「まあ、こんなところは初めてですわ。庶民の下等な食事なんて私の口に合うのかしら」

 そう言った彼女は、日傘を畳む。そして入店と同時にメニューを見ずにこう言い放った。

「ホッピーの黒、氷なしで」

 酔客がうごめくもつやき屋の店内で、透き通った声が響く。
 流れるような動きで、彼女はカウンターに座る。
 時刻は午前11時。上野ではその時間から酒をだす店は営業している。

「あいよ」

 店員が差し出すは凍ったジョッキ。中には無色の安焼酎。横に共に出されたのは黒いホッピーの瓶だ。
 声の持ち主は──二十歳ほどの若い女性はジョッキにホッピーを注ぐ。量は少なめ。濃いめに割った。

 無言でジョッキを持ち上げ、中身を三分の二飲み干す。

「ぷっはぁ」

 抑圧から解放されたような声。ジョッキを置いてメニューに目を通す。
 女は流れるような腰まで伸びる金髪だった。瞳は碧眼。纏う服装は白を基調とした裾の大きく広がったドレス。身長は高く、腰は折れそうなほどに細い。
 そして、明らかに標準を超えた美貌。
 ただの金持ちの類ではない。なにか高貴な血の持ち主と思われる雰囲気があった。

 事実、彼女は貴族だった。
 マリー・フランソワ・シャンターヌ。それがこの貴族令嬢の名前であった。

 やや物憂げな表情で、持っているものを眺める。その様は文学に触れる子女といった風情。
 持っているのはもつやき屋のメニュー表なのだが。

「店員さん、かしらネギマ、それとシロ。各1で。全部塩。それとガツポン酢にお新香」

 一分の沈黙の後、流れるように注文。優雅に、しかし無駄がない。

「ガツは新鮮……食肉市場が休みとその次の日を避けたかいがありましたわね」

 ガツ、豚の胃など内臓肉の命は鮮度だ。熟成が必要な正肉と比べれば良いものが出されるタイミングはおのずと限られてくる。市場の休みやその次の日を避ければそれだけ新鮮な内臓が出される可能性は高くなる。マリーの計算は当たった。
 口の中に広がるポン酢、ネギの香り、そしてガツの食感と旨味。さらにそれらを濃いめのホッピーでのど奥に流し込む。

「ぶっはぁ!」

 快感であった。マリーは貴族らしい端正な澄まし顔をしながら、その内面で存分に快感をあじわっていた。

「へいっおまっちー」

 店員が皿を差し出す。並ぶもつ焼きに、マリーはまずシロに手を伸ばした。

「もつやき屋の格はシロで決まりますのよ」

 シロは豚の大腸。もつやきの代名詞的部位だ。臭みが強くどう掃除しどう出すかに腕が問われる。これをごまかしの効かない塩で食えばもつやき屋の力がわかるというもの。

「ん、ガッツリとした脂の旨味に臭みはほとんどない……お見事な腕とお見受けしますわ。すいませんホッピーの中ください」

 己の勘が当たったことに満足し即座に二杯目にはいりながら、それでもマリーの目は冷静だった。
 両手は淀みなくホッピーの二杯目に取りかかりながら、思考は三杯目をどうするかにとりかかっている。
 戦いは常に二歩三歩先を読んだものが勝つ。父の貴族としての教えはマリーの中に常に生きているのだ。

「かしらの濃い肉の旨味、ネギマのコンビネーション。素晴らしいですわ。しかし……日本酒との切り替えのタイミングが難しい」

 マリーは決断した。

「すいませんおっぱいとてっぽう。各1で。どちらもタレで。あと二級酒の冷。……ふふ、おっぱいなんてはしたないことを往来で言えるなんてもつやき屋だけですわ」

 古い立ち飲み屋では日本酒を一級酒二級酒といい出している。銘柄も言わずこのややもつっけんどんで雑な出し方だが、それも風情かもしれない。
 最近の立ち飲み屋では有名銘柄の日本酒も出すようになったが、この立ち飲み屋はまだ一級二級で出している。

「そういう意地っ張りな所、悪くなくてよ」

 二杯目のホッピーを飲み干す。安く二杯を堪能できる所がホッピーの美徳だ。やや気分がよくなってきたあたりで、周囲を見渡す。このウイルス騒ぎで客が減ったが、まだ店内は騒がしさを保っている。平日の昼間なのだが。

「そう、みんな居場所がないのね……」

 いくら家にいろと言われても、寂しさを消すことはできない。喧騒の中でしか癒されない、癒し方を知らない生き物が酒場に集まるのだ。
 窓ガラスから見える空は、吹き抜けるような晴天だった。

「綺麗な青空……仕事、ないですわねぇ」

 日雇いの仕事が5日続けて来ない。貴族令嬢マリーは悩んでいた。
 悩みは呑んで忘れる。それが誇り高き貴族の生き方である。

 やがて差し出された皿と酒。七味を振る。

「酒飲みは串ものはみな塩で頼む人ばかりですわ……でも、たまにはわたくしも自由が欲しい」

 服にタレが垂れないように、なおかつ優雅に串を食しながら、キュッと冷や酒を煽る。

「時には甘ったるいタレの串ものを、冷やで流し込んでもいい。自由とはそういうものですわ」

 三杯目を終えて、締めをどうするかと思案する。

「焼きおにぎり……茶漬け……さて」

「ギャハハハ! だからぁこないだスロで三万勝ってぇ」

 すぐ横で茶髪の兄ちゃんが仲間とわめいていた。盛り上がっているようだ。焼きそばをくいながら笑い声をあげる。

「一人酒でああいう手合いをみるとやかましさにイヤになりますわね……それに焼きそば……ああいう大学生の呑み会ででるような締め方は私の好みでは……」

「ギャハハハ! そんでそいつバイトバックレてさぁ」

 兄ちゃんが焼きそばをすすり込む。ズルズルと。

「好みでは……」

「ギャハハハ!」

「すいません店員さん、焼きそばハーフでお願いします」

 今日のマリーは自由であった。

「うっめ! ソース味うっめですわ!」


 △ △ △

「魚粉多めの焼きそば……おいしゅうございましたわ」

 勘定を済ませ、街をうろつく。本来ならば執事のセバスチャンに連絡して馬車に迎えに来させてもいいが、今は自分の脚で軽く歩きたい気分だった。

「少し小腹が空いてますわね……」

 しかし閉まっている店は多い。

「町中華……ダメですわ。寿司屋も……閉まっている。あとは……」

 マリーは足を止めた、

「あ、そば屋開いてる」

 △ △ △

「すいません、ざる一枚よろしい?」

 着席。同時に追加注文。

「あと冷や酒と海苔」

 トゥルルルルル

 冷や酒に口をつけた瞬間、マリーのスマホが鳴った。

「はい、はい、なんすか? え、現場入った? いつ? 明後日の朝八時? 荒川区? 行く行く行きます行きます。はい、はい、お願いしますわ」

「ふぅ……よっしゃぁ仕事入りましたわ! 店員さん、いたわさと熱燗くださいませ!」