◇◇
「あ、いたいた」
快晴の空に自力で近づくと、黒色のベストがすでにそこにあった。
ほっとした。ちがう場所にいたらどうしようかと思った。……どうもしないんだけど。探し回るの一択なんだけど。
でもでも、だって、昨日はそっちから出て行っちゃったから。もしかして、と思って。杞憂だったみたいでよかった、よかった。
逆にあっちは表情を歪ませている。
お気に入りの屋上の、さらに上。給水タンクのある場所で、空っぽになったプラスチックのお弁当箱をほったらかしにし、気持ちよくひなたぼっこしていたわりには、すこぶる機嫌がわるい。
ええ、ええ、わかってますとも。わたしが来たからそうなったんだよね。それ以外ないよね。知ってる。
「なんで……」
「コレ買ってたら遅くなっちゃった」
「は?」
「ほら見て、アメリカンドッグ。買っちゃった。安くてびっくり」
「いや、だから、」
わざわざ温め直してもらったアメリカンドッグを見せつけた。
ケチャップをたっぷりかけたら、厚紙の中がべちょべちょになってしまった。お腹ペコペコな状態には、この絵面がものすごく暴力的。早く胃袋を満たさなければ。
困惑してる木本くんをよそに、ライスバーガーとシュークリームも袋の上に並べた。もちろん紙パックのオレンジジュースも欠かせない。
ストローを刺し、ひと口飲み、アメリカンドッグを厚紙から外した。いただきまーす。
「来んなって言ったよな」
大きく「あ」の口を開けて、ピタリ。
ようやくアメリカンドッグにかぶりつける寸前、いら立ちを孕んだ低音に制された。デジャブか。
するどい眼光で串刺しにされる。でも、ちっとも痛くない。
壁を作ってもいいよ。どうせその壁は、目には見えない。いずれ壁をぶち壊したいけれど、壊さなくたって、物理的に手を伸ばせば届く距離にいる。届くなら、壁があろうとなかろうと問題ないよ。
「来ないとは言ってないよ」
いじわるく笑ってみせた。
これみよがしにアメリカンドッグを頬張る。サクッ、フワッ、ジュワッの三拍子。これはうまい。甘みのあるふっくらとした生地のやさしい食感のあとに、噛めば噛むほどジューシーさのあふれるソーセージをダイレクトに感じる。買って正解だった。
おいしい。おいしすぎる。
ふたりでいるから、おいしさを倍感じるの。
「迷惑だっつってんだよ」
「うん」
「うん、って……だからおれは、」
「振り回しちゃってる気はしてた。ごめんね」
「な……」
「でもやっぱり、木本くんのことが知りたい。仲良くなりたいって思っちゃうんだよ」
知らないでしょう?
わたしの心臓がバクバク鳴ってること。
自分勝手なことをして、木本くんがどんな思いをするのか、なんとなくわかっていた。また拒絶される気はしていた。屋上に来るのは緊張したし、実はちょこっと怖かった。
今は、緊張してないし、怖くもないよ。どうしてだろうね。会って、しゃべったら、うれしい気持ちのほうが勝っちゃったのかも。心音が大きくて速いのはそのせいだ。
ぜんぶ知らないでしょう。
でもね、知らなくていいよ。
伝えたいことは、ひとつひとつ、伝えていく。
「おれは、独りがいいんだ」
ちっぽけな文句。ふた口目に噛んだ、生地の裂ける音に負けてもおかしくなかった。うつむきながらつぶやかれ、なおさら聞こえづらい。
聴覚にすぐれた耳を持っていてよかった。たやすくすくい上げられる。
「うそつき」
「っ、うそじゃ」
「ならどうして昨日、ちょっとだけだけど、一緒にご飯食べてくれたの? 拒むとき、どうして苦しそうにするの?」
あからさまな、拒絶。
それは真っ赤なうそ。
不愛想を決めこんで、独りでいいと自分に言い聞かせて。それのどこが「クールでかっこいい」のだろう。
わたしにはわからない。全然わかんないよ。
小野寺くんにつかまっていたときも、今だって、こんなにも苦しそうにしているのに。
そのうそは、誰にも、木本くん自身にもやさしくないよ。
「何に悩んでるのか知らないけど、昨日ふたりで過ごした短い時間だけでも、わたしがいやなわけじゃないんだなって気づけたよ」
「…………」
「仲良くなれる可能性が、少しはあるってことでしょ?」
昨日のアメリカンドッグ、おいしくなかった? わたしはとびきりおいしく感じるよ。
肯定も否定も返ってこなかった。さっき、廊下でも黙っていた。それが答えだった。
熱の抜けたアメリカンドッグは、三口目から耳心地のいい音を立てなくなった。もぐもぐと口内を上下させる。味は変わらない。むしろ濃厚なケチャップが染み込んでさらにおいしくなった。
続けて四口目。のんきに食を味わい続けるわたしに、木本くんの毒気が癒えていく。おそるおそる、のどの奥から弱音をしぼり出した。
「……俺のせいで、やな思いとか、するかもしれねぇじゃん」
やっと届けてくれたと思ったら、なんだ、そんなこと。
「しないよ」
「……断言はできねぇだろ」
「しないって」
笑顔で即答。わたしはちゃんと口に出して答えを言う派です。
木本くんは「信じられない」と表情で物語る。
信じられないのなら、神さまにでも誓いましょうか。仏さま、閻魔さま、それでもだめなら二階堂先生に誓ったっていいよ。
「いいことはあっても、いやなことなんてない。もし、いやな思いをするとしたら、それは木本くんのせいじゃないよ」
「そんなのうそだ」
「言ったでしょ。わたし、自分に正直に生きるって決めてるって。うそなんかじゃないよ」
「何が起こるかわかんねぇだろ」
「まあ、それはそうだけど……。信じられないなら、むりに信じなくてもいいよ。だけど、そう決めつけないでほしいな」
壁は分厚い。透明なぶん、向こう側をクリアに展望できて、物理的に触れられる。それができるならなんてことない。痛くもかゆくもないって、きっとこういうこと。
ビニール袋に隠し入れていたもうひとつの紙パックを、壁の向こう側に手渡した。『オレンジ100%』猫でいう猫じゃらし的なやつ。
ためらいがちに受け取ってくれた。一瞬わたしをチラ見し、思い切ってストローを抜き取る。ストローの先端で入口をこじ開ける。きれいなみかん色がのぼっていく。
「それにしても」
「ん?」
「あんたのメシ、やばくね」
「やばいでしょ」
「太るぞ」
「太ると思わなければ太らないが、今日の合言葉なの」
「何だそれ」
きっかけがほしかった。
ずっと待っていた。
こんなふうにふつうに話せていることが、すでにもう、わたしにとっていいことなんだよ。