さっきまでの平和な雰囲気を塗り替える発言に、レイモンドが意外そうに目を丸くしている。

「まさかとは思うけど……侯爵家との縁談を蹴るつもりかい?」
「許されるのならば」

 素直な気持ちを告白すると、今度は楽しそうに口角が上がる。

「ふうん。好きな男でもいるのかな。――残念だけど、決定権は僕にある。君の意見がどうであれ、僕が結婚すると決めたら君に逃げる道はない」
「…………」
「まあ、こんなことは改めて言わなくてもわかっているとは思うけど」

 その通りだ。けれど、こっちにだって譲れないものがあるのだ。

「わたくしは……あなたに好かれるようなことをした覚えはありません」
「そうだね。でも君のことは知っているよ。君の家は定期的に孤児院に寄付をしているね。そして君自身、教会でのバザーには毎回参加している。慈善活動での君は、さながら女神のようだと子供たちに人気だ」
「……わたくしは自分のしたいことをしたまでです」

 誰かに褒められたくてやってきたわけじゃない。
 孤児院の運営はいつの時代も寄付がなければやっていけない。自分は運良く貴族の娘として生を受けた。おかげで、食べるものも着るものも困らない生活を送れている。
 だが、孤児院の子供たちは違う。古着を着まわし、限られた食料を分け合い、命を明日に繋いでいる。
 偽善者と呼ばれても構わない。困っている人がいるなら、手助けしたい。
 レイモンドは優雅に足を組み直して言う。

「でも、それは誰にでもできることじゃない。貴族の娘なら、自分の姿をいかに美しく見せられるかにこだわっている例も多いしね。だから、君みたいな子は珍しい」
「…………」
「知っていると思うが、僕は昔から女性に囲まれることには慣れている。女性が喜ぶ会話運びや気遣いも得意なほうだと思う。大抵の女性は僕に声をかけられて頬を染めるものだが、何事にも例外がある」

 レイモンドは甘い笑みを浮かべ、ローゼリアを真正面から見返す。
 意味深な視線に、もしかして、と傾けていた首を元の位置に戻した。

「……それがわたくし、というわけですか?」
「新鮮だったよ。喜ぶどころか、迷惑そうにされるなんて経験、今までなかったからね」
「それは申し訳ございません」

 とっさに謝罪を口にすると、レイモンドは困ったように笑った。

「誤解してほしくないんだけど、謝ってほしいわけでもないよ。僕は君のおかげで目が覚めたんだ。世の中、すべて自分の思い通りになるわけないってことに。……今まで僕にいいように事が運んでいたのはカレイド侯爵家という盾があってこそ。本当の僕を必要としてくれる人は思っていたよりずっと少ない。そして、女性が求めるのは次期侯爵夫人という肩書きだった。でも君は違うだろう?」

 確信を秘めた言葉を向けられて、不承不承、首を縦に振る。
 周りから注目されるより、その他大勢に分類される今の生き方のほうが性に合っている。他人に敬われる生き方は王女時代で充分だ。

「わたくしは贅沢な生活に憧れはありません」
「だろうね。そんな君だからこそ、将来の伴侶に迎えたいと思った。僕には君が必要なんだ。ローゼリア嬢、ぜひ考え直してほしい」
「……何度言われても答えは同じです。たとえ、このまま結婚しても。わたくしの心は一生、手に入りませんよ?」

 牽制のつもりで言うと、レイモンドは余裕のある仕草で、ソファの肘掛け部分に長い指先を乗せて笑みを深めた。

「それでも構わないと言ったら?」
「自分のための人形がほしいのなら、お店でお買い求めくださいませ。わたくしは商品ではありません」
「…………驚いたな。そんな断り文句、初めて聞いたよ」
「あなたには本音でぶつかったほうがよいかと思いましたので」

 無表情で淡々と述べると、しばし沈黙が降りた。
 それから少しの間を置いて、くつくつとこらえきれない笑いの声が聞こえた。

「くくっ、そうか。わかった。――五年だ。五年以内に君が幸せな花嫁になっていなければ、僕は今度こそ君を離さない。そのときは覚悟しておいてくれ」

 最初、何を言われたのか、とっさに理解ができなかった。
 けれど、彼の言葉を頭の中で反芻し、彼が折れてくれたのだとわかる。と同時に、ピンと張っていた緊張の糸がゆるまるのを感じた。
 ここが自室だったら、へなへなとソファから崩れ落ちていたに違いない。

「……承知しました」
「もしも僕に鞍替えしたくなったら、いつでも言ってくれ」
「万に一つもないと思いますが、そのときが来ればご連絡を差し上げます」
「それは期待してもいいということかな?」
「社交辞令です」
「残念だ」

 本当に残念そうに肩をすくめてみせるものだから、ローゼリアもつい笑みをこぼしてしまう。入室したときとは違い、応接間は和らいだ雰囲気に包まれていた。
 その後、雑談をしながら父親が来るのを待ち、綺麗な焼き目がついたクッキーをつまむ。外は快晴。絶体絶命だと思われた問題も回避できた。

(今度こそ、わたくしは幸せな花嫁になってみせるわ――)

 まずは父親に事情を説明し、この婚約の話を白紙に戻して、新たな婚約者としてエリック・スペンサーの名前を挙げなければならない。