「徐夫人は、陛下と面識があると――離宮で、十二歳の頃にお会いした、とおおせでした。お心当たりはございますか?」
明啓は先に立ち上がり、翠玉の手を取ってグッと引いた。
身長に差があるせいで、向かいあうと顔の位置はずいぶん遠くなる。
「……徐夫人は、我らより一年年少。我らが十三歳の頃だな。離宮の我らの住まう一画には誰も近づけぬように……いや、彼女は徐家の養女だ。貴族以外の身分であれば、接触の機会はある。――俺にはまったく心当たりはないが」
即答した明啓と翠玉は、そろって牀の上の洪進を見た。
当然ながら、眠り続ける洪進から聞き出す術などありはしない。
「女官や、離宮で働く者……なんでも構いません」
「親しく言葉を交わした若い娘など、そもそもこの世におらぬ。――貴女くらいだ」
翠玉は目をぱちくりさせてから「会ったのは三日前です」と言った。
話が飛びすぎだ。だが、それだけ彼らの日常は厳しく管理されてきたのだろう。
「先帝の方針は、それほど徹底していたのですね」
「徹底できぬくらいならば、しない方がマシな計画だからな」
「……左様でございますね」
とんでもない計画だ。だからこそ慎重に、徹底して事を進める必要があった。
きっと翠玉には想像もつかないような日常が、離宮では行われていたのだろう。
「別々の記憶は厄介なのだ。のちのち困らぬように、あらゆる記憶が共有できるよう配慮されていた。とはいえ……ほんの一時期、互いに単独で行動した時期がある。喧嘩の勢いでな。私は山に入って老師のもとへ何度か通った。ひと夏だけ――あれは、たしかに十三歳の頃だな。だが……老師は六十過ぎの男で、妻も子も、孫もいなかった。洪進は、離宮内で剣の稽古をしていたはずなのだが……」
明啓は、腕を組んで記憶をたどっている。
「徐夫人に、直接お会いしたことはございますか?」
「肖像画で見ただけだ。あとは昨夜、双蝶苑から、影を見ている」
「美しい人です。こう……華やかで……女神のようと言いますか……背が高く、すらりとしていて、本当にお美しい方なのです」
「紅雲殿の主だ。紅の袍を着ているのだろう?」
学習の甲斐あって、明啓は夫人の情報にやや詳しくなったようだ。
だが、まったく有益な情報ではない。
「十二歳の頃は、まだ紅色の袍は着ていません。あの紅色の袍は、入宮する際に、殿の名にあわせて誂えられたのでしょう」
あれだけ美しい人だ。どんな身分あっても、記憶には残るだろう。
すると――面識があるのは、洪進の方か。
「やはりあの夏――十三歳の頃のことだろうな。他の時期では起こり得ない」
「昨夜は、それを知らずに庭を歩いていただきましたが、迂闊に近づくと看破されかねません。お気をつけください。望んで入宮されたそうですから、親しくお言葉を交わす間柄であったやもしれません」
恋、という言葉を、翠玉は使わなかった。
その言葉だけは、秘すべきだと思ったのだ。
「人の言うのに従って、すべて共有していれば起きなかったものを。……悔やまれるな。こんな所で、足を引っ張られるとは」
忌々し気に、明啓は眉を寄せる。
字さえ共有した双子が、長ずるに従って自分だけの世界を得ようとした。ごく自然な衝動ではないだろうか。喧嘩からはじまったにせよ、そのひと夏の思い出は、ここにあるどんな書画にも勝る宝であったのだろう。
「心の求めるものには逆らえません。誰がなんと言おうと、譲れぬものくらいどなたにもありましょう」
生きるのに、容易な道はある。
父が死んだ時、翠玉は伯父に引き取られるはずだった。
だが、伯父は江家の血を継がぬ子は引き取らない、と子欽を拒絶した。
譲れなかった。年若い娘ひとり。誰の助けも借りずに生きる道は、平坦ではない。だが、子欽に教育を受けさせ、身を立たせる。そう決意して、翠玉は琴都の下馬路に至ったのだ。
あの時の決意を、後悔はしていない。
「……そうかもしれん」
洪進の顔を見たあと、明啓は翠玉を見た。
「徐夫人は婚儀を待ち遠しく思っておいでです。ご実家も、早く世継ぎを、と強く望んでおられるご様子。――当然といえば当然ですが」
ふむ、と明啓は小さくうなった。
「しかし……誰が、なんのために呪詛を施したのか、皆目見当がつかん。弟以外に、後継者になり得る者がいるならばまだしも、それらしい存在もいない。――俺くらいのものだ」
どきり、と心臓が跳ねた。
まるで自分が首謀者だ、と言っているように聞こえ、翠玉は慌てる。
「明啓様、それは――」
「いや、俺自身は皇帝の座など望んではいない。どちらが即位するか、話しあいで決めている。……夫人らとて、皇帝が死ねば子もないまま寺送りだ。彼女たちの実家とて、皇帝の死によって得るものはない。目的がわからん」
翠玉は、同意を示すためにうなずいた。
清巴に聞いたが、候補になり得る先帝の弟の子息たちは年少で、有力な後継者とはとても言えないそうだ。
「明日は菫露殿の姜夫人をお尋ねしようと思っております」
李花も、そろそろ作業を終えて戻っているだろうか。
膝を曲げ、牀の上の洪進と、明啓に会釈をして扉に向かう。
扉の手を伸ばしたところで「翠玉」と呼び止められた。
くるりと振り返れば、
「――三家を憎悪する者……と聞いて、心当たりはあるか?」
「……祈護衛くらいでしょうか。他は思い当たりません」
ひたすら、祭祀だけを行ってきた、命を繋ぐので精一杯の一族だ。人の恨みを買う機会自体がない。
そうか、とだけ言って、明啓は視線を洪進の方に向けた。
一礼して、翠玉は桜簾堂を出る。
(明啓様は、祈護衛と距離を置いているのかもしれない)
昨夜は祈護衛の目を盗んで移動した中庭だが、今は様子が違う。急かされることもなく、警戒も要らない。どこかに隠れてやり過ごす必要もないのだ。
(ありがたい。そうそう皆殺し、皆殺しと迫られたら、生きた心地がしないもの)
安堵したせいか、急に腹の虫が鳴る。
翠玉は悠々と、冷めた食事の待つ部屋まで戻ったのだった。