「おっしゃっていることが、よくわかりません」
 明啓の顔は、とても高いところにある。だからこの距離で会話をするには、翠玉は首をずいぶん上げなければならなかった。
「長屋を訪ねた時、俺には貴女に示す利があった」
「……はい」
 冤罪を晴らし、罪と則を撤廃させる。
 それが翠玉を動かした利であった。明啓の言葉に、誤謬はない。
「弟は、いとも容易く利を示せる。だが、俺にはなにもないのだ。俺は、ただの身代わりで、地位どころか、(あざな)さえもない。なにも貴女に示せるものが――」
「なにをおっしゃるのです。子欽を守っていただいたばかりか、罪と則を撤廃してくださったではありませんか」
 呪詛の解除を待たず、三家の危機を救うために、罪と則を撤廃した。
 明啓だからこそ、できたことだ。
「俺は、弟の影だった。……帝位も話しあい、喜んで譲ったつもりだ。だが……今は悔いている。なぜ、俺は皇帝になる道を選ばなかったのか……俺が皇帝であったならば、貴女を――」
 明啓は、取り乱している。
 こんな表情を、声を、見たことがない。
 動揺は、あっさりとこちらにも伝染した。
「わ、私とて、本気にはしておりません。洪進様はお疲れでしたし……だいたい、私は、琴も笛もいたしません。背も低いですし、夫人の皆様と並べる容姿ではありません。入宮など、まったく考えては――」
「なにを言う。貴女は美しい」
「……え……」
「いや、姿形だけの話をしているわけではない。貴女には知恵があり、勇気がある。貴女のような人と共に歩めたらと、弟も望んだのだろう。俺と同じに――」
「あ……あの……」
 ぽかん、と口が開いてしまった。
 翠玉自身も、ひどく動揺していたせいで、わけのわからないことを口走った。
 だが、この明啓の動揺には及ばない。
「だが、貴女を、弟には渡したくない。いや、他の誰にもだ」
「……明啓様……」
「俺だけを――……今……すべき話ではないな。すまない。取り乱した」
 動揺している、という自覚は明啓にもあったようだ。くるりと背を向け、「見送りは要らない」と言って、客間を出ていってしまった。
 残された翠玉は、口を開けたまま動けずにいる。
(自分が皇帝になっていれば、私に貴妃の位を賜れた……と言ったの?)
 彼もおかしかったが、自分もおかしい。
 翠玉は、足早に寝室に戻った。頬が、ひどく熱い。
(まるで求婚だ)
 牀に身を投げ、波だった感情を押さえようと努める。
 いったん目を閉じてみたが、浮かぶのは見上げた明啓の顔だけ。
 洪進は、翠玉に貴妃の位を約束した。
 明啓は、求婚らしき言葉を口にした。
 奇しくも同じ日、双子は翠玉にそろって似通ったことを言った。
 彼らの顔は、ほとんど変わらない。きっと、声や発音も。
 代えがきくように、という明確な意思のもとで育てられたふたりだ。
 どちらでもいいのだ。本来は。
 どちらでもいい。どちらでも――
(よくない)
 ぱちりと目を開け、翠玉は牀から起き上がった。
 明啓と洪進は、別の人間だ。
 出会ってから、たった数日。だが、翠玉は明啓の人柄に触れた。
 生真面目な人だ。優しい人だ。賢明な人だ。
 どちらでもいいはずがない。
 弟にすべてを託し、自分は死ぬものだ、と諦めていた明啓でさえ変わった。
 恋――と仮に呼ぶならば――を自覚した途端に、どちらでもいい、という考えを捨てたのだ。話しあいだけで、弟に皇帝の座を譲るような人が。
 翠玉が、明啓に出会って変わったように。
 明啓も、翠玉に出会って変わったのだ。
「翠玉様――」
「は、はい!」
 突然呼ばれて、翠玉は跳びあがるほど驚く。一穂がそこにいる。
 よほどぼんやりしていたらしい。まったく気づかなかった。
「槍峰苑においでの李花様が、至急お越しいただきたいとのことです」
「わかりました。すぐに行きます」
 翠玉は、すぐに寝室を出た。後ろに一穂がついてくる。
 月はいつの間にか陰っており、まばらな灯篭は心もとない。
 北の房から出て、西側にぐるりと回る。
 天幕が見えた。だが――暗い。
(昼夜を問わず蟲捜しをする、と聞いていたのに……なにかあったの?)
 かすかな灯りは見えるが、作業のできる明るさではないようだ。
「暗い……ですね」
「翠玉様。私が様子を見て参ります。そちらでお待ちを」
 一穂も不審に思ったようだ。天幕をめくり、槍峰苑の中へと入っていく。
 不安に思いつつ、陰った月を見上げる。
 その時、後ろから腕が伸びてきて、布で顔を覆われた。
 そこで――翠玉の意識は、ぷつりと途切れる。