日が経てば経つほどに、それは確実に恋の形を成してゆく。

人知れず咲く道端の花は、彼女を想起させるものとなっていた。

自覚を促す鼓動に、そっと手を当てたとき────微かなピアノの音が耳元を流れた。

目に映ったのは定休日のレストランで、僅かに開いた窓から聴こえてくるその音は紛れもなく彼の音だった。

人通りの少ない夜道を明るく彩る旋律は、波打つ私の鼓動を落ち着かせてくれた。

不意に音が止み、店の扉が開かれると、「今日は定休日で────」と目を瞠る彼と視線が重なった。

「彩さん」

知らないはずの私の名前を呟いた彼はすぐに、「すみません」と慌てた様子で目を伏せた。

「生け込みに来たときに、よく美散が貴方の話しをするもので……つい名前を」

平静を装いながらも、彼の口から出た彼女の名前に私の鼓動は再び波打ち、冷えきった頬は緩徐に熱を帯びていった。

「僕、(かおる)っていいます。ここの二階で暮らしているんです。よかったら暖まっていきませんか? 何も提供できないですけど」

彼の厚意を無下にすることも出来ず、私は彼の後に続いて四度目のレストランの扉を潜った。

螺旋階段の電飾が煌めく店内に、私と彼の靴音が響く。

「綺麗でしょう、普段とは違って。防犯も兼ねて夜はずっと点けたままにしているんです」

そう言いながらピアノの丸椅子に腰掛けた彼は、「音楽なら提供できますから、何でも注文してください」と莞爾と笑った。

それに対して苦い笑みを返すことしか出来ずにいると、彼は鍵盤に軽く指を乗せ、徐に聴き覚えのある曲を奏で始めた。

頭に浮かんだのは、いつか彼が教えてくれた曲と────物悲しげな彼女の姿だった。

鍵盤から手を離した彼は、「あのとき嬉しかったんです」と恥じらうように顔を俯けた。

「僕の演奏に耳を傾けてくれる人がいるんだと思って」

私はそのとき初めて、彼の目に彼女が映っていないことを知った。

そして────

「この曲は、美散のお父さんが好きだった曲なんです。よく口ずさんでいて────それで僕も弾くようになって」

物悲しげだった彼女の心に、ほんの少し指の先が触れたような気がした。

「知らずにいたら、貴方とこうして話すこともなかったんでしょうか……」

呟きを落とした彼は眼鏡越しに私を瞳に捉えると、「貴方が好きです」と声を震わせた。

その後に聞こえたのは結婚という、幼い頃からの憧憬の言葉で、私の中で波紋のように広がったその言葉は私の心を静かに揺らし────そして彼への返事を溢させた。