後宮を舞うは七彩の糸


「その、糸?」
「はい。こういたしますと、徐夫人の陛下を思うお気持ちが、正確に呪文に反映されます。強く思う者が、より多くを手に入れるのは世の道理でございましょう」
 よく回る舌だ、と我ながら感心する。
 こう言っておけば、徐夫人は強く心で皇帝を思うだろう。
「強く思えばいいのね。簡単だわ」
 案外あっさりと、徐夫人は翠玉の誘導に乗ってきた。
(ありがたい)
 ほっと胸を撫で下ろし、翠玉は徐夫人の小指に糸を結ぶ。
 辺りの暗さも頃合いだ。絹糸の彩りも、よく見えるだろう。
 部屋に灯りをともそうとしている侍女に「しばしお待ちを」と頼んで止めた。
「では、目を瞑ってくださいませ」
「……いいわ」
 翠玉は、左手で糸を握り、スッとひと撫でした。
 わかるのは、心の憂いの遠因だ。
 糸の色は、淡く変じはじめた。(とう)()薄紅(うすべに)珊瑚(さんご)
 キラキラと輝く様に、胸の内だけで驚く。
(なんと美しい……)
 色彩もさることながら、日の光を弾く朝露のような輝きは、息を呑むほど美しい。
 これほど純粋な気に、翠玉ははじめて触れた。
「恋――」
 口から、自然に言葉がこぼれていた。
 ハッとして、顔を上げる。
「あら、どうしてわかるの?」
 目を瞑ったままの徐夫人は――はにかんでいた。
 翠玉は、自分の不用意な言葉を悔いる。
(陛下とは、入宮した日にお会いしたきりだと言っていた。一目で恋に落ちた、とも考えられなくはないけれど――)
 徐夫人が思う相手まで、糸の彩りから読み取ることはできない。
 もし未来の夫以外の相手だったならば、その恋は許されぬものである。
「失礼いたしました。不躾なことを」
 翠玉は、静かな声で謝罪した。
「いいの。謝らないで。……本当ですもの」
「え――」
「私、啓進様にお会いしたことがあるの。お話もしたわ。……お花をいただいたの。大きくて、綺麗な、紅い花。あれは十二歳の頃……あの日からずうっと……啓進様の妻になりたいと願ってきた。その願いがやっと叶うのよ」
 目を閉じたまま、うっとりと言う徐夫人の様子に、ひやりとする。
(まさか、面識があったなんて! どちらと? 洪進様? 明啓様?)
 双子は、外では啓進、と名乗っている。
 徐夫人が会って話したのが、兄弟のどちらなのかは判断できない。
(さん)()(さい)(せん)をした甲斐があった)
 ひやりとはしたが、反面、ほっとする。徐夫人が、なにをどの程度知っているかはわからないが、今の段階で知れたのは幸いだ。
(斉照殿の人たちにも、速く報せないと)
 ドキドキと落ち着かない鼓動を、深呼吸で落ち着けて、もう一度糸を撫でる。
 糸の色は、触れた箇所から変じていく。
 山吹。(いな)()柚子(ゆず)
 黄色は、商人の客に多く見られる色だ。契約を伴う関係に現れる場合がある。
「今、ご実家とは――」
「まぁ、本当になんでもわかるのね! そうなの、それが悩みの種。実家がせっつくの。早く早くって。わずらわしいわ」
 目を閉じたまま、徐夫人は肩をすくめた。
 最後に、ひと撫で。
 糸の色は――()(むらさき)に変じた。
 現れる色彩は、必ずしもひとつの事柄を示すとは限らない。
 濃紫は、高位に上る兆しとも読めるが、その反面、深い喪失を示す色でもあった。
 皇帝を慕う徐夫人にとっては、不吉な兆しになり得る。
(……言わずにおこう)
 翠玉はそう判断し、糸を解いた。婚儀を控えた姫君には、余計な情報だ。
「以上でございます。では、これより護符を貼らせていただきます」
 ぱちりと瞼を上げた徐夫人に会釈をし、翠玉は、パン、パン、と二度手を叩いた。
 すると、それを合図に李花が入ってきた。彼女も翠玉と同じ黒装束に、布を頭から被り、さらに顔を半分隠している。
 ここからは、彼女の出番だ。
 護符の貼り方にも作法があるらしい。書いた本人が貼るのが望ましいらしく、部屋の外で待機していたのだ。
 当初は、同席するよう頼んだが、断られた。曰く、融通のきかない性質(たち)だから――とのことだった。
「呪文は『太栄繁興(たいえいはんこう)』で頼みます」
 ひそり、と翠玉は李花の耳元に囁いた。
 ところが――なんのことやらさっぱりわからない、という顔を李花はしている。
 当然だ。そんな呪文はない。適当に景気のよさそうな文字を並べただけ。蚕糸彩占に誘導するための方便だった。
 翠玉は、目を片方瞑って合図を出したが、
「『太栄繁興』?」
 李花が、なんの話だ? とばかりの大きな声で聞き返してきた。
 さすが、自分で融通がきかないと言うだけのことはある。
(……まずい。通じてない!)
 ひやりとした。
 しかし李花は、翠玉の表情を見て自分の間違いに気づいたようだ。
 惜しい。一瞬だけ早ければ、あんな大きな声で聞き返したりはしなかったろう。
「そ、そうです。徐夫人は特別なお客様ですから。手間はかかっても『太栄繁興』を行うべきです」
 李花は「承知しました!」と一礼して、てきぱきと準備をはじめた。
「あれを持ってきて」
 徐夫人が、つごう六つめの雪糕を口に入れつつ侍女に命じる。
 運ばれてきたのは、大きな翡翠の指環だった。
「これは――」
「私は、特別な客なのでしょう? しかるべき品を差し上げようと思ったの」
 ふふ、と徐夫人は、朗らかに笑んだ。
「もったいのうございます。このような素晴らしいお品を」
「いいの。私の望みは、美しい指環をすることではないのよ。ただ、愛する方の妻になりたい。それだけなのだから」
 徐夫人は、白魚のごとき指を飾る、珊瑚の指環を撫でた。
 ほしくはない、と言いながら、耳飾りも、腕飾りも、それぞれに翠玉が一生触れる機会さえなさそうな品々ばかり。実家の裕福さが一目でわかる。
「では、ありがたくいただきます。必ずや、この護符が報いましょう」
 恭しく指環を受け取った。
 金目のものを欲しがらない占師は、怪しまれる。いったん受け取って、ほとぼりが冷めた頃に、斉照殿の者にでも謝罪つきで返却してもらえば済むだろう。

 作業を終えた李花と共に、翠玉は紅雲殿から退出した。
 まだ、三夫人のうち、ひとりを訪ね終えただけだというのに、どっと疲れた。
 ちょうど夕食がはじまる時間だったようで、行列がこちらに向かってくる。
(徐夫人の食事? ……すごい行列)
 列は、二十人に近い数だ。山盛りの甘い菓子に、長い列で届く食事。まったくもって雲の上の暮らしである。
 端に避けていたふたりは、行列を見送ってから、目を見あわせて深く息を吐いた。
「すまない。まったく気が回らなかった! どうも融通がきかなくていかん。昔からそうなんだ」
 李花の謝罪に、翠玉は首を横に振った。
「いえ、こちらこそ無茶な振り方をしてしまいました。ごめんなさい」
「貴女は、本当によく知恵が回るな。私には到底できない芸当だ。おとなしく護符を貼ってまわるとしよう。性にあっている」
 護符は、紅雲殿の内部だけでなく、その南側にある双蝶苑にも貼る必要がある。
 李花は、護符を貼る道具が入れた竹籠を、ポン、と叩いた。
「では、お願いいたします。私、急いで斉照殿に報告せねば。まさか、おふたりのどちらかと面識がおありだったとは、予想していませんでした」
「あぁ、話は聞いていた。急いだ方がいい。――では、のちほど」
 翠玉は斉照殿へ。李花は双蝶苑へ。ふたりは道を分かった。
 ――徐夫人は、皇太子時代の双子の、どちらかに会っている。
 明啓なのか、洪進なのか。
 双子はよく似ており、父親でさえ見分けがつかなかったそうだ。
 しかし、型通りの挨拶と、雑談では条件が違う。
 ふとした仕草、話し方、話題、物の見方。そして笑い方。恋する娘ならば、他の誰より違いに敏感なはずだ。
 彼女には双子の見分けがつく、という可能性を考える必要があるだろう。
(早くお知らせして、たしかめておいた方がいい)
 二百年の呪いを前提に、双子をひとりの皇太子として育てるなど、そもそも薄氷を踏むが如き危うさである。ヒビの入った箇所を知らせぬわけにはいかない。
(今は一蓮托生だ)
 頼みの綱の明啓が(つまず)けば、翠玉だけでなく、李花ももろとも倒れる。
 斉照殿の階段を、息を切らせて上がっていく。
 裏に回って部屋に入れば、卓に食事の用意がしてあった。だが、報告が先だ。
 ひとまず頭と顔の黒布を外す。髪は、朝に整えてもらったまま形を保っている。黒い袍から、桜色の袍に着替えれば、すっかり斉照殿の女官の姿に戻った。
 髪の乱れを直しながら、部屋を飛び出す。
「あ!」
 部屋を出てすぐ、清巴と鉢あわせになった。
 さすがは宮仕えだけあって、清巴は声を上げずに驚いていた。
「お戻りでしたか。明啓様が、お食事が終わりましたら、翠玉様から直接報告をお聞きになりたいとおおせです」
 徐夫人の件の報告は、清巴にするつもりでいた。だが、呼ばれているならば、明啓に直接伝えるのが筋だろう。
「すぐで構いません。急ぎご報告すべきことがございます」
 では、と清巴が先に歩き出す。
 昨日と同じ、書画骨董のある部屋に向かうのかと思えば、対の青い壺の間の扉を開けた。
(中庭? どうして中庭に……あぁ、明啓様は、桜簾堂にいらっしゃるのね)
 中庭の渡り廊下を通り、桜簾堂の前に立つ。
「……大丈夫、なのですか? その、三家の私が入っても」
 桜簾堂には、三家の天敵とも言うべき、祈護衛が常駐しているはずた。
 扉は開いたが、次の一歩は躊躇わざるを得ない。
「人払いは済ませてあります。私が、ここで見張りをしておりますので、ご安心を」
 清巴がそう言うならば、安全だと信じるしかない。
 恐る恐る、淡い紅色の簾をくぐった。
(あ……よかった。おふたりだけだ)
 内部にいるのが、明啓と洪進だけだとわかって、翠玉はホッと胸を撫で下ろした。
 牀に横たわる洪進と、牀に突っ伏している明啓。
 以前と変わらず、苦しげに眠る洪進の横で、明啓は(うたた)()をしているようだ。
(……お疲れに違いない)
 双子の弟とはいえ、他人の身代わりを半月以上続けて、疲れぬはずがない。
 明啓は、戦っている。
 自分たちの理不尽な運命と。そして、弟を蝕む呪いとも。
「……あぁ、すまない。来てくれたのか」
 すぐに、明啓は転寝から目覚めた。
 ふっと明啓が笑んだが、疲労のにじむ顔が痛々しい。
「お休みのところ、申し訳ありません」
「いや、ここに呼んだのは私だ。――それで、徐夫人の部屋に護符は貼れたのか?」
「はい。殿内に快く貼らせてくださいました。今は、李花が庭で作業中です」
「紅雲殿と、双蝶苑だな」
 明啓が少し得意げに言うので、翠玉は「ご名答です」と言って微笑んだ。
「お疲れのところ恐縮ですが――お伝えしたいことがあり、急ぎ戻って参りました。その前に、ひとつ。少しだけ、お時間をくださいませ」
「なんだ? 言ってくれ」
 翠玉は、その場に膝をついた。
「私は、江家の占師です。占いの内容は余人にもらさぬのが(おきて)。ですが、明かさねば洪進様は救えませぬ。掟の唯一の例外は、お仕えする方に必要な場合のみです」
「聞かせてくれ」
 翠玉の表情の硬さから、明啓も話の種類を察したようだ。
「父は、鉱山で死にました。継母の腹には子が宿ったとわかって……危険を承知で鉱山に入ったのです。その継母も、腹の子も、病で死にました。私の知る限り、私の一族の者は、満腹になるまで物を食べたこともありません。それでも、一族は宋家に逆らうことなく、罪を償うと言い続けていました」
「……そうか。痛ましいことだ」
「どれほど貧しても、礼儀や学問を怠るな、と父は言っていました。待っていたのです。いつか罪を赦される日がくると。――私は違います。飢えも貧しさも、宋家が強いたものだと思ってきました。この罪と則の下で、宋家には仕えられません。ですから――私は、明啓様にお仕えしたい。貴方ならば信じられます。――わずか十日余りではございますが、私、江翠玉は宋明啓様にお仕えいたします」
 作法に従い、翠玉は拱手をして深々と頭を下げた。
 衣ずれの音がする。明啓が、翠玉の前で膝をついたのがわかった。
 驚いて顔を上げれば、ひたと目があう。
「私は、弟の影に過ぎぬ。仕えるならば、弟に」
「いいえ。三家を赦すとお約束くださったのは、明啓様です。他のどなたでもございません」
 長屋まで来たのも、賊から救ってくれたのも、子欽の安全を確保したのも、すべて明啓だ。三家を罪と則から解放すると約束したのも彼だけである。
「……俺に、仕えてくれるというのか。影でしかない俺に」
「他の方にはお仕えできません」
 きっぱりと翠玉は言った。
 この宮廷の人間で信頼できるのはただひとり、明啓だけだ。
「わかった。わずかな間だが、貴女の忠誠を受けよう。光栄に思う」
 明啓は、大きくうなずいた。
 だが、まだ目の高さはさほど変わらない。
「こういう時は、こちらが跪くものでございましょう?」
 たまりかねて、翠玉は訴えた。
「いや、これでいい。宇国の祖は、二千里の旅を経て異能の三家を厚遇で召し抱えたそうではないか。私も倣おう。貴女に、敬意と感謝を決して忘れぬと約束する。望む褒賞も与えよう。――どうか、弟を……私の半身を助けてくれ」
 その言葉の真摯さに、翠玉は胸打たれる。
 敬意と感謝。そんな言葉を、宋家の人間にかけられる日がこようとは。
 父に、祖父に、伝えたい。二百年の忍耐には、意味があったと。
 涙をこらえ、翠玉は「ご報告します」と膝をついたまま、本題に入った。

「徐夫人は、陛下と面識があると――離宮で、十二歳の頃にお会いした、とおおせでした。お心当たりはございますか?」
 明啓は先に立ち上がり、翠玉の手を取ってグッと引いた。
 身長に差があるせいで、向かいあうと顔の位置はずいぶん遠くなる。
「……徐夫人は、我らより一年年少。我らが十三歳の頃だな。離宮の我らの住まう一画には誰も近づけぬように……いや、彼女は徐家の養女だ。貴族以外の身分であれば、接触の機会はある。――俺にはまったく心当たりはないが」
 即答した明啓と翠玉は、そろって牀の上の洪進を見た。
 当然ながら、眠り続ける洪進から聞き出す術などありはしない。
「女官や、離宮で働く者……なんでも構いません」
「親しく言葉を交わした若い娘など、そもそもこの世におらぬ。――貴女くらいだ」
 翠玉は目をぱちくりさせてから「会ったのは三日前です」と言った。
 話が飛びすぎだ。だが、それだけ彼らの日常は厳しく管理されてきたのだろう。
「先帝の方針は、それほど徹底していたのですね」
「徹底できぬくらいならば、しない方がマシな計画だからな」
「……左様でございますね」
 とんでもない計画だ。だからこそ慎重に、徹底して事を進める必要があった。
 きっと翠玉には想像もつかないような日常が、離宮では行われていたのだろう。
「別々の記憶は厄介なのだ。のちのち困らぬように、あらゆる記憶が共有できるよう配慮されていた。とはいえ……ほんの一時期、互いに単独で行動した時期がある。喧嘩の勢いでな。私は山に入って老師のもとへ何度か通った。ひと夏だけ――あれは、たしかに十三歳の頃だな。だが……老師は六十過ぎの男で、妻も子も、孫もいなかった。洪進は、離宮内で剣の稽古をしていたはずなのだが……」
 明啓は、腕を組んで記憶をたどっている。
「徐夫人に、直接お会いしたことはございますか?」
「肖像画で見ただけだ。あとは昨夜、双蝶苑から、影を見ている」
「美しい人です。こう……華やかで……女神のようと言いますか……背が高く、すらりとしていて、本当にお美しい方なのです」
「紅雲殿の主だ。紅の袍を着ているのだろう?」
 学習の甲斐あって、明啓は夫人の情報にやや詳しくなったようだ。
 だが、まったく有益な情報ではない。
「十二歳の頃は、まだ紅色の袍は着ていません。あの紅色の袍は、入宮する際に、殿の名にあわせて(あつら)えられたのでしょう」
 あれだけ美しい人だ。どんな身分あっても、記憶には残るだろう。
 すると――面識があるのは、洪進の方か。
「やはりあの夏――十三歳の頃のことだろうな。他の時期では起こり得ない」
「昨夜は、それを知らずに庭を歩いていただきましたが、迂闊に近づくと看破されかねません。お気をつけください。望んで入宮されたそうですから、親しくお言葉を交わす間柄であったやもしれません」
 恋、という言葉を、翠玉は使わなかった。
 その言葉だけは、秘すべきだと思ったのだ。
「人の言うのに従って、すべて共有していれば起きなかったものを。……悔やまれるな。こんな所で、足を引っ張られるとは」
 忌々し気に、明啓は眉を寄せる。
 (あざな)さえ共有した双子が、長ずるに従って自分だけの世界を得ようとした。ごく自然な衝動ではないだろうか。喧嘩からはじまったにせよ、そのひと夏の思い出は、ここにあるどんな書画にも勝る宝であったのだろう。
「心の求めるものには逆らえません。誰がなんと言おうと、譲れぬものくらいどなたにもありましょう」
 生きるのに、容易な道はある。
 父が死んだ時、翠玉は伯父に引き取られるはずだった。
 だが、伯父は江家の血を継がぬ子は引き取らない、と子欽を拒絶した。
 譲れなかった。年若い娘ひとり。誰の助けも借りずに生きる道は、平坦ではない。だが、子欽に教育を受けさせ、身を立たせる。そう決意して、翠玉は琴都の下馬路に至ったのだ。
 あの時の決意を、後悔はしていない。
「……そうかもしれん」
 洪進の顔を見たあと、明啓は翠玉を見た。
「徐夫人は婚儀を待ち遠しく思っておいでです。ご実家も、早く世継ぎを、と強く望んでおられるご様子。――当然といえば当然ですが」
 ふむ、と明啓は小さくうなった。
「しかし……誰が、なんのために呪詛を施したのか、皆目見当がつかん。弟以外に、後継者になり得る者がいるならばまだしも、それらしい存在もいない。――俺くらいのものだ」
 どきり、と心臓が跳ねた。
 まるで自分が首謀者だ、と言っているように聞こえ、翠玉は慌てる。
「明啓様、それは――」
「いや、俺自身は皇帝の座など望んではいない。どちらが即位するか、話しあいで決めている。……夫人らとて、皇帝が死ねば子もないまま寺送りだ。彼女たちの実家とて、皇帝の死によって得るものはない。目的がわからん」
 翠玉は、同意を示すためにうなずいた。
 清巴に聞いたが、候補になり得る先帝の弟の子息たちは年少で、有力な後継者とはとても言えないそうだ。
「明日は菫露殿の姜夫人をお尋ねしようと思っております」
 李花も、そろそろ作業を終えて戻っているだろうか。
 膝を曲げ、牀の上の洪進と、明啓に会釈をして扉に向かう。
 扉の手を伸ばしたところで「翠玉」と呼び止められた。
 くるりと振り返れば、
「――三家を憎悪する者……と聞いて、心当たりはあるか?」
「……祈護衛くらいでしょうか。他は思い当たりません」
 ひたすら、祭祀だけを行ってきた、命を繋ぐので精一杯の一族だ。人の恨みを買う機会自体がない。
 そうか、とだけ言って、明啓は視線を洪進の方に向けた。
 一礼して、翠玉は桜簾堂を出る。
(明啓様は、祈護衛と距離を置いているのかもしれない)
 昨夜は祈護衛の目を盗んで移動した中庭だが、今は様子が違う。急かされることもなく、警戒も要らない。どこかに隠れてやり過ごす必要もないのだ。
(ありがたい。そうそう皆殺し、皆殺しと迫られたら、生きた心地がしないもの)
 安堵したせいか、急に腹の虫が鳴る。
 翠玉は悠々と、冷めた食事の待つ部屋まで戻ったのだった。

 そして、翌日。五月二十八日の三夕の刻である。
 黒装束の占師・華々娘子の姿は、菫露殿の北の房にあった。
 そして――命の危機を、強く感じていた。
(どうしてこんなことに……)
 ごくり、と喉が鳴った。
 翠玉は荒縄で縛られ、膝をつかされている。
 目の前で、ゆったりと長椅子に座っているのは、姜夫人だ。
 菫露殿の主に相応しい淡い紫の袍には、精緻な刺繍が施されていた。
 細身で細面。黒く艶やかな髪を、半ばだけ上に結い、釵には揺れる小ぶりな玉の飾り。抜けるように白い肌と、黒目がちな目、薄い唇。人形めいた美しさがある。
 外見は、ごく可憐な姫君である――はずなのに。
「誰に、どれだけ積まれたのです?」
 声も、鈴の音のごとき柔らかさなのに。
「……と、申しますと……」
 にこり、と笑む表情も、優しいのに。
「どの夫人に、どれだけの報酬を積まれたか、と聞いているのです」
 見下ろす視線は、まるで氷の刃だ。
(殺される……)
 占いどころではない。今すぐ逃げ帰りたい――と思ったが、今の翠玉には、帰る場所もなかった。だが、ここでなければ、どこでもいい。一刻も早く逃げ出したい。
「いえ……私は、陛下にお仕えする、中常侍の清巴様からのご依頼で――」
「私の質問に、三度めはありませんよ?」
 ちらり、と見れば、周りにいる侍女たちも、斉照殿にいる女官とは様子が違う。
 なんというか――屈強だ。
 刃物こそ持ってはいないが、握る拳には使い込まれた形跡がある。体格も、華奢な貴族とは一線を画していた。
(なんで誰も教えてくれなかったの!?)
 ここは後宮だ。いるのは、蝶よ花よと育てられた貴族の姫君のはずである。
 そうと決まったものでもないが、そういった印象を持つのが一般的な感覚だろう。
 後宮に疎い明啓はともかく、清巴ならば忠告くらいはできたはずだ。あの姫君は危険だ――と。
(このような荒々しい姫君が、どうして後宮に? こんな手荒な扱いを――それも縛り方まで慣れている。まるで海賊じゃない!)
 ()てつく北の海に沈められはしないだろうが、庭に埋るくらいはされかねない。
 継母は、北の港町育ちだった。文字の読み書きはできなかったが、様々な物語を聞かせてくれたものだ。
 海賊の話は、特によくねだった。なにせ面白い。おそろしい海の獣との戦い。美しい魔物との取引。裏切り者への過酷な制裁。しかし、こちらが制裁を受ける側となれば、面白いなどと思えるはずもない。
 つ、と冷や汗が頬をつたった。
「わ、私は、その――なにも受け取ってはおりません」
「池に沈みたいですか?」
「本当でございます。報酬は、すでに清巴様にお約束いただいております」
「翡翠の指環」
 笑顔で姜夫人が言ったのに、さぁっと翠玉は青ざめた。
(見ていたの?)
 昨日の徐夫人とのやり取りは、筒抜けだったらしい。
「あ、あの指環は……受け取りましたが、あとでお返ししていただきたいと清巴様にお渡ししました。私の役目は夫人の皆様の無聊をお慰めするのみでございます」
 翠玉は、必死に弁解した。嘘をつく余裕などない。
「一昨日、そこの庭に陛下が現れたのは、お前と示しあわせての茶番ですか?」
「ち……違います。祈護衛の示した暦ならばともかく、市井の占師の言葉などに、陛下が従われるはずがございません」
 ふっと姜夫人が笑った。
「暦を決めるのは(れき)(ほう)(きょく)です。覚えておくといい」
「え――」
「祈護衛というのがなにをしているか知りませんが、どうせ小さな組織でしょう」
 周りの屈強な侍女たちが、小さく笑う。
 宮廷に疎い、物知らずだと笑っているのだ。
 あの恐ろしい組織が、宮廷に後ろ盾のある夫人には、小さく見えるらしい。
(てっきり、祈護衛は強い権力を持っているものとばかり思っていた)
 賊が口封じに殺されたとわかった時、明啓は、祈護衛を小さな機関だ、と言っていた。彼らの書庫とて、決して立派なものではなかった。
「それは……存じませんでした」
 不審な占師が物知らずだとわかって、多少は警戒を解いたらしい。姜夫人の目から、刃のごとき鋭さが消えた。
「倍、出しましょう。姜家に便宜を計れば、徐家の倍の報酬を約束します。そなたは物知らずゆえ知らぬでしょうが、姜家は北方の海を統べる誇り高き一族。その強き血は宋家を支えるに相応しい」
 北方の海を統べる――という言葉が、翠玉を驚かせた。
(姜家? 北海の……?)
 懐かしい響きだ。継母の声が、記憶に蘇る。
「もしや、北の海賊の――」
 翠玉の言葉に、侍女たちが「無礼な!」と色めきたった。
 それを姜夫人は鷹揚な仕草で止めた。
「南の者にしては珍しい。姜家を知っているとは、よい心がけですね。しかし、海賊だったのは遥か昔。今はそのような猛々しいことはしておりませんよ」
 ほほほ、と可憐な夫人は、愛らしく笑う。
 今も十二分に猛々しい、と思ったが、もちろん口になどしなかった。
「伝説だとばかり思っておりました。私の継母が北の港町の出身で、よく言っていたものです。北では姜家が民を守るので、餓えて死ぬ者は少ない、と。琴都の周辺は、北の港町より気候は穏やかだけれど、人が冷たい、と嘆いてもおりました」
 翠玉の言に、夫人ばかりか、侍女たちまで表情が明るくなる。
 うんうん、とうなずき、姜夫人は「解いてやって」と縄を解くよう侍女に命じた。
継母(はは)上に、助けられた)
 縄が解かれるのを待つ間、翠玉は心の中で継母に手をあわせる。
「姜家は、康国建国にあたり、一族を挙げて高祖に助力をしたがゆえに、今も北で力を保っています。ですが、そろそろ中央にも足がかりがほしい。宋家にも、姜家の強き血が必要。――わかりますね?」
 話が、振り出しに戻っている。
 姜家に便宜を図れ。そう言っているのだ。
「そのお気持ち、宋家にも必ずや届きましょう。つきましては、少しでもお力になれるよう、護符を差し上げとうございます」
「……護符に、なんの意味があるのです?」
「この殿に流れる気が護符に影響を与え、その変化を読み解きますと、もっとも有効なまじないを行えます」
 姜夫人は、愛らしい顔を不機嫌に(ゆが)めた。
「それで、子が授かるのですか?」
「望む未来を得るために、まじないを行います。ちょうど、船の舳先に魔除けを彫るのと同じでございます」
 これも継母に聞いた話だ。航海に危険はつきもの。北方では、荒ぶる嵐から船を守るために、舳先には恐ろしい魔物の姿を彫るそうだ。
「……いいでしょう。糸を指に結ぶのですね?」
 情報が筒抜けだっただけあって、話の通りが早い。
「左様でございます」
 絹糸を取り出し、鋏でぷつりと切る。
 姜夫人は、細くたおやかな手を差し出した。
 翠玉は「失礼します」と断ってから、手早く絹糸を姜夫人の小指に結んだ。
「まじないで事の万全を期すのも、殿の主の務めというもの」
 皇帝からの寵愛は、夫人だけでなく、仕える者にとっても誉だろう。
 一族の未来を背負う者として、姜夫人の態度は実に堂々として見えた。
 まずは、ひと撫で。
 糸は迷わず、濃い藍色を示した。
 示されたのは、生まれる前から続く宿命とでも呼ぶべきものだろう。
 姜家の家運を託された姫君の覚悟が、伝わってきた。
 次に、もう一度撫でる。
 ぱっと菫色が現れたのは、偶然だろうか。菫色。薄藍(うすあい)淡藤(あわふじ)
 淡い紫は、自尊の心と誇りを示す。
 荒々しい姜夫人の中に秘めた頼りなさがうかがわれた。故郷は遠く、後宮ではこれまで彼女が受けてきたほどの敬意を得られぬ場所なのかもしれない。
 そして――最後に、ひと撫で。
 糸は、静かに緑へと変じた。初々しい若緑だ。
「良縁でございます!」
 つい、声が大きくなった。
「良縁ですって? 後宮で? そんなこと、あるわけがないでしょう」
 ぷい、と姜夫人は顔をそむけた。
 入宮は政治。縁に良いも悪いもないだろう、と姜夫人は言っているのだ。
「後宮だろうと下町だろうと、人と人がそこにいれば、縁が生まれます。なによりの良縁は、信頼を築くこと。ご夫君との信頼は、人生の荒波を凪がせるでしょう」
 姜夫人が、じっと翠玉を見ている。
 その大きな黒目が、儚く潤んだものだから、翠玉は慌てた。
「え――」
 慌てたのは、翠玉だけではない。屈強な侍女たちも、姜夫人自身さえ自分の涙に戸惑っている様子だ。
 一番大柄な侍女が、前に出て問うた。
「それで、陛下にお会いできるというまじないは? 早くなさい」
「あ……は、はい。こちらの房の四方と、百華苑――この菫露殿の北側にございますお庭に、護符を貼らせていただきます。護符の変化で気の流れを読み解き――」
 侍女が「説明はいい。早く」と急かしたので、翠玉はパン、パン、と手を叩いて李花に合図を出した。
 ひとりの侍女が「あぁ、忘れていた」と言って外に出ていく。
 部屋に入ってきたのは、縄で縛られた李花であった。その目は虚ろだ。
(なんてこと!)
 てっきり、外で待機する李花は無事だとばかり思い込んでいた。
「で、では、護符を貼らせていただきます」
 縄を解かれた李花は、疾風のごとき速度で、護符を部屋に貼りだした。
 最後に、ふたりそろって膝をつき、挨拶をしたところで――
「大儀でした。まじないを、楽しみにしています。――褒美を」
 顔を袍の袖で隠したまま、姜夫人がか細い声で言った。
 侍女が、翡翠の首飾りを持ってくる。これもまた、立派な品である。
「このような立派なお品、私にはもったいのうございます」
「私の言葉に、三度目はありません」
「――ありがたくいただきます」
 翠玉の懐に入る品ではないが、その気持ちが嬉しい。占いが人の心に届いた時の喜びは、格別だ。
 翡翠の首飾りを受け取り、重ねて礼を伝えたのち、ふたりは房を出た。
 北の房を出れば、すぐ百華苑が見える。
 スタスタとまっすぐ進み、庭に入った途端、いっきに緊張が解けた。へなへなとその場にへたり込む。

「殺されるかと思った……なんなんだ! あの姫君は!」
「ごめんなさい。まさか貴女まで縛られているとは思いませんでした」
「いや。嵐が過ぎるのを待っていたのだ。余計なことをして、貴女の足を引っ張るわけにはいかない。私は、どうにも融通がきかないからな」
 気を取り直し、翠玉は先に立ち上がる。手を差し出せば、李花は素直に手を握り、立ち上がった。
「なんとか、継母のおかげで乗り切れました。北方の出身だったのです」
「あぁ。なにが幸いするかわからんな。北方の話など、私はさっぱりわからない」
 さて、と李花は、護符と糊の壺の入った籠を抱え直した。
「なにか、お手伝いしましょうか?」
「構わないでくれ。ずっとひとりで仕事をしてきた。手の借り方がわからぬのだ」
「……わかりました。なにかあったら、言ってください」
 手の借り方がわからないのは、翠玉も同じだ。これまでずっと、なにからなにまで、自分ひとりの力でやってきたせいだろう。
 そこで翠玉は、手近な岩に腰を下ろし、李花を待つことにした。
「しかし……恐ろしいところだな、後宮とは」
 李花が、一枚目の護符を貼り終えてから呟いた。
 姜夫人が規格外なだけではないか、と思うが、翠玉も腰を抜かしたばかりである。同意せずにはいられない。
「城の外とは別世界ですね。……あぁ、いえ、私も貴族の暮らしなど知りませんが」
「入宮すれば、高祖に助力した姜家とも並び立てる。だが……」
 高祖を助けた姜家。高祖に逆らった三家。その末裔が、二百年の時を経て、同じ皇帝の後宮に入る――となれば、因縁の解消を強く世間に印象づけるだろう。名誉を回復するのに、これほどわかりやすいものはない。
「そう話は簡単ではありませんよね。自分の心には逆らえません」
「まったくだ。だが、母や弟妹のためならば、私ひとりの心など、殺しても構わない、とも思う」
 李花が竹籠を持って、次の護符を貼る場所に移動する。貼るのは庭の四方だ。
 その後ろについて、薄暗い柳の下を歩きながら、ため息をつく。
「……わかる気がします」
 子欽は、郷試を受ければ道も開けるだろう。もう飢えずに済む。
 あとの問題は我が身ひとつ。これまでどおり、占師として生きていくつもりだ。今回の件で名を挙げれば、客筋もよくなるに違いない。
 だが、もし父や継母が存命であったならば、話は違ったように思う。
 父を鉱山に行かせずに済む。継母も、腹の子も、死なずに済む。家族の命を守るためならば、心を殺すのも容易い。
「しかし……陛下は聡明な方だと聞く。明啓様を見る限り、お優しいに違いない。そうそう悲惨な人生にもならんだろう」
 また護符を貼りはじめた李花に、翠玉は曖昧な相づちを打った。ここでなにを言っても、気休めにしかならない。
 李花も返事を期待していなかったようだ。黙々と作業を続けている。
 手持ち無沙汰になった翠玉は、柳の下に流れる、細い川をぼんやりと眺めていた。
 川にかかる小さな石橋は、飾り気もなく簡素だ。
 百華苑、と名のつく庭だが、華やかな印象はまったくない。
「……名と、あっていませんね。庭の雰囲気が」
 ぽつり、と翠玉は呟いた。
「たしかに。百華苑というより――そうだな、幽仙苑(ゆうせんえん)、といったところか。柳といい、自然のままの敷石といい、あの辺りの岩など、世俗の臭気を忘れさせる」
 李花は、護符を貼りながら即興で庭に名をつけた。
「あぁ、そちらの方がしっくりきます。お上手ですね」
「父が詩作をする人だったからな。……そういえば、双蝶苑にも花がなかった」
 菫露殿の姜夫人を訪ねる前に、ふたりは紅雲殿と双蝶苑の護符を調べている。
 あの時は護符ばかりを気にして、庭の雰囲気など見ていなかった。それでも、多くの花どころか、松の多い庭であったのは記憶に残っている。
「そうですね。双蝶苑も、まったく蝶が飛びそうではありませんでした。もっと重厚というか……」
「さしずめ、千歳苑(せんさいえん)だな」
「ぴったりです!」
 翠玉は小さく拍手をした。李花は得意気に笑う。
「殿の名前にあわせただけなのだろうな。ここも、翡翠殿を翠娘、菫露殿を菫娘に見立てて、百華苑と名づけたに違いない」
「李花さんもご存じでしたか!」
 翠玉は、明るい声で喜んだ。美しい姉妹の神話は、父が教えてくれた。先祖は同じ南方の出身だ。劉家にも伝わっていたらしい。
「あぁ、知っている。いつも喧嘩ばかりで、よく飽きぬものだと思っていた。――庭を造った者と、名づけた者が別だと考えるのが自然だな」
 三枚目の護符を、李花は灯篭に貼りはじめた。糊を丁寧に塗り、ぴたりとシワひとつなく貼りつける。
「……そうですね。私がこの庭を造った者ならば、そんな名をつけられた途端に卒倒しそうですから」
 最後の一枚を貼るべく移動しながら、改めて庭を眺める。
 翠娘と菫娘は、花の女神の娘だ。百華苑は文字通り、選び抜かれた美しい花々の集う女神の居城。この庭は、そんな神話に相応しいとはまったく思えない。
「康国の高祖は、北の遊牧民族の娘を母に持つ人だ。彼を支えたのは、宇国に不満を持つ北方の豪族ではなかったか? 今も要職を占めるのは、北の人間のはずだ」
「それを言えば、宇国の(かん)氏も、宋氏よりはやや南ですが、拠点は北でした」
 康国以前に、中原の北部を治めていた宇国は、北部出身の関氏が建てた。
 宇国にせよ、康国にせよ、皇帝はどちらも北部の出身である。
 三家が、当時まだ一介の豪族に過ぎなかった関氏に迎えられた逸話は、今も世に残っている。『我が財の半分を、三家に捧げる』。そう関氏は言ったのだ。
 この庭の名が、宇国時代についたとすれば、不思議には思わない。それだけ三家を重く用いた証しだとわかるからだ。
 だが、宇国はすでに滅び、天錦城は宋氏のものになった。
 建物の名はすべて変えられた――というのは有名な話である。
 宋家だけでなく、重臣も北の豪族ばかり。そんな環境で、南方の神話の名を誰がつけるというのだろうか。
「この天錦城に、南方の神話に由来した名は不自然だ」
 李花は、また護符を貼りはじめた。
(ちぐはぐだ)
 華やかな庭の名と、幽玄な趣。
 北方の支配者と、南方の神話に由来した建物の名前。
 得体の知れない違和感が、ひどく翠玉を落ち着かなくさせた。
 北で、南方の人を見かけるのは稀だ。康国を転々としながら暮らしてきたが、自分と体格の似通った人は、ほとんど見かけない。
 円らな瞳に、丸みのある頬。背は高くなく、手足の指なども短い。翠玉や李花は、南方出身の者の特徴を色濃く残している。
 背が高く、総じて涼やかな顔立ちの北の人間とは、容姿の系統も違っていた。
 しかし、容姿の隔たり以上に大きいのが、文化の違いだ。
 康国の、とりわけ琴都の人々は、南のことをよく知らない。
 南ばかりではない。北にも、東にも、西にも、興味や関心を持たない傾向がある。同じ康国内にもかかわらず、北の海を支配する姜家から来た夫人は、天錦城にいる人間が、北の海賊を知っていたことに感激していたくらいだ。
 古くから肥沃な台地に恵まれ、他の地域との交流の多くないことがその理由ではないか、と父が言っていたのを覚えている。
 琴都から北の海まで、五百里。
 南方と呼ばれる地域までは、二千里以上。
 後宮に、南方の神話由来の名を冠した殿や庭があるのは、やはり不自然だ。
「名をつけるのも、まじないの一種ですものね。……清巴さんに聞いてみましょう。誰がこの後宮の建物の名をつけたのか」
「そうだな。些事かもしれんが、確認をした方が――あ……」
 護符を貼り終えた李花が、こちらを振り返った状態で固まっている。
「どうしました? あ……」
 翠玉も、そちらを見て――固まった。
 ――人がいる。

 柳の間に、女が立っていた。
 複雑に結い上げた髪や、首を傾けるとしゃらりと揺れる、繊細な髪飾り。高貴さが一目でわかる。なにより、薄暗がりでも映える、その白い袍。白鴻殿の主以外にはいないだろう。
(周夫人だ)
 ふたりは、とっさに膝をついて頭を下げた。周夫人の殿に護符を貼るのは、明日の予定だ。ここで悪印象を与えるわけにはいかない。
「私の父は、()(ぼく)()です」
 突然の言葉に、李花がこちらを見た。意味がわからず、戸惑っているのだろう。
 察するに――周夫人は、不満を述べている。
 徐夫人や、姜夫人よりも、実家の当主の地位が高い。本来ならば、自分の殿をまっさきに訪ねるのが筋であろう――と。
「お目にかかれて光栄でございます」
 李花も「光栄でございます」と重ねた。
「面を上げなさい。……そなたは、占いをするとか」
 ゆっくりと周夫人は柳の間を歩きはじめた。
 顔を上げて辺りを見れば、侍女の姿もない。ひとりで庭まで来たらしい。
 すらりと長い手足の、上品な目鼻立ちの姫君だ。すっきりと切れ長の目や、理知的な高い鼻などは、北の人らしい特徴である。
「はい。市井の占師でございます。おうかがいが遅くなり、申し訳ございません。占いによりますと、東より訪ねるが吉と出ましたゆえ、順にうかがっておりました」
「東から……そう。占いの結果なのね」
「しかしながら、明日のお訪ねも、遠慮すべきかと迷っておりました。いかに斉照殿からのご依頼とはいえ、尊い周家の姫君のお目汚しになっては申し訳ない、と。それがこのようなところで拝謁いただき、感無量でございます」
 やや機嫌が上向いたらしい。周夫人は扇子を出し、ゆるゆるとあおぎはじめた。
「構わないわ。ただの戯れだもの。それで? 糸を指に結ぶのね?」
 周夫人の耳にまで、占いの手法は届いているらしい。
(まったくもって、筒抜けだ)
 後宮とは、本当に恐ろしい場所だ。
「左様でございます。しかしながら、この占いは日に一度しか行えませぬ。明日のお慰みになりましたら幸いです。」
「……いいでしょう。陛下の魂胆はわかっておりますから」
 周夫人の扇子の動きが、パタパタと小刻みになる。
「と、申しますと……」
「加冠の前に、もうひとり夫人をお迎えになるのでしょう? 誰であろうと敵ではないが、我らの機嫌をとろうという陛下の姿勢は評価します」
 もうひとりの夫人とは――初耳である。
(急にややこしくなってきた)
 三人の夫人だけで手一杯なのに、さらにひとり増えるらしい。
(婚儀の前……となると、加冠前? あと十日余りしかないのに?)
 翠玉は驚き、かつ呆れた。
 仮にも翠玉は呪詛解除の協力者だ。清巴なり女官なりが、そうと教えてくれてもよさそうなものである。
 それとも、斉照殿の面々より、周夫人の耳が早いのだろうか。
「では、明日、おうかがいさせていただきます」
「翡翠の指環――いえ、それも芸がないわね。もう少し、気のきいたものを用意しておきましょう」
 なにからなにまで、すっかり筒抜けである。
 くるり、と周夫人は踵を返した。翻る白い袍は、薄暗さの中でも鮮やかだ。
 さらさらと衣ずれの音を立て、周夫人が去っていく。
 ふたりは、音が消えたのを確認してから、ゆっくりと立ち上がった。
「助かった。……貴女は、きっと舌から先に生まれたのだろう」
 やはり、後宮は怖い。ふたりは目を見あわせ、言葉にせずに感想を共有した。
 李花が竹籠を抱えるのを待ち、庭を出る。
「そんなことはありませんよ。綱渡りでした」
「融通のきかぬ私が、貴女と組めたのは幸いだ」
 月明かりと、まばらな灯篭の灯りの下で、ふたりは微笑みあった。
「こちらこそ。李花さんと組めて幸いです。――そういえば、もうひとつの家の末裔は見つからなかったのでしょうか」
 人の耳を警戒して、翠玉は三家、とも、(とう)家、とも言わなかった。
 李花は、一度「もうひとつ?」と聞いてから、今度はすぐに理解したようだ。
「清巴さんが調べたが、もうひとつの家は絶えたか、少なくとも康国内にはいないようだと言っていた。廟も消えていたそうだ」
 江家も、廟を継げる男子は未婚の従兄ひとりしかいない。李花にも弟がふたりいるだけ。今の貧しい暮らしでは、いつ絶えてもおかしくない状況だ。
(二百年は長い)
 むしろ罪と則を課されながら、二百年続いた江家と劉家が幸運なのかもしれない。
 ふと思った。陶家が続いていて、異能を留めた娘がいたならば――と。
(三人がそろって、宋家の皇帝を救うべく力をあわせられたかもしれない)
 裁定者も、守護者も、その称号に相応しい異能を留めている。
 執行者の末裔は、どんな異能を持っていたのだろう。
 ふと空を見上げれば、月心殿の屋根に、明るい月がかかっていた。
 ――火だ。
 遠く、声が聞こえる。
 宦官が数人、慌てて走っていく。
 ふたりはそろって、足をぴたりと止めた。

「まさか、火事か?」
「……行ってみましょう」
 姜夫人の侍女たちほど屈強ではないが、下町暮らしで力仕事には慣れている。水を運ぶくらいの手助けはできるだろう。
 ふたりは踵を返し、来た道を引き返した。
 人が、次々と集まってくる。
 すでに一宵の刻を過ぎ、辺りは暗い。火の輝きは、目を鋭く射た。
(紅雲殿と……翡翠殿の間……あれは、庭?)
 火が見えたのは、ちょうど双蝶苑と、先ほど立ち去ったばかりの百華苑の間だ。
 石畳の道の真ん中で、火が焚かれている。
 後宮の規則に詳しくはないが、さすがに、こんな場所で火を焚くとは常識の範囲を逸脱している。周辺の殿は、すべて木造だ。
 火を囲む数人が、紙らしきものを、一枚、一枚、と放り込んでは燃やしている。
 衛兵が「なにをしている!」「火を消せ!」と言っているが、火の前にいる人は動く気配がない。
「あれは……なんだ?」
「わかりません。でも――まるで……」
 頭に浮かんだ言葉を、口に出せなかった。
(まるで、呪詛だ)
 火を囲む、暗い色の袍の人々。異様な光景だ。
 不気味さを感じているのは、翠玉たちだけではない。
 遠巻きにしていた宦官や女官らも、恐れをなして止められずにいるようだ。
「燃やせ! 燃やせ! 忌まわしい呪符をすべて焼くのだ!」
 火の前にいた人が、大きな声で叫んだ。
 凛とした、女の声だ。
「三家の呪符が、後宮を侵さんとしている。燃やせ! 燃やせ!」
 暗さと炎の輝きのせいで、彼らの着ている袍の色はわからない。
 だが――おそらく、深緑のはずだ。他に考えられない。
 祈護衛の何某だ、と人が囁く声も聞こえてくる。
 三家。祈護衛。呪符。
 そこまでそろえば察しがつく。
(呪符……燃やされているのは、李花さんが貼った護符だ!)
 火に、一枚、一枚と放り込まれているのは、あの護符に違いない。
 翠玉と李花が、百華苑を離れてから、まだ間もないはずだ。
(まさか……見張られていたの?)
 李花が貼った護符を、祈護衛は呪符と呼んだ。三家の仕業、と断定までして。
 護符を貼ったのは、たしかに劉家の李花だ。
 貼らせるよう誘導したのは、江家の翠玉である。
 あくまでも洪進を助けるための作戦ながら、後宮に三家の末裔が呪符を貼った――と彼らが言うのは、ほぼ事実なのだ。呪符ではなく護符だ、と声を上げても、聞く耳は持ってもらえないだろう。
「に、逃げましょう。李花さん」
「あぁ、この場は撤退だ!」
 幸いにして、風もなく、人手も十分だ。火はすぐに消し止められるだろう。
(逃げなければ――殺される)
 走り出した李花の後ろに、すぐ続くつもりだった。だが、足が竦んで、動きはひどく緩慢になった。
 今思えば、姜夫人の言葉は恫喝(どうかつ)であった。姜家の地元の港町ならばいざ知らず、本気で内城の中で人を殺すつもりはなかっただろう。
 だが――祈護衛は違う。本気で、翠玉たちを殺そうとしている。
 翠玉の動きの遅さに、李花はしびれを切らしたらしい。ぐい、と翠玉の腕をつかんで「急げ!」と引っ張った。
(死にたくない!)
 まだ、こんなところでは死ねない。
 このまま死ねば、雪辱は果たせぬままだ。
 父の顔、祖父の顔――子欽の顔。伯父や従兄の顔まで頭をよぎった。
(死んでたまるか!)
 必死に足を動かし、前へ、北へ、斉照殿へと進む。
「あッ!」
 月心殿の辺りで、足がもつれた。
 李花の手が、その勢いで離れ――視界が大きく揺らぐ。
 どさり、と音を立て、勢いよく倒れ込んだ。
 鋭い痛みが、足首に走る。
「翠玉! 大丈夫か!?」
 大丈夫、と答えたかったが、首を横に振らざるを得なかった。
 倒れた拍子に挫いたらしい。痛みは強く、すぐには歩けそうにない。
「……すみません。足を挫きました。先に行ってください」
「わかった。私では、貴女を抱えられない。斉照殿で助けを呼んでくる」
「ごめんなさい、足を引っ張ってしまって」
「バカを言うな。我らは一連托生。この世で、唯一の仲間ではないか」
 李花は力強く翠玉の肩を叩き、ぱっと北に向かって走り出した。
 その背を追う視界が、涙でぼやける。
 こぼれた涙は、ぱたりと白い石畳の上で弾けた。
 仲間など、持ったことがない。――ずっと、ひとりだった。
 父を亡くし、継母を失ってからは、子欽の件で伯父とも距離ができていた。
 背負う荷の重さを、感じなかった日はない。
「う……」
 ぽたぽたと涙がこぼれ、嗚咽がもれた。
 李花の気持ちをありがたく思う。だからこそ、己の不甲斐なさが悔しい。
(なにも得られなかった……なにも)
 焼かれてしまっては、護符の変化も読み取れない。その上、三家の呪符と断じられてしまった。夫人たちの殿への出入りも難しいだろう。
(李花に申し訳ない……明啓様にも、洪進様にも――)
 一度堰を切った感情は、止めるのが難しい。
 また、はらはらと涙がこぼれる。顔を隠す黒布は、涙を吸って濡れていた。
 遠くで「捜せ! ふたりいるはずだ!」「黒装束の娘を捜せ!」と声が聞こえる。
 あれは、翠玉と李花を指しているに違いない。
 祈護衛は、自分たちを捕らえる気だ。
(殺される……!)
 逃げなければ。手で這って、身を隠そうと思った。その時――
「翠玉!」
 李花の声が聞こえた。
 涙を拭おうと思った。仲間と呼んでくれる李花に、泣き顔は見せたくない。
 そして、顔を上げ――
 翠玉は、白昼に龍を見たかのように口をぽかんと開けていた。
 そこに――明啓がいる。
「あ……」
 幻か、と思った。
 いっそ幻であってくれた方がありがたい。
(どうして明啓様が……?)
 ここは後宮だ。すぐそこには斉照殿がある。
 だが――彼は皇帝の兄だ。皇族だ。
 天錦城に来て、貴人の暮らしぶりには驚いてばかりである。広い城に、たくさんの殿。整った庭。とんでもない値がつきそうな調度品。美術品。長い行列で食事が運ばれ、衣類はとてつもなく豪華だ。まさに、雲の上の人だというのに。
 衛兵ならば、いくらでもいたはずだ。なにも、自ら助けに駆けつける必要はない。
「無事か? 翠玉!」
 問われても、答える口がない。
 命に別状はないが、足を挫いてはいる。はい、とも、いいえ、とも返せなかった。
(なんとお答えすればいいの?)
 戸惑っているうちに、ぐい、と明啓に抱え上げられていた。

「え――へ、陛下!?」
 明啓様、と翠玉は発声しなかった。
 これほど動揺していながら、実に冷静な判断だ、と自画自賛する。
 だが、それ以外は混乱しっぱなしだ。今、翠玉は皇帝の兄に、抱えられている。
「怪我は、足だけか?」
「は、はい」
「急ぐ。つかまれ」
 もう、なにがなにやらわけがわからない。
 つかまるのが不敬やら、つかまらぬのが不敬やら。だが、きっと逆らわないのが一番無難だろう。
「し、し……失礼します!」
 翠玉は、ぎゅっと明啓の首に手を回し、しがみついた。
 途端に歩みの速度が上がり、頭はいよいよ真っ白になる。
 緑の長棒を持った衛兵が、こちらに気づいてぎょっとしていた。当然だろう。翠玉とてその場所に立っていれば、ひどく驚いたに決まっている。
「薬師を呼んでくれ。至急だ」
「あ、いえ――大丈夫です。ただ足を挫いただけで……」
「なにを言う。――いいから、呼んでくれ」
 衛兵は、扉を開けたのち、急ぎ足で出ていった。
 そのまま、明啓は央堂の奥に向かっていく。
 翠玉が運ばれたのは、皇帝の寝室だ。
 混乱している間に、翠玉の身体は牀の上にそっと下ろされていた。
「お、恐れ多い!」
「足の怪我を侮ってはならん」
「しかし――」
「貴女は、私を主と呼んだ。仕える者を守るのが主の務めだろう」
 なんと真摯な言葉か。
 驚きのあまり、明啓の瞳をまっすぐに見つめてしまった。
 まだ目は、涙で濡れたままだというのに。
「陛下……」
 目があった途端、明啓の涼やかな目元には、明らかな狼狽が現れた。
「な、泣いているのか? 足が痛むのだな?」
(あぁ、もう! なんと言ったらいいの!)
 占い、呪詛、神話。知識を人に教えるのは得意だ。そうして子欽も育ててきた。
 だが、自分の気持ちを伝えるのは不得手である。
 足の痛みに泣いたのではない。失敗続きの情けなさで涙が出た。そこに、李花や明啓の優しさへの感激が重なって、いっそう泣けてきたのだ。
 言葉に迷っているうちに、薬師が駆けつけた。
「手当は丁重に頼む。大切な人だ」
 明啓がそんなことを言うので、翠玉は消えてなくなりたいような気持になった。
 薬師は、宮仕えらしい冷静さで「かしこまりました」と言ったあと、翠玉の足首に軟膏を塗り、ぐるぐると包帯で巻いていく。
 報告が届き、明啓は央堂に移動した。扉は閉められているが、話し声ははっきりと聞こえる。
「消火は完了いたしました。延焼はなく、怪我人も出ておりません。祈護衛の衛官は全員拘束しておりますが、いかがいたしましょう?」
「あちらにも言い分はあるのだろう。話を聞いた上で、六月九日まで謹慎処分とする。宿舎から一歩たりとも出ぬよう伝えよ」
 衛兵は、短く返事をして、央堂から出ていく。
(六月九日といえば、加冠の日の翌日だ)
 明啓は、祈護衛を呪詛対策から外したのだ。
 手当を終えた薬師が下がり、明啓が寝室に戻ってきた。他に人はいない。翠玉と李花の三人だけになる。
「申し訳ありませんでした」
 翠玉は、忸怩たる思いで明啓に頭を下げる。
「謝罪は要らない」
「いえ。作戦は失敗です。護符は焼かれ、呪詛の手がかりを失いました」
 作戦の発案も、実行も、翠玉が主導していた。
 人の命がかかった作戦に失敗したのだから、謝罪は当然だ。だからといってなにが変わるわけでもないが。
「先ほどの件、詳しく教えてくれ。祈護衛は、護符を呪符と呼び、三家の仕業と断定した。――それだけか?」
「黒装束のふたりの娘を捜せ、という声が聞こえました。我らの存在を把握した上で捜していたようです」
「貴女がたの存在は、祈護衛の目から隠していたはずだ。なぜ、彼らはそこまで知っていたのか……」
 翠玉と李花は、互いの顔を見て、一緒に首を横に振った。
「「わかりかねます」」
 ここは後宮だ。秘密はあってないようなものである。
「……斉照殿から漏れたのだろうな」
 明啓の推測に、簡単な同意はできなかった。
 桜色の袍の女官と、深緑色の袍の宦官。そして緑の柄の長棒を持った衛兵。彼らから漏れていたとすれば、腹心の裏切りだ。明啓にとっても痛手だろう。
「私は、蚕糸彩占を、徐夫人と姜夫人の前で用いております。三家をよく知る者が、推測した可能性も。護符とて、人の目に入る場所に貼ってありますし……」
「直接聞くとしよう」
「「え!?」」
 驚いて、李花と一緒に大きな声を出してしまった。
「内城で焚火まではじめたのだぞ? 相当な覚悟だ。問えばさぞ大きな声で吐き出してくれるだろう」
 ごく気軽に、明啓は言った。
「……会話が成立するとも思えません」
「貴女は作戦に失敗したと言うが、失敗は俺も同じだ。過ちは改めるまで。弟の身代わりを務める間は、何事も穏便にと思っていたが、それが失敗の原因だった」
 すぐに明啓は衛兵を呼び「(りょ)衛長を、ここに連れてきてくれ」と頼んだ。
 そして――
 祈護衛の衛長が央堂で明啓と対面したのは、四半刻ののちだった。

 翠玉と李花は、扉の前に椅子を置いて座り、息を殺して耳をそばだてている。
「足労だったな。呂衛長」
「は。内城で騒ぎを起こしましたこと、深くお詫び申し上げます」
 扉の向こうにいるのは、あの護符を焼いていた女のようだ。凛とした美声である。
「この際だ。腹を割って話したい。――こちらのやり方も急であったからな。反発は覚悟の上だった。しかし、後宮内での許可なき火焚きは、死罪が相当だぞ」
「非常時でございました。先帝陛下であれば、お認めくださったことと思います。恐れながら、明啓様のなさりようでは、洪進様をお守りできませぬ。三家の娘たちが夫人の殿に貼ったのは、呪符でございます。急ぎ取り除く必要がございました」
 悪びれる様子もなく、呂衛長は答える。
「彼女たちは、俺が秘かに招いた。衛長は、誰の口から彼女たちの存在を聞いた?」
「陛下が(たぶら)かされるのを看過しかねる者たちが、教えてくれました」
 ふぅ、と明啓はため息をついた。
「……なるほど。斉照殿に、複数人いたわけか」
 呂衛長は否定しなかった。翠玉も、そこで察せざるを得ない。やはり、斉照殿から情報が漏れていたようだ。
「洪進様の呪いを解くには、三家皆殺し以外に道はございません。三家の邪な誘いを退け、なにとぞ、正しきご判断を!」
 ごん、と音がした。呂衛長が平伏して頭を床につけたらしい。
 なにとぞ――と繰り返す必死さが、心底恐ろしい。
「物心ついた頃から、三家の呪いが三十三番目の子を殺す――と繰り返し、繰り返し聞かされてきた。俺も、弟も、父でさえ、呪いに人生を支配されてきた」
「三家の呪いは禍々しいのでございます。先帝陛下はご理解くださいました」
「結論から言おう。――三家に罪はない。洪進を襲っているのは、別種の呪いだ」
「我ら呂一族は、二百年にわたり宋家にお仕えして参りました。なにゆえ我らの言をお疑いになられるのか、わかりかねます。やはり、三家の小娘どもに――」
 翠玉と李花は、どちらからともなく、互いの手を握りあっていた。
「違う。誑かされたのではない。これは、俺自身の判断だ。――これを読んでくれ」
 なにかを、明啓が渡したようだ。
 カラリ、と音がしたので、竹簡だろう。
「これは、三家の呪詛に関する資料でございます。これが、なにか?」
 また、カラリ、と音がする。
(あの竹簡か)
 三家の呪いが、いかにはじまったかについて書かれた、あの竹簡だ。
「これを読めばわかるだろう。三家皆殺しは、高祖の遺志に反するばかりか、国をも危うくする。角が生えているだの、洞窟で呪詛を行うだの、人の肉を食べるだのと、法螺話はもうたくさんだ。どちらが疫鬼か、考えてみろ。邸に押し入り、罪と則を背負って謙虚に生きる者を殺害しようとした。これが疫鬼の仕業でなくて、なんだというのだ」
「お、お待ちください。わ、我らは決してそのような……野蛮な真似はいたしません。いえ、もちろん、ご許可をいただければ、正義の鉄槌を振るうに迷いはございませんが、お許しもないのにそのような真似は、決していたしません」
 声が、動揺している。
 扉の向こうの呂衛長の顔は見えないが、額に冷や汗が浮く様が想像できた。
「関与していない……と言い張るのか?」
「もちろんでございます。我らの総数は二十一名のみ。人殺しを雇うような力はございません。不可能でございます」
 呂衛長は、震える声で「不可能です」と繰り返した。
「三家のふたりも、そう言った。――呪詛は不可能だと。そして、潔白を証明するために、宋家の城まで赴き、力と知恵を尽くしている。彼女たちはひとつひとつ理を示し、それらを疑う余地はなかった」
「三家の者でございますよ? 忌むべき異能の――異形の者です! 人を簡単に誑かし、意のままに操っているのでしょう」
 スラスラとなめらかに悪口雑言が流れていく。その言葉ひとつひとつが鋭利で、皮膚を破るほどに痛い。
 翠玉は、ぐっと唇を引き結んで耐えた。
「では、証を見せてくれ。洪進を襲った呪詛が、たしかに三家の呪いだと、祈護衛の力で示してもらいたい。先帝は厚く祈護衛を信頼し、多くを任せたが、私は違うぞ。証を示さぬ限り、宋家が祈護衛を信頼することは永遠にない」
 呼吸を躊躇うほどに、寝室は静かになる。
 長い沈黙ののち、
「三家は……悪です。悪そのもの。滅ぼすしかありません」
 また呂衛長は、三家への憎悪を口にした。
「謹慎は、六月九日の夜明けまでとする。それまでに三家襲撃の件を自ら明らかにせよ。これは二百年の忠誠に対しての温情だ。できぬとあれば、大逆罪に問う」
 呂衛長は、返事らしき音を発していたが、聞き取れなかった。
 衛兵が、呂衛長を連れていったようだ。足音が遠ざかっていく。

後宮を舞うは七彩の糸

を読み込んでいます