「まあ、これが下々の庶民がくるお店なのですね」

 赤い看板をくぐり、マリーは中華食堂へ足を踏み入れた。

「別に何度も来てますけれど」

 熱烈中華食堂、日高屋である。埼玉都内に多数の店舗を構える有名中華食堂チェーンだ。

「ハイボール濃いめで」

 ドレスを翻してカウンターに着席する。同時に注文。マリーの顔には少しやつれがあった。
 約一週間ぶりの現場仕事と残業は思いのほか疲れを感じさせた。時刻は午後七時を回っている。

「でも明日の現場の約束も取り付けたし、なんとかやっていけそうですわね。……店員さん、餃子とおつまみ唐揚げをお願いしますわ」

「アイヨーワカッタヨー」

 愛嬌だけはある外国人店員が注文を受ける。通しのザーサイを齧りながらハイボールを一口。

「くあぁー」

 のど奥から絞り出す声。11時間労働し疲弊した体に染みる。

「あらマリー様じゃなくて?」

 向いのカウンターから立ち上がる人影。栗毛のドレス姿の女かいた。片手にはビールジョッキがある。

「ベスじゃないの。奇遇ですわこんなところで会うなんて」

「マリー様お久しぶりですわ。ご機嫌うるわしゅう」

「ごきげんようベス」

 スカートの端を持ち上げ互いに頭を下げる。挨拶は貴族の嗜みである。いかなるときも行わなければいけないと習った。
 彼女はエリザベート、愛称はベス。かつて通っていた貴族子女工業高校の後輩だ。

「マリー様も仕事後ですの?」

「あなたも現場終わりですの? 今は仕事があるだけでもありがたいことですからね」

「そうですわねマリー様。では私はこのあたりでお暇させていただきますわ」

 ベスを見送る。笑う彼女の前歯が一本無かったが、それはマリーは指摘しないことにした。見ない振りをすることも時には大切なことである。

「人生、色々あるものですから。頑張ってね、ベス」

 後輩の前途を祈りながら、晩酌を再開する。唐揚げを齧りハイボールで流す。餃子はコショウと酢で食べるのがマリーの流儀だ。

「キムチチャーハン、大盛りでお願いしますわ」

 明日も早い。しっかりと食べねば。稼げるときに稼いでおくのだ。
 運ばれてきたチャーハンをレンゲで掬い頬張る。爆発的に広がるニンニクの打撃力。キムチの辛み。瞬く間にハイボールが空に。

「店員さん、チューハイをおひとつお願いしますわ」

 チャーハンは肴になる。マリーはそのことに気づいていた。チャーハン、酒、チャーハン、酒。交互に訪れるマリアージュを存分に楽しみながら、最後にスープを飲み干しチューハイで口の中を洗い流してフィニッシュ。

「ふぅ、満足ですわ」

 勘定をすまし、店を出る。春も半ばを過ぎた外は暖かく、人がどれだけ騒ごうとも季節は必ず訪れていくことをマリーに思わせた。
 
「もうそろそろ、冷やし中華が始まるのかしら」

 答えるものはない。マリーの背を、日高屋の看板だけが見送っていた。