部屋に戻ると、卓の上に酒器が用意されていた。
「お疲れ様でした。せっかくですから、いただきましょうか」
 翠玉の誘いに、李花は笑顔で乗ってきた。
 さっそく、互いに酒を注ぎあう。見たこともない透明な酒は、杯に注ぐと豊かな香りが立った。
「明啓様は、どう出ると思う?」
 くい、と杯を空けた李花が問うてくる。
「さぁ。お身内のことですし、弟の妻になる予定の女性を疑うわけにも……というか、姫君の実家も政治の実権を握る貴族でしょうし。あとは呪い云々よりも、政治の問題です。我らの出る幕はありませんよ」
 翠玉も、くい、と杯を空けた。美味しい。互いに、また瓶子から酒を注ぎあう。
「それで政治的に判断した結果、三家の呪いだ、と明啓様が言い出したらどうなる?」
「どうしようもないですね。……残念ですが」
 二杯ほど空けたのを機に、ふたりはお互いの話を簡単にした。
 翠玉が十八歳で、李花がひとつ年上であること。そして、互いに江家、劉家において唯一異能を継ぐ者であること。しかしながら、独り身であること。
「そうか、貴女もか。父は生まれてすぐ死に別れ、祖父が二年前に死んでからは、異能を継ぐのは私だけになった。弟たちも、妹も、異能を持たない。……早く嫁げと急かされてばかりだ」
「私も同じです。三年前、父を亡くしてからは、ただひとりになりました。……私の伯父も、早く嫁げ、早く子を産めとうるさいです」
 翠玉には義弟がいて、郷試に向けて勉学に励んでいること。琴都内にある廟は伯父と従兄が守っていること。
 李花には弟がふたりと妹がひとりいて、成功の報酬に妃嬪の座を求めたこと。母と叔父が、江家と比較的近い場所にある廟を守っていることなどを伝えあった。
 話しているうちに、ため息が出た。
 今話題に出た家族や親族も、ここからの展開次第では皆殺しにされてしまう。
「お(かみ)の判断次第か。……儚いな、我々の運命も」
「宮廷の人たちは、我々を人と思っていないですからね。鼠を殺すのに、人は躊躇わないでしょう」
「命があり、暮らしがある。……ただの人なのだがな、こちらも」
 はぁ、とそろってため息をつく。
「私の住んでいた長屋は、賊に襲われかけました。劉家も、襲われたのですか?」
「未遂で済んだ。踏み込まれる前に、清巴さんが手配した兵士が捕らえてくれたのだ」
 このまま天錦城を出れば、またいつ襲われるかわからない。
 もう一度、ふたりはそろってため息をついた。
 手の届く場所にある棚には、祈護衛の書庫から借りた竹簡が置いてある。
 翠玉はそのうちのひとつを手に取り、カラカラと開いた。
【宇国の僭帝が死したのちも、抵抗を続けていた三家には、族誅が課された。前王朝で隆盛を極めた三家に連なる者は、二百を超える数であった。まず、女子供の処刑を、男子らの目前で行った。のちに男子らは市中を晒し者にされた上、次々と斬首されていった】
 凄惨な処刑の様が、竹簡には記されている。
(なんと(むご)い……)
 その様が、脳裏に浮かぶ。か細い嘆き。生々しい悲鳴。血なまぐさい風。血に染まる大地。
 カラカラと、また竹簡を広げる。
【すべてを見届けた当主らが、最後に残った。『三十三番目の直系の子孫を、加冠を前に呪い殺そう』と執行者たる陶家の当主が呪った。『簒奪者の血はその男子をもって絶え、呪いは天を覆うであろう』と守護者たる劉家の当主が呪った。『呪いを免れる道はただひとつ。三家に我らが無念を慰めさせよ』と裁定者たる江家は言った。 このため高祖は、三家の血筋をわずかに残し、祭祀を続けさせた】
 端まで竹簡を読み終えた翠玉は、竹簡をくるくると巻いた。
(三家を皆殺しにするのは、理屈にあっていない)
 呪いを免れるには、祭祀を三家の子孫に行わせるのが正しいのだ。
(ずっと、二百年も守ってきたものを、なぜ急に(くつがえ)したのか……)
 手酌で酒を注ぎ、翠玉は眉を険しく寄せた。
「……誰が、三家を皆殺しにすべき、などと言い出したのでしょう?」
「わからんが……祈護衛ではないのか? 他にいないだろう。なんにせよ、我々がここで退けば、皆殺し派が勢いを増すだろうな。――無念だ」
 李花は、立て続けに手酌で二杯あおった。
(まったく、やり切れない)
 翠玉も、くい、と杯を空けた。
 罪と則の撤廃を願い、勇んで天錦城の真ん中まで来たというのに、人任せの幕引きとは後味が悪い。
「まだ、やれることはあります。だって、ここには異能の持ち主がふたりもいるのですよ?」
「まったくだ。占術と護符があれば、もっとできることはある」
 今度は、また互いに酌をしあった。
「このままでは、家族を守れません」
「あぁ、こんなところで引き下がれるか」
 杯を空け、ふたりはうなずきあう。
「夫人がたを刺激せずに、蟲を捜す方法があれば……」
「彼女たちの殿に、護符さえ貼れれば……」
 空いた杯を置き、ふたりは腕を組んで考え込む。
(話を聞いてくれるのは……きっと、明啓様しかいない)
 足掻くのをやめた者から沈んでいくのが世の定めだ。
 やれることは、やり尽くしてから沈みたい。
 要は、真犯人を見つければいいのだ。それで万事解決する。
 問題は手段だ。あくまでも、姫君たちと、その実家の顔を潰さずに――
 すくっと翠玉は立ち上がった。
「どうした?」
「名案が浮かびました」
「……名案? おい、酔ってるのか?」
「いいえ。いたって正気です。私、明啓様にお会いしてきます」
「落ち着け。やはり酔っているな。相手は皇帝だぞ?」
 だが、翠玉は部屋を飛び出していた。背で「明日でいい」と李花が言っていたが、足は止まらなかった。
 なにも、酔った挙句の暴挙ではない。
 明日まで待てば、明啓は身代わりの政務を果たすべく、外城に行ってしまう。次に面会できるのは明日の三夕の刻。待機時間が長すぎる。
 細い廊下に出、角を曲がって青い壺のある広い廊下に出る。
 小走りに進む途中で、翠玉は足を止めた。
 向こうから、衣ずれの音が聞こえたからだ。
 端に寄らねば――と頭の隅で考えているうちに、人の姿が見える。明啓だ。
「翠玉――どうした?」
 まさか、会いに行こうとした相手が、向こうから来るとは思っていなかった。
 ひどく動揺して、翠玉は「お話が――」と上ずった声を出してしまう。
「あの――」
「ちょうどいい。話があった」
 都合のいい偶然である。明啓の方も翠玉に話があったようだ。
「なんでございましょう」
 動揺を収め、翠玉は明啓に近づいた。
 雰囲気から察して、大きな声で話す内容でもなさそうだ。
「貴女の邸を襲った賊がいたな?」
 翠玉が住んでいたのは、長屋の一部屋だ。邸、というほどの規模ではない。
 あの長屋全部を翠玉の邸、と呼んでいるのかもしれないが、確認の手間は省いた。
「はい。姿は見ていませんが」
「あの場で捕らえて牢に入れていたが――殺された」
「え……!?」
 昨日の夜、長屋の裏から侵入しようとした賊のことだ。
 明啓が、連れてきた黒装束の兵士たちに、捕らえて情報を聞き出すよう命じていたのを覚えている。
「劉家を襲った者たちも、諸共だ。何者かに殺された」
「どうして……どうして、そのようなことに……」
「口封じだろう」
「い、一体誰が――まさか、祈護衛が……?」
 いや、と明啓は首を横に振る。
「祈護衛は、内城のみを祈祷で護る小さな機関だ。それほど大胆な真似ができるとも思えん。裏で糸を引いている者がいる。弟の妻になる女だからといって、躊躇している暇はなさそうだ。手を貸してくれ。なんとしても、呪いを暴きたい」
 翠玉の説得を待つまでもなく、切迫した状況が明啓に決断させたらしい。
 なんと都合のいい展開だろう。説得の手間が省けた。
「実は――私に、策がございます」
 ひそり、と翠玉は囁いた。未来を告げる占師の口調で。
「聞かせてもらおう」
 くい、と明啓は形のよい眉を上げた。
「つきましては――明啓様にも、ひと肌脱いでいただきたく、お願い申し上げます」
 怪訝そうな顔をする明啓に、にこり、と翠玉は笑んだのだった。