あれから2日後、私はいつものように学校の用事を自ら引き受けて、少し遅れて道場に向おうとしていた。
そんな私を校門のところで、颯太くんが待ち伏せしていた。

「桃子ちゃん!」

そう言って、嬉しそうに駆け寄ってくる颯太君。
それにギョッとして私は周囲の目を感じて、顔を引き攣らせた。

本当に微妙な関係だと思う…
颯太君は恩人であるけれど、正直、何を考えてるのかわからなくて、少し怖い。

この状況は、 私が颯太くんに興味を持っている多くの女の子の一人だったと仮定するなら、正に「妄想の極み」に値するくらい、胸をときめかせる瞬間なのかもしれない。

だけど、私はそうではない。
寧ろ、自分の居場所を容赦なく掻きまわされているようで、日々居心地の悪さを感じずにはいられない。そんな思いを察したのだろうか、颯太くんは、じっと私を見つめて、小さく笑った。どこか含みのある、笑顔だった。

「ねえ、桃子ちゃん、僕と、デートしてくれる約束だったよね?」

私はその言葉に思い当たる節があり「えっ」と、目元を引き攣らせた。

「デートっていうか、一緒に出かけようって、話だったかな… 確か、水族館?」

デートという、慣れない言葉に過剰反応した私は、そう焦って颯太君の様子を伺った。颯太君は私の返事に満足そうに微笑んだ。

「うん、覚えてくれたなら、どっちでもいいよ。今はね♡それで、今週末の土曜にどうかなって思って…」

「え……、あれ、本気だったの…?」
颯太くんは笑顔のままで、うんうんと頷きながら返事を待っている。

「まさか、思わせぶりなことして、そのままサヨナラなんてないよね?桃子ちゃんは、そんな酷い女の子じゃないよね?ちゃんと約束は守ってくれるよね?」

そう言って、颯太君は私の瞳を捕らえて、有無を言わさぬ笑顔でにっこり笑った。

(ぅ………)

約束、では無かった気がする。
約束って、相手の同意が不可欠だよね?

「桃子ちゃんは約束守れる子だよね?」

(この人… 絶対に押しが強い。いや…強すぎるよね…)

「…私、週末は、毎週稽古してて…」

そう言いかけると、颯太君は眉を寄せた。

「毎週…?土曜も日曜も??」

私は、小さくコクコクと頷いた。

「じゃ…いつまで待ってても無駄だね、うん、じゃあやっぱり今週末の土曜日にしよう♡」

そう言って再びにっこりと笑った。

「へ…?」

(何で… そうなるのかな?)

「僕、桃子ちゃんには、もっと色んな世界に目を向けてほしいな♡」

颯太君はちょっとだけ縋るような可愛い顔をして微笑んだ。

「え… 」

色んな世界と言う言葉に、私は少しだけ動揺した。きっと私自身が、視野が狭くなっている事を良くわかっているからだ。

私は、ずっと「同じ世界」だけを大切にして生きてきたから。

そして何よりも、今この瞬間でさえも私は、何事にも煩わされる事なく「そうしていたい」人間なのだ。

ずっとそうしていたい。
そうしていたかった。

―――だけど、本当にそれでいいのか?

自分の内面に燻り始めている恐れに顔を歪めた。
少しずつ変り行く環境のなかで、私はある種の孤独と不安を感じ始めていた。

ずっと拓海や仲間達に支えられてきた。そして、いつまでも、昔の自分達の関係に依存しすぎているのは、もう私だけのような気がしていた。

颯太君の少し意地悪な、茶褐色の深い瞳は、そんな私の【危さ】を見透かしているような気がして、私はそんな彼の瞳から目を逸らした。

そして、少し気付いた。
颯太君の事を怖い、そう感じるのは颯太くんのそんなところなのかもしれないと。

「ね… いいでしょう? 僕、君にみせたいもの、たくさん持ってるかもよ?」

颯太君はそう言った。

「みせたい、物?」

みせたいものってなんだろう?
おもちゃとか?
子供じゃないし…
時計・貴金属だとしても
興味ないし…
まさか、大量のフィギュアとかじゃないよね?

「桃子ちゃん、何、どんな事、想像してる?」
そう言って颯太君はおかしそうに笑った。

「え…」

私は気まずく固まった。

「ぷっ…桃子ちゃんって顔に出やすくて可愛いよね。でも、今のほんの一瞬だけでもさ、僕に興味持ってくれたのかな?」

そう言って嬉しそうに綺麗な顔を綻ばせる。

「興味…」

その言葉を一瞬否定できなかった…

感心ごとさえも、「空手」に限定されてコリコリに凝り固まっていたというのだろうか…
颯太君と話すのは新鮮だ。
でもやはり、怖いとも感じる。

いつか今の自分が否定されて、大切に思ってきたものが崩れ落ちてしまいそうな不安を感じる。
でも「興味」という言葉を聞いてしまって否定できなくなっている自分がいる。

「桃子ちゃん。じゃあ決まりだね。今度の土曜日。時間連絡するから、桃子ちゃんの連絡先教えて。」

「え… 連絡先…?」

颯太君は私のスマホを取り出し、勝手に操作して私と彼のアドレスを手馴れた手つきで登録した。そして、それを私に 返そうとした瞬間、手をとめて、私の待ち受け画面を魅入ったように見つめた。

「これが… 君を創った世界?」

(……私を創った世界?)

そう言って、颯太君はふっと微笑んだ。

私を創った世界……

その言葉と共に私は、待ち受け画面の古い写真を見つめた。

それは小学校3年生の頃、仲間たちと道場の前でトロフィーを手にして満面の笑顔で映した写真だ。これは大会直後の写真で、この時、私は地方大会小学校三年生女子の部で初の優勝をした。そして、それまで全く上位に食い込むことができなかった拓海が3位で初の入賞を果たした記念すべき大会でもあった。

この時、各部門で油木道場の入賞者が続出して、皆で喜び合い、更なる飛躍を誓い合った。

その後、引っ越し、受験、部活との両立の困難、体力の限界と、其々の事情で袂を分かち、随分と数は減ってしまった。

けれど、今もいる大切な仲間は、ほぼこの写真のどこかで、幼い顔で微笑んでいる。
私にはかけがえのない写真だ。

「いいね…」

一言そう言った颯太君は微笑んだ。

「じゃあ、また連絡するから。土曜日、今度こそちゃんと約束したからね、桃ちゃん♡」

そう手を振って踵を返す颯太くん。

(…約束しちゃったのかな、今度こそ、って、ちょっと待って、今までは?やっぱり約束なんてしてなかったんじゃ?ずるいよ?颯太君…)


************


次の日、学校での休憩時間に私は教室の隅で沙耶香に颯太君のことを相談した。
私からそんなことを聞くとは思っていなかった沙耶香は思わず声を上げた。

「梶原颯太と、デート???」

思わぬ声を出された事に驚いた私は、必死で沙耶香の口を塞いだ。
その瞬間、教室が一瞬シンって静まった。まさか、と言う引き攣った顔でこちらをみている拓海と、驚いた様子の哲ちゃんと目が合って慌てて目を逸らした。

「ってことは、何?付き合うことになったとか??」

声を落としながらも勢いはそのままに、私に掴みかからんばかりの沙耶香。

「ち…違うよ?この前の痴漢騒ぎのお礼に、…一緒に出かけることになっただけだよ。ただ、…それだけだから!」

私は慌てて沙耶香に弁解した。

「そもそも お礼にデートって、相手が望んでるなら、どう考えても気があるってことだよね?もことしてはそれでいいの?そんなの受けて、気を持たせちゃって大丈夫なの??王子、意外と根性入ってそうな感じじゃん?」

何となく沙耶香の言わんとすることも判って私は上手く答えられなかった。
そうなのだ。颯太くんはあの外見に反して、今までの人にはなかった得体のしれない強さを持っている。

きっと、拓海を好きな事なんて、お見通しの沙耶香の目は多くを語らないけれど(拓海の事は本当にこのままでいいの?)と問いかけているようだった。

そう問いかけられたら、私は何と答えればいいのだろう。
割り切れない想いはずっと私を苦しくしている。
きっと、このままではいけないのだろう。

できることなら拓海が好きだと気付かなかった頃の私に戻って、あの頃のように無心になって皆と過ごしたい。でも、それは適わない事なのだ。

そうであるならば…
もしかしたら、颯太くんの言うように、少しだけ他の世界を見つめる事も、今の私には必要な事なのかもしれない。

一つの水槽の中しか知らないから、少し水が変わっただけで、こんなにも息が苦しいのならば、もっと広い視野で物事を見つめる事ができるようになれば、私も今とは違う視点でこの苦さを受け止めて、変わってしまった環境に適応しながら、自分なりに生きていく事ができるようになるだろうか。

こんな経験など、した事の無い私には、それで変わる自分がどんなものなのかなど、判りようもないけれど、今のままではいつか想いが溢れて大切にしてきた世界を穢して壊してしまいそうな自分が怖かった。


***********


その日の道場帰り、私は拓海と肩を並べて歩いていた。
あの不審者騒ぎの後、私は母からも、師範からも怒られた。

母も師範も私と拓海との確執には薄々は感づいてはいるようだが、私がここまで拓海を避けているとは思っていなかったようで、深夜になってしまう帰宅は二人であることに安心していたらしい。

それなのに私はあんな事件を起こして、結果として皆に心配をかけてしまった。

拓海からも「俺の事、嫌ならそれでもいいから、道場の帰りだけは必ず一緒に帰ってくれ」と何故か懇願されてしまい、迷惑をかけて後ろめたい私はさすがに頷くしかできなかった。

無言で歩いていると、拓海が思い切ったように口を開いた。

「なぁ…」

「ん……?」

「今日、学校で、さやが言ったこと、…本当か?」

私は、その瞬間、ビクンと肩を震わせた。
やはり、聞かれていたのだ。

「何の、…ことかな?」

引き攣った笑顔を無理に作った私は、曖昧に誤魔化そうとしたけれど、拓海は足を止めて、上から私をジッと見つめた。

どこか責めるような目に私は狼狽えた。

「とぼけんなよ、……梶原と、デートって本当かって、そう聞いてんの!」

そう言う、拓海から目を逸らして、私は投げやりに答えた。

「別に… デートって訳じゃないから!」

その言葉に、拓海は複雑な安堵を漂わせたけど、引き続き厳しい顔で私を睨みつけた。

「デートじゃないのに、男と二人で出かけるのかよ?」

険しく細められた瞳で詰め寄られた私は、その言い方にカチンときて、拓海に言い返した。

「何よ?今時、お母さんでも、そんなこと言わないよ?じゃあ、デートだって、そう言えば納得するの??」

そう言って拓海を睨み返した私に、拓海の苛立った声が返ってきた。

「納得するか、馬鹿!」

その言葉に私は、顔を引き攣らせた。

「は!? 馬鹿? 」

その言葉に、胸に怒りに似た悲しみが広がった。

「そうだ馬鹿。」

「は……」

(馬鹿はどっちだよ、馬鹿にしてるのは、どっちだよ?こんなだから私…)

私は怒りを堪えるのに必死だった。
沙也加の言い分を思い出す。

(何よ、自分はちゃっかり彼女作って、暇見つけては楽しそうにしてるくせに…
私には、馬鹿?? こんだけ、人の事、無神経に傷つけておいて、馬鹿??)

「何よ? 大体、誰のせいで… 」

そう言いかけて、必死に押えた。

「は?俺のせい?? はっ!?俺のせいか?」

そう言われてギクリとする。
バレちゃいけない気持ちが溢れそうになっていたことに硬直する。

「あ、確かに、あの時、お前の事ちゃんと俺が送ってたら、こんなことにならなかったか?」

そう言われた瞬間、何かが切れた。

(違うわ!馬鹿…)

私は心の中で盛大に拓海に悪態をついた。だけど、拓海はとことん平行線を辿る持論を繰り広げ始めた。

「大体、梶原の野郎、自分の身体をはって、お前の事を助けた訳でもねえくせに、お礼にデートだ??はっ、ふざけんじゃねえって、話だ、そんなの元々、行く必要すらないだろ??お前は自分の身は自分で守ってるんだよ、な!?断れ!断っちまえよ!!」

そう言っていつもの調子に戻って、私に妙な上から目線で命令する拓海に、この時ばかりは、滅茶苦茶に腹が立った。

「何で? 何で拓海にそんなことまで、命令されなきゃいけないのよ?拓海は私のお父さん?違うよね?じゃあ何?お母さんでも、彼氏でもないじゃない!!」

拓海はウッと喉をつまらせたような苦しそうな顔をして、それでも私に言った。

「お…お前が、世間知らずだから、だから、心配してるんだろ!お前…男女入り乱れてあんなところで育ってきたもんだから、男なんて、皆が皆、安全で人畜無害な生き物だと思っているだろう?それはな、こんな時だからはっきり言うけど、違うからな?間違ってるんだからな!! 」

「は……?何言ってるんだよ、拓海?」

確かに道場の男の人に身の危険を感じたことなど一回もない。

だって、警戒する必要がなかったから。

それじゃ駄目なの?

「お前らが、何の警戒もせずにすんだのは、俺達が、お前たちを仲間と見なして、ある意味、尊敬もしてだな…、更に言えば神聖な道場と、そこで稽古させてもらえるこの環境に感謝して、なんてか、そう、正しくある事に重きをおいてその…、それ以上の感情を、……、律して、過ごしてきたからだ。」

「はぁ?そう、なんだ…」

そう何故か棒読で、時々どもりながらいまいち意味不明な事を言った拓海は、少し間をおいて、意地悪く私を見つめた。

「な、なんだよ?」

そうして、まるで試験前の中学生を脅すような、少し凄みのある笑みを浮かべて言った。

「だかな、道場の外は違う!もこ、好きな女を誘い出すのに成功した男が、女みたいに、ただうっとりと恋愛シュミレーションなんかしてると思ったら、それは、大きな間違いだ!」

(なに言ってるのかな?拓海くん…)

「いや…、別にうっとり、恋愛シュミレーションとか、してるとか思ってないから」

もはや、拓海は人の話を聞いているのかすらも分からない。それくらい、今の拓海は意味不明だ。

「まあ…そうだな。好きな女とデート取り付けた男が、真っ先に用意するものっていや…」

「………」

「そりゃ、お前、コンドームだ!」

ドヤ顔でそう言われた瞬間、私は固まった。どうだと私に顔を寄せたままの拓海は、得意げに続けた。

「それが、現実だ!! その覚悟がないなら、危ないからやめとけ!」

「コ…!? 」

(何て事を言うんだこの無神経馬鹿野郎!!)

もはや、怒りと情けなさしかなかった。

「馬鹿!?ほんと馬鹿!?あっ、あんたと、一緒にするな~!!」

気付けば、拳を握りしめて拓海に怒鳴りつけていた。

「は!?俺と一緒??なんだよそれ?」

私の突然の怒りに、目を丸くする拓海。
私は顔を怒りで真っ赤歪ませて、拓海を容赦無く突き飛ばした。

突然の私の奇襲を受けた拓海はバランスを崩して後ろに仰け反った。体制くらい立て直せるだろうに、拓海は私の攻撃にそのまま、腰から地面に着地した。

「っ……てぇ……」

「たっ、拓海…?」

やり過ぎてしまった私は渋々と、拓海の前に膝をついた。

だけど、その瞬間、突然ギュッと拓海に肩を抱かれた私は拓海の胸に埋まった。

(なにこれ、なに……?)

大人の身体になった拓海の胸板をしっかりとおでこに感じて、キュンと心が跳ねた。拓海の匂いが濃く鼻を擽る。

「たく…ちょっと…」

戸惑う私を抱きしめる腕にギュッと力が入る。

こんな風に長く抱きしめられたのは何年振りだろうか。胸の厚さ、腕の逞しさ、身体の熱を感じる距離で拓海の鼓動と息遣いすら感じる距離。

―――昔は、違った。こんなにも、異性を感じなかった。


だけど、今、私はこんなにもドキドキしている。

(ああ…やっぱりもう、昔とは違うんだ。だから、こんなこと、してちゃいけないんだ、拓海にはもう彼女がいるんだから…)

今にも沸騰しそうな熱を懸命に冷却するように、この状況が駄目な理由を懸命に探す自分がいた。

「拓… 駄目だよ、こんなことしてちゃ。私達もう、子供じゃないんだから…」

そう言って、その腕から懸命に逃れようとした私の背中に回した腕にギュッと力がこもる。

「だろ… 子供じゃないんだ。だから、もこ、お前、……どこにも行くな」

(…だから、それが、子供扱いなんだよ?)

噛み合わない言動に、最早どうしていいのか分からなくなる。

「もう… 拓海のこと、私、分からないよ。拓海は、一体、私にどうしてほしいんだよ?」

私は泣きそうな顔で拓海を見つめた。
拓海は私の目を見つめたまま、まるで縋るように呟いた。

「もこ、頼む。もう少しだけ、どこにもいかずに、今まで通りのお前でいてほしい。」

その言葉に泣きたくなった。

「ずるいよ… 最初に、どっかいっちゃたのは拓海じゃない?私をおいていっちゃたのは、拓海なんだよ?」

私は、拓海から離れて立ち上がった。もう拓海の腕は追ってはこなかった。

その時、耐えかねて大粒の涙を溢してしまった。それに気付いた拓海がハッとしたように私の顔を見た。

(しまった… 泣いちゃうなんて… 駄目だよ、私… )

「もこ?お、俺は… 」

拓海は再び私に手を伸ばそうとその腕を上げ、必死に何かを言いかけたけれど、その腕は切なげに拳を握りしめたまま下に下ろされた。

「ごめん、先、帰る」

そう言った私は、そのまま拓海から踵を返して、走り去った。