明啓と清巴は、互いの顔をちらりと見てから、視線を卓の上に戻した。
「そなたらの話を聞く限りで――弟の身を蝕んでいるのは呪いで、かつ、その呪いは強力で、人が為したものとは思えぬ。そういうことだな?」
 また、ふたりはそろって「「はい」」と返事をした。
「そのとおりです。私は、かつてこれほど強大な力に触れたことはございません」
 まだ、翠玉の身体には、恐怖と緊張が残っている。
 明啓は「ふむ」とうなって、腕を組んだ。その眉間には、深いシワが寄っている。
「俺は、人が為すとも思えぬ力を、異能と呼ぶものと理解している」
「……はい」
「異能を持つ者は稀だ。俺は、三家の者しか知らぬ」
 卓の上から、翠玉の瞳に、明啓の視線は移る。
 その視線の鋭さに、翠玉は慌てた。
「……お、お待ちください」
 話が振り出しに戻っている。――これは、三家の呪いだ、と。
「それほどの強い呪詛を行い得る者など、他に誰がいる?」
 翠玉は、李花と顔を見あわせてから、首を横に振った。
「「存じません」」
 また、声がそろう。他に答えようがないのだ。いかんともしがたい。
「翠玉。貴女の言葉で言えば、百人を抱える剛力の者が、存在していたということだ。生身の人間とは思えん。そなたらが明かしたのは、祈護衛の出した結論を補強しているだけだ」
 明啓の言葉を、ふたりはそろって、
「「違います」」
 と否定した。
「あの呪詛は、新しいのです。燃え上がった白い光は、呪詛のかけられた時期の新しさを示しています。せいぜい、十日、半月……その程度です。呪いは五十年も経てば、墨より黒くなるもの。二百年経てば、消し炭のようになるでしょう。しかし、あの炎は白かった。それに、洪進様がお倒れになった時期、私どもは天錦城におりません」
 翠玉がそう断言すれば、次に李花も、
「新旧で言えば、明らかに新しいものです。古い呪いは断面が黒くなり、裂けたように紙が毛羽立ちます」
 と言い切った。
「それに、四神賽によれば蟲の位置はこの内城の中にございます。いえ、もう少し対象も絞れました」
 翠玉は、先ほど桜簾堂で出た目のとおりに、四神賽を卓の上に置いた。
 黒が【一】、青が【三】、白も【三】。そして赤が【五】。
「これを、どのように読む」
 明啓は、賽を見つめたまま問う。こちらの話を聞く気があるらしい。
「賽は、近い距離しか示しません。六の目が出れば地の果てまでを含みますが、出たのは幸い、五の目まで。具体的な距離を示しています。――後宮の、地図などはございますか?」
「清巴」
 は、と短く返事をして、清巴が出ていく。
「一が示すのは、今いる屋根の下。この斉照殿の内部にあれば、四つの賽の目はすべて一、と出ます」
「あぁ、そうだったな。昨夜、たしかにこの目で見た」
 昨夜、翠玉は、翠玉自身の居場所を四神賽で占っている。
 ぴたりと目のそろった賽を、明啓に見せておいてよかった。話の通りが早い。
「二は屋外に出て八十歩以内。三は百六十歩。四は三百二十歩。五は六百四十歩。六は、六百四十歩より遠く地の果てまで。つまり――」
 翠玉は立ち上がって北を手でぴしりと示し「北限は斉照殿の屋内」と言った。
 次に東を示して「東に百六十歩」。
 さらに西を示し「西に百六十歩」。
 南を示して「南に六百四十歩」と説明をして、腰を下ろした。
「北はともかく、それ以外は見当がつかんな」
「東西には九殿を含み、南限は九殿のうちの北側の六つです」
 具体的な数を出すと、明啓は驚きを顔に出した。
「わかるのか?」
「今日、後宮の倉庫まで歩きました」
「歩数を……数えていたのか?」
「もちろん数えました。四神賽を持ってきておりますから」
 翠玉は、簡単に答えた。
 ここで清巴が地図を持って戻り、内城の地図が、壁にかけられた。
 最も北にあるのが、皇帝の住まいである斉照殿。
 すぐ南隣に、対になっているのが、未来の皇后が住む月心殿。
 その下が、妃嬪らの住まいである九殿。南北に三列。東西に三列。
 南北に隣り合う殿と殿の間には、それぞれ小ぶりな庭が、合計六つ。
「つまり呪詛の範囲に入るのは、斉照殿と、月心殿。――北側の六殿と、三苑か」
 南列の西にある万緑殿は、範囲から外れる。万緑殿は、太妃たちの住まいだ。
 翠玉は、九殿のうち、北列の東を指さした。
「今、対象の六殿にお住まいなのは――紅雲殿の、徐夫人」
 次に、九殿の中央を。
「菫露殿の、姜夫人」
 最後に、北列の西を示した。
「白鴻殿の、周夫人。以上の三夫人です」
 江家の人間として、口伝だけで膨大な占術を修めてきた。記憶力には自信がある。
 翠玉が「あっていますか?」と問うべく、清巴を見たが、あまりに清巴の顔が青ざめていたので聞きそびれてしまった。
「も、もしや、姫君が呪詛を行ったとお疑いになっておられるのですか……?」
 この清巴の態度には、さすがにいら立ちを感じる。
(三家への疑いは簡単に受け入れるのに、入宮した姫君を疑うのは躊躇うのね)
 当たり前といえば当たり前だが、もやもやした感情はいかんともしがたい。
「当人か、実家か、おつきの者に紛れたか……外部の者によって蟲が埋められただけなのか。それは調べねばわかりません」
 極力、感情を押し殺して翠玉は言った。
「しかし……」
「夫人がたの入宮の時期は、おわかりになりますか?」
「……入宮……少々お待ちを」
 清巴が額の汗を押さえつつ記憶をたどろうとするのを、明啓が止めた。
「よい。俺が覚えている。――徐氏が五月四日。姜氏が五月五日。一日空いて周氏が五月七日だ。そのすぐ翌日に弟は倒れた」
 右鶴の間は、しん、と静かになった。
 沈黙の中、清巴が「なんと恐ろしい」と呟く声が、やけに大きく響く。
 彼は洪進を蝕む呪いを恐れているのではない。入宮した姫君を疑うこと自体を恐れているのだ。
「なにかの間違いでは? せめて、もう一度占うことはできませぬのか?」
 青い顔で清巴が言うのに、翠玉は「無理です」と答えた。
「四神賽は、呪詛を受けたご本人の手に触れねば使えませぬ。――それに、気を通すのは一日に一度のみ。仮にもう一度行うにせよ、明日を待たねば」
 翠玉が答えるのに、李花が「護符も書く枚数は限られています」と言葉を添えた。
 江家と同じで、劉家にも異能を用いる上限が決められているらしい。
 翠玉はさして驚かなかった。人が一日に気を通し得る量には限界がある。それは暑ければ人が汗をかくのと同じ。自然で、当然の理屈だったからだ。
 再び沈黙に包まれた右鶴の間に、コンコン、と扉を叩く音が響く。
 誰ぞが、明啓に報告を持ってきたらしい。
 それを機に、ふたりは部屋に戻るように指示された。