう。
「すまない! すべて喋ってしまった! 秘中の秘なのに!」
「私たちの立場の弱さは、明啓様もご存じです。決して、問答無用で厳罰を与えるような真似はなさいませんよ」
楽観は半ば。だが、今はそう言って励ますしかない。
「その女を連れていって! とんだ役立たずじゃないの。恥をかいたわ!」
しっしっ、と周夫人は呂衛長を、手振りで追い払う。
呂衛長は衛兵に囲まれ、倉庫から連れ出された。まだなにか喚いていたが、誰も気にはとめなかった。