貴族令嬢がジャンクフード食って「美味いですわ!」するだけの話


「まあ、こんなところは初めてですわ。庶民の下等な食事なんて私の口に合うのかしら」

 そう言った彼女は、日傘を畳む。そして入店と同時にメニューを見ずにこう言い放った。

「ホッピーの黒、氷なしで」

 酔客がうごめくもつやき屋の店内で、透き通った声が響く。
 流れるような動きで、彼女はカウンターに座る。
 時刻は午前11時。上野ではその時間から酒をだす店は営業している。

「あいよ」

 店員が差し出すは凍ったジョッキ。中には無色の安焼酎。横に共に出されたのは黒いホッピーの瓶だ。
 声の持ち主は──二十歳ほどの若い女性はジョッキにホッピーを注ぐ。量は少なめ。濃いめに割った。

 無言でジョッキを持ち上げ、中身を三分の二飲み干す。

「ぷっはぁ」

 抑圧から解放されたような声。ジョッキを置いてメニューに目を通す。
 女は流れるような腰まで伸びる金髪だった。瞳は碧眼。纏う服装は白を基調とした裾の大きく広がったドレス。身長は高く、腰は折れそうなほどに細い。
 そして、明らかに標準を超えた美貌。
 ただの金持ちの類ではない。なにか高貴な血の持ち主と思われる雰囲気があった。

 事実、彼女は貴族だった。
 マリー・フランソワ・シャンターヌ。それがこの貴族令嬢の名前であった。

 やや物憂げな表情で、持っているものを眺める。その様は文学に触れる子女といった風情。
 持っているのはもつやき屋のメニュー表なのだが。

「店員さん、かしらネギマ、それとシロ。各1で。全部塩。それとガツポン酢にお新香」

 一分の沈黙の後、流れるように注文。優雅に、しかし無駄がない。

「ガツは新鮮……食肉市場が休みとその次の日を避けたかいがありましたわね」

 ガツ、豚の胃など内臓肉の命は鮮度だ。熟成が必要な正肉と比べれば良いものが出されるタイミングはおのずと限られてくる。市場の休みやその次の日を避ければそれだけ新鮮な内臓が出される可能性は高くなる。マリーの計算は当たった。
 口の中に広がるポン酢、ネギの香り、そしてガツの食感と旨味。さらにそれらを濃いめのホッピーでのど奥に流し込む。

「ぶっはぁ!」

 快感であった。マリーは貴族らしい端正な澄まし顔をしながら、その内面で存分に快感をあじわっていた。

「へいっおまっちー」

 店員が皿を差し出す。並ぶもつ焼きに、マリーはまずシロに手を伸ばした。

「もつやき屋の格はシロで決まりますのよ」

 シロは豚の大腸。もつやきの代名詞的部位だ。臭みが強くどう掃除しどう出すかに腕が問われる。これをごまかしの効かない塩で食えばもつやき屋の力がわかるというもの。

「ん、ガッツリとした脂の旨味に臭みはほとんどない……お見事な腕とお見受けしますわ。すいませんホッピーの中ください」

 己の勘が当たったことに満足し即座に二杯目にはいりながら、それでもマリーの目は冷静だった。
 両手は淀みなくホッピーの二杯目に取りかかりながら、思考は三杯目をどうするかにとりかかっている。
 戦いは常に二歩三歩先を読んだものが勝つ。父の貴族としての教えはマリーの中に常に生きているのだ。

「かしらの濃い肉の旨味、ネギマのコンビネーション。素晴らしいですわ。しかし……日本酒との切り替えのタイミングが難しい」

 マリーは決断した。

「すいませんおっぱいとてっぽう。各1で。どちらもタレで。あと二級酒の冷。……ふふ、おっぱいなんてはしたないことを往来で言えるなんてもつやき屋だけですわ」

 古い立ち飲み屋では日本酒を一級酒二級酒といい出している。銘柄も言わずこのややもつっけんどんで雑な出し方だが、それも風情かもしれない。
 最近の立ち飲み屋では有名銘柄の日本酒も出すようになったが、この立ち飲み屋はまだ一級二級で出している。

「そういう意地っ張りな所、悪くなくてよ」

 二杯目のホッピーを飲み干す。安く二杯を堪能できる所がホッピーの美徳だ。やや気分がよくなってきたあたりで、周囲を見渡す。このウイルス騒ぎで客が減ったが、まだ店内は騒がしさを保っている。平日の昼間なのだが。

「そう、みんな居場所がないのね……」

 いくら家にいろと言われても、寂しさを消すことはできない。喧騒の中でしか癒されない、癒し方を知らない生き物が酒場に集まるのだ。
 窓ガラスから見える空は、吹き抜けるような晴天だった。

「綺麗な青空……仕事、ないですわねぇ」

 日雇いの仕事が5日続けて来ない。貴族令嬢マリーは悩んでいた。
 悩みは呑んで忘れる。それが誇り高き貴族の生き方である。

 やがて差し出された皿と酒。七味を振る。

「酒飲みは串ものはみな塩で頼む人ばかりですわ……でも、たまにはわたくしも自由が欲しい」

 服にタレが垂れないように、なおかつ優雅に串を食しながら、キュッと冷や酒を煽る。

「時には甘ったるいタレの串ものを、冷やで流し込んでもいい。自由とはそういうものですわ」

 三杯目を終えて、締めをどうするかと思案する。

「焼きおにぎり……茶漬け……さて」

「ギャハハハ! だからぁこないだスロで三万勝ってぇ」

 すぐ横で茶髪の兄ちゃんが仲間とわめいていた。盛り上がっているようだ。焼きそばをくいながら笑い声をあげる。

「一人酒でああいう手合いをみるとやかましさにイヤになりますわね……それに焼きそば……ああいう大学生の呑み会ででるような締め方は私の好みでは……」

「ギャハハハ! そんでそいつバイトバックレてさぁ」

 兄ちゃんが焼きそばをすすり込む。ズルズルと。

「好みでは……」

「ギャハハハ!」

「すいません店員さん、焼きそばハーフでお願いします」

 今日のマリーは自由であった。

「うっめ! ソース味うっめですわ!」


 △ △ △

「魚粉多めの焼きそば……おいしゅうございましたわ」

 勘定を済ませ、街をうろつく。本来ならば執事のセバスチャンに連絡して馬車に迎えに来させてもいいが、今は自分の脚で軽く歩きたい気分だった。

「少し小腹が空いてますわね……」

 しかし閉まっている店は多い。

「町中華……ダメですわ。寿司屋も……閉まっている。あとは……」

 マリーは足を止めた、

「あ、そば屋開いてる」

 △ △ △

「すいません、ざる一枚よろしい?」

 着席。同時に追加注文。

「あと冷や酒と海苔」

 トゥルルルルル

 冷や酒に口をつけた瞬間、マリーのスマホが鳴った。

「はい、はい、なんすか? え、現場入った? いつ? 明後日の朝八時? 荒川区? 行く行く行きます行きます。はい、はい、お願いしますわ」

「ふぅ……よっしゃぁ仕事入りましたわ! 店員さん、いたわさと熱燗くださいませ!」


 

 

 

 
「まあ、これが下々の庶民がくるお店なのですね」

 赤い看板をくぐり、マリーは中華食堂へ足を踏み入れた。

「別に何度も来てますけれど」

 熱烈中華食堂、日高屋である。埼玉都内に多数の店舗を構える有名中華食堂チェーンだ。

「ハイボール濃いめで」

 ドレスを翻してカウンターに着席する。同時に注文。マリーの顔には少しやつれがあった。
 約一週間ぶりの現場仕事と残業は思いのほか疲れを感じさせた。時刻は午後七時を回っている。

「でも明日の現場の約束も取り付けたし、なんとかやっていけそうですわね。……店員さん、餃子とおつまみ唐揚げをお願いしますわ」

「アイヨーワカッタヨー」

 愛嬌だけはある外国人店員が注文を受ける。通しのザーサイを齧りながらハイボールを一口。

「くあぁー」

 のど奥から絞り出す声。11時間労働し疲弊した体に染みる。

「あらマリー様じゃなくて?」

 向いのカウンターから立ち上がる人影。栗毛のドレス姿の女かいた。片手にはビールジョッキがある。

「ベスじゃないの。奇遇ですわこんなところで会うなんて」

「マリー様お久しぶりですわ。ご機嫌うるわしゅう」

「ごきげんようベス」

 スカートの端を持ち上げ互いに頭を下げる。挨拶は貴族の嗜みである。いかなるときも行わなければいけないと習った。
 彼女はエリザベート、愛称はベス。かつて通っていた貴族子女工業高校の後輩だ。

「マリー様も仕事後ですの?」

「あなたも現場終わりですの? 今は仕事があるだけでもありがたいことですからね」

「そうですわねマリー様。では私はこのあたりでお暇させていただきますわ」

 ベスを見送る。笑う彼女の前歯が一本無かったが、それはマリーは指摘しないことにした。見ない振りをすることも時には大切なことである。

「人生、色々あるものですから。頑張ってね、ベス」

 後輩の前途を祈りながら、晩酌を再開する。唐揚げを齧りハイボールで流す。餃子はコショウと酢で食べるのがマリーの流儀だ。

「キムチチャーハン、大盛りでお願いしますわ」

 明日も早い。しっかりと食べねば。稼げるときに稼いでおくのだ。
 運ばれてきたチャーハンをレンゲで掬い頬張る。爆発的に広がるニンニクの打撃力。キムチの辛み。瞬く間にハイボールが空に。

「店員さん、チューハイをおひとつお願いしますわ」

 チャーハンは肴になる。マリーはそのことに気づいていた。チャーハン、酒、チャーハン、酒。交互に訪れるマリアージュを存分に楽しみながら、最後にスープを飲み干しチューハイで口の中を洗い流してフィニッシュ。

「ふぅ、満足ですわ」

 勘定をすまし、店を出る。春も半ばを過ぎた外は暖かく、人がどれだけ騒ごうとも季節は必ず訪れていくことをマリーに思わせた。
 
「もうそろそろ、冷やし中華が始まるのかしら」

 答えるものはない。マリーの背を、日高屋の看板だけが見送っていた。

 
「まあ、こんな煤けたところで一般庶民の方々はお食事をするというのですか……この、焼き鳥屋というものは……?」



「チューハイ、鳥皮ポン酢、塩キャベツのスピードトリオを注文し、串ものを一考する……これが戦術というものですわ」

 ジョッキを傾けながら、茹でタイプの鳥皮ポン酢を摘まむ。オニオンスライスとポン酢、皮の旨味を堪能しながらチューハイで喉を潤していく。
 座る席は運良く角席をキープ出来た。しかも特等席で店主の大将が鳥を焼いている所を見られる。
 必然的に、マリーのテンションも上がる。

「ここの鳥皮ポン酢は茹でタイプ、ぷるりとした食感は揚げたタイプの鳥皮ポン酢とはまた違う味わい。こちらのほうもわたくし、好みですわ」

 合間にかじる塩キャベツ。小気味よく響くポリポリとした音。

「大将、豚バラにレバー。あといかだを。全部し、いえ全部タレで。あとそれからチューハイもう一つお願いしますわ」

 酒飲みならば串ものは基本塩だ。だが今日のマリーはどこまでもタレで行きたい気分だった。この店は安めながらもタレを自作する本格派だ。

「豚バラ……脂とタレの当然のベストマッチ……」

 そしてすかさずのチューハイ。脂を流し込む快感。

「レバーは新鮮……さすがですわ大将」

 臭みもクセもない。純然たる内臓の旨味の後に、炭火の香ばしさが嬉しい不意打ちをかける。

「昔の立ち飲み屋では串もののタレは素材の悪さや臭みを抑えるためのごまかしとして酒飲みからは忌避されたもの……ですが今はもうそんな時代でもありませんわ」

 酒飲みは甘さを嫌う。甘ダレや味噌ダレの甘味は仇のように嫌われた時代もあった。だが、マリーは今日は、そして今日も自由にありたいのだ。

「たまにはこうしてタレに堕ちる日も良し……そして手羽を開いた串もの、通称いかだ……普段は手羽は塩が最善と思っていましたが、タレもよろしゅうございますわ」

 ハグハグと骨から肉を剥がす。脂、肉、タレの旨味がいっぱいに広がりそれをやはりクピクピとチューハイで流す。

「ふぅ……ゴールデンウイーク中の仕事、やはりありませんでしたわね」

 またも日雇いの仕事が途切れた。
 今日は何も考えたくはないから、こうして飲みに来ているのに。

「い、いけませんわ……今を享楽するのが貴族たるべき姿勢。大将、皮とつくね。あとボンジリ。それからもっきりをくださるかしら。〆張鶴で」

「あいよ」

 小気味よい大将の返事。目の前で升の中のコップに日本酒が注がれていく。溢れた酒を升が受け止める。

「まずはお口からお迎えして……」

 並々と注がれたコップを持ち上げることはできない。口を近づけて酒を減らす。

「ぷっはぁ……次にコップを持ち上げて、升の中身をコップに注ぐ」

 慎重に、こぼさずように、漏らさぬように、一滴残らずコップへ。
 マリーの顔は、職人のように酒杯を見つめていた。

「ふぅ……このもっきりの呑み方を知らなかったころは少々恥をかきましたが、今はもう完璧ですわ」

 貴族たるものあらゆる場のあらゆる礼儀作法に通じねばならない。作法を知らず恥をかくなどあってはならないのだ。

「ここのつくねは軟骨がなくその分ふわふわの食感に重きを置く……大将の流行りに迎合しないその感性に乾杯……」

「あ、焼き鳥きたぁ! 私串から外しますね!」

 向こうのテーブルの団体から、黄色の声。若いOLらしき女性が、運ばれてきた串の盛り合わせから串を外している。

「こーすればみんなで食べられますからぁ」

「……っふ」

 離れた所でその様子をみつめるマリーの目は冷たい。

「串ものは串に刺さっているのが完成形……あのように外すなど店への侮辱ですわ」

 ボンジリの脂を楽しみながら、不作法者を批判する。

「そうですわよねぇ、大将?」

「へぇ、私としちゃお客様においしく食べていただけるならどんな食べ方でも別によろしいですよ」

「そ、そうですわよねぇ、さすが大将さんですわ、お、オホホ! あ、締めに焼きおにぎり一つ……」


 △ △ △

「ふぅ、わたくしとしたことが焼き鳥の食べ方一つでなにをそんなに熱くなっていたのかしら」

 トボトボと、外を歩く。日はくれて月がでていた。

「こんなことではダメね、貴族たるものもっと冷静に……?」

 道端に、倒れる人影があった。
 豪奢な貴族服と、整えられたヒゲ。それでも全体はどこか煤けている。そして握りしめられたワンカップ酒。

「大公殿下! オーギュスト大公殿下様ではありませぬか!」

「う、ぬぅ、君は……伯爵家の……」

 大公と呼ばれた初老の男は、マリーの助けで立ち上がる。

「二年ぶりですわね大公殿下……また馬が負けましたの?」

「うぅむ、第五レースが来れば今頃君に寿司を奢れたのだがな……すまぬが三千円ほど……用立ててはくれぬか」

「それぐらいなら構いませぬが、あまり遊びすぎますと奥方様が怒りますわよ」

「あれとは半年前に別れた。三度目の馬の借金がバレて離婚を言い出されてな」

「……そうですか、それは悲しいことですわね」

「これも身からでたサビだ。仕方有るまい」

「大公殿下。家までお送りします」

「すまぬ、すまぬなマリー君」

 無言で、大公殿下に肩を貸す。二年前に見たオーギュストは、もっと大きいと記憶していたが、肩を貸すと体重の軽さに少し驚いた。

「大丈夫ですわ殿下。ほら月が綺麗」

 指差す先は満月。ウイルスで開く店がほとんどない暗い街を、月の光だけが照らす。オーギュストは、こけた頬で笑った。

「ああ、月が綺麗だ。月だけは、いつも綺麗だな」
「こんな油臭いところで……食事を……? 不衛生ではなくて!?」


「枝豆と瓶ビール。豚玉もち明太ミックスのハーフをお願いしますわ」

 抜け目なくお好み焼きが焼きあがる間を繋ぐ酒とつまみを頼み、マリーは鉄板の前に静かに佇む。
 鉄板に、火をつけた。

「……豊かであるということは、金銭があることではなく、土地や家があるということでもないのですわ。地位や名誉があることでもない」

 じりじりと、鉄板が温まる。テーブル横の油を塗りながら、マリーは豊かさについて思索を深めていく。

「それらはただ、与えられたものや得たものがあるということ。与えられたものも得たものも結局は奪われ失われる恐れがある」

 ビールと枝豆が運ばれてきた。コップにビールを静かに注ぐ。液体が7、泡が3の黄金の比率を整え、それを一気に呑んだ。

「奪われず失われず、そして万人に平等に有るものを最大限に楽しむことが豊かさですわ」

 枝豆を口に運ぶ。やはり冷凍ものだ。

「お待たせしましたー」

 ついに現れた豚玉もち明太ミックス、豚肉を横に取り出し、間髪入れずマリーはお好み焼きを混ぜる。混ぜる混ぜる。

「あまねく万人に有る平等な財産、それは時間!」

 焼けた鉄板に、勢いよく流し込んだ。その上に豚を綺麗に並べる。

「広げず、厚めに形成しあとは待つだけ」

 慎重かつ大胆にコテを操作。丸く形成されたお好み焼きの前で、再びマリーはビールを煽る。

「この待つという時間を、いかに楽しめるかが人生の豊かさですわ。アラン男爵……アランの叔父様も『風俗で一番楽しいのは待つ時間なのさ』といってましたし」

 じりじりとお好み焼きが焼けるのを待ちながら、マリーは追加注文をする。

「店員さん、牛スジ煮込み一つ」

 運ばれてきた小鉢の牛スジ。箸で持ち上げるととろりと崩れそうになる。青ネギと共に口に運ぶと、マリーの顔がほころんだ。

「美味しいですわ……ここはお好み焼きに入れる牛スジがあるから牛スジ煮も頼めるのですけど、つまみとして単品で味わうのも乙なものですわ」

 グビグビとビールを空けて、二本目を注文。コップに注ぐ。

「あらもうそろそろ良さそうな頃合いですわね?」

 ヘラで持ち上げお好み焼きの様子を探る。いけそうだ。

「関西ではお好み焼きの裏返しに失敗すると犯罪者並みに罵倒を受けるといいますわ。貴族としてそのような不作法は許されるはずがない……」

 真剣な面もち。一気にヘラを返す。
 お好み焼きはくるりと回り、その裏側を見せた。

「やりましたわ! 綺麗に」

 喜びのあまりヘラを持ったまま振った腕が、テーブル横にあったビール瓶に直撃した。

「あ」

 落ちたビール瓶が床にぶつかる。中身をぶちまけて瓶が割れた。

「あ、あわわビールがドレスについてうわちょっとやばいこれやば」

 シュワシュワと音を立てて床に広がる黄金の液体。油が染み込んでいるためか少しはじかれている。

「ちょっとこれどーしよあーあやば」

「あーお客さん危ないですよー離れててねぇ」

 初老の女性──この店のおかみがほうきとちりとりをもって横に来ていた。慣れた手つきで割れた瓶を片付けモップで後を拭いていく。

「下手にさわると手を切っちゃうからねぇ。お客さんに怪我させたらマズいからさぁ」

「す、すいませんでした……」

 ニコニコと笑うおかみ。嫌な顔一つしない。片手にはビール瓶。

「割れちゃったからねぇ。もう一本、いる?」

「え、いいんですか半分くらい呑んじゃったんですけど……」

「いいよいいよそのかわり元気だしてねぇ」

 おかみの笑顔は、太陽の輝きに匹敵するあらゆる闇を払う笑顔だった。

「うわありがとうございますほんとすいません……」

 丁寧に頭を下げながらビールの栓を抜く。新しいグラスに注ぎ直し、一口啜った。

「ふぅ……おかみさんが仏でほんと良かったですわ……」

 ふと見るとお好み焼きはもう焼けているようだ。仕切り直すため、マリーは気を引き締める。

「ダメですわねこの程度のアクシデントにうろたえるようでは……うろたえない、貴族はうろたえないのですわ」

 卓上のソースに手をのばす。

「『アクシデントを楽しむことは人生を楽しむということ』だと風俗でプレイ中に警察に踏み込まれたアラン叔父様は仰っていましたわ。楽しむの。今を存分に楽しむのよマリー!」

 全面に塗られるソース。重ねられるマヨネーズ。舞い散るカツオ節。
 ざっくりとコテで切る。箸で一口に千切り、食べる。

「豚の脂、明太の塩気、もちの弾力、そしてすべてを一体にまとめあげるソースの味……美味い……美味いですわ!」

 追ってビールでそれを洗い流す。苦味と共にのど奥をつっきる爽快感。
 生きているという喜びが、マリーを包む。

「うっま……熱……!」

 △ △ △

「ありがとうございましたぁ」

 会計を終えて、おかみに見送られ店を出る。
 マリーの足は、少し重かった。

「替えのビール代、会計にきっちりつけられてましたわね……」

 やはり美味い話は無いらしい。

「ですが、最近始めたウーバーイーツのバイトも稼げておりますし、このままいけばまた気軽に飲み歩けますわね」

 あきらめなければ、なにごともうまくいくはずだ、多分。

「『生きることはどんな時でも素晴らしい』」

 それは、マリーが信じている言葉。

「営業中に風俗に行っていたことが警察の踏み込みでバレて、土下座で首をギリギリ回避したアラン叔父様はそう笑って仰っていましたわ。私も、もっと強く素晴らしく生きないと」
 
「串カツ……? なにこの油まみれの店は……?」


「へいらっしゃい!」

 店員のかけ声がビニールシートがつるされた店内に響く。ドレス姿の人影が、丸椅子に腰掛けた。
 流れるような金髪。涼しげな青い眼の美女がすると店内を見渡し、即座に声を上げた。

「千円ぽっきりセット。飲み物はビールでお願いしますわ」

「へいぽっきりセットビール! はいこちらお疲れ様です!」

 手渡された蒸しタオル。優雅な動作で令嬢マリーはそれを広げ、迷うことなく顔を拭いた。

「ふぅうう……」

 ゴシゴシと顔、そして首筋をこする。自動的に声が出る。ねじり出すようなうなり声だ。
 蒸しタオルの熱気に、汗が吸い取られていく。肌にはすがすがしい空気の感触。

「最近暑くなってきたから蒸しタオルが嬉しくなってきましたわね。仕事も増えてきて忙しくなってきましたわ」

 ガッツリと貴族的に八時間労働をしたマリーには、蒸しタオルの心地よさに逆らえない。逆らえないものには逆らわないのが人生を楽しむコツだとマリーは知っていた。

「それにしても緊急事態宣言解除から頑張って営業してますわね……店の中に張られたこのビニールシートや、アルコール消毒が少々鬱陶しいですがそれも仕方ないことですわ。少しずつ、少しずつ日常が戻っていく……」

「はい生ビール中ジョッキ! それと千円セットの串揚げです!」

「あらありがとうございますわ」

 タイミングよく運ばれてきたビールと串揚げ六本。黄金の液体と黄金の物体がマリーを迎え撃つ。
 問答無用でマリーはビールをあおった。もはや言葉は不要である。それがそこにあれば、それが作法ならばマリーはそうするしかないのだ。作法を無視する貴族などいないからだ。
 グビグビと、ジョッキが八割空になる。ダンっと杯を置いて息を吐く。

「あ゛あ゛っ!! 染みますわね!!」

 間髪入れず一本目を目の前のソース箱にどぶ漬けする。油に濡れた『二度付け禁止』と書かれたテープがソース箱を彩る。
 黒に染まった串カツを、一口でかじった。

「これはチキン……それも胸肉ですわ。普通ならば堅くなりやすい部位も、揚げ方の巧みさで柔らかく食べさせる。やりますわね」

 旨味を楽しみ、追ってビール。洗い流される舌。

「すいません、ハイボール一つお願いしますわ」

 貴族は戦況を読むものだ。ビールが旨いのは最初の一杯のみ、二杯目はハイボールがベストアンサーである。
 更に二本目に手が伸びる。形からわかる、これは玉ねぎ。令嬢は塩を振って迎え撃った。

「玉ねぎの甘味は塩で引き出す……!」

 衣の歯ごたえと、加熱に加え塩で甘味が引き出された柔らかな玉ねぎの食感。店員がベストタイミングで差し出したハイボールをグビリと飲む。

「優勝…! 優勝ですわ!」

 次はエリンギの串カツ、その次はピーマンに豚肉。ソースにベタ漬けしたそれらをガブリガブリと食べ、グビリグビリとハイボールで迎え撃つ。

「そして串カツの合間合間にキャベツをな……キャベツを食べると胸焼けを防げるのだと池崎じゃないほうのサンシャインも仰っていましたわ。なんと含蓄あるお言葉ですの」

 パリパリとテーブル脇のキャベツをはみながら、マリーは最後の一本に手を添える。
 尾がある。まごうことなき海老だった。

「エビとはまさに油で揚げられるためにこの世に生まれてくる生き物ですわ……これは約束された結果ですのよ……!」

 やはりソースにどぶ漬けしたエビを豪快にかじる。エビの甘味とソースの調和を存分に楽しみ、ハイボールで流す。

「舌の上がベルサイユ宮殿……!」

 旨い。旨すぎる。もはや風が語りかけるといったレベルではない快楽。

「店員さん、紅しょうがとちくわチーズ、あとイカもお願いしますわ。あとハムカツとポテサラも。それからハイボールお代わり」

 空になった皿の寂しさに耐えられるほど今夜のマリーは強くない。即座に追加注文を行う。

「へいお待ち!」

「紅しょうがを揚げているのを見たときは最初関西人の正気を疑いましたが、今ではすっかりとりこですわ……」

 熱で酸味が飛んだ紅しょうがは、驚くほど癖がなくいくらでも食べられる。

「ちくわチーズのこの溶けたチーズが飛び出す快感……イカは塩でいただくわ……瑞々しいこの食感……! 酒が進んで当たり前……! そしてここはポテサラも自家製ですのよ」

 ソース箱からソースをキャベツですくい、ポテサラにかける。マリーはポテサラにはソース派だった。

「シンプルに芋、卵、ハムだけのねっとり型なのが私の好みにベストマッチですわ。無駄にころうとしてリンゴとかみかん入れるやつは死ぬべき……!」

 ハイボールが進む。自制が緩みそうになるのにマリーは気づいた。

「いけませんわ……貴族たるもの快楽を楽しんでも快楽に飲まれてはなりませんわ。明日も仕事なのに。それにこの店は私の憧れの君が来た場所、その写真が飾られている前で粗相など恥を知るべきですわ」

 マリーの視線が店の壁に向く。少し油が染みた写真、その中央の満面の笑みを浮かべる人物へ、マリーは焦がれた吐息を吐く。
 例え写真と言えど、この方の前ではマリーもただの少女に戻るしかない。

「ルイ様……」

 ハイボールをグビリと飲む。されど、憧れは消せない。余計燃え上がるだけだ。

「居酒屋界の貴公子、吉田類様……」

 うっとりと見上げる。この紳士の前では貴族令嬢も形無しだ。

「ああ……一度はお会いしてみたい……さて、そろそろ締めを頼みませんと。ルイ様がみておられますわ、不作法など出来ませぬ」

 ゆっくりとメニューを見回し、貴族の作法に恥じぬ選択をする。

「すいません、わさび茶漬けをおひとつお願いしますわ」

「あいよ!」

 運ばれてきた小椀に、マリーは割り箸を割って出迎えた。

「しっかりとわさびを崩し……すすり込む!!」

 ズゾゾゾゾゾ、とわさび茶漬けをすする。茶漬けは派手に音を立てれば立てるほど旨い。そういう食べ物なのだ。

「呑んだあとの茶漬け、旨いに決まってますわこれは!」

 ズゾゾゾゾゾ、とすする。豪快にすする。

「……ぶっはぁあ!!!」

 突如、マリーは吹き出した。

「ゲッホッ! わさび……! わさびの塊が…… ゲッホッゲッホッ! 鼻が、米が鼻に入って……!!」

 △ △ △

「ありやとやっしたー」

 店員に見送られ、マリーが店を後にする。彼女の鼻先は心なしか赤くなっていた。

「あー、鼻が痛い。不作法どころか醜態ぶっこいてしまいましたわ……こんなことでは本物のルイ様にお会いできるなど夢のまた夢……」

 トボトボと、夕暮れの街を歩く。会社帰りのサラリーマン。パート終わりの主婦。学生はさすがにまだいない。それでも人通りは幾分か戻ってきていた。
 もうすぐ、いつもの日常が戻ってくる。その予感があった。

「でももう少し時間がかかりそうですわね。現場仕事も戻ってきたとはいえまだ少ないですし……そのかわり始めたUber EATSのバイトは好調ですからそっちもがんばりませんと」
「定食屋兼居酒屋……? なんだかどっちつかずの安っぽい店ですわねぇ」



「チューハイ、それとマグロの山かけ。あと納豆オムレツお願いしますわ。それと……マヨネーズ」

 戸を開けて店の中に入るなり、令嬢は注文を唱えた。なにを頼むかはすでに道すがら決めている。
 客はまばらだ。定年したご隠居や貴族令嬢と同じ仕事上がりだろう青年が何人かいるくらい。
 時刻は午後二時半。現場仕事が早く終わったので一杯やって帰ろうと思ったが、この時間では当然普通の飲み屋はやっていない。
 そこで近場にあった定食屋兼居酒屋という昼から夜まで通しでやっているこの店に踏み入ったわけである。

「はいチューハイ、それと山かけね」

「いつも早いレスポンスですわね」

 チューハイを飲む。グビグビと半分を飲み干し、ジョッキを置いた。喉を潤す酒の味は、日が高ければ高いほど尊く感じるものだ。

「ふぅー、ここはチューハイが濃いめなのが優しさを感じてほっとしますわね。そして、こういう場末と思いたかをくくると……」

 醤油をかけたマグロの山かけをつまむ。山芋の白から覗くは値段のわりには赤々とした色。

「マグロの意外な質の良さに驚かされるものですわ……むっちりとした濃い味の赤み、なかなかやりますわね」

 噛んだときに筋が少なく柔らかい歯ごたえ。きちんとさばいている。

「はい納豆オムレツお待ち! それとマヨネーズね!」

「ありがとう、それとチューハイお代わり」

 運ばれてきた皿には納豆が表面に浮かぶやや焦げ目のついた黄色い物体がある。そして横には多めのキャベツの千切り。

「さあこれに」

 卓上の醤油を回しかけ、マヨネーズ、そして七味を軽くふる。

「これがわたくしのマイベストカスタム……!」

 箸先でオムレツを割ると、ほっくりと湯気を上げて断面が覗く。玉子の黄、納豆の茶色、そして大量の刻みネギの緑。

「納豆オムレツのネギが多めなのがこの店の良いところの一つですわ……!」

 一口頬張れば慣れ親しんだ納豆の香りとネギの清涼感が口いっぱいに広がり、それをマヨネーズがマイルドな後口に変えていく。

「このジャンキー感でチビチビとやるのがたまらないのですわ!」
 
 納豆オムレツの後味をチューハイでさっぱりと洗い流し、また納豆オムレツに挑む。口直しに脇の千切りキャベツを摘まむ。シャキシャキとした食感と水気が舌をリフレッシュさせる。

「付け合わせの千切りキャベツが多めなのもグッド……! 優しさ溢れすぎですわこの食堂……!」

 日の高さが酒の旨さを倍増させる。罪悪感こそが最大の酒肴である。

「さて……あっちのおじさまは競馬新聞、向こうのお兄さんはスマホでテレビですか……私もYouTubeで一人酒といきましょうか」

 スマホカバーを変形させてテーブルへ。なにか良い動画はないかと漁る。

「それにしてもなかなかコロナの影響は抜けませんわね……Uber EATSのバイトもそういつまでも多いわけではないしなにか他の仕事も考えないと……YouTuberってわたくしでもできるのかしら……? ん……?」

 見慣れた顔を見つけ、指が止まる。一瞬の沈黙、だがマリーは覚悟を込めて再生を押した。

『どうもーボ○ーオロ○ンの甥です。このたびは叔父がご迷惑をおかけしました』

 後輩令嬢、ベスの姿であった。正座をしている。申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にしていた。

「なにやってるのアイツは……!!」

 思わず箸を落としそうになる。そんなことは貴族としてやってはならないことだというのに。

「炎上系YouTuberになってる……!」

 時事ニュースに乗って明らかに事実と違うふざけた内容を番組にしている。ある種、YouTuberとして最終手段である。
 なんでもいい、とにかくなりふりかまわず再生数を増やそうとしているのだ。

「再生回数が最初は良かったのにだんだん墜ちてる……だからあの娘、こんなことを……」

 やはりどんな業界も甘くない。後輩は厳しいYouTuber業を生き抜こうと必死なのだ。

「……カツ皿! それとチューハイおかわり!」

「へいいますぐ!」

 取り乱しそうになる自らを抑え、追加注文。気を落ち着かせるためには新たな酒と肴が必要だ。

「へいお待ち!」

 差し出されたカツ皿。香ばしいカツが煮汁を吸い、卵の黄身が固まるか固まらないかの微妙なバランスで火が通っている。

「ここのカツ皿は肉薄目の衣多め……だがそれが良い、それが正解なのですわ。トンカツだからなんでも肉が厚ければいいという話ではありません、適材は適所に配備するということですのよ」

 カツを口に運ぶ。衣にたっぷりと染み込んだ出汁が肉の旨味と渾然一体に。薄いわりにはやや固めの肉を噛み締めて、チューハイでそれを追っかける。

「くぅ……やはりカツ皿は定食屋呑みの花ですわね。厚い衣が汁を吸って一体感を増している。近頃はカツカレーもやたら厚い肉のカツを使いたがるものですが、この厚めの衣にソースやルーが染み込んでいる旨さを捨てるようでは本末転倒……チューハイおかわり!」

 カツ皿、納豆オムレツ、山かけ。そしてチューハイ。マリーの箸が縦横無尽に動く。
 自由である。自らで決めて自らで楽しむ。圧倒的で、それでいて豊かな自由がマリーの前にあった。

「ぷはぁ! はぁ、さて、そろそろ締めを考えませんと」

 三杯目のチューハイを空にし、肴も無くなってきた。
 さて今日の自由を、いかにして締めくくるか。

「そうめん一つ下さるかしら?」

「あいよ」

 レスポンスよく運ばれてきたガラスの器、涼風溢れるそこには純白の快楽が横たわっていた。

「人は皆麺類の虜……呑んだあとの麺類の誘惑に耐えきれる日本人などそうはおりませぬわ……」

 めんつゆに生姜を溶いて青ネギを入れる。麺類に放置など厳禁、一気にすすり込む構えだ。

「さあ、いきますわよ……」

 ズ ズ ズ ズ ズ ッ ッ ! !

 勢い良くすすり込む音が、狭い店内に響いた。


 △ △ △

「ありがとうございましたぁー」

 店員のおばちゃんに見送られ、まだ日が高めの外に出る。ほろ酔いの肌を陽気が撫でた。

「ふぅ、思わず堪能してしまいましたわ。しかしYouTuberで食っていけるかとか夢みたいなことを考えてないで、地に足着けて地道に働くのがやはり一番ですわね。明日も仕事ですわ」

 アスファルトを踏みしめる貴族令嬢の足音は、高貴で、そして力強かった。
「富士そば……? このような浅ましいところに貴族の私を招くだなんて……!」



「角ハイっと」

 券売機の前で、マリーの白い指先が踊る。迷いなく押される角ハイボールのボタン。即座に券が印刷される。

「枝豆、エビ天、かき揚げ」

 さらに追加で押されるボタン。券売機の受け取り口に重ねられていく食券の数々。

「あとそれから板わさですわ」

 だめ押しにもう一枚。

「へいらっしゃーい」

 突き出した券の群。店員が小気味よく注文を受ける。

「天ぷらはそばつゆかけておいてくださいませ」

 マリーは静かに台抜きを命じた。

「へいまず角ハイと枝豆、あと板わさ! あとできたらお呼びしますねー」

 即座に出てくるつまみと酒。受け取り口前の席を陣取る。

「枝豆と、角ハイボール」

 冷凍物だろう枝豆を口に放り込み、ハイボールで押し流す。爽快感が疲労を吹き飛ばす。

「五臓六腑に染み込みますわぁ…」


 時刻は午後二時、マリーの現場仕事は早く終わった。こういう昼よりの時間帯に飲める店はなかなか見つからない。昼のランチタイムがやっていたとしてもせいぜい三時近くまで開いているのが関の山だ。呑むのには少々時間がせわしない。
 だが富士そばは違う。24時間営業だ。いついかなるどんな時、早朝深夜もそばが食いたくなった貴族と酒がのみたくなった貴族を低価格帯で心暖かく迎えてくれる。
 冷たい都市にも、人の優しさはあるのだとマリーは思う。

「ひさびさに昼に仕事が終わってゆっくりできますわ」

 ハイボールを飲みながら、つまみを待つ。このひと時も癒やしである。

「富士そばは気軽く呑めて締めにそばも頼めるから便利ですわねぇ」

 酒飲みが締めにそばやうどんなど麺類を頼むのは定番。その点でも富士そばはまさに盤石だ。

「はいエビ天とかき揚げの台抜き出来ましたよお客さん!」

「あ、はいはい私です私です」

 スタスタと受け取り口へ向かう。富士そばは食券制であるゆえ、注文は常に食券と受け取り口を往復せねばならない。この受け取り口との距離が近いほど、ゆっくりと呑める。受け取り口近くを取れるかどうかが、富士そば呑みの命運を分けるのだ。

「台抜きのそばつゆを含む汁けのある衣が、つまみに最適なのですわ…」
 
 七味をふってかき揚げにかぶりつく。じゅわりとした汁けとややカリッと歯ごたえを残した衣がマリーの口の中で弾けた。
 たまらずハイボールで迎え撃つ。

台抜きとは天ぷらそばなどからそばを抜いたものの意である。ようはそばつゆに浸った種物だが、これが蕎麦屋のみの古来よりの定番なのだ。
 そば屋の天ぷらはそばつゆとの相性を高めるために、専門の天ぷら屋のものよりも衣が厚くなっている。暑い衣にそばつゆを吸わせそば屋の命たるつゆの味を強く味わわせるためである。
 古来よりの伝統を今でも楽しむ、実にマリーは貴族的であった。

「続いてエビ天……!」

 勢いよく噛みちぎる。エビの旨味がそばつゆと共に口内に溢れた。

「この地上でエビを揚げたものが美味でないはずがない……! 約束された勝利……!」

 マリーのエビへの信頼は厚い。それが油で揚げられているとなれば、自らの命を賭ける相手にも選べるとマリーは断言できる。

「追って角ハイ……」

 グビグビと、ただグビグビと酒を飲む。

「そして蕎麦屋呑みの定番板わさ先輩……道端に咲くタンポポのような癒やしだわ……」

 派手さのみではない、時には見慣れた気安さと地味さが孤独な心を救うものだ。

「富士そばは店舗ごとの独自メニューが多く、しばらく前話題になったポテトそばなどが有名ですわね」

 角ハイジョッキを片手にスタスタと店内を歩く。こういうことができるのも富士そばの良さだ。

「かくいう私もポテトそばのジャンキー路線、嫌いではないのですわ」

 券売機に小銭を入れる。チャリンチャリンと硬貨がなり、灯る光に指が動く。

「角ハイっと」

 すでに券売機のパネルの位置は確認しない。マリーの指がどこに角ハイボールがあるか覚えていた。

「ハイ角ハイ一丁」

 そして即座に出される角ハイボール。引き換えに空のジョッキを渡す。

「店の入りやすさも素敵ですわ」

 呑みながら着席。エビ天の尻尾を噛み締めながら、少しため息をついた。

「特にまだ十万円が来ない私には…」

 令嬢は特別給付金を待ちこがれていた。だが、まだ用紙は家に届いていない。

「ですがもうそろそろ用紙はくるはず…諦めずに忍耐を続けるのですわ」

 マリーは顔を上げた。目の前には富士そばの埃がかった天井があった。だが、マリーはその向こうの青空を見上げている。

「『けして諦めなければ、不可能もピンチも必ず突破できる』、そう言ってましたわよね、叔父様」

 アラン男爵、よくマリーを可愛がってくれた優しい叔父は、いつもマリーにそう言ってくれた。

「営業中に風俗行ったのがバレて首になりかけたのが奥様にバレて実家に帰られたけれど、義両親の前で土下座して離婚回避できた叔父様…」

 嫁さんから土下座してるところの写真が送られてきて親戚がなかなかの祭りになったことを思い出し、マリーは懐かしさに少し微笑んだ。

「さて、そろそろ締めを考えませんと……蕎麦屋で締めにそばは当たり前ですが、富士そばは煮干しラーメンもなかなかの味ですわ」

 富士そば呑みにそばで締める。実に定番である。しかし、定番を時に外してみたくなる日もある。一方富士そばの煮干しラーメンもなかなか評価が高い。悩みどころだ。

「そばかラーメンか、酒飲みらしくさっぱりと済ませたいものですわね……えーと、ラーメンラーメン…?」

 小銭を入れながら、マリーの視線が止まった。

「これは…」

 視線が止まる。そして指は迷う。どうするか、この一期一会。

「えい」

 ピッと券売機が鳴った。



「……なぜ私はこれを買ってしまったのでしょうか」

 席に戻り自問する。なぜか、人は時に理由のない行動をするものだ。なにかがマリーの指を動かした。

「しかし指が勝手に動いてしまった……運命に逆らわず生きろと神がおっしゃっているのかしら」 

 なぜそうしたのかはわからない。だが、自分がなにをすべきかはわかる。

「出会いとは時に理不尽なものなのですわね……しかしそれさえも甘受してみせるわ…」

「はーいカレーカツ丼のお客さん!できましたよ!」

 店員の声が、勢いよく響いた。

「はいはい行きます行きます」 



「カレーカツ丼……カレーの上にカツ煮を載せた代物ですわよね…どうみても」

 カレーの上に、カツ丼が存在し(あっ)た。カレー(カロリー)の上にカツ煮(カロリー)を重ねるという食の究極二段構造、あるいは栄養二重殺、もしくは「(カツ煮)おまえ(カレー)で二千万パワーズだ」ともいうべき迫力がマリーを迎え撃っている。物言わぬ重量が貴族淑女たる彼女を圧倒していた。

「なんなんでしょうこの『バカの考えた最強のご馳走』みたいな代物は……」

 カレーはうまい。カツ丼もうまい。だから重ねれば倍うまい。そんなところだろうか、作った動機は。理解はできる。だがそれを本当にやるとは。
 狂気である。癒やしの場に突如としてむき出しの狂気が襲いかかった。マリーは、狂気を選んでしまった。

「味は…」

 一口、口に運ぶ。この狂気を確かめねばならない。

「……」

 一瞬の間、だがすぐに二口目を口に運ぶ。そして三口、四口。

「こりゃストロングなデヴの味がしますわねぇ! そりゃそうですわ!」

 スプーンが滑らかに動く。狂気とも、愚行とも思えるそれは、だが英断であった。

「カロリーはうまいということを脳に深く刻み込むようなお味! 嫌いじゃない、嫌いじゃなくてよ!」

 カツ丼のカツを、カレーが包み込む、出汁の染み込んだカツ煮をそれでもカレーの風味がまとめあげていた。カレーの懐は、マリーが思うよりもはるかに深かった。

「ふぅー…胃袋にルネッサンスが起きましたわ…」

 カランと、スプーンが器を鳴らした。



「ありがとうございましたー」

 店員に見送られ、マリーは富士そばを出る。貴族らしくたおやかにしずしずと歩く彼女の心は、それでも今日の遭遇戦の総括に追われていた。

「思わぬ野生のデヴ食との遭遇……反省はあれど悔いはありませんわ。煮干しラーメンは次にしましょう」

 時刻は三時半、まだまだ日は高かった。

「次の店はどこにしましょうか……」

 定額給付金申請用紙は、まだ届かない。

「豚骨ラーメン……? なにこの豚骨臭い下劣な店は……!?」




「中瓶、あと皿盛りチャーシューとネギメンマ」

「あいよ」

 のれんをくぐると同時に注文が発せられた。ドレスに日傘といったいでたちの金髪の美女、マリーが豚骨ラーメン屋のぬるつく床を闊歩する。
 長年の営業で染み付くラードの滑りを、優雅な動きで制御しながらカウンターに着席する。

「ひさびさにフルで働くとちょっと疲れますわねぇ……」

 久しぶりの八時間労働をこなしたマリーの肉体は、渇き餓えていた。

「へいビール、御注ぎします。お客さんお疲れさまです!」

 トクトクと小気味よく注がれる黄金の液体を掲げ、今日を乗り切れたことをマリーは一人祝福する。

「あ、どーもどーも」

 飲み干す一杯。疲労気味の体に染み渡る。

「あー、染みますわね!!」

 タンっ、と置いたグラスの音が、客の少ない店内に響いた。

 コロナから仕事が戻ってきている。ストップしていた現場が動き出せば、当然間に合わせるために仕事を急かされる。久しぶりのフルタイムと残業には、厳格に育てられた貴族といえど堪えるものがあった。
 だが弱音は見せられない。マリーは貴族である。貴族たるものハードワークを乗りこなさねばならない。

「はい皿盛りチャーシューとネギメンマ!」

 小気味よく出されたつまみ二品。とにかくすぐ出てくるのがこの二品の良いところだ。

「ラーメン屋、それも街中華ではない博多とんこつの店で呑む…こういう呑み方を覚えたあたり、わたくしも大人になりましたわね……」

 ラーメンが専門の店で呑む。これにはなかなかの経験値が必要になる。だが、酒が注文できる限り、そこは必ず呑める店なのだ。攻略法は必ず存在する。
 皿盛りチャーシューを一口かじる。

「ここのチャーシューはモモを使った歯ごたえ重視…噛み締めると赤身の旨味が感じられますわね……」

 チャーシューは部位により味わいがかなり変わる。柔らかさを求めるなら脂の多いバラを使うが、この店は歯ごたえと肉本来の味わいを重視したモモ肉派である。
 古式的な豚骨ラーメンでない、新しい店や二郎系ほど柔かさ重視のバラ肉を使う傾向が多いが、マリーはこの不器用な豚骨ラーメン屋のモモ肉のがっしりとしたチャーシューが好きだった。
 そこへネギメンマ。メンマの味わいにネギの香味、そしてラーメンのタレが足され箸がすすむ。
 
「そしてアサヒスゥッパァドラァィ……!」

 追ってビール。喉を鳴らしコップを飲み干した。

「非常事態宣言もやっと解除……そろそろ仕事も増えてきましたわ」

 仕事は増えてきた。忙しいことの有り難さをかみしめながら呑むビールは旨い、旨いが、いつまで続くのか不安はある。
 二度目はないという保証はない。

「家飲みでしのぐ日々もこれで終わりになるかしら……檸檬堂がなかなか美味しいのでそれはそれで助かりましたけれど、やはり店で飲む瓶は一味違うように感じますわ……」

 ストロングゼロをはじめとする缶チューハイ群雄割拠の時代、マリーは熱烈な檸檬堂派だった。

「ビールを飲み干してネギメンマとチャーシューを少し残してから……」

「すいません、とんこつラーメン麺固めおひとつお願いしますわ」

 頷く大将、麺茹で機に投下される麺。大型の寸胴鍋から注がれる豚骨スープ。この店は豚骨スープの自作に大型の寸胴と高出力コンロを複数備えている。本格的な博多豚骨ラーメンを作っているのだ。
 店でスープを自作する以上は、店に豚骨の匂いが出る。臭さもまた店の個性だ。

「さぁ締めに移りますわよ……」

 豪快な豚骨ラーメン屋、だが精緻なる策謀こそが貴族の武器である。締めを制す者が店を制すのだ。

「へいお待ち!」

 渾身の一杯である。白濁し湯気をあげるスープと、刻み青ネギが散らばる。中心に鎮座するは歯ごたえを加味して薄めに、だが大きく切られたチャーシューがあった。そばには脇を固めるようにノリがある。

「初手はコショウとおろしニンニクでいただく……!」

 明日のことは気にしない。ニンニクをぶち込むのだ。果てるまで。もっとも明日は休みなのだから問題ないのだが。
 スープにコショウとニンニクをなじませ、一気にすすり上げる。豚骨の風味を纏う麺に、ニンニクの固まっている部分が溶け合っているこのバランスを、マリーは愛飲していた。
 理性を消し、すする。すすり込む。いまこのときこの瞬間だけは、マリーは貴族ではなく豚骨をむさぼる鬼であった。

「これで麺を食べた後に……替え玉、固めで」

「へい替え玉固め!」

 速い。早いではなく速い。大将はすでにこのタイミングでマリーが替え玉をすることを見切っていた。

「さすがですわ大将……替え玉投入、さらに残しておいたチャーシューとネギメンマを融合……」

 マリーの策謀が火を噴く。このために準備を整えてきたのだ。

「現れよ我が切り札……とんこつネギメンマチャーシューメンを場に召喚!!」

 完全である。完璧ではなく、完全が目の前にあった。勝利確定。

「ウッメ……通常のラーメンにチャーシュー倍増とネギメンマがプラス…もはや覇王の風格…!!」

 ガツガツと、ズルズルとラーメンをすすり込む。先につまみでビールを楽しみ、一度目はシンプルな豚骨ラーメンを楽しむ。そして替え玉による二度目で今度はつまみと融合させた豚骨ラーメンを楽しむ。
 策謀と奸智、マリーの貴族たる力をフルに活用した完全勝利だった。

「あーうまかった……さてあとは家に帰って……」

 丼を置く。カランと鳴った。

「帰って……」

 あとは帰って寝るだけだ。ゆっくりと朝寝を楽しむだけだ。
 だが、

「かえっ……」

 マリーの目は、残っているスープから目が離せない。
 あとは帰るだけだというのに。

「……大将、小ライス一つ」

「あいよ」

 即座に来た半ライスを、マリーはためらいなく丼へぶち込んだ。

「やっぱスープにご飯入れないととんこつラーメンへの礼儀を果たせませんわよね!」

 ザブザブと飲み干される豚骨スープおじや。カロリーや塩分など気にはしない。カロリーと塩分は相殺され実質ゼロになることなどは貴族として当然知っている嗜みである。

「あーこんどこそフィニッシュ……」

トゥルルルルルル

 丼を再び置いた直後、マリーの電話が鳴った。

「はい、はい、あ、明日の現場ですか? 大宮? 朝九時? ……えーと、はいはい入れます入れますではお願いしますチィース」

 電話を切る。休みの予定は無くなった。このニンニク臭さ、どうするべきか。
 しかし、稼げるうちに稼がねばならない。

「ふぅ……明日も頑張りますわよ!」