(父上は……喜ぶだろうか)
気づけば、翡翠殿の客間の長椅子に座り、今日植えられたばかりの八重の芍薬を眺めていた。淡い朱鷺色の、大ぶりなものだ。美しく、華やか。明啓が選んだようだが、翠玉に相応しいとは思えない。
(伯父上は喜ぶだろう。……子欽も、きっと)
柔らかな寝具に、美しい調度品。鮮やかな翡翠の袍。そして、卓を埋め尽くす料理の皿。そして、香り高い茶。
(貴妃になれば、これが日常になる)
もう、飢えずに済む。雨漏りを我慢しなくていい。素性が露見する度に土地を転々とする必要もない。子欽の教育に頭を悩まさずに済み、廟も守られる。
あとは――自分の心ひとつだ。
「きゃあああッ!」
突然、悲鳴が聞こえ、ぼんやりとしていた翠玉は、腰を抜かすほど驚いた。
「何事ですか!?」
寝室を出、悲鳴のした廊下に出れば、四穂が護符の前で震えている。
「ご、護符が……欠けております!」
それがどれほど恐ろしいことか、李花から聞いたのだろう。四穂は青ざめている。
翠玉も、最初に欠けた護符を見た時は、恐怖した。
人の為すこととは思えない。とんでもないことが起きている、と。
(きっと、私にかけられた呪詛に、護符が反応したんだ)
それほど強い呪詛をかけられながら、翠玉の体調には、なんの変化もない。
――三家の者だから。
「大丈夫です。今は蟲が移動しましたから。すぐに落ちつきます」
翠玉は、四穂や、駆けつけた他の稲たちに、気休めのような言葉をかけた。
そのままを、口にするのが怖かった。
三家の者は、人とは違う。
人に知られるのが、恐ろしい。
――陛下がお越しです。
客間の方で声がして、翠玉は慌てて戻った。
「手間をかけたな、翠玉。ご苦労だった」
もう明啓は客間に入っていて、長椅子に腰を下ろしていた。
翠玉は会釈をし、卓をはさんだ向かい側に座る。
「いえ……よいお知らせができず、残念です」
茶器が運ばれてきた。茶杯に茶をそそぎ、どうぞ、と差し出す。
「槍峰苑の捜索は、昼夜を問わず続けることにした。李花には、指揮を頼んでいる」
「頼もしい限りです」
この程度の報告ならば、一穂に言伝すれば済むのではないか――とちらりと頭をかすめた言葉には、蓋をした。
胸の嵐が去らない。今は、あまり顔をあわせたくなかった。
「弟が、先ほど言っていた入宮の件だが――」
「……はい」
「――貴妃とは、大した出世だな」
ぽつり、と明啓が言った。
翠玉は、きょとんとしてしまった。意味がわからなかったからだ。
それから、言葉にある棘の鋭利な輪郭を理解した。
世の侮りくらいは、想像がつく。二百年の罪を忘れたか――と謗る声も頭に響く。洪進の申し出を受けるならば、しなくてはならない覚悟だ。
だが――その侮りを、まっさきに明啓から受けるとは、思っていなかった。
(三家への偏見は、捨ててくださったものと信じていたのに)
これまでの数日で築いた信頼を、翠玉は見失った。
空しいやら悲しいやらで、いっそ泣きだしたい気分だ。
「侮りには慣れております。私を挑発しても、得るものはございませんよ?」
翠玉は「どうぞ」と改めて茶杯を勧めつつ、にこりと笑んだ。
「侮ったつもりはなかった。すまん。――いや、つい――」
つい、うっかりと、侮るつもりもなく侮った、と言うのだろうか。
「私どもは、この件を片づけねば、安堵して眠ることさえできません。どれだけ侮られても、戦い続けますので、ご安心を」
翠玉は、会釈をして立ち上がった。これ以上、なにも話すことはない。
「待ってくれ。ただ、俺は――」
「口が過ぎました。多少、疲れているようです。では――」
家族を守るためだ。己ひとりの心を殺すなど容易い。
明啓に失望を感じていようと、三家の者としての役目は果たす。
こんな胸の痛みは、些事だ。
翠玉は、くるりと背を向け、寝室に向かった。
「――翠玉」
名を呼ばれ、翠玉は足を速めた。
(些事だ)
大したことではない。だが、一刻も早く、この感情から逃れたい。
寝室に急ぐ翠玉の肩を、明啓がつかむ。
「あ――」
決して、強い力ではなかった。
驚いてもらした声に、明啓が「すまん!」と慌てて手を放す。
「大丈夫か? 走らぬ方がいい。足の怪我も癒えてはいまい」
「お構いくださいますな。私は――三家の娘です」
「どこの家の娘でも、怪我はするだろう」
「そうではありません!」
つい、声が大きくなった。高ぶった感情のまま、正面から明啓を見つめてしまう。
「……悪かった」
「頭に角はありません。洞窟で集会もいたしません。でも……やはり、私は常の人とは違います。呪詛も効きませんし――」
「よいではないか。風邪をひきにくいのと同じだ」
「異能があります」
「剛力な者と同じだ」
翠玉は、頭を抱えたくなった。
話がまったく通じない。
「では、どうして――」
どうして、あんな嫌味などを言ったのか。
こちらから、入宮を望んだわけではない。洪進からの申し出だった。
「俺には、皇帝の貴妃に勝るものなど用意できない」
意味がわからず、翠玉はいっそう眉を寄せた。
いつも、明啓の話は明快だ。だが、今は違っている。
「おっしゃっていることが、よくわかりません」
明啓の顔は、とても高いところにある。だからこの距離で会話をするには、翠玉は首をずいぶん上げなければならなかった。
「長屋を訪ねた時、俺には貴女に示す利があった」
「……はい」
冤罪を晴らし、罪と則を撤廃させる。
それが翠玉を動かした利であった。明啓の言葉に、誤謬はない。
「弟は、いとも容易く利を示せる。だが、俺にはなにもないのだ。俺は、ただの身代わりで、地位どころか、字さえもない。なにも貴女に示せるものが――」
「なにをおっしゃるのです。子欽を守っていただいたばかりか、罪と則を撤廃してくださったではありませんか」
呪詛の解除を待たず、三家の危機を救うために、罪と則を撤廃した。
明啓だからこそ、できたことだ。
「俺は、弟の影だった。……帝位も話しあい、喜んで譲ったつもりだ。だが……今は悔いている。なぜ、俺は皇帝になる道を選ばなかったのか……俺が皇帝であったならば、貴女を――」
明啓は、取り乱している。
こんな表情を、声を、見たことがない。
動揺は、あっさりとこちらにも伝染した。
「わ、私とて、本気にはしておりません。洪進様はお疲れでしたし……だいたい、私は、琴も笛もいたしません。背も低いですし、夫人の皆様と並べる容姿ではありません。入宮など、まったく考えては――」
「なにを言う。貴女は美しい」
「……え……」
「いや、姿形だけの話をしているわけではない。貴女には知恵があり、勇気がある。貴女のような人と共に歩めたらと、弟も望んだのだろう。俺と同じに――」
「あ……あの……」
ぽかん、と口が開いてしまった。
翠玉自身も、ひどく動揺していたせいで、わけのわからないことを口走った。
だが、この明啓の動揺には及ばない。
「だが、貴女を、弟には渡したくない。いや、他の誰にもだ」
「……明啓様……」
「俺だけを――……今……すべき話ではないな。すまない。取り乱した」
動揺している、という自覚は明啓にもあったようだ。くるりと背を向け、「見送りは要らない」と言って、客間を出ていってしまった。
残された翠玉は、口を開けたまま動けずにいる。
(自分が皇帝になっていれば、私に貴妃の位を賜れた……と言ったの?)
彼もおかしかったが、自分もおかしい。
翠玉は、足早に寝室に戻った。頬が、ひどく熱い。
(まるで求婚だ)
牀に身を投げ、波だった感情を押さえようと努める。
いったん目を閉じてみたが、浮かぶのは見上げた明啓の顔だけ。
洪進は、翠玉に貴妃の位を約束した。
明啓は、求婚らしき言葉を口にした。
奇しくも同じ日、双子は翠玉にそろって似通ったことを言った。
彼らの顔は、ほとんど変わらない。きっと、声や発音も。
代えがきくように、という明確な意思のもとで育てられたふたりだ。
どちらでもいいのだ。本来は。
どちらでもいい。どちらでも――
(よくない)
ぱちりと目を開け、翠玉は牀から起き上がった。
明啓と洪進は、別の人間だ。
出会ってから、たった数日。だが、翠玉は明啓の人柄に触れた。
生真面目な人だ。優しい人だ。賢明な人だ。
どちらでもいいはずがない。
弟にすべてを託し、自分は死ぬものだ、と諦めていた明啓でさえ変わった。
恋――と仮に呼ぶならば――を自覚した途端に、どちらでもいい、という考えを捨てたのだ。話しあいだけで、弟に皇帝の座を譲るような人が。
翠玉が、明啓に出会って変わったように。
明啓も、翠玉に出会って変わったのだ。
「翠玉様――」
「は、はい!」
突然呼ばれて、翠玉は跳びあがるほど驚く。一穂がそこにいる。
よほどぼんやりしていたらしい。まったく気づかなかった。
「槍峰苑においでの李花様が、至急お越しいただきたいとのことです」
「わかりました。すぐに行きます」
翠玉は、すぐに寝室を出た。後ろに一穂がついてくる。
月はいつの間にか陰っており、まばらな灯篭は心もとない。
北の房から出て、西側にぐるりと回る。
天幕が見えた。だが――暗い。
(昼夜を問わず蟲捜しをする、と聞いていたのに……なにかあったの?)
かすかな灯りは見えるが、作業のできる明るさではないようだ。
「暗い……ですね」
「翠玉様。私が様子を見て参ります。そちらでお待ちを」
一穂も不審に思ったようだ。天幕をめくり、槍峰苑の中へと入っていく。
不安に思いつつ、陰った月を見上げる。
その時、後ろから腕が伸びてきて、布で顔を覆われた。
そこで――翠玉の意識は、ぷつりと途切れる。
「う……」
荒縄で縛られた身体。猿轡。
既視感を覚える。後宮内での出来事とは到底思えない。――この恐怖。この痛み。身体に食い込む縄。
「――おかしかったですか? 嘘の占いに食いついて、化粧を直し、月夜に映えるよう淡い色の袍に着替えて待っていた我らは、さぞ滑稽に見えたでしょうね」
闇の中から――聞き覚えのある声がする。
「…………」
答えようがない。翠玉は、口に猿轡をされている。
高い場所にある窓から、ただ一筋、月明りがさすだけの暗い場所だ。
(見覚えが……あぁ、祈護衛の書庫と、造りが同じ……)
おそらく、ここは後宮の南側の建物の中のひとつだ。
箱があちこちに積まれている。倉庫として使われている場所らしい。
(生きてる)
いったん、その事実に安堵する。
だが、絶望的な状況であることは間違いない。安堵は一瞬だった。
「ずいぶんと、侮ってくれたものです。――外して」
猿轡が、解かれた。
呼吸が乱れ、せき込む。
「……姜……夫人でございますか?」
衣ずれの音がやみ、窓から差す月明かりの下に、姜夫人の姿が見えた。
「陛下に望まれ、翡翠殿に来た新しい夫人。――その正体は怪しげな占師。人をバカにするにも程がある。私は、侮られるのが一番嫌いです」
周りにも気配がある。縛られて身動きが取れないが、きっとあの屈強な侍女たちが控えているのだろう。
少し離れた場所で「うぅ」とくぐもった声が聞こえた。
やや、目も暗さに慣れた。音のする方を見れば、李花が柱に縛られている。
(あ……李花さん!)
その頬は、涙に濡れていた。
ひと通りの尋問は済んでいるのだろう。――尋問したのは姜夫人である。ほとんどすべてを話したと見るべきだ。
「恐れながら――」
「お黙りなさい。質問は私がします」
姜夫人は、キッと鋭くこちらを見た。
「私の目的は、呪詛の解除でございます。貴女様とは利害も一致いたしましょう」
「その手には乗りません。お前の口が達者なのは、よく知っていますから」
冷たい視線が、翠玉を射った。
だが、ここで怯めば、脱出は絶望的になる。
「姜夫人。未来のご夫君を救うために、我らは手を尽くしております。呪詛に用いる蟲をひとつ暴きましたが、いまだ呪詛は続いております。なにとぞ、この場はお見逃しくださいませ。必ずや――」
「占いだの、呪詛だのと世迷い事を。お前まで、陛下が双子だと言うつもりですか? バカバカしい!」
やはり、李花は洗いざらい吐いたようだ。
皇帝は双子。即位した弟が呪詛に倒れ、三家の自分たちは呪詛を解くべく、影武者の兄に招かれたのだ、と。
「左様でございます。この件は、姜夫人の胸ひとつにお留めください。二百年の因縁ゆえに、陛下――おふたりは、字まで共有してお育ちになられました。今回の件を伏せておりましたのも、皆様を軽んじたがゆえではございません。加冠も間近。知らせぬ方が、お気持ちの負担になるまい、と兄君はご判断されたのです」
必死に、翠玉は言い募った。
「双子の話はもういい。それで、お前は占いを装い、なにを調べていたのです?」
「呪詛の主でございます。呪詛の主は、この後宮内に存在いたします」
後ろにいた侍女が「なんだと!」「愚弄するか!」といきり立つ。
「まさか、私にまで疑いがかかっていたとでも言うつもりですか?」
「はい。三名の夫人がた。あるいはその身近にいる者が、強く疑われます」
ふん、と姜夫人は鼻で笑った。
「国の要職に就く父を持ち、早期の懐妊を国中から望まれる我々が、なぜ陛下を呪詛せねばならぬのです。実にバカバカしい。――柱に縛って」
姜夫人の指示で、翠玉は李花が縛られた柱の横まで、引きずられた。
「わ、私は、潘氏の養女を装いましたが、三家のうち江家の末裔でございます。三家も、この呪詛に巻き込まれ、家族の命を狙われたばかりか、廟まで焼かれました!」
「……その、廟が焼かれたという話は本当ですか? あの娘の、口から出まかせだとばかり……」
姜夫人が、李花を見る。
李花の自白は、大袈裟な嘘だと思われていたらしい。
やや風向きが変わった。翠玉を柱に縛りつけようとしていた、侍女の手も止まる。
ここで、翠玉は自ら膝を折った。
「誓って嘘は申しません。江家も劉家も廟を焼かれ、宝牌は灰と化しました。――しかし、それは言い訳にはなりませぬ。呪詛の主か否かを探るため、姜夫人を欺きましたこと、心よりお詫び申し上げます」
「……もうよい。そちらにも事情があったのはわかりました」
姜夫人が、手で合図した。
翠玉を縛っていた縄が解かれ――ようとしたその時だ。
ぎぃ、と音を立てて、扉が開いた。
「まぁ、まぁ、まぁ! なんと野蛮なこと!」
のんびりとした声が響く。
「何者です!?」
姜夫人の問いに答えるより早く、その人は月明かりの下に姿を現した。
「さすがは北の蛮族の娘。やり口がいかにも海賊らしいわ」
ほほほ、と笑う口を扇子で隠しているのは、白い袍の周夫人だ。
(あと一息というところだったのに……!)
邪魔が入った。縄は依然、翠玉を縛めている。
「まぁ、ごきげんよう、周夫人。このような夜更けに、なんの御用です?」
姜夫人が、剣呑な声で問う。
「ずいぶん騒がしいようですから、様子を見に参りましたの。ほら、私の言ったとおりだったでしょう? あの護符を私に譲れば、おもしろいものが釣れるって」
周夫人は、李花をちらりと見た。
白鴻殿に貼り直された護符は、やはり姜夫人から譲られたものだったらしい。
(踊らされていたのね……なんてこと)
護符を確認すべく、李花はまんまと白鴻殿に現れた。
攫うのは簡単だっただろう。李花は蟲捜しの指揮を執るべく、翡翠殿と槍峰苑を行き来していたのだから。
(ふたりは共謀して、私たちを攫った。目的は……報復?)
ごくり、と翠玉は生唾を飲んだ。
「あとは当家の問題。周家の手出しは無用に願います」
「そうはいかないわ。その連中が何者なのか、明らかにせねば」
「三家の末裔の娘。陛下の命を受け、呪詛を解くべくここへ来たそうです」
姜夫人は、ちらりとこちらを見た。
「さっきの話なら聞いていたわ、すべて。信じたの? 北の蛮族は単純なのね」
「都の狐は疑り深いようですね。罠にかかった鼠は、簡単になんでも吐きますよ」
姜夫人と周夫人の間に、激しい火花が見えるかのようだ。
「それで? この鼠たちをどうするつもり?」
「鼠の処遇など、どうとでもできます。それより、まずは槍峰苑の作業を再開させるべきでしょう。陛下の危機に、ただ手を拱いて待つわけにはいきません」
翠玉は、心の中で喝采を送った。
槍峰苑に人がいなかったのは、姜夫人が蟲捜しを中断させていたかららしい。なんとか、それだけは再開させてもらいたいところである。
「信じるの? 三家というのは、高祖様にたてついた大罪人。どのような嘘をつくか、わかったものじゃないわ。――連れてきて」
周夫人の合図で、扉の向こうから人が入ってきた。
三人いる。端のふたりは衛兵。中央のひとりは、腰を縄で縛られている。
縛られているのは、暗い色の袍を着た女だった。
「三家は、悪です。悪そのもの。族誅も当然。情けをかけて残した血筋も、こうして呪詛をしかけて参りました。忘恩の徒。皆殺しにすべきでございます!」
いきなりはじまった罵声には、聞き覚えがある。
――祈護衛の、呂衛長だ。
(呂衛長? なんでここに!?)
宿舎で謹慎中のはずの呂衛長が、なぜここにいるのかはわからない。
だが、彼女を連れてきたのは周夫人だ。
この場で、三家の翠玉と、祈護衛の衛長とを闘わせるつもりなのだろうか。
呂衛長の姿が見えた。美声に相応しく、凛々しい顔立ちをしている。四十歳よりは手前くらいだろうか。南から来た一族にしては、背が高い。
「聞いた? 祈護衛は、呪詛をしかけたのは三家の者だと言ってるわ。この鼠たちは三家の末裔なんでしょう? ここで始末すれば、呪詛は消えるじゃない」
周夫人は、ぱちりと閉じた扇子の先で、翠玉と李花を示した。
「祈護衛の者の言葉など、私は信じません」
だが、きっぱりと姜夫人は言った。
あまりに毅然としているので、翠玉は心の中で拍手するのを忘れた。
「なんですって?」
「宇国滅亡の折、最後まで三家の軍と対峙していたのは、我が祖の姜将軍でした。呂氏が恩ある三家を裏切り、族誅の憂き目にあわせたこと、姜家にはしかと伝わっていますよ。そのような小者の末裔の言葉など、私は信じません」
膝をついたままだった翠玉は、その場にへたりこんでいた。
(嘘ではなかった……伯父上の言ったことは、本当だったのね)
感涙が、翠玉の頬を濡らす。
敵方の姜家に伝わっている話ならば、きっと嘘ではない。
「ち、違います! 三家は最後まで高祖様に逆らい、宋家を呪い殺すと――」
すかさず、呂衛長が反駁を試みる。
だが、姜夫人は「お黙りなさい!」と一喝した。
「三家の当主たちは、忠と礼を知っていました。富貴も求めず、ただ宇国の関氏へ忠を貫くため、一切の財産を放棄し、南に去ると宣言していたのです。自分たちに仕えていた者たちを先に南へ逃した判断を、姜将軍は高く評価しています」
「三家は異形の獣です!」
呂衛長の声は、悲鳴に近い。
「我が先祖が、獣と刃を交えたと言うのですか!」
姜夫人の声にあわせ、侍女たちが棒を構える。
さすがの呂衛長も、言葉を失った。
話が予定どおりに進まず、周夫人の機嫌は急降下している。
「いい加減にしてちょうだい! 先祖の話などどうでもいいわ。とにかく、問題の呪詛は三家がしかけたのよね? そうなんでしょう?」
周夫人に問われ、呂衛長は「はい」と答えた。
「そ、そのとおりでございます。三家は恩を忘れ、恐れおおくも皇帝陛下を呪ったのです。抹殺すべきと我々は陛下には言上いたしましたが、残念ながら聞き入れられませんでした。三家の者が誑かしたのでございましょう」
呂衛長の舌は、実になめらかである。
だが、ここで――周夫人が「待って」と呂衛長に近づいた。
「陛下って? 誰のことを言っているの? 呪詛をかけられたのが陛下? 誑かされたのが陛下?」
「え――あ、それは……」
流暢な雑言はどこへやら。呂衛長は、しどろもどろになった。
周夫人は、倉庫の中をうろうろとしだした。
「祈護衛はこの間、庭の前で呪符を燃やしていたじゃない。それと呪いは別の話? 陛下がふたりいるみたいな言い方――ちょっと待って。呪詛をかけられた陛下と、今、政務をされている陛下は、別? ふたりいるの? まさか本当に、陛下は双子だなんて……そんなバカな話ってある?」
この時、翠玉は思った。
(勝てる)
呂衛長は、三家の罪を主張するのに夢中になって、口を滑らせた。
秘中の秘を、外部から来た翠玉や李花が口にするのと、後宮の一部署である祈護衛の衛長が口にするのでは重さが違う。前者は戯言。後者は漏洩だ。
「ち、違います。違うのです。三家の者は、後宮全体に呪詛を行うために、呪符を夫人がたの殿と、庭にも貼り――」
「じゃあ、陛下は自分を呪う者を自ら後宮に招いたの? おかしいじゃない。滅茶苦茶よ。三家の者だって、呪っている相手に招かれて、のこのここ来たりする?」
「呪いは、近い場所でなければ効きませぬ。陛下を騙した三家の者が――」
月明かりだけでは、細かい表情は読み切れない。
だが、声だけでも呂衛長が窮しているのだけはわかる。
すかさず、翠玉は口を開いた。今こそ、この舌を振るうべき時だ。
「申し上げます。夫人の皆様を疑わざるを得なかったのは、徐夫人が五月四日。姜夫人が五日。一日空いて周夫人が七日に入宮されたからです。いずれも、弟君がお倒れになった五月八日の直前。私どもが後宮に招かれたのは、その半月後の五月二十四日でございます」
周夫人は、うろうろと歩き回るのを、ぴたりと止めた。
「……貴女が、一番事情を知っていそうね。話を続けなさい」
扇子をぴしりと翠玉に向け、周夫人が促す。
呂衛長が「黙れ!」と叫んだが、誰もが聞き流した。
「はい。祈護衛が言う三家の呪いとは、高祖様から三十三番めの直系の子孫を、加冠を前に呪殺する、というもの。双子の兄君と弟君は、数え方によってはどちらが三十三番目でもおかしくはない、数奇な運命のもとにお生まれになられました。先帝陛下のご意思で、おふたりは、ひとりの皇太子としてお育ちになられたのでございます」
周夫人の細い眉が、ぐっと寄った。
「では、今、陛下として外城でご政務をされているのは……」
「兄君でございます。斉照殿でお休みになられているのが、弟君。おふたりは、よく似ておられ、先帝陛下でさえ、見分けがつかなかったとうかがっております」
もう、洗いざらい、すべて話すしかない。
嘘はつけばつくほど、深い沼にはまるもの。嘘に嘘を重ねた祈護衛は、自ら沼に足をとられている。ならばこちらは、真実だけを述べて、沼を超えていくまでだ。
「入宮の日、食事をしたのは? あれはどちら? 兄君? 弟君?」
「その直後にお倒れになった、弟君でございます。――しかしながら、三家はこの呪詛に一切関わっておりません。祈護衛は頼むに足らず、と看破された兄君が、我らに呪詛の解除をお任せくださったのです。祈護衛は、二百年にわたって宋家の禄を食みながら、呪詛を阻めず、除けず、三家に罪を被せてきたのでございます」
そこに呂衛長が叫んだ。
「つ、角が生えております! 三家の末裔は、皆、化物です!」
周夫人が「見苦しい! お黙り!」と一喝する。
ふ、ふ、ふ、とくぐもった声がした。横を見れば、柱に縛られた李花が笑っている。祈護衛の不甲斐なさが、いっそ滑稽だったのだろう。
勝敗は、すでに決した。
呂衛長に一瞥もくれず、翠玉は続けた。
「呪詛を、早急に取り払わねばなりません。どうか、槍峰苑の捜査再開をお許しください。三家の異能は、わずかですが我らに残っております。小さな手がかりを頼りにして、やっと、あと少しというところまで参りました。まずは、呪詛の蟲――呪詛を閉じ込めた箱か壺を掘り返し、一刻も早く、少しでも遠くへ送らねばなりません。なにとぞ、なにとぞ――こうしている今も、陛下はお苦しみです。なにとぞ――」
翠玉が頭を下げると、すぐに縄が解かれた。
解放された李花が駆け寄ってきて、ふたりは膝をついたま抱きあう。
「すまない! すべて喋ってしまった! 秘中の秘なのに!」
「私たちの立場の弱さは、明啓様もご存じです。決して、問答無用で厳罰を与えるような真似はなさいませんよ」
楽観は半ば。だが、今はそう言って励ますしかない。
「その女を連れていって! とんだ役立たずじゃないの。恥をかいたわ!」
しっしっ、と周夫人は呂衛長を、手振りで追い払う。
呂衛長は衛兵に囲まれ、倉庫から連れ出された。まだなにか喚いていたが、誰も気にはとめなかった。
しん、と倉庫が静かになる。
月明かりだけが差す倉庫に、夫人がふたり。三家の末裔がふたり。
翠玉たちも立ち上がり、微妙な距離を取りつつ、それぞれがそれぞれを見ていた。
「つまり――余計な枝葉を落とすとこういうことですね? 呪詛に倒れた陛下を救うために、その蟲とやらを排除する必要がある、と」
姜夫人が、翠玉に問う。
「はい。根本的な解決のために、呪詛の主を特定せねばなりませんが――」
翠玉は、これまでの経緯をふたりの夫人に説明した。
劉家の護符により、呪詛の蟲の位置が特定されたこと。槍峰苑から、ひとつ蟲が発見されたが、解除には至っていないこと。蟲が複数ある可能性もあり、解除の仕方も呪詛の主に聞くのが一番早い、というところまで説明した。
そこに李花が「呪詛専門の祈護衛が、思いがけず無能であったので、難航しております」と言葉を添えた。
「どうぞ、お力を貸してくださいませ」
翠玉は、ふたりの夫人に協力を乞うことで話を締めくくった。
「私は――不本意です。鼻持ちならない左僕射の娘に、三家の娘。誇り高い姜家と共闘する相手には、相応しくありません」
と姜夫人が言えば、
「私とて不本意だわ。北の海賊に、南の異能者。まるで見世物小屋じゃないの」
と周夫人が返す。
到底、手を携える雰囲気ではない。
しかしながら、彼女たちを巻き込むしか、道はないのだ。最悪でも、口を閉ざす約束だけはほしい。
翠玉は、三人の顔を順に見てから、口を開いた。
「ここで確認させていただきますが――私は身分を偽って後宮に入り、李花は秘中の秘を外に漏らしました。姜夫人は潘氏の娘を拉致監禁。周夫人は拘束中の呂衛長を無断で解放。――つまり、それぞれ、脛に傷持つ身……ですね?」
三人は、不本意そうにうなずいた。
「いったん、この一連の秘密と、都合の悪い所業は、皆様互いに腹へ収めていただきます。できましたら、廟まで連れていってくださいませ」
今度は、三人がそれぞれ、曖昧にうなずく。
忙しく扇子を動かしていた周夫人が、表情を改めた。
「まぁ、たしかにそうね。姜夫人と私は、これから長いつきあいになる。場合によっては陛下よりも長く。三家だって、私たちの実家を敵には回したくない。他言無用。ここを守ってくれないと、手の貸しようはないわ。あぁ、さっきの話は全部聞いていたから。劉家は入宮を報酬に求めたそうね? 貴女とも、長いつきあいになる」
周夫人の視線に、李花は悪寒でも覚えたのか、腕をさすって「左様でございますね」と抑揚のない声で答えていた。
「他言無用。私も、姜家の名にかけて誓いましょう」
姜夫人も同意した。
周夫人は、翠玉と李花にも「いいわね?」と確認してきた。
「「もちろんです」」
と翠玉と李花は、声をそろえた。
「さしずめ、月倉の会だな」
と李花は辺りを見渡しながら言った。
味も素っ気もない名だが、その殺伐とした名に相応しい顔ぶれではある。
「では、まず蟲捜しの再開を――」
翠玉の言葉が終わるのを待たず、李花が、
「いっそこのまま、呪詛の主を訪ねてはどうだ? 貴女も、見当はついているのだろう? 疑わしいのは――徐夫人だ」
と言った。
三人の目が同時に注がれ、翠玉は渋い顔になる。
「李花さんが、そう判断された理由は?」
「この荒事の場にいない。なんでも筒抜けの後宮だ。この事態を徐夫人も把握しているだろう。庭の捜索まで行われている今、おとなしければおとなしいほど怪しい」
呪詛の主が、この夜更けに人を攫い、縛り、密談をするとは思えない、と言っているのだ。たしかに、一理ある。
李花は「貴女の推論を聞かせてくれ」と言った。
姜夫人の目も、周夫人の目も、翠玉の意見を求めている。
ここは、いったん推測を述べるしかなさそうだ。
「私も、徐夫人を疑ってはいます。――彼女だけなんです。夫が双子のどちらでも構わない、と思っていない方は」
姜夫人と周夫人が、目を見あわせる。
「徐夫人だけ? そんなことはない。皆が困るだろう」
李花が言うのに、翠玉は首を横に振った。
「兄君の明啓様と、弟君の洪進様は、ひとりの皇太子として育てられました。――どちらでもいいのです。見分けのつかない容貌。同程度の能力。話し方や、筆跡。楽器の腕。今回、洪進様がお倒れになった翌日から、明啓様は政務を行われていますが、なんら支障は出ていません。どちらも宋家の血も間違いなく継いでいます。帝位でさえ、どちらでも構わないのです」
夫人たちも、皇帝が双子だとはまったく気づいていなかった。李花の自白を聞いても、最初は鼻で笑っていたくらいだ。
さらに翠玉は続けた。
「月倉の会の信頼に甘えて言わせていただきますが、夫人がたも、どちらでも構わないはずです。仮に洪進様が亡くなれば、明啓様がそのまま一生身代わりを務めます。でも、困らぬはずです。宋家の男子で、皇帝ですから。縁談の途中で、兄弟のどちらかに相手が変わることは、そう珍しい話でもありません。特に高貴な方ならばなおさらです」
姜夫人にとっては、宋家と姜家の血を継ぐ子が大事だ。
周夫人にとっては、自分を皇后位に就ける者であればいい。
どちらでも、構わないはずである。
ふたりの夫人は、さすがに即答を躊躇っていた。
彼女たちとて、皇帝が死んでも構わない、とまでは思っていないだろう。だが、月倉の会のか細い信頼を足掛かりにしてか、渋々翠玉の言を認めてうなずいた。
「徐夫人は、ご兄弟のどちらかと面識があるそうです。それも、親しかったご様子。兄君はご存じない、とおっしゃっていました。すると弟君のはずですが……確認できていません。兄君は明啓様、弟君は洪進様、と仮の字をお使いですが、おひとりの時は、啓進、と共有の字を使われている。徐夫人は、啓進様、と陛下をお呼びしていましたので、一方だけを知っているのでしょう。どちらでもいいはずの双子の、どちらでもよくはないと思う人。差のごく少ない双子の、どちらかを強く望む者。――だから私は、徐夫人を疑っています」
三人は、押し黙っている。
「……と、ここまで推測だけを述べましたが、実はこの理屈は簡単に覆るのです」
翠玉は、あっさり「すみません」と三人に謝った。
「なに? なんだ、長々と説明しておいて」
李花が不満そうにむくれ顔をする。
「逆なんです。徐夫人が洪進様とお知り合いなら、殺すべきは明啓様のはずですよ」
洪進に恋をして、明啓を殺すならばわかる。
だが、逆なのだ。
「逆? 逆……そうだな。たしかに逆だ」
実の父親でさえ、どちらでもいいように、ふたりを育てた。
どちらでもいい、とは思わない数少ない人であるはずの徐夫人が、ふたりを間違えるとは思えない。
「というわけで、私も疑いはしていますが、この説では辻褄があわないのです」
翠玉は、自分の説を引っ込めた。
そこに李花が「待ってくれ」と食い下がる。
「明啓様が、貴女に嘘をついている――という可能性はないのか?」
翠玉は「あり得ないですよ」と苦笑した。
「洪進様の回復を、誰より願われているのは明啓様です。なんで、そんな嘘を?」
「貴女に気があるからだ」
しん――と倉庫の中は静かになった。
翠玉は浅い呼吸を五度繰り返してから、ごくり、と生唾を飲んだ。
(李花さん……なんと恐ろしいことを……)
さすがは、融通がきかぬと自称するだけのことはある。とんでもないところから、石を投げつけられた気分だ。
「……ちょっと待ってください、李花さん」
身体中から、冷や汗やら脂汗やらわからぬものが、どっと出た。
「明啓様は、貴女を信頼し、好意も持っている。そんな相手に、少年の頃の淡い恋の話などしたくないに決まっているだろう。貴女だって、面白くないはずだ」
ぱっと頭に浮かんだ光景がある。
離宮など見たことはないが、おおよそ後宮の庭に似た場所。
涼やかな容貌の貴公子と、美しい姫君が出会う。
貴公子が、姫君に花を贈る映像は、心に痛みをもたらし――
「そ、そんなことは……」
そのまま、翠玉の表情に出た。
「ほら、見ろ。好意を持つ相手に、そんな顔はさせたくないはずだ」
やられた。
翠玉は、額を押さえてため息をつく。
「わかりました。逆だと思いましたが、逆ではないかもしれないのですね?」
「そういうことだ。やはり、本人に聞くのが一番早い」
話が、一周して戻ってきた。
徐夫人に、直接尋ねればいい――と李花は言っている。
翠玉は「いけません」と李花を止めた。
「一国の皇帝を呪殺せんとする者です。李花さんが言うのももっともですが、正面切って接触するのは危険すぎます」
ここで、姜夫人が一歩前に出る。
「秘密を知る我らが動かず、陛下を見殺しにするつもりですか? 箱だの壺だのと、悠長なことは言っていられません。狙うは大将首ひとつ。本人に聞くのが一番早いに決まっています。――今すぐに」
姜夫人の勇ましさに、翠玉はぎょっとする。
「い、今からですか?」
すると姜夫人は、
「奇襲です。落雷を防ぐ術なし、と言うでしょう?」
と堂々と言い、周夫人は、
「速さは槍に勝る、と言うじゃない。大将首を狙うのに、躊躇いは無用」
ときっぱりに言った。
そろったふたりの言葉に、翠玉は感動さえ覚えた。
生まれた時から日陰暮らしの自分には、及ばぬ考えだ。
「わかりました。鼠の知恵と、獅子の知恵は違うようです」
「鼠には鼠の知恵がある。どちらも侮るべきではありません。獅子ばかりが載った船では、すぐに沈むでしょう。――行きますよ。いったん菫露殿に戻ります」
姜夫人が先に歩き出し、見送った周夫人がこちらを見る。
「私は、思い人のいる皇帝より、いない皇帝の方がいいわ」
そう言って、周夫人も倉庫を出ていく。
翠玉は、李花と共に夫人たちを追いかける。
「もう夜更けです。どうやって、徐夫人とお話しなさるのです?」
「釣るのです。貴女の得意な方法で」
にこり、と姜夫人は微笑んだ。周夫人は、作戦の見当がついているらしい。涼しい顔をしている。
(頼もしいお方たちだ)
一時はどうなることかと思ったが、なんとか前に進んでいる。戦場に向かう夫人たちの表情は、殿にいる時よりも輝いて見えた。
――かくして。
槍峰苑に、月倉の会の面々は身を潜めている。
(まさか、こんなことになるなんて)
空に大きな月がかかり、深夜にしては、やけに明るい。
天幕で囲われた槍峰苑には、まばらに灯篭の火がともっていた。
あちこちが掘り起こされているのは、蟲捜しの途中だからだろう。
(狙うは大将首ひとつ……とは言うけれど……そう簡単に事が運ぶのだろうか)
――姜夫人が、皇帝からの誘いを装い、文を書いた。
嘘の手紙でおびき寄せ、取り囲んで尋問する――というのが姜夫人の作戦である。
徐夫人は、とうに眠っている時間のはずだ。手紙は宿直の女官に渡したのだろうが、必ず来るとも限らない。
どれほどの時間が経ったろうか。
虫の声に、さらさら、と衣ずれの音が交った。
(――来た)
岩の上に下ろしていた腰が、浮きそうになる。
「――啓進様?」
ひそやかな声が、聞こえてきた。
徐夫人の声だ。
絹のような、柔らかな声。
「啓進様? 私です。呉娘です」
呉娘、というのが、徐夫人が養女に入る以前の通称だったようだ。
囁く声の優しさに、ちくり、と胸が痛んだ。
徐夫人の指に巻いた、糸の彩りが脳裏に蘇る。
キラキラと輝く、美しい紅色。
彼女はあれほど純粋な恋を、明啓との間に育んだのだろうか?
(……今は、そんな場合じゃないのに)
嫉妬に悶々とするなど、もっと暇な時にするべきだ。
雑念を振り払おうと努めるが、人の心とはままならぬもの。勝手な想像をするだけで、どす黒い嫉妬が次から次へと湧いてくる。
衣ずれの音はひとつきり。女官もつけず、ひとりで来たらしい。
木の陰から――姿が見えた。
きらり、と大きな花の飾りが、月明かりを優しく弾く。
いつもの紅色ではない。月明かりと、わずかな灯篭の灯りではほぼ白に見える淡い色の袍。月に映えるよう選ばれた装いなのだろう。
ここで、ピッと短く指笛を吹いたのは、姜夫人だった。
身を潜めていた、姜夫人の侍女たちがサッと立ち上がる。
徐夫人は、びくりと身体を震わせ、素早く辺りを見回して「なんなの?」といら立ちを声に示した。
「ごきげんよう、徐夫人。ご足労いただきましたね」
姜夫人が立ち上がり、木の陰から姿を現す。
月倉の会一同と、侍女たちも続いた。
「……ごきげんよう」
徐夫人は会釈せず、姜夫人、周夫人、それから、翠玉と李花を順に見た。
「こうして、今いる後宮の夫人が、四人全員そろうのははじめてです。少し、おしゃべりでもいたしませんか?」
にこやかに姜夫人は、徐夫人に話しかける。
徐夫人の目線の向かう先が、翠玉と、李花に絞られた。
翠玉が着ている翡翠の袍と、李花の着ている空色の袍。月明かりの下では、色の違いを見分けるのは難しいだろう。
だが、徐夫人の目は、まっすぐに翠玉を射た。
「はじめまして。貴女が潘夫人ね。……本当に?」
華やいだ声を、徐夫人は上げた。
なんと答えたものか、翠玉は戸惑う。
もちろん、本当か嘘かと問われれば、嘘だ、と答えるのが正しい。
「はじめまして」
だが、この場合は答えないのが正解だろう。
翠玉は、膝を曲げて会釈をした。
槍峰苑の中央にある、円の形の石畳に四人が集まる。
全員が華やかな袍で着飾ってはいるが、ここは戦場だ。
張りつめた空気が、ピリピリと頬を刺す。
「――勝ったつもりですか?」
穏やかな笑みをたたえた徐夫人が、実に和やかな調子で言った。
その態度が、確信させた。
(やはり、呪詛の主は徐夫人だ)
恐らくは、翠玉だけでなく、この場の全員に。
「逃げ場はありませんよ?」
姜夫人は、さらに一歩前に出た。
同時に、姜夫人の侍女たちも、じり、と前に出る。
「この程度で勝ったとお思い? 甘いのね」
ふふ、と徐夫人は笑む。
「貴女は呪詛を行ったのでしょう? 陛下を殺すために」
いきなり、姜夫人が核心に迫る。
緊張のあまり、翠玉の拳にも力が入った。
しかし、徐夫人は怯む様子がない。
「呪詛? まさか。恐ろしい呪詛を行ったのは三家だ、と祈護衛の者が言っていたではありませんか。おぞましい呪符も、祈護衛が焼いてくれましたわ。片づいたはずではなくて?」
「この場で白を切る度胸は認めますが、こちらをあまり侮らぬことです。――そなたは陛下が邪魔なのでしょう? 思う相手と添うために、陛下を呪詛で殺そうとしたのですね?」
姜夫人が、さらに踏み込んだ。
徐夫人の朗らかな口元の笑みが、スッと消える。
「――……」
なめらかだった舌も、いったん止まっていた。
しばし、虫の声だけが辺りに響く。そして――
「徐夫人。取引を――なさいません?」
姜夫人が、ゆったりとした口調で言った。
ぎょっとして、翠玉は姜夫人を見る。
(取引? そんな話に、いつの間になっていたの?)
打ち合わせにはなかった流れだ。徐夫人を罠にかけ、自白に追い込む、としか聞いていない。
「……取引、ですって?」
徐夫人の眉間に、深いシワが寄った。
「えぇ、取引を。呪詛の件は、我々の胸ひとつに収めます。一切口外せぬと誓いましょう。ですから、今すぐ呪詛を解いてくださいな」
この取引は、姜夫人の独断だ。
(それでいいの? いえ、いいわけがない。皇帝への呪詛を不問にするなんて)
ちらりと李花の方を見れば、やはりハラハラしている様子だ。勝手なことをされては、このあとがやりづらい。
「バカバカしい。成立しません。私に、益がありませんもの」
姜夫人の提案を、徐夫人は鼻で笑って跳ね除けた。
くらくらと眩暈がしてくる。
理解ができない。縊り殺さんとする手の力を緩めるのに、理由は要らないはずだ。
取引を蹴られても、姜夫人は諦めなかった。
「宋家の後継者は少ない。先帝の時代からわかっていたでしょう? 陛下にご兄弟がいるのなら、王として新たに門を構えていただく方がよほど益になるはずです。呪詛を解くだけでいい。貴女も地位を失わない。悪い取引ではないでしょう?」
姜夫人が言えば、徐夫人は、
「新たな王が門を構えれば、貴女がいずれ産む子の帝位も遠くなるわよ? ねぇ、姜夫人。私と――取引をいたしません?」
歌うように言った。その口元には、すでに笑みが戻っている。
今度は、姜夫人の眉がぐっと寄った。
「取引などしません! 呪詛を解かぬならば――」
語気の強い姜夫人の言を、手をスッと上げて徐夫人は遮った。
「呪詛は、祈護衛の自作自演……ということでいかが?」
にぃっと徐夫人の唇が、三日月の形になった。
(風向きが、変わっている)
ぞくっと翠玉の背筋が凍った。
今、この場の流れを主導しているのは、間違いなく徐夫人だ。
「……筋書きは? どうするのです?」
「こうしましょう。祈護衛は、功を焦ったのです。ありもしない二百年の呪いから宋家を守っても、功としては地味。そこで狂言として呪詛を行い、三家の呪いだ、と派手に騒ぎ立てた。とはいえ、無関係の三家が申し開きなどしては都合が悪い。それゆえ、皆殺しにせよ、と声高に叫んだ――というのでいかがです?」
「甘い。それでは三家が絶えたのちも、呪詛が続くことになります。その矛盾はどう説明するつもりです?」
姜夫人は、いら立ちを細い眉に示している。
「新たな呪いを自ら生み出し、これを三家の怨念と断じて、次の二百年も禄を食もうとした……とでもしましょうか。狡猾な呂氏らしい動機ではございません?」
徐夫人の筋書きに、姜夫人は一定の満足をしたらしい。深かった眉間のシワは、もう消え、ゆったりとうなずいている。
「筋書きはわかりました。そちらの要求も聞きましょう」
徐夫人は、にこりと笑んだ。
実家から送られてきた菓子の話をした時と、変わらぬ華やかさで。
「目を瞑ってくだされば、それで結構。あと数日ではじまる新たな日常を、黙って受け入れればいい。本音を言えば、啓進様には私だけを見ていただきたいわ。貴女たちだって消したいのだけれど――あぁ、忘れないでね。人を殺すのは簡単。でも、どうせ消したところで、替えの女が入ってくるだけだから、殺さないであげる。でも、うるさい女は嫌いよ。これ以上ごちゃごちゃ言うなら、端から順に殺す」
姜夫人の表情に、明らかな動揺が走る。
動揺したのは、翠玉も同じだ。
(……できるの? 簡単に、人を殺せる?)
呪詛は、簡単なものではない。
小さな雑言でさえ、安易に吐けば我が身に返るものだというのに。
人を呪い殺して、呪詛の主が無傷なはずはないのだ。
(嘘だ)
嘘――のはずだ。人の為すこととは、到底思えない。
姜夫人は、いったん動揺を収めて、
「そのような真似、できるはずがありません」
と言い切った。
だが、徐夫人の笑みは崩れない。
「できるわ。望めば、そのとおりに。正しく呪えば、誰でも殺せますの。そう難しくはないのだけれど――私にしかできない。私だけ。母もできたけれど、もう死んでしまったから。今できるのは私だけ」
朗らかに、徐夫人は言った。
望めば、望んだとおり。
そう難しくはないけれど、自分にしかできない。
――占いは、容易い。
糸を結び、撫でるだけでいいからだ。
人には見えない気の色が、見える。翠玉にだけは容易かった。
(人にできぬことができる。自分以外は、親だけが――)
翠玉には、わかった。
「異能……」
その不思議な能力を、人は異能と呼ぶのだ。
徐夫人が、翠玉を見た。
「まぁ、よくご存じね。たしかに、人はそう呼ぶわ」
ざわっと全身の肌が総毛立つ。
「もしや――陶家の……貴女は、陶家の末裔ですか?」
「そうよ。最後の生き残り」
裁定者の占術。守護者の護符。そして――執行者の呪殺。
陶家の異能は、人を殺し得る。
もう、簡単に殺せる、と言った徐夫人の言葉を疑う理由はなかった。
言葉が、いったん途切れた。そのすぐあとに、
「――私、下りますわ。この件から手を引きます」
周夫人が、両手を軽く挙げて言った。
「え?」
姜夫人が、隣にいた周夫人の方を見る。
挙げた両手を下ろし、周夫人は肩をすくめた。
「祈護衛にすべての罪を被せて、終わりにしましょう。たしかに宋家の皇族の男子は多い方がいいけれど、我が身と、恩ある周家を危険に晒してまで止める理由はない。下りるわ、私」
ひらひらと周夫人は扇子を振り、一歩下がった。
(……まずい)
ちらり、と祈りをこめて姜夫人を見る。
だが、いったん崩れた陣形を立て直すのは難しい。姜夫人も、一歩下がった。
「こちらは石礫。そちらは毒矢。ここは撤退が上策ですね。徐夫人、ひとつ確認させてください。私は、私に流れる血ほど尊いものはないと思っています。もし私が先に懐妊したとして、その子を呪殺するような真似をするならば――」
「いたしません。お約束します。私とて、人を殺す手段が、呪詛以外にあることは存じておりますもの。毒でも盛られてはたまりません。殺されぬために殺さぬ――というところでいかがかしら?」
徐夫人の提案に、姜夫人と、周夫人がうなずく。
互いに、不干渉を貫く――ということで話はついたらしい。
ふたりの夫人は、そろってくるりと背を向けた。
すると、残るのは翠玉と李花だけになる。
(そんな……まさか、夫人たちが洪進様を見捨てるなんて……)
利害が完全に一致するのは我らだけだ――と言った明啓の言葉が、ひどく重く思い出される。
はっきりと、翠玉は命の危機を感じた。
ふたりの夫人は、去り際に、
「そこにいるのは、江家と劉家の末裔です」
「煮るなり焼くなり、ご自由にどうぞ」
と順に言って、天幕の向こうに消えていった。
裏切られた上に、とどめまで刺され――庭には、三人だけ。
冷や汗が、頬をつたう。
「あぁ、そういうこと。おかしいと思ったわ。私の呪詛が効かないなんて、偽者かと疑ったけれど……それじゃあ効くはずがないわ。あれだけ念入りに脅したら、尻尾を巻いて逃げるかと思ったのに。わざわざ戻るなんて、バカなの?」
ほほほ、と徐夫人は愉快そうに笑った。
この庭ではじめて顔をあわせた時「本当に?」と確認されたのは、呪ったはずの翠玉が、無傷でいるのを不思議に思ったからだったようだ。
「李花さん」
「なんだ?」
お互いに、徐夫人から目を離さずに、喋っている。
さながら猛禽を前にした鼠だ。目をそらしたが最後、殺されそうだ。
「すみません。忘れてましたが、私、陛下と同じ呪詛をかけられてるんです」
「忘れるようなことではないだろう!」
「状況が状況で。なにせ縛られていましたし」
「……ぴんぴんしてるぞ」
「三家の者ですから」
「あぁ、そうか。……本当に効かないのだな」
じり、と徐夫人が近づいてくる。
嬉しそうに目を細め、ふふ、と笑いながら。
「蟲の埋まる槍峰苑で、三家の末裔が勢ぞろい。歴史的な再会ですわね」
徐夫人が近づいたのと同じだけ、ふたりは後ずさった。
「……徐夫人、よしましょう。祈護衛の自作自演で通せば、彼らは本当に殺されてしまいます」
翠玉は、震える声で訴えた。
祈護衛だけではない。呂氏の一族の多くが、命を奪われてしまう。
恐ろしい企みだ。しかし、徐夫人は笑顔のまま、朗らかに笑んでいる。
「あら。だって、腹が立つでしょう? 憎いでしょう? 入宮した日に聞いたのよ。斉照殿で食事をした帰りに。女官たちが話していたわ。調べさせたら、本当だった。二百年続く三家の呪いなんて話を、皆が本気にしてたの。祈護衛の連中は、私たちが飢えている時に、くだらない嘘をついてなに不自由なく暮らしてた。ひどい話よ。でも、もう終わり。呪詛が連中の仕業ってことになれば、族誅は間違いない。生き残った連中も、これから二百年、忌み嫌われ、飢え、蔑まれればいい」
徐夫人は目を細めて「いい気味よ」と明るくつけ足した。
生憎と、族誅をいい気味だと思える神経は持ちあわせていない。翠玉は、キッと徐夫人をにらんだ。
「呂氏は、異能を持っていません。呪詛のしようがないのです。無茶な理屈は破綻しますよ。すぐに呪詛を解いて――」
「あぁ、大丈夫。祈護衛をさっさと始末して、呪詛が成就したら、真犯人は異能の者たちだった、と明らかにするから。話がすっきりまとまるでしょう? 邪魔な貴女たちも消せるし、めでたし、めでたしね」
とても愉快そうに、ふふふ、と徐夫人は笑った。
そして――いきなり、絹を裂くような悲鳴を上げた。
「きゃあああ! 誰か! 誰か来て!」
衛兵の足音が聞こえてくる。
ふたりが衛兵に囲まれたのは、その直後である。
そして行きついた場所は――牢であった。
かくして――ふたりは、牢の中で身を寄せあっている。
牀をふたつ繋げた程度の、狭い牢。内城の門を出て、ややしばらく歩いてたどりついた。皇帝の居城の一部とは思えない場所だ。月の光も、小さな窓からはほとんど差し込まない。
「月倉の会は、儚かったな」
ぽつり、と李花が呟いた。
結成から、わずか二刻で解散。実に儚い会であった。
「石礫と毒矢では、まぁ、敵いませんよ。こちらに利があるとわかれば、また味方してくれるでしょう。……そんな機会があればの話ですが」
勝機を逃さず果敢に攻め込み、時に老獪な罠さえ仕掛ける。それでいて、己が傷つくとわかれば執着せずに去る。まさに獅子の知恵だ。
おろおろするばかりで、最後は罠にかかった自分たちは、やはり鼠であった。
はぁ、とそろってため息をつく。
「しかし、まさかこんな牢に入れられるとはな。明啓様さえ気づいてくだされば、すぐにも出してもらえるだろうが……」
この徐夫人の筋書きが通れば、まず祈護衛が処刑され、最終的には自分たちも処刑されるだろう。
だが、さすがにそれはない――はずだ。
徐夫人が陰謀を巡らそうと、一夫人にできることはそう多くはない。
そちらが徐氏なら、こちらは潘氏。それぞれ後ろを守る家がある。簡単に首を取られるとは思っていない。
「潘夫人とその侍女だとわかれば、すぐに解放されるでしょう。仮に牢に入れられるにせよ、罪を犯した妃嬪の行先は冷宮のはずですから」
冷宮がどんなところだか知らないが、少なくとも、かび臭い牢ではないだろう。
ケホケホと咳の音がする。隣の牢に、人がいたようだ。
「――そう簡単にはいかないぞ。ここは内城と外城の狭間だ」
近い場所で聞こえた声を、翠玉は知っている。
祈護衛の呂衛長だ。仇敵とも呼ぶべき人と、薄い壁を挟んだ背中あわせの位置にいるらしい。
「呂衛長……? どうして牢にいるのです?」
翠玉は、ひどく驚いた。彼らは、宿舎で謹慎中のはずだ。
「あの倉庫から、まっすぐここに入れられた。私だけではない。衛官全員だ。……お前たちこそ、占師のふりの次は、夫人のふり。やっと化けの皮がはがれて、今度は囚人か。やっと身分相応になったな」
ふん、と呂衛長が鼻で笑う。
「なんの罪です? まさか、呪詛をしかけた罪ですか?」
「あぁ、そうだ」
もう徐夫人が手を回したというのだろうか。
なんとも手際がいい。翠玉は、はぁ、とため息をついた。
「呪詛は、祈護衛の自作自演。徐夫人は、そういう筋書きで進めるそうです」
深いため息が、壁の向こうから聞こえる。
「わかっている。まさか、こんなことになろうとは……」
呂衛長の声には、深い疲労が滲んでいた。
徐夫人の名を聞いても、呂衛長は驚かなかった。すでに、呪詛の主として、目星をつけていたのかもしれない。
(誰のせいで、こんな騒ぎになったと思っているの!?)
翠玉の眦は、キッと上がった。
「祈護衛が三家皆殺しなどと言い出さなければ、こんな事態にはなりませんでした。先帝陛下の頃には、信頼も厚かったのでしょう? 明啓様と洪進様がお生まれになった時など、殿や庭の改名を任されていたではありませんか」
「なぜそれを……」
「書庫から、資料をお借りしました。気になっていたんです。北方出身の宋家の居城の庭に、なぜ南方の神話に由来した――庭の雰囲気とかけ離れた名がついてるのか」
チッと呂衛長が舌打ちする。
「先帝陛下は我らを厚く信用してくださった。にもかかわらず……先帝陛下の崩御直後に、呪詛は発動したのだ。起こると思うか? 二百年越しの呪詛など」
「起きるわけないじゃないですか。そもそもでっち上げなんですから」
ぶっきらぼうに、翠玉は答えた。
祈護衛にも、三家の呪いなど存在しない、という認識はあったらしい。それが、また腹立たしいところだ。
「三家以外に呪詛などできない。不可能だ。……異能のない我らに太刀打ちなどできん。すべて殺すのが、唯一の道だった」
三家皆殺し――などという、どの資料にも書かれていなかった方針は、呂衛長の独断であったようだ。
(彼らは、最初から真実に迫っていたのね)
誰ぞの入れ知恵でもあったのではないか、と思ったのだが、違ったらしい。
「それで、我々を襲って殺そうとしたんですね」
「捜していたのは陶家の者だ。呪詛は、執行者にしか成し得ない。呂家の本家に依頼し、江家と劉家から情報を集めるつもりだった。殺すために襲ったのではない」
「家の裏から、武装した人たちに侵入されましたけれど」
翠玉は、苦笑した。ただ情報を集めたかったのならば、裏の窓から侵入する必要はないだろう。剣も不要だ。
また、チッと呂衛長が舌打ちをした。
「違う。江家と劉家を訪ねようとした呂家の者が尾行されていた。賊は我らと別口だ。我らが三家皆殺しを提案したのは事実だが、なんの情報も得ずに殺す理由がない。結局、なにもわからぬまま、明啓様の信頼も失い、最後はこの様だ」
いったんは核心に迫りながら、行きついた場所が牢というのもやり切れない話だ。
「護符を、後宮の真ん中で焼いたのがまずかったのでは?」
「……三家に手柄を取られてたまるか。洪進様をお助けするのは、我々だ」
聞き取るのがやっとというほどの小さな声で、呂衛長は言った。
「手柄?……呆れた。それどころではないでしょう」
「貴様らも、手柄ほしさにのこのこ後宮まで来たのだろう」
「それは……」
罪と則の撤廃を求め、手柄に飢えていたのは事実である。
翠玉も「たしかに、そうですね」とぽそりと答えた。
「こちらも、浄身にさせるために、一族の多くを失っている。過酷な処置だ。簡単に死んでいく。……私の息子もひとり死んだ。兄もだ。二百年の呪詛を前に、手柄も得られぬまま放逐されては、犠牲になった者に申し訳がたたない。先帝陛下のお気持ちに応えるためにも、我らの手で洪進様をお守りしたかった」
呂家には呂家の、理屈があった。本人に聞けば理解はできる。――納得などはできないが。
「三家の廟を焼いたのは、祈護衛ですか?」
「まさか。三家に呪われては困る。――陶家の脅しではないのか? 裁定者と守護者に、邪魔をされたくなかったのだろう」
呂衛長の推測は、翠玉のものとも一致している。
先ほど徐夫人は、念入りに脅した、と自ら言っていた。実家の力を借りたのかもしれないが、なんにせよ、彼女の意思ではあったのだろう。
「そうですね。……実際、我々は徐夫人の邪魔をしています」
「しかし、それらの罪をまとめて我らに被せるとは……二百年前の怨みを、陶家に返されたわけだ。因果なものだな」
ふっと呂衛長が笑った。
三家を裏切り、我が身を保った呂家。
その呂家が、今、陶家に罪を着せられようとしている。
因果は巡っている、と感慨にふける気持ちも、わからないでもない。
だが――
「冗談ではありませんよ。罪は罪。冤罪は冤罪です」
呂衛長には呂衛長の理屈があった。
徐夫人には徐夫人の理屈があった。
理屈に従って犯した罪はその人のものであり、他の誰かが担うべきものではない。まして二百年前の因果など、知ったことではなかった。
「手遅れだ。ここは狭間だと言っただろう? この牢は、内城の目に触れぬ場所にある。外城の裁きも受けられん。死罪が内々に確定した囚人を入れる牢だ」
「え――」
サッと血の気が引く。
「先ほど、刑部尚書――徐夫人の養父君がお見えになった。……まさか、陶家の末裔が、徐家の養女になっていたとは。まったく足取りがつかめなかったわけだ」
「それで、刑部尚書はなんと?」
「祈護衛がすべての罪を被れば、族誅だけは免じてやるそうだ。祈護衛だけならば、死ぬのは二十一人。族誅となれば百人を超える。比べるまでもない」
呂衛長の言葉が引き金になったのか、しくしくとすすり泣く声が聞こえてきた。
ひとつではなく、あちこちから聞こえてくる。すぐ隣の牢以外にも、祈護衛の衛官が捕らえられているようだ。
「信じたんですか……?」
「信じるわけがないだろう。だが、賭けるしかない」
皇帝への呪詛は大罪だ。族誅は免れない。養女の暴挙から一族を守るため、徐家は他家に罪をなすりつけようとしているのだ。
徐家の刃は、呂家だけでなく、江家にも迫っている。
(いえ、まだわからない。私たちを処刑するにしても、呪詛の成就を待つはず)
徐夫人がほしいのは、罪をなすりつける相手だ。
まず呂家。次に、江家と劉家。順番に罪を着せ、殺す気でいる。
呂家の処刑は早いだろう。だが、翠玉たちの処刑は洪進の死ののちになるはずだ。
(明啓様。どうか、気づいて――助けて――どうか――)
翠玉は、手をあわせて祈った。
明啓ならば、きっと助けてくれる。きっと。
――すすり泣く声が聞こえる。
この嘆きは、今は彼らのものだが、いずれ自分たちのものになる。
李花は、翠玉の手をぎゅっと握った。
「明啓様は、決して我らを見捨てはしない。信じて待とう」
「……はい」
しかし、心細さはいかんともし難い。
(あの時――廟を焼かれた時に、黙って引き下がっていれば――)
後悔が、ちらりとよぎる。
(いえ、あの時、怯まず進んだからこそ、見えるようになったものがある)
かすかな後悔を、翠玉は振り払った。
もう一度、徐夫人の前に立ちたい。そのためには、まずこの牢を出る必要がある。
強く拳を握った拍子に、ぐぅ、と腹が鳴った。
つられたのか、李花の腹まで鳴っている。
「腹が減ったな」
「後宮で、空腹に耐える羽目になるとは思いませんでした」
頭の中に、卓一杯の料理の映像が蘇る。冷めても香り豊かな羹。とろける豚肉。香ばしい鶏肉。餡のたっぷりかかった白菜。
(お腹が空いた……)
昨夜は斉照殿に呼ばれていたので、夕食はほとんど喉を通らなかった。緊張続きで忘れていたが、腹はすっかり減っている。
ガタガタと、扉の向こうで音がした。
(食事? ――いえ、さすがに早すぎる)
見上げた窓の向こうは、まだ暗い。
牢は横にいくつか並んでいるようだ。扉は、細い廊下の向こうにひとつだけ。
檻の中で、翠玉と李花は両手を握りあい、恐怖に耐えた。
がらりと扉が開き、兵士が数人入ってくる。
「出すのは手前の三つだ。間違えるなよ! 一番奥にいるふたりは残しておけ」
ヒッと喉が鳴った。
ここの牢は、死刑が決まった囚人が入る場所だという。出される時は――執行の時しかない。
(早すぎる)
夜に牢に入れられ、夜明けを待たずに執行するなど、あまりに早い。早すぎる。
牢のあちこちで、祈護衛の衛官たちの悲鳴が響く。
いずれ明啓の助けが来る――と信じたかったが、こう早くては、間にあわない。
「縛れ。猿轡も噛ませておけよ。うるさくて敵わん」
廊下ばかりか、牢も狭い。
ひとりひとりを縛り、猿轡をかませるには時間が要りそうだ。
「ま、待ってください。今すぐに刑を執行するのですか?」
牢の近くにいる兵士に問えば、兵士は「そうだ」と答えた。
「上からのお達しでな。二暁の刻に、城外で執行だ。皇族への呪詛は大罪だからな。おそらく、車裂きだろう」
車裂きとは、縄で馬車に四肢を繋ぎ、身体を引き裂く酷い刑だ。
恐怖に、悲鳴がこぼれそうになる。他の牢から、か細い悲鳴が次々と上がった。
「裁きを受けさせてください。私は……潘家から参りました。潘翠玉です」
「聞いてるよ。潘家から来た夫人だと思い込んだ、気の毒な女官なんだろ?」
「違います! 調べていただければ、必ずわかるはずです」
「アンタらは後回し。六月九日の執行だ。楽しみに待ってろ」
六月九日は、明啓と洪進の加冠の日の翌日だ。
やはり洪進を呪詛で殺したあと、翠玉たちにその罪を着せるつもりらしい。
(本当に、徐夫人の筋書きどおりに進んでいる……)
悲鳴は、少しずつ数が減っていく。
代わりに聞こえるのは、くぐもった声だけだ。
――憎いでしょう?
徐夫人の言葉が、耳に蘇る。
――いい気味よ。
竹簡に書かれた文章や、彼らが発した言葉は、翠玉の心を深く傷つけた。
憎い。腹が立つ。どんな目にあおうと自業自得。
そう思わないと言えば、嘘になる。
しかし、呪詛は彼らの罪ではないのだ。
見殺しにはできなかった。
(外に出なければ!)
ここで――翠玉は、大きな賭けに出た。
「呪詛をしかけたのは、私です!」
しん、と牢の声も静かになる。
もちろん、大嘘だ。真実の欠片もない。だが、翠玉はどうあっても、外に出る必要があった、
再び、徐夫人と対峙したい。
「なんだと?」
「呪詛をしかけたのは、私です。三家の――裁定者たる江家の末裔。江翠玉。呪詛は、かけた者しか解けません。私にしか、解けぬのです」
兵士が、ざわつきだした。
そのうち一人が、他の兵士たちに「落ち着け!」と怒鳴った。
「我らは命令を実行するだけだ。――手を止めるな!」
準備を急がせる兵士に、翠玉はなおも言い募った。
「私の処刑は、六月九日。それまでに、罪を悔い、すべての呪詛を解いてから刑を受けとうございます。ただいま後宮の双蝶苑、百華苑、槍峰苑に天幕が張られておりますのは、呪詛の捜索のため。どうぞ、ご確認ください」
兵士たちの動揺は広がっていく。
「……たしかか?」
目の前の兵士が、そう問うた。
この隙を逃す翠玉ではない。すかさず袖で涙を押さえる仕草をする。
「はい。陛下のお気持ちを求めるあまり、愚かにも三名の夫人全員を、呪ってしまいました。どうぞ、私を槍峰苑までお連れください。そして、夫人がたにもご同席いただきたいのです。その場で、呪詛を解かせていただきます」
「い、いや、それはできん。上からの命令だ」
涙を押さえつつ、翠玉はちらりと兵士の顔を見た。
拒否はしたものの、兵士の顔には明らかな動揺が浮かんでいる。
「刑部尚書様のご息女、徐夫人の身も危ういのです。――それに、二暁の執行を妨げはいたしません。私どもの処刑も予定どおり。命令に背かず、それでいて刑部尚書様のご息女も護れます。一石をもって二鳥を落とすというものございましょう」
「その話、アンタになんの益があるんだ」
「車裂きより、多少は楽な道もあろうかと。運がよければ冷宮送りで済むやもしれません。あぁ、私の素性にお疑いも残りましょう。翡翠殿の庭に、昨日、八重の芍薬が植えられました。まだ咲き初めたばかりの淡い朱鷺色でございます。陛下がご用意くださったものです」
どけろ、と兵士たちの間を縫って、近づいてきた者がいる。
ただの兵士ではない。身なりから察して、責任ある立場のようだ。
「よし、出ろ! 祈護衛の連中の、車裂きの準備は予定どおり進めておけよ。変更はしない! 二暁に執行だ!」
涙ぐんで狼狽える李花に「行ってきます」と声をかけ、立ち上がる。
牢から出ると、まだ隣の牢にいる呂衛長と目があった。
「バカな真似を! 私が……祈護衛が憎いのだろう! なぜだ!」
正直なところ、賢明な作戦だとは思っていない。だが、それしか道がなかった。
「損な性分なんですよ。……間にあわなくても、怨まないでくださいね」
それだけ言って、翠玉は振り返ることなく扉へと向かった。