そして、翌日。五月二十八日の三夕の刻である。
黒装束の占師・華々娘子の姿は、菫露殿の北の房にあった。
そして――命の危機を、強く感じていた。
(どうしてこんなことに……)
ごくり、と喉が鳴った。
翠玉は荒縄で縛られ、膝をつかされている。
目の前で、ゆったりと長椅子に座っているのは、姜夫人だ。
菫露殿の主に相応しい淡い紫の袍には、精緻な刺繍が施されていた。
細身で細面。黒く艶やかな髪を、半ばだけ上に結い、釵には揺れる小ぶりな玉の飾り。抜けるように白い肌と、黒目がちな目、薄い唇。人形めいた美しさがある。
外見は、ごく可憐な姫君である――はずなのに。
「誰に、どれだけ積まれたのです?」
声も、鈴の音のごとき柔らかさなのに。
「……と、申しますと……」
にこり、と笑む表情も、優しいのに。
「どの夫人に、どれだけの報酬を積まれたか、と聞いているのです」
見下ろす視線は、まるで氷の刃だ。
(殺される……)
占いどころではない。今すぐ逃げ帰りたい――と思ったが、今の翠玉には、帰る場所もなかった。だが、ここでなければ、どこでもいい。一刻も早く逃げ出したい。
「いえ……私は、陛下にお仕えする、中常侍の清巴様からのご依頼で――」
「私の質問に、三度めはありませんよ?」
ちらり、と見れば、周りにいる侍女たちも、斉照殿にいる女官とは様子が違う。
なんというか――屈強だ。
刃物こそ持ってはいないが、握る拳には使い込まれた形跡がある。体格も、華奢な貴族とは一線を画していた。
(なんで誰も教えてくれなかったの!?)
ここは後宮だ。いるのは、蝶よ花よと育てられた貴族の姫君のはずである。
そうと決まったものでもないが、そういった印象を持つのが一般的な感覚だろう。
後宮に疎い明啓はともかく、清巴ならば忠告くらいはできたはずだ。あの姫君は危険だ――と。
(このような荒々しい姫君が、どうして後宮に? こんな手荒な扱いを――それも縛り方まで慣れている。まるで海賊じゃない!)
凍てつく北の海に沈められはしないだろうが、庭に埋るくらいはされかねない。
継母は、北の港町育ちだった。文字の読み書きはできなかったが、様々な物語を聞かせてくれたものだ。
海賊の話は、特によくねだった。なにせ面白い。おそろしい海の獣との戦い。美しい魔物との取引。裏切り者への過酷な制裁。しかし、こちらが制裁を受ける側となれば、面白いなどと思えるはずもない。
つ、と冷や汗が頬をつたった。
「わ、私は、その――なにも受け取ってはおりません」
「池に沈みたいですか?」
「本当でございます。報酬は、すでに清巴様にお約束いただいております」
「翡翠の指環」
笑顔で姜夫人が言ったのに、さぁっと翠玉は青ざめた。
(見ていたの?)
昨日の徐夫人とのやり取りは、筒抜けだったらしい。
「あ、あの指環は……受け取りましたが、あとでお返ししていただきたいと清巴様にお渡ししました。私の役目は夫人の皆様の無聊をお慰めするのみでございます」
翠玉は、必死に弁解した。嘘をつく余裕などない。
「一昨日、そこの庭に陛下が現れたのは、お前と示しあわせての茶番ですか?」
「ち……違います。祈護衛の示した暦ならばともかく、市井の占師の言葉などに、陛下が従われるはずがございません」
ふっと姜夫人が笑った。
「暦を決めるのは暦方局です。覚えておくといい」
「え――」
「祈護衛というのがなにをしているか知りませんが、どうせ小さな組織でしょう」
周りの屈強な侍女たちが、小さく笑う。
宮廷に疎い、物知らずだと笑っているのだ。
あの恐ろしい組織が、宮廷に後ろ盾のある夫人には、小さく見えるらしい。
(てっきり、祈護衛は強い権力を持っているものとばかり思っていた)
賊が口封じに殺されたとわかった時、明啓は、祈護衛を小さな機関だ、と言っていた。彼らの書庫とて、決して立派なものではなかった。
「それは……存じませんでした」
不審な占師が物知らずだとわかって、多少は警戒を解いたらしい。姜夫人の目から、刃のごとき鋭さが消えた。
「倍、出しましょう。姜家に便宜を計れば、徐家の倍の報酬を約束します。そなたは物知らずゆえ知らぬでしょうが、姜家は北方の海を統べる誇り高き一族。その強き血は宋家を支えるに相応しい」
北方の海を統べる――という言葉が、翠玉を驚かせた。
(姜家? 北海の……?)
懐かしい響きだ。継母の声が、記憶に蘇る。
「もしや、北の海賊の――」
翠玉の言葉に、侍女たちが「無礼な!」と色めきたった。
それを姜夫人は鷹揚な仕草で止めた。
「南の者にしては珍しい。姜家を知っているとは、よい心がけですね。しかし、海賊だったのは遥か昔。今はそのような猛々しいことはしておりませんよ」
ほほほ、と可憐な夫人は、愛らしく笑う。
今も十二分に猛々しい、と思ったが、もちろん口になどしなかった。
「伝説だとばかり思っておりました。私の継母が北の港町の出身で、よく言っていたものです。北では姜家が民を守るので、餓えて死ぬ者は少ない、と。琴都の周辺は、北の港町より気候は穏やかだけれど、人が冷たい、と嘆いてもおりました」
翠玉の言に、夫人ばかりか、侍女たちまで表情が明るくなる。
うんうん、とうなずき、姜夫人は「解いてやって」と縄を解くよう侍女に命じた。
(継母上に、助けられた)
縄が解かれるのを待つ間、翠玉は心の中で継母に手をあわせる。
「姜家は、康国建国にあたり、一族を挙げて高祖に助力をしたがゆえに、今も北で力を保っています。ですが、そろそろ中央にも足がかりがほしい。宋家にも、姜家の強き血が必要。――わかりますね?」
話が、振り出しに戻っている。
姜家に便宜を図れ。そう言っているのだ。
「そのお気持ち、宋家にも必ずや届きましょう。つきましては、少しでもお力になれるよう、護符を差し上げとうございます」
「……護符に、なんの意味があるのです?」
「この殿に流れる気が護符に影響を与え、その変化を読み解きますと、もっとも有効なまじないを行えます」
姜夫人は、愛らしい顔を不機嫌に歪めた。
「それで、子が授かるのですか?」
「望む未来を得るために、まじないを行います。ちょうど、船の舳先に魔除けを彫るのと同じでございます」
これも継母に聞いた話だ。航海に危険はつきもの。北方では、荒ぶる嵐から船を守るために、舳先には恐ろしい魔物の姿を彫るそうだ。
「……いいでしょう。糸を指に結ぶのですね?」
情報が筒抜けだっただけあって、話の通りが早い。
「左様でございます」
絹糸を取り出し、鋏でぷつりと切る。
姜夫人は、細くたおやかな手を差し出した。
翠玉は「失礼します」と断ってから、手早く絹糸を姜夫人の小指に結んだ。
「まじないで事の万全を期すのも、殿の主の務めというもの」
皇帝からの寵愛は、夫人だけでなく、仕える者にとっても誉だろう。
一族の未来を背負う者として、姜夫人の態度は実に堂々として見えた。
まずは、ひと撫で。
糸は迷わず、濃い藍色を示した。
示されたのは、生まれる前から続く宿命とでも呼ぶべきものだろう。
姜家の家運を託された姫君の覚悟が、伝わってきた。
次に、もう一度撫でる。
ぱっと菫色が現れたのは、偶然だろうか。菫色。薄藍。淡藤。
淡い紫は、自尊の心と誇りを示す。
荒々しい姜夫人の中に秘めた頼りなさがうかがわれた。故郷は遠く、後宮ではこれまで彼女が受けてきたほどの敬意を得られぬ場所なのかもしれない。
そして――最後に、ひと撫で。
糸は、静かに緑へと変じた。初々しい若緑だ。
「良縁でございます!」
つい、声が大きくなった。
「良縁ですって? 後宮で? そんなこと、あるわけがないでしょう」
ぷい、と姜夫人は顔をそむけた。
入宮は政治。縁に良いも悪いもないだろう、と姜夫人は言っているのだ。
「後宮だろうと下町だろうと、人と人がそこにいれば、縁が生まれます。なによりの良縁は、信頼を築くこと。ご夫君との信頼は、人生の荒波を凪がせるでしょう」
姜夫人が、じっと翠玉を見ている。
その大きな黒目が、儚く潤んだものだから、翠玉は慌てた。
「え――」
慌てたのは、翠玉だけではない。屈強な侍女たちも、姜夫人自身さえ自分の涙に戸惑っている様子だ。
一番大柄な侍女が、前に出て問うた。
「それで、陛下にお会いできるというまじないは? 早くなさい」
「あ……は、はい。こちらの房の四方と、百華苑――この菫露殿の北側にございますお庭に、護符を貼らせていただきます。護符の変化で気の流れを読み解き――」
侍女が「説明はいい。早く」と急かしたので、翠玉はパン、パン、と手を叩いて李花に合図を出した。
ひとりの侍女が「あぁ、忘れていた」と言って外に出ていく。
部屋に入ってきたのは、縄で縛られた李花であった。その目は虚ろだ。
(なんてこと!)
てっきり、外で待機する李花は無事だとばかり思い込んでいた。
「で、では、護符を貼らせていただきます」
縄を解かれた李花は、疾風のごとき速度で、護符を部屋に貼りだした。
最後に、ふたりそろって膝をつき、挨拶をしたところで――
「大儀でした。まじないを、楽しみにしています。――褒美を」
顔を袍の袖で隠したまま、姜夫人がか細い声で言った。
侍女が、翡翠の首飾りを持ってくる。これもまた、立派な品である。
「このような立派なお品、私にはもったいのうございます」
「私の言葉に、三度目はありません」
「――ありがたくいただきます」
翠玉の懐に入る品ではないが、その気持ちが嬉しい。占いが人の心に届いた時の喜びは、格別だ。
翡翠の首飾りを受け取り、重ねて礼を伝えたのち、ふたりは房を出た。
北の房を出れば、すぐ百華苑が見える。
スタスタとまっすぐ進み、庭に入った途端、いっきに緊張が解けた。へなへなとその場にへたり込む。