夕方、トマトの収穫を終えた涼太は、夕飯の準備に追われていた。今晩はカワムツの天ぷらにほうれん草のお浸し、豆腐と油揚げの味噌汁だ。夕方とはいえ、昼間の熱気が冷めやらず、窓を開けていても台所は蒸していた。涼太は首に巻いたタオルで汗を拭きながら、七輪に掛けたフライパンでカワムツを揚げる。部屋中に魚の揚がる香ばしい匂いが充満した。台所の隅にはハナが待機していて、カワムツが落っこちて来ないかと見張っている。

「ハナさん、どんなに待っても魚は落ちやせんからね。あんたにはさっきご飯あげたでしょうが」

涼太は笑いを堪えながら天ぷらの具合を見る。

 
「こんばんは! 涼太おるかね!」

玄関の引き戸が開く音と同時に声が響いた。何やら緊迫した声だった。涼太は慌ててフライパンを七輪から下ろし、玄関へ向かった。謙治が息も荒く突っ立っている。

「謙治さん。どうしたね?」

「ああ、涼太。大変だわ。うちとこの淳《あつし》が熱射病で倒れたんだわ」

淳は小学五年生の謙治の息子である。

「医者は町まで行かないと無いし、取り敢えず寝かしてるが、飯も食えんでな。けど、涼太んとこのトマトが食べたい言うとるんで。すまんが分けてもらえんかね?」

謙治は一気に喋ると、額の汗をタオルで拭った。

「もちろん良いよ。今準備するわ。俺も見舞いに行きたいし、乗っけてってもらえるかね?」

「有り難う。構わんよ」

涼太は急いで七輪の火を消し、ザル一杯トマトを入れると謙治の車に乗り込んだ。
 

 淳は座敷に敷かれた布団の上でじっとり汗ばんで、ぐったりしていた。涼太は布団の脇に正座して、淳の様子をうかがった。

「淳。涼太がトマト持ってきてくれたからな」

「淳君。大丈夫じゃ。おじさんのトマト食べたら、すぐ良くなるからな」

「うん……。有り難う」

「洗って、塩振って食べさせてやって下さい」

「おう。そうさせてもらうわ」

「じゃ、淳くん、疲れるといけんから、今日はこれでな」

涼太が立ち上がると、

「これ、トマトの代金だ。それと、せっかく来たんだし晩飯食っていかんかね?」

謙治が居間へ促した。

「いや、もう飯の準備したから。せっかくだけど遠慮させてもらうわ」

「じゃあ、帰りも送るわ」

「いや、大した距離じゃなし、帰りは歩くわ」

「そうかね。そいじゃ、気を付けてな。わざわざ有り難うな」

「うん。そいじゃ、またな」

 
 涼太は家路をのんびり歩き始めた。夕日の端切れが、もう俺の役目は終わった、といった様子で西の地平に沈みかけている。反対側の東の空には、さあ、これからは俺達の出番、とばかりに、星が白く輝き始めていた。途中で例の溜め池の前を通る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。涼太は立ち止まって溜め池を眺めてみた。風の凪いだ暗い水面が黒い鏡のように鮮やかに空の星を映している。神秘的な静寂が辺りを包んでいた。池に呼ばれているような気がして、涼太は近付いて身を乗り出し、水面を覗き込んだ。

「天の池……」

涼太は独り呟いた。そうだ、涼太の畑が天女の畑なら、ここは天の池に違いない。水は星の光で清められて、用水路を流れ、畑に撒かれて作物を浄化するのだ。天の野菜は天の水で養われる。清められた作物を食べる度、人は浄化されて天へ近付くのに違いない。人はただの肉の塊から、それ以上の何かになるのに違いない。あれは星の光を受け継いだ畑。

「星降る畑だ!」

涼太は興奮して叫んだ。その拍子に右足がズルリ、と池へ滑り込んだ。

ドボン!

涼太は池に落ちた。波立つ水面。慌てて岸の草を掴み、体を岸へと近付ける。やっとの思いで岸へ上がると、ゼイゼイ肩で息をした。

「参ったな」


 涼太はずぶ濡れのまま帰宅した。すっかり遅くなってしまった晩飯を済ませると、水風呂へ入ることにした。普通は沸かして入るのだが、今日はとりわけ暑かったため、冷たい風呂が良いと思ったのだ。風呂から上がると、トマトを噛《かじ》った。甘酸っぱい風味が口一杯に広がる。思った通り、中々良い出来だ。トマトを三つ平らげると、涼太は布団へ入った。