「よかった……ああ、そうだ。『夢想探偵シリーズ』の続編は、また1年後くらいに出ますか? 俺、あのシリーズの気怠いホームズも好きで」

「あれは……そうですね」

うきうきと尋ねる彼方さんに、私はつい言葉を詰まらせてしまった。
先ほど出したばかりのシリーズの新作、その初版の部数が脳裏に過ぎり、冷や汗が浮かぶのを感じる。

「……私も続きを書きたいんですけど、今回の売れ行き次第では、もう続編は出せないかもしれません」

「え……?」

「ご存知かもしれませんが、ここ数年、私の著作は売上が芳しくなくて。打ち切りもあり得るんです」

「そうだったんですね……すみません、考えが及ばず軽率なことを言ってしまって」

彼方さんの気まずそうな顔に、こちらの方こそ申し訳なくなってしまう。
出版不況と言われるこのご時世、業界は売れない作家に優しくなどしてくれない。
むしろよくこれまで四冊も出させてもらえたものだと、感謝しなければならないくらいだ。
いつ打ち切られてもいいように、そのシリーズは単独でも読めるようにしていたけれど、まだ書きたかったエピソードは少なからずあり、私にも心残りがあった。
彼方さんのように新作を楽しみにしてくれているコアなファンもいてくださったのに、もっと試行錯誤をして、売る努力をする余地はあったのではないだろうか。
今さら意味のない自省をして、膝の上で拳を握る。

「本当は私、彼方さんに褒めてもらえるような作家ではないんですよ」

「そ、そんなことは――」

「一番売れたデビュー作も、中学生が書いたにしては出来がいいという程度で、肩書きを外せばただの凡作だと叩かれましたし」

ものすごく沈んだ気分になり、またこのところ不器用な自分に呆れていたこともあって、私はつい自虐的な言葉を吐いてしまった。
そうだ、初めからこの仕事は向いていなかったのかもしれない。
それなのにぐずぐずと中途半端に続けてしまったせいで、後戻りできないようなところまで来てしまった。
きっと今から別の人生を歩もうとしても、世間知らずで社会不適合者な私に務まる仕事なんてほかにはないだろう。
頭に浮かぶ紛れもない現実を苦々しく思っていると、ふと私の発言を聞いた彼方さんの表情が曇っていくのに気づき、私はハッとした。

「あっ、でっ、でも、次回作は作家生活10周年の記念作なので、これまで以上に気合いを入れて書きたいとは思っているんですよ」

慌てて弁解したものの、しょせん後の祭りだ。
初対面の、しかも大切な読者の方に向かって、私は何を言っているのだろう。
ずっと作品を追ってきた作家がこんな後ろ向きな人間で、彼方さんを幻滅させてしまったかもしれない。
彼の目を見ていることができなくなり、たまらず俯く。
すると少しの沈黙の後、「俺もですけど」と彼方さんは呟いた。

「人間って、どうして悪い記憶を強く頭に残してしまうんですかね。せめて同じくらい、幸せな記憶も置いていてくれたらいいのに」

その声音が存外優しく響いたのを聞いて、私はおそるおそる顔を上げた。
彼方さんは穏やかな、けれど少し寂しげな顔をしていて、また良心がちくりと痛む。

「最初に『かなしい共犯者』を読んだときの感動を、俺は今でも鮮明に覚えています」

彼の言う『かなしい共犯者』とは、私のデビュー作のタイトルだった。
久しぶりに耳にしたそのタイトルに、遠い昔に書いた内容までもが思い起こされる。
物語は二人の中学生が、卒業式の日の朝に遺体で見つかるところから始まる。
一人は校舎の屋上で刺殺されていた、クラスの人気者で美少女の香澄(かすみ)
もう一人は校庭に植えられた桜の木の下で首を吊っていた、地味で目立たない生徒の陽太(ようた)
状況証拠から陽太が香澄を殺したことに間違いはないが、香澄が陽太に抵抗した様子もない。
特に接点のなかった二人がどうして死んだのか、警察、第一発見者、クラスメイト、教師、家族らの供述を経て、最後に死んだ二人の回想で真実を解き明かすミステリーだ。

「作中で、香澄は義父から虐待を受けますよね。そのときの独白を覚えていますか? “この人はいつも、私から私を奪うように、身勝手な愛情で私を満たす”っていう」

彼方さんの口からすらすらと出てきた一文に、私は二重の意味で驚かされた。
ひとつは当然、彼が一言一句間違わずに、私の小説の中の一文を空で言えたこと。
もうひとつはその一文が、私にとっても印象の強いものだったということだ。
膨大に書いてきた小説の中でも、そっくりそのまま覚えている文章は作者でも数少ない。
香澄の独白は、その数少ない内のひとつだった。
なぜならそれは、私の積もりに積もった負の感情から生まれた、私の分身のような言葉だったからだ。

「あの表現は、当時の俺にものすごい感銘を与えてくれました。奪うと満たすって、まるで真逆の取り合わせの言葉なのに、どうしてこんなにも香澄の心情としっくりくるんだろうって」

そう言った彼方さんが、今にも壊れそうなほど切ない表情をしたのを見て、私は一瞬息が止まったような気がした。
体内で血液がどくどくと巡る感覚がして、自分が強く動揺しているのを悟る。
しかし次の瞬間には、まるで今の表情が幻だったかのように、彼はふわっと笑ってみせた。

「日下部先生は、誰もが一度は経験したことのあるような、けれども上手く言い表せない感情を、いとも容易く言葉で描ける。それって十分すごいことじゃないですか」

それは称賛以外の感情を含まない素直な言葉のように聞こえ、私は何度も瞬きをした。
自分の書く文章を、そんなふうに考えたことは一度もない。
けれど、そう言えばファンレター中で同じことを言ってくれた方々がいたなと思い出す。
ああ、私は自分の自尊心の低さで、彼らの声までも軽視してしまっていたのか。
そのことに気がついた私は、そんな自分をとてつもなく恥ずかしく思った。

「とにかく、日下部先生はすごい方なんですから。ご自分のことを、そんなに卑下しないでください」

「ありがとう、ございます」

「お礼を言いたいのはこちらの方ですよ。いつも素敵な物語をありがとうございます」

ぺこりと頭を下げた彼方さんの黒髪がさらさらと揺れる。
彼の心根と同じくらい真っ直ぐなその髪は、成人男性のものとは思えないくらい、とても無垢で美しく見えた。

「俺は今日のこの日のことを、一生忘れたくないと思います」

彼方さんの優しい声が耳に残って離れず、私はくすぐったくなって笑ってしまった。
本当に濁ったところのない清い人だなと、そんな彼をどこか羨ましく思う。
悪い記憶にばかりに囚われる私も、いつかまた落ち込むことがあったら、今日のことを思い出したい。
珍しく前向きなことを考えて、私は残っていたコーヒーを飲み干した。

「日が暮れそうですし、そろそろ帰られますか?」

気がつけば、喫茶店には2時間ほど滞在してしまっていた。
時計を確認して、気を遣ってくれた彼方さんが席を立とうとする。
そんな彼の様子に謎の焦りを覚えた私は、咄嗟に「あのっ」と声をかけた。

「よかったら、またお話を聞かせてもらえませんか?」
それはほとんど脳を介さずに出た言葉だった。
人付き合いが大の苦手で、これまで積極的に他人と関わろうとしたことのない私が吐いた言葉に思えず、自分で自分に驚いてしまう。
けれど私は、なぜかまた彼に会いたいと思ってしまったのだ。

「まだ聞き足りないこともありますし……ごっ、ご友人とか、同僚の方のお話も聞ければ。私っ、恥ずかしながら知り合いが少なくて、情報収集をするのも大変でっ」

言い訳のように言葉を重ねて、彼方さんの表情をチラッと盗み見る。
すると彼は少しだけ目を見張ってから、「喜んで」と満面の笑みで答えてくれた。

「えっ……!? よろしいんですか!?」

「はい。俺の話が先生のお力になるのでしたら、ぜひとも協力させてください」

「でっ、でも、お仕事とかがお忙しいのでは……。無理して私に付き合っていただくことはないんですからね!?」

自分から頼んでおいてなんなのだが、本当に大丈夫なのだろうか。
もう二度と会いたくないと思われていたら、かなり気を遣わせてしまっているかもしれない。
そもそも話下手な私と過ごしていて楽しいはずがないのだから。
他者との交流を怠ってきたせいで、社交辞令かそうでないかの区別をするのが不得手な私は、生来の卑屈な性格でもって彼の返答を訝しんだ。
そんな私を見た彼方さんが、耐えかねたように声を上げて笑う。

「先生こそそんなに気を遣わないでください。先生の執筆に関われるなんて、ファンとしては願ってもないことなんですから」

「そ、そんなものですか……?」

にこにことした笑顔のまま、彼方さんが「もちろんです」と頷く。
なんだか私より彼の方がよほど“聖”という名前が似合いそうなくらいに善人だ。
もはやその背に後光が見えてきそうだと思っていると、彼は自分のポケットから白いスマートフォンを取り出した。

「とりあえず連絡先を伺ってもよろしいですか? 後ほど空いてる日時を確認してご連絡しますので、その中から先生のご都合がよい日を選んでいただければ」

「かっ構いません。勝手なお願いなのに、ありがとうございます」

あたふたと自分もスマートフォンを取り出し、慣れない動作で彼と連絡先を交換する。
ほぼ東雲さんとの連絡のみに使われるアプリに彼方さんの名前が加わり、私はなんとも言いがたい面映さを感じた。

「それじゃあ、また」

「はい。今日は本当にありがとうございました」

それから私はタクシーで、彼方さんは徒歩で帰ることになり、私たちは喫茶店の前で別れた。
なんだかとても濃い一日だったと、車内に腰をかけた瞬間に息を吐く。
普段外を出歩くことも、初対面の人と会話をすることもない私にしては、ものすごいエネルギーを消費していた。
一人揺られるタクシーの窓にもたれかかりながら、煩雑とした街の景色が過ぎていくのを眺める。
そこで私はふと、彼方さんの言った香澄の独白を思い出していた。

――この人はいつも、私から私を奪うように、身勝手な愛情で私を満たす。

なぜ、彼がその文章を鮮明に覚えていたのか。
それはおそらく、彼自身が身勝手な愛情を向けられ、苦しめられた経験があるからなのだろう。
そんなときに読んだ私のデビュー作に共感し、強い印象を受けてしまったのだ。
作者としては嬉しいことだけれど、私はそれを、とても悲しいことのように思った。
手に握りしめていたスマートフォンを、もう一度起動する。
そこに映った彼の名前だけが、今日という日の証のようにひっそりと残っていた。
家庭環境が特別に悪かったわけではない。
事実私はお金に困ったことがあるわけでも、虐待で傷をつくったことがあるわけでもなかった。
また、親というものも自分と同じただの人間で、完璧にできていないということも分かっていた。
ただ、あまり家族に関心のない父と少し神経質な母は日ごろから折り合いが悪く、そんな二人と暮らす家は、私にとってけして居心地のいいものではなかった。
真夜中になると、決まって家中に二人の喧嘩をする声が響く。
それを聞くのが悲しく、そして恐ろしかった私は、いつも耳を塞ぎながら一人で絵本を読んでいた。
絵本の世界は色鮮やかで楽しく、いつだって私に希望を与えてくれる。
そして現実の恐怖から逃がし、私の心を守ってくれる。
そのころから、物語というものは私にとって、唯一の生きる糧だった。

両親が離婚したのは、私が中学生になってすぐのことだった。
真夜中に怒声が響くことはなくなり、私が心を痛めることもなくなったが、代わりに今まで父に向いていた母の関心が、すっかりと私に向くようになっていた。
それが一種の依存であったのを知ったのは、私がもう少し成長してからのことだ。

母はよく私に対して、もしくは周囲の人々に対しても、私を“迂闊な子”と称した。
生活の中で大きな問題にはならなかったにせよ、たしかに私は少しのことで気が逸れてしまったり、忘れ物が人よりも目立つ子供だったのだ。
他者に対しては謙遜の意味合いもあったのかもしれないが、その声に刺があるわけでも、私をわざと傷つけようとした意図があるわけでもない。
母は単にそこにある事実として、私を迂闊な子と呼んだだけにすぎなかった。
そんな迂闊な私を助けるためにと、母はいつしか私の一挙一動を否定し、自分の言うとおりに生きることを求めた。
「お母さんはあなたのためを思って言ってるの」と、今思えばあまりに洗脳じみた言葉を浴びせ続けながら、母は愛情という名の重い鎧で私の身も心も固めたのだ。

学校の中では浮いていて、家の中でも息苦しい。
そんな私が救いを求めたのは、やはり物語の世界だった。
小説は私を現実から連れ出し、私に生きる意味をもたらしてくれる。
そうして活字に溺れているうち、私はやがて、自分でも物語を紡いでみたいと思うようになった。
迂闊で出来損ないな私に、そんな大層なことなんてできないかもしれない。
けれど自分の中で蠢くもやもやとしたものを文字にして吐き出してしまえば、少しは楽になれるような気がしたのだ。
中学二年生の夏休み。
まるで一縷の望みをかけるように筆を取った私は、夢中で原稿用紙に言葉をぶつけた。
初めて行う小説の執筆というものは、ただただ楽しい行為だった。
悩んで綴ってまた悩んで、そのうちに世界が広がっていく。
まっさらな紙の上で、私はいつだって自由だった。
夏休みという時間のほとんどを捧げ、そしてついに出来上がったのが『かなしい共犯者』だ。
上手く書けたとは思わなかったが、自分一人で物事を成し遂げたという成功体験は、少なからず私の気持ちを前向きにさせた。
とある文芸雑誌の新人賞の記事を目にしたのは、ちょうどそのころのことだ。
それを見て、受賞やデビューを期待したわけではない。
ただ最終候補作にさえ引っかかれば、憧れの作家から講評がもらえるという特典が私の心を奪ったのだ。
講評をもらってそれを参考にすれば、次に書く小説ではもっと上手に自分の世界を表現することができるかもしれない。
そんな中学生の無邪気な気持ちで応募した処女作が、まさか受賞につながるなんて思いもしなかったけれど。

「……夢か」

ハッと覚めた目で辺りを見回すと、そこにはいつもの寝室の景色が広がっていた。
ベッドからはみ出ていた腕で、落ちかけた掛け布団を引っ張りあげる。
どうやら昔の夢を見ていたらしい。
おそらく昨日の夜、久しぶりにデビュー作を読み返したせいだろうと、まぶたの裏に残った母の姿をかき消すように目元を擦る。
それから大きなあくびをして、いつものように二度寝はせずに、私は潔くベッドから下りた。
寝室からリビングに移り、ダイニングテーブルに置いたままのパソコンを起動してから、腹ごしらえのために食パンを焼きつつ、ケトルでお湯を沸かす。
今朝はコーヒーにするか紅茶にするか、どちらにしろ、砂糖とミルクをどっさりと入れてやりたい。
そんなことを考えながら、大きな皿にレタスとプチトマトを盛り、タンパク質として余っていたおつまみ用の煮卵も添える。
焼き上がったパンにバターを伸ばして皿に乗せれば、超手抜きな朝食プレートが完成した。
飲み物はインスタントコーヒーに決め、砂糖とミルクを加えてから、両手で皿とカップを持ってダイニングテーブルへと向かう。
準備万端でデスクトップ画面を映し出すパソコンの前に座って、私はいつものように執筆用の文書作成ソフトを開いた。
とりあえずネタをまとめてから、プロットでも作ってみようか。
そう思い、イスの背もたれにかけたカバンから手帳を取り出す。
開いたページには、昨日インタビューをした彼方さんの回答が、私の走り書きの字で連なっていた。
それを目で追って、文字にしても滲んでくる彼の誠実さに笑みをこぼす。
本当に、今どき珍しいくらいの好青年だった。
少し影のあるところなんかはクリエイターの想像力をかき立ててくれるし、なんなら彼をモデルにした作品を書いてみたいくらいだ。
たとえばそれこそ、恋愛ものなんていいのではないのだろうか。
彼方さんのような男性を主人公の相手役に置いたら、読者の心を掴んでくれるに違いない。
……うん、そうだ、きっとそう。
彼方さんをモデルに小説を書いてみたら、上手くいく気がする。

いいアイディアが浮かんだと、私は急いでソフトの中に保存してある、キャラクターシートのフォーマットを開いた。
主に登場人物の人となりを掘り下げるためのそれを使い、20代半ばの男性、黒髪の痩せ型、温和で誠実な性格で暗い過去か、もしくはトラウマがあり――といった調子で、相手役のプロフィールを作っていく。

「うーん……」

しかしおおよそのプロフィールが出来上がっても、肝心なストーリーの方はまったくと言っていいほど思いつかなかった。
彼方さんのような男性に合うのは、彼と同じく心優しい女性だろうか。
ううん、むしろ真逆の悪女がいいかもしれない。
それならジャンルは純愛? ラブコメ? 禁断? シリアス?
頭の中であらゆる可能性を探ってみるものの、やはり話を組み立てることはできず、私は頭を抱えた。
もういっそ、私自身を主人公にしてみようか。
折れそうになる気持ちでそんなことを考えながら、齧ったパンをインスタントコーヒーで流し込む。
初めてファンレターをくださった方と、街中で偶然出会ったのだ。
我ながらドラマチックな経験をしたと思うし、十分小説のネタになり得ると思う。
しかしもしそんな小説が出版されたら、さすがに彼方さんをドン引きさせてしまうだろう。
それに彼の人間性に好感は持つけれど、だからと言って恋とは結びつかないし、それ以上の展開も思いつかない。

振り出しに戻ってしまったとため息を吐き、諦めてパソコンをシャットダウンする。
冷めてしまった朝食を平らげながら、私はふとリビングに視線を向けた。
一人で住むには少し広めの1LDKは、物が極端に少なく、この上ないくらい殺風景な空間だ。
以前、数少ない作家仲間の友人を泊めたとき、北欧のおしゃれな刑務所のようだと言われ、そのあまりにも的確な比喩に笑ってしまったのを覚えている。
趣味も仕事も創作活動である私は、確保できるすべての時間を執筆に捧げていて、ほかのことにはまるで興味がないのだ。
そんな生活を象徴するかのようにがらんどうなこの部屋は、まるで私自身をも表しているようだった。

私には作家という肩書以外は何もない。
それなのに、このまま小説まで書けなくなかったら、一体どうなってしまうのだろう。
先行きの暗さを悲観していると、寝室に置いたままのスマートフォンから、滅多に鳴ることのない通知音が聞こえた。
おそらく送信者は東雲さんである可能性が高いが、彼がこんな朝早くに連絡を寄越すことなどまずない。
であれば一体誰からだろうかと、不思議に思いながら確認すると、ロック画面に表示された“彼方千里”の名前に、私は思わず息を呑んだ。
そういえば昨日、彼と連絡先を交換したんだっけ。
たしか、次に会える日時を教えてくれるとも言っていた気がする。
息を整えてからおそるおそるアプリを開くと、やはりかっちりとした文面とともに、日付けが羅列されていた。
特定の休みなどない自由業かつ暇人の私は、特にいつであっても構わないのだけれど。
とりあえず一番直近であった次の土曜日を指定して返事をすると、彼方さんからもすぐに「了解です」と返ってきた。
あっさりと約束を取り付けてしまった自分にまたもや驚きながら、彼が昨日一瞬だけ見せた切ない表情を思い出す。

彼方さんともう一度会いたいと思ったのは、もちろん執筆の手助けをしてもらいたいというのもあるが、なんと言えばいいのか、同病相憐れむといった意味合いの方が強かった。
きっと彼は私と同じく、“身勝手な愛情”に振り回された者同士なのだ。
そんな人に初めて出会って、私はもう少し彼の話を聞きたいと思ってしまっていた。
大きなお世話かもしれないが、それがきっと、私と彼のためになるような気がして。
というか、昨日は聞けなかったけれど、彼方さんに恋人はいないのだろうか。
モテそうな感じがするが、しかし彼は恋人がいるにもかかわらず、異性と二人きりで会うような人には見えなかった。
ならば今は偶然フリーだということか。

「世の女性たちは一体何をしているんだろう……」

彼方さんのような男性を放っておくなんて、やはりまったくもって恋愛とは謎である。



「日下部先生!」

約束の土曜日はすぐにやってきた。
午後2時に前回立ち寄った公園の前で待ち合わせをした私たちは、今日も彼方さん行きつけの喫茶店に行くことになっていた。
先に到着し、公園のベンチで待ってくれていたらしい彼方さんは、私の姿を見つけるなり、きらきらした笑顔で駆け寄ってくれた。

「お久しぶりです。その後、お怪我の具合はどうですか」

「おかげさまで、すっかり治りました」

「ああ、よかったです。先日は本当に申し訳ありませんでした」

「いえ、そんな。こちらこそ、またご協力していただけてありがたいです」

そう言うと、彼は人好きしそうな笑みを浮かべながら頷いた。
軽く袖を捲った、清潔そうな白いシャツがよく似合っている。
見れば見るほど生粋の光属性という感じで、まるで少女小説に出てくる、主人公の憧れの先輩といったタイプの人だと思った。
もしかしてこの人は世界で一番爽やかな人間なのではないかと馬鹿げたことを考えて、なんとなく気後れするような気分になる。
何が“同病”なのだろうか。
あれは私の気のせいで、彼はやはり、ただの心優しき文学青年なのかもしれない。

「今日行くお店はチーズケーキが有名なんですよ」

彼方さんが案内してくださったのは、木製の小さな扉が目印の、かわいらしい喫茶店だった。
すべての席が半個室のようになっているそのお店は、古書やドライフラワーなどの小物がロマンチックな雰囲気を醸し出していて、私のなけなしの乙女心もくすぐられる。
彼方さんの言ったとおり、メニューにはチーズケーキの文字が大々的に載っていて、私はブレンドコーヒーとともに喜び勇んで注文した。
どうやらここのチーズケーキは、サワークリームを使って二層になっているものらしい。
チーズケーキの中でも、私が一番好きなタイプだ。
出てきたケーキをさっそく頬張れば、サワークリームのさわやかな酸味と土台のさくさくとした香ばしさが広がって、私をこの上なく幸せな気分にさせてくれた。

「先生は甘いものがお好きなんですよね。エッセイと、何かのインタビューでも読みました」
すると、その様子を見ていたらしい彼方さんが、くすくすと笑い声をもらすのが聞こえた。
「この前のフレンチトーストも美味しそうに召し上がっていましたし」と言われ、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになる。
そうか、だから彼は今日、甘いものが有名なお店に連れてきてくれたのか。

「えっと、元々甘党ではあるんですが……甘いものはガソリンというか、ルーティーンというか、プラシーボなんですよ」

「プラシーボ?」

「つまり、自分で自分に暗示をかけているんです。甘いものを食べれば、いい小説が書けるっていう」

「なるほど。俺にとってのコーヒーみたいなものですかね? 仕事や読書の前に、集中するためのスイッチとして飲むことがあります」

「そうです! そんな感じです!」

そういえば以前、同じ話を東雲さんにしたとき、「私にとっての煙草ですね」と聞いた覚えがある。
大人は誰しも、そういったものをひとつは持っているのかもしれない。
面白いことを知ったなと思いながら、カバンから手帳を取り出し、メモに残す。
物語の中のエピソードとして利用できるかもしれないと考えていると、目の前に座る彼方さんも、自分のカバンの中から手帳のようなものを取り出すのが見えた。
なんだろうかと不思議に思えば、彼は茶色い革製のそれを開くと、そのまま私に向かって掲げてくれた。
目に飛び込んできたのは、白い紙いっぱい羅列された、あの見慣れた綺麗な文字だ。

「それは……?」

「日下部先生にいろいろとお話しできるように、俺の方でも友人や同僚の生態を調査してきたんです」

「ええっ!?」

なんて律儀な人なのだろう。
驚いて彼の手帳をじっくりと拝見すれば、ご友人や同僚の方に関することが丁寧に書き連ねてあって、私は途方もないような優しさを感じた。
一体この人はどこまで好青年なのか。

「社内にチームがあるので、休日はフットサルをやっている同僚が多かったですね。あと最近は男女ともに料理にハマってるやつも多くて――」

それから彼方さんは、調べたひとつひとつのことを穏やかな声で説明してくれた。
仲のいい友人のプロフィールや、その中で起こった出来事は、生きている人間の熱量のようなものがあって、いい意味で生々しい匂いが立ち込める気がした。

「ああ、そうだ。まるで小説みたいだなと思ったエピソードもあるんですよ」

そう言うと彼は最後に、高校時代からお互いに両片思いをしていたという、先輩社員二人について教えてくれた。

「高校時代、二人は同じ部活の先輩後輩だったんですが、告白できないまま卒業して、一度は離れ離れになってしまったそうです」

「それから偶然、社内で再会したと」

「はい。そしてついにこのあいだ、10年越しに想いを実らせて付き合うことになったんですよ」

「すごい……そんな運命的なこともあるんですね」

なんて素敵なエピソードだろう。
ドラマチックで、これは次回作にも活かせそうだと思っていると、私はとあることに気づいた。
ちょっと待てよ、10年越しに偶然出会ったというなら、私と彼方さんも同じではないか?
頭の中で彼方さんの先輩と自分たちが重なり、運命的だと言った言葉がブーメランのように刺さる。
それなら私と彼だって――。
そこまで思い至って、私は冷静になり、首を横に振った。

……いや、違う違う。
仮に運命的だったとしても、私たちの出会いは恋愛的なものではない。
だって私にとって恋愛とは、分不相応な、自分とはまったく縁のないものなのだ。
それもこんな好青年相手に、ありえない。
突飛な妄想へと行きついてしまった思考を押さえつけ、これは想像力の発達した作家の悲しき性だと、心を落ち着かせるためにコーヒーを飲む。

「俺の話、役に立ちそうですか?」

ひとしきり彼方さんの話を聞くと、彼は心配そうに私の顔を窺った。

「もちろんです。彼方さんのおかげでリアルな話が書けそうな気がします」

「それならよかった」

優しく微笑まれて、はからずも赤面しそうになる。
この非恋愛体質な人間でさえ籠絡させてしまいそうな力があるのだから、彼に恋人がいないのだとしたら、やはり何かの間違いではないだろうか。

「……あの、機密事項なら仰っていただかなくて構わないのですが」

どことなく居心地が悪くなり咳払いをしていると、そんな前置きをした彼方さんが真っ直ぐに私を見つめた。

「次回作もミステリーを書かれるんですか?」

「あ、いえ……実は恋愛ものを予定しています」

“恋愛もの”という言い慣れない言葉に、舌が絡まりそうになる。
ついにそのことが話題に上ってしまったなと、古くからの読者さんの手前で照れくさく思っていると、彼方さんは意外そうに目を丸くしていた。

「……恋愛がメインのお話は、ほとんど書かれたことがなかったですよね」

「はい。昔から、そういった類の話は苦手で。ですが万人が手に取りやすいジャンルではあるので、周年記念小説にぴったりだとの戦略的な意図が編集部にありまして」

東雲さんに言わせれば、作家の等身大の恋愛話というのは、それだけで多くの読者の気を引くものらしい。
10周年記念作で、しかも作家人生初の恋愛小説と銘打てば、きっと大勢の方が手に取るはずだという打算が彼にはあるのだろう。
たしかに一理あるとは思うけれど、それは作者本人の得手不得手を度外視すればの話だ。
苦笑いをしながら担当編集との一連のやりとりを伝えると、なぜだかそれを聞いた彼方さんは、その表情を一気に曇らせてしまった。

「彼方さん……?」

「すみません。でしたらやっぱり、俺はお役に立てないかもしれません」

「えっ、そんなこと――」

「日下部先生」

いきなり強い口調で名前を呼ばれ、私の体は自然と固まった。
一体どうしたというのだろう。
彼方さんの瞳に先日と同じような影が見えて、やはり私の勘は間違っていなかったのかと、静かに息を呑む。

「本来なら、このあいだお伝えしなければならなかったことがあります。あのとき、先生を突き飛ばしてしまった本当の理由です」

「本当の理由……?」

「はい。俺、他人の体温が極度に苦手なんです。他人に触れるのも、他人から触れられるのもだめで」

あのとき咄嗟に手が出たのはそのせいなのだと、自分の右手を左手で握りながら、彼方さんは悲痛な面持ちでそう言った。
突然の話に疑問符を浮かべながらも続きを促す。
すると彼は、一語一句を確かめるように事の子細を教えてくれた。

受診をしたことはないため正確な病名は分からないが、彼はおそらく接触恐怖症というものを患っているのだそうだ。
つまりは他人の体温に、異常なほどの恐怖や嫌悪を感じてしまう体質らしい。

「先生は虫や爬虫類は好きですか?」

「いえ、まったくです。むしろヘビなんかは特に苦手で」
「そうですか。でしたら俺が人から触られるのは、先生がヘビに巻きつかれてしまうような感覚に近いと思います」

「ひっ……!」

彼方さんの言葉に、ヘビの鱗の感触やその温度を想像して、私は背筋が凍るほどゾッとした。
そこで先日、私とぶつかった際に、彼の顔がひどく青ざめていたことを思い出す。
あれは単に驚いただけでなく、接触恐怖症のせいでもあったのかと知って、私は深く納得した。
そうなると日常生活を送るのも大変なのではないか。
そんなことを考えていると、彼がこちらに向かって深々と頭を下げた。

「きちんと理由を説明してから謝らなければいけないと思っていました。ですが、なかなか言い出せなくて。本当に申し訳ありません」

「あの、私は平気ですし、全然気にしていないので、顔を上げてください」

いくら自分に非があると思っていたとは言え、そんなパーソナルすぎることまで明かさなくともよかったのに。
この人は他人に対してどこまで誠実であろうとするのかと、少し心配な気持ちにもなってくると、彼方さんはやっと顔を上げて私と目を合わせてくれた。

「この体質のせいもあって、俺には恋愛経験がほとんどありません。だからこれ以上、先生にとって有益な話もできないと思います」

ああなるほど、お役に立てないとはそういうことだったのか。
女性の影が見えなかった理由も分かり、まるで謎解きをしているかのように、すべての辻褄が合っていく。

「えっと……たしかに私も、彼方さんみたいな方なら素敵な恋愛をしているだろうと思ってインタビューを持ちかけました」

言いにくかったであろうことを打ち明けてくれた彼方さんに、私も真摯に向き合いたいと思い、しどろもどろになりながら真意を白状した。
彼が苦笑する声を聞いて、申し訳なくなりながら視線を逸らす。

「俺にも好きな人がいたことはあるんですよ。相手の女性も、この体質を理解してくれていました」

「えっ、それなら――」

「ですが結局、俺は彼女の心を傷つけてしまったんです。そのときに悟りました。俺みたいな人間に恋愛は不可能なのだと」

寂しげな声を聞きながら、やはりこの人はどこか私に似ていると思った。
しかし小説を書くことしか能がない私とは違って、彼方さんは他人の愛を享受するにふさわしい人柄をしている。
そんな彼が人並みに恋愛を全うできないとは、なんてもったいないことなのだろうか。
どこかもどかしくなりながら視線を戻すと、彼は意を決したように居住まいを正していた。

「なぜこんな体質になってしまったか、理由をお話ししてもいいですか? 楽しい話ではないのですが」

「……お聞かせくださるのであれば」

「ありがとうございます。もしかしたら、何かのネタにはなるかもしれません」

自嘲ぎみに笑いながら、彼方さんは自分の過去の話をゆっくりと聞かせてくれた。

「俺は小三のときに母親を病気で亡くして、しばらく父子家庭で育ったんです。父親が再婚したのは、ちょうど俺が中二になったころのことでした」

聞けばお父さんの再婚により、彼には新しい母親と、二つ上の兄ができたらしい。
「父の再婚は素直に嬉しかった」と彼は言った。
精神的な負担が減ったのか、お父さんに元の笑顔が戻り、優しいお母さんに加えて、ずっと欲しかった兄弟までできたからだったそうだ。

「兄はとても賢い人で、俺もそんな兄を心から慕うようになりました。新しい家族に囲まれて、俺はひたすらに幸せでした。でも――」

「そんな幸せが続いたのは、中二の終わりごろまででした」と低く続いたその声に、私はひどい胸騒ぎを覚えた。