あーあ、また始まった。
こと細やかに記した日誌は、一度目を通して、終わり。丁寧な文字を意識して書いたこと、今日の感想の欄をびっしり埋めたこと、気にも留めていない。
証拠にほら、日誌をパタリと閉じて、パソコンの隣に乱雑に置かれた。
窓から差し込む夕日が、日誌の表紙をぼやけさせる。淡い赤色が表紙の真ん中に侵食し、なじんで、白んだ。元々どんなだったっけ、と思い返しても、思い出せない。その程度のことだ。
「いつになったら正しく制服を着てくれるんだ」
放課後の職員室。二階堂先生は椅子に座ったまま、厳しい目つきでわたしを見上げる。
苦味の強いコーヒーの香りが、鼻の奥を通り抜け、こめかみあたりを刺激した。ぐっと眉間をしかめれば、不服そうな顔のできあがり。
また反抗的だと思われていそう。
おそらく二階堂先生も、木本くんと同じタイプだ。顔は口ほどにものを言う。
「こういうのはそれなりにこなしておいて、どうして態度はそうなんだ」
はあ、とわざとらしいため息をつかれた。日誌の上で手を2回弾ませながら、やれやれと首を振る。
今回は呼び出されたのではない。日直の仕事を完遂したことを報告しに来たのだ。それがどうだ。日誌を提出して早々、恒例のお説教タイムが始まってしまった。
こういうの、って何。そうなんだ、って何。
先生。わたし、それなりにこなしてないですよ。しっかり責任を持ってやり遂げたんです。
教室の黒板もきれいに消した。がんばりすぎて、髪の毛とシャツがチョークまみれになって大変だった。
襟元だけ黒色のシャツはおろしたてだった。衣替え期間が明け、完全に夏仕様にシフトチェンジした制服を着込んできたとたんこの始末。この苦情もだいぶ寛容な表現で日誌の感想の欄に書いたはずだ。
二階堂先生のほうこそ、それなりに読んで、それなりにしか把握していない。わたしのがんばりも苦労も、おざなりな扱いを受けた気分。べつにほめてもらいたいわけではないけれど。
けど……けどさあ。なんか。ちょっとなあ。
「勉強や仕事の出来はよくても、態度がそれじゃあ内申点はやれないぞ」
「内申を稼ごうだなんて考えていません」
「そうだろうな。でなきゃそんな派手な格好はしないだろう」
チョークの粉をかぶったシャツに視線を感じた。
派手、だろうか。自分でも見直してみるけれど、そういった感想はどうしても浮かんでこない。
丸みを帯びた黒色の襟。学校指定のベストの下からはみ出た半袖は、麻素材のアイボリー。ベストで隠れている胸ポケットには、黒の糸で刺繍がほどこされてある。
これは派手というより、ナチュラルで大人っぽいカテゴリーに入る。世代とか価値観とかでずいぶん変わって見えるらしい。
「色味はひかえめにしたつもりなんですけどね……」
「色味がどうとかではない。校則に従い、一生徒として恥じない格好をしなさい」
「してますよ」
「わたしは真面目に言っているんだ」
「わたしだって真面目です」
校則では、次のように明記されている。
髪色は黒か茶。ただし地毛の場合は髪色は問わない。ピアスや指輪などの派手な装飾品は禁止。学校指定のブレザー、スカートもしくはズボン、カバンを使用すること。ただし夏服の場合は、ブレザーではなく、学校指定のカーディガンもしくはベストを着用すること。
それを把握したうえで、さて、わたしはどうだろう。
髪色は、赤みが強いが、茶色に属する。アクセサリーはヘアピンのみ。その色味は鮮やかだが、きんきらきんな派手さはない。学校指定のベスト、スカート、カバンもちゃんと使っている。
ほーら、ごらんなさい。どこからどう見ても、この学校の生徒として申し分ない装いをしているではないか。
校則の範囲内で、シャツやらヘアアレンジやら、わたしらしい個性を上乗せしている。それだけのことなのだ。
まちがったことはしていないし、恥ずかしいと思ったこともない。
「先生は、わたしが恥ずかしいですか」
「田中、卑屈に取るのはやめなさい。わたしは態度を改めろと……」
「自分らしく、自分に胸を張って過ごすことを恥だと、そうお思いですか」
二階堂先生は押し黙った。聞き耳を立てていた他の職員も、つられて口のチャックを閉める。
職員室は静寂に包まれた。コーヒーの湯気がうすまっていく。
教師は絶対的な存在ではないし、大人が必ずしもえらいわけでもない。それを指摘するのが、子どもであり生徒であっても、おかしなことではないだろう。
正解と不正解に分けられない問題があり、むりくり二分化してしまうのは実にもったいない。どれも正解、どれも真面目でいいじゃないか。生き方は無限大だ。
そう意見することを反抗的な態度だと捉えるのならば、わたしは、はい、そうですね、と答えるほかあるまい。
「自分にうそをついて、自分をねじ曲げてしまうことのほうが、よっぽど不真面目なことだと、わたしは思っています」
わたしは、わたしに、うそをつきたくない。
わたしを、きらいになりたくない。
「それでは、日誌は届けたので。さようなら」
応酬が激化する前に、ふんぎりをつけ挨拶をした。切り替えの早さにぽかんとする先生をよそに、すたこらさっさと職員室を出て行く。
パタリ、と閉めた戸に、後頭部をすり寄せた。
うーん……強く言いすぎた? いやいや、なあなあになるよりましだ。主張すべきことは言い切った。これでまた「田中まひるは不良だ」といううわさに尾ひれがついたら……。
「ま、そうなったらそうなったで、なんとかなる!」
今までだって、なんとかなってきた。というか、うわさ自体を知らずにのんきに過ごしてこられた。きっとこれからも、そう。意外と杞憂で終わるものだ。
予定外のお説教はあれど、何はともあれ、日直の仕事はコンプリートした。ようやっと放課後だ。
帰って小説の続きを読まなくちゃ。昨夜読みふけったのは、物語の前半部分。ヒロインの女の子が好きな人に失恋して、甘い恋がひび割れてしまったところまで。後半はどうなるんだろう。好きな人と結ばれるのか、はたまた幼なじみとくっつくのか。気になるなあ。
職員室の前に置いておいたカバンを肩にかけ、昇降口を目指す。職員室の前を通り過ぎると、扉がスライドされた。気にせずに回廊を歩く。
「田中さん。田中まひるさん」
「……?」
しわがれた声に呼び止められた。過ぎたばかりの職員室のほうへ首を回す。白髪に丸いメガネをかけた教頭が、そこにいた。
教頭は、今年で還暦を迎える。学校で一番のおじいちゃん先生だ。今では教鞭をとることはなくなったものの、長年生徒を見守り続けてきた。生徒思いなことで知られていて、ごくまれにカウンセラーの役割を担っていると聞く。
そんな教頭から直々に話しかけられた。はじめてのことだ。何ごとだろう。ついさっきまで職員室で優雅にコーヒーをたしなんでいた人が、どうしてわざわざわたしに。
「えっと……教頭先生、わたしに何か……」
「二階堂先生は、生活指導を担当しています」
「え……あ、はい……」
これこそ、はい、そうですねとしか言えない会話だ。これは前置きか、本題か、つかめない。
大いに困惑しているのを見透かし、教頭は目元を線状にして微笑した。
「それゆえ指導に熱が入り、口を酸っぱくして注意してしまうのです。受け持っている教え子なら、なおのこと」
「……ええ、はい」
「言い方は少々きついかもしれませんが、何もあなたをきらって言っているのではありません。個性を重んじることも大切ですが、どうか、二階堂先生の考えもわかってあげてください」
アルファー波を発した声音は、朗々としていて、すっと耳に入っていく。胸の裏側でモヤモヤと湿気っていたものを、さらりと取っ払ってくれる。
教頭は、生徒だけでなく、同じ先生という立場もおもんばかる人だ。
職員室で言い合いになっていたのを気にかけ、二階堂先生のフォローをしに来たといったところだろう。フォローの仕方はやさしく、わたしの考えを否定はしない。カウンセラーとして頼られるのもなっとくだ。
「二階堂先生は、田中さんを心配して……」
「はい、わかっています」
「! ……そうですか」
二階堂先生は頭でっかちで頑固だ。そのうえ時代錯誤な価値観を大事に持ったままだし、厳しくてねちっこくて、ついでに説教が長い。
こうして特徴を並べ立てると、けっこうめんどうくさいタイプだなあ。あ、でも、わたしも二階堂先生のことはきらいじゃないよ。
特別好意的には思っていないけれど、一応尊敬はしている。
注意を聞かずに、言いたいことを言って逃げるわたしを、二階堂先生はあきらめずに毎日毎日追いかけてくる。
もういいやと放棄しても、義務教育を終えた高校生が相手なのだから、とりわけ咎められることもないだろうに。
現に、昨年度はそうだった。生活指導や担任の先生は一度や二度の注意をして、おしまい。そんなもんか、とわたしもなっとくしていた。
二階堂先生は、ちがう。
生活指導担当だから。担任だから。それだけではないことは、ちゃんとわかっている。
わかっているんだ。
自分らしく在ることが、ときに強さに、ときに弱さになること。
みんなと同じ生き方が、最適なときもあること。
みんなとちがうことが、苦しさになりうること。
確固たる集団意識は、学校と生徒を守るためであることも。
そう、わかっているから、先生は何度も警告する。生徒をどうでもいいと思っていたらできないことだ。先ほどもそう、二階堂先生なりの愛情を持って、わたしと向き合っていた。
先生の考えも一理ある。わたしにもわかるよ。わかっているけど……。
でも。でもね。
それでも、わたし。
自分をいつわって、つらい思いをするのはいやなの。
――もう、できないの。
「わかっているからこそ……ゆずれないんです」
これはいわゆる意見の相違。よくバンドの解散に起因する、方向性のちがいのようなもの。理解と共感はできても、妥協はできない。
そこで線を引かず、向き合おうとする二階堂先生は、鋼のメンタルの持ち主にちがいない。そっちがその気なら、わたしも、誠意には誠意で返す。
顔を合わせて、言い合って。ただ、時間をむだに長引かせるのは、先生のわるい癖。時は金なり。わたしは折を見て、妥協しないと言い逃げするまでがワンセットだ。
「そう……、そうですか。いらぬ心配でしたかね」
「いえ、ありがとうございます、教頭先生。さようなら」
「引き止めてすみませんでしたね。さようなら。気をつけて帰るんですよ」
「はーい!」
にこやかに返事をし、軽い足取りで昇降口へ歩いていく。教頭はメガネをかけ直し、わたしの背中をしばらく眺めると、おもむろに職員室の扉を開けた。隙間からかすかにコーヒーの残り香が吹き抜けた。