「殺されるかと思った……なんなんだ! あの姫君は!」
「ごめんなさい。まさか貴女まで縛られているとは思いませんでした」
「いや。嵐が過ぎるのを待っていたのだ。余計なことをして、貴女の足を引っ張るわけにはいかない。私は、どうにも融通がきかないからな」
 気を取り直し、翠玉は先に立ち上がる。手を差し出せば、李花は素直に手を握り、立ち上がった。
「なんとか、継母のおかげで乗り切れました。北方の出身だったのです」
「あぁ。なにが幸いするかわからんな。北方の話など、私はさっぱりわからない」
 さて、と李花は、護符と糊の壺の入った籠を抱え直した。
「なにか、お手伝いしましょうか?」
「構わないでくれ。ずっとひとりで仕事をしてきた。手の借り方がわからぬのだ」
「……わかりました。なにかあったら、言ってください」
 手の借り方がわからないのは、翠玉も同じだ。これまでずっと、なにからなにまで、自分ひとりの力でやってきたせいだろう。
 そこで翠玉は、手近な岩に腰を下ろし、李花を待つことにした。
「しかし……恐ろしいところだな、後宮とは」
 李花が、一枚目の護符を貼り終えてから呟いた。
 姜夫人が規格外なだけではないか、と思うが、翠玉も腰を抜かしたばかりである。同意せずにはいられない。
「城の外とは別世界ですね。……あぁ、いえ、私も貴族の暮らしなど知りませんが」
「入宮すれば、高祖に助力した姜家とも並び立てる。だが……」
 高祖を助けた姜家。高祖に逆らった三家。その末裔が、二百年の時を経て、同じ皇帝の後宮に入る――となれば、因縁の解消を強く世間に印象づけるだろう。名誉を回復するのに、これほどわかりやすいものはない。
「そう話は簡単ではありませんよね。自分の心には逆らえません」
「まったくだ。だが、母や弟妹のためならば、私ひとりの心など、殺しても構わない、とも思う」
 李花が竹籠を持って、次の護符を貼る場所に移動する。貼るのは庭の四方だ。
 その後ろについて、薄暗い柳の下を歩きながら、ため息をつく。
「……わかる気がします」
 子欽は、郷試を受ければ道も開けるだろう。もう飢えずに済む。
 あとの問題は我が身ひとつ。これまでどおり、占師として生きていくつもりだ。今回の件で名を挙げれば、客筋もよくなるに違いない。
 だが、もし父や継母が存命であったならば、話は違ったように思う。
 父を鉱山に行かせずに済む。継母も、腹の子も、死なずに済む。家族の命を守るためならば、心を殺すのも容易い。
「しかし……陛下は聡明な方だと聞く。明啓様を見る限り、お優しいに違いない。そうそう悲惨な人生にもならんだろう」
 また護符を貼りはじめた李花に、翠玉は曖昧な相づちを打った。ここでなにを言っても、気休めにしかならない。
 李花も返事を期待していなかったようだ。黙々と作業を続けている。
 手持ち無沙汰になった翠玉は、柳の下に流れる、細い川をぼんやりと眺めていた。
 川にかかる小さな石橋は、飾り気もなく簡素だ。
 百華苑、と名のつく庭だが、華やかな印象はまったくない。
「……名と、あっていませんね。庭の雰囲気が」
 ぽつり、と翠玉は呟いた。
「たしかに。百華苑というより――そうだな、幽仙苑(ゆうせんえん)、といったところか。柳といい、自然のままの敷石といい、あの辺りの岩など、世俗の臭気を忘れさせる」
 李花は、護符を貼りながら即興で庭に名をつけた。
「あぁ、そちらの方がしっくりきます。お上手ですね」
「父が詩作をする人だったからな。……そういえば、双蝶苑にも花がなかった」
 菫露殿の姜夫人を訪ねる前に、ふたりは紅雲殿と双蝶苑の護符を調べている。
 あの時は護符ばかりを気にして、庭の雰囲気など見ていなかった。それでも、多くの花どころか、松の多い庭であったのは記憶に残っている。
「そうですね。双蝶苑も、まったく蝶が飛びそうではありませんでした。もっと重厚というか……」
「さしずめ、千歳苑(せんさいえん)だな」
「ぴったりです!」
 翠玉は小さく拍手をした。李花は得意気に笑う。
「殿の名前にあわせただけなのだろうな。ここも、翡翠殿を翠娘、菫露殿を菫娘に見立てて、百華苑と名づけたに違いない」
「李花さんもご存じでしたか!」
 翠玉は、明るい声で喜んだ。美しい姉妹の神話は、父が教えてくれた。先祖は同じ南方の出身だ。劉家にも伝わっていたらしい。
「あぁ、知っている。いつも喧嘩ばかりで、よく飽きぬものだと思っていた。――庭を造った者と、名づけた者が別だと考えるのが自然だな」
 三枚目の護符を、李花は灯篭に貼りはじめた。糊を丁寧に塗り、ぴたりとシワひとつなく貼りつける。
「……そうですね。私がこの庭を造った者ならば、そんな名をつけられた途端に卒倒しそうですから」
 最後の一枚を貼るべく移動しながら、改めて庭を眺める。
 翠娘と菫娘は、花の女神の娘だ。百華苑は文字通り、選び抜かれた美しい花々の集う女神の居城。この庭は、そんな神話に相応しいとはまったく思えない。
「康国の高祖は、北の遊牧民族の娘を母に持つ人だ。彼を支えたのは、宇国に不満を持つ北方の豪族ではなかったか? 今も要職を占めるのは、北の人間のはずだ」
「それを言えば、宇国の(かん)氏も、宋氏よりはやや南ですが、拠点は北でした」
 康国以前に、中原の北部を治めていた宇国は、北部出身の関氏が建てた。
 宇国にせよ、康国にせよ、皇帝はどちらも北部の出身である。
 三家が、当時まだ一介の豪族に過ぎなかった関氏に迎えられた逸話は、今も世に残っている。『我が財の半分を、三家に捧げる』。そう関氏は言ったのだ。
 この庭の名が、宇国時代についたとすれば、不思議には思わない。それだけ三家を重く用いた証しだとわかるからだ。
 だが、宇国はすでに滅び、天錦城は宋氏のものになった。
 建物の名はすべて変えられた――というのは有名な話である。
 宋家だけでなく、重臣も北の豪族ばかり。そんな環境で、南方の神話の名を誰がつけるというのだろうか。
「この天錦城に、南方の神話に由来した名は不自然だ」
 李花は、また護符を貼りはじめた。
(ちぐはぐだ)
 華やかな庭の名と、幽玄な趣。
 北方の支配者と、南方の神話に由来した建物の名前。
 得体の知れない違和感が、ひどく翠玉を落ち着かなくさせた。
 北で、南方の人を見かけるのは稀だ。康国を転々としながら暮らしてきたが、自分と体格の似通った人は、ほとんど見かけない。
 円らな瞳に、丸みのある頬。背は高くなく、手足の指なども短い。翠玉や李花は、南方出身の者の特徴を色濃く残している。
 背が高く、総じて涼やかな顔立ちの北の人間とは、容姿の系統も違っていた。
 しかし、容姿の隔たり以上に大きいのが、文化の違いだ。
 康国の、とりわけ琴都の人々は、南のことをよく知らない。
 南ばかりではない。北にも、東にも、西にも、興味や関心を持たない傾向がある。同じ康国内にもかかわらず、北の海を支配する姜家から来た夫人は、天錦城にいる人間が、北の海賊を知っていたことに感激していたくらいだ。
 古くから肥沃な台地に恵まれ、他の地域との交流の多くないことがその理由ではないか、と父が言っていたのを覚えている。
 琴都から北の海まで、五百里。
 南方と呼ばれる地域までは、二千里以上。
 後宮に、南方の神話由来の名を冠した殿や庭があるのは、やはり不自然だ。
「名をつけるのも、まじないの一種ですものね。……清巴さんに聞いてみましょう。誰がこの後宮の建物の名をつけたのか」
「そうだな。些事かもしれんが、確認をした方が――あ……」
 護符を貼り終えた李花が、こちらを振り返った状態で固まっている。
「どうしました? あ……」
 翠玉も、そちらを見て――固まった。
 ――人がいる。