最初はピアノだった。

生演奏という言葉に惹かれて、私は生まれて初めてレストランの扉を潜った。

案内された席は出入り口に近い窓際のテーブル席で、ピアノからは遠い席だった。

注文した物を待っている間、入店時から流れる美しい旋律に私は耳を傾けた。

どんな人が弾いているのだろうかと、手の中のグラスから視線を持ち上げたとき────私は彼女を見つけた。

食事や談笑を楽しむ先客の中でただひとり、彼女だけが焦がれるような目で奏者の背中を見つめていた。

椅子の背もたれに手をかけて、運ばれた料理に手も付けずに。

私は縫いとめられたように、彼女から目が離せなくなった。

曲が終わるたびに小さく拍手を送る彼女が、冷めきった料理を慌てて食べる彼女が、他人とは思えないほどに愛おしく、いつの間にか私の口元には笑みが浮かんでいた。

食べた料理の味よりも彼女の姿がいつまでも頭に残り、気づけば私は再びレストランに足を運んでいた。

二度目はピアノではなく彼女だった。

けれどそこに彼女の姿はなく、美しい旋律だけがあの日と同じように店内を流れていた。

雨に降られたような気持ちで席に着き、彼女が座っていた席に目を向ける。

比較的ピアノに近いその席はきっと彼女の特等席で、空席のときは店員に言ってそこへ案内してもらうのだろうと想像する。

そして、あの焦がれるような目を奏者に向けて────。

途端に微笑ましさと羨ましさが綯い交ぜになったような気持ちになり、私は奏者に移した目をメニューへ落とした。

食事を終え店員の声を背に店を出た私は、時刻を見ようとして手首に時計がないことに気がついた。

上着のポケットや鞄の中を探していると、閉じたばかりの扉から勢いよく見覚えのある男性が出てくる。

私に驚き、「あっ」と声をもらしたその人は、「よかったぁ」と破顔し私に右手を差し出した。

「貴方のですよね? 」

手のひらに乗せられていたのは私の腕時計で、目の前のその人は彼女が見つめていたあのピアノ奏者だった。

「テーブルに置き忘れていたので」

「すみません……」

「いえいえ」と彼は手を振りながら眼鏡の奥にある目を優しく細める。

温厚────という言葉が似合う人だと思った。

会釈をし彼に背を向けたとき、不意に店内を流れていた曲の一つが頭を掠めた。

どこか懐かしいその曲は、唯一彼女が彼から目を背けて聴いていた曲だった。

小さく拍手を送る彼女の姿も、そのときだけは物悲しげに映った。

「あの曲────」

「えっ? 」

「さっき弾いていた曲です。どこかで聴いたことがあるような気がして」

羞恥心から口ずさめずにいると、「あぁ」と彼は左手に持っていた楽譜を私に見せ、「アメリカの有名な曲です」と教えてくれた。

そして、「それ以外の曲は、全部僕が適当に弾いているだけですから聴いたことは無いはずです」と照れたように彼は笑った。

ピアノ奏者の彼と話したのはそれが最初で、彼と彼女が幼馴染だと知ったのは、三度目のレストランだった。

降り頻る雨の中、レストラン前の路肩に「若原生花店」と店名の入った車が停まっているのが傘越しに見えた。

車から降ろした花を抱え、濡れそぼるその人に私は思わず目を瞠った。

後ろで束ねた短い髪、質素な服装────数歩先にいるその人は、あの日と変わらない姿の彼女だった。

咄嗟に駆け寄り、私は彼女に傘を差し掛けた。

私よりも背の低い彼女は、驚いた様子で私を見上げた。

「すみません」と眉を下げる彼女に笑みを返し、レストランまでの短い距離を一緒に歩く。

店の扉を開けたのは、ピアノ奏者の彼だった。

「窓から見えて────」

彼女から私に視線を移した彼に、私は軽く頭を下げる。

「あぁ、この間の! 」

彼は彼女から花を取り上げながら、「店のお客さんだよ」と彼女に囁く。

親しげな二人のやりとりは恋仲のように思われて、閉じた傘を手に顔を俯けていると、「幼馴染なんです」と邪推した私を一蹴するように彼は言った。

「売れ残りなんですけど……傘のお礼です」

そう言って彼女が上着のポケットから取り出したのは、花を詰め込んだおはじきのような物が装飾された小さな髪留めだった。

訊けば、ミルフィオリという硝子細工の一種らしい。

知り合いの硝子工房で気まぐれに彼女が作った物なのだと彼は言う。

「可愛い……」

口をついて出た言葉に彼女は初めて笑顔を見せると、「店にまだ何個かありますから」と嬉しそうにショップカードを私の手に握らせた。

彼女に会えた喜びと、思いがけない贈り物に気持ちは高揚し、帰りのバスの中で手にした髪留めを前に彼女を想う私は────さながら恋する少女のようだった。