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短い針と長い針の両方が、「12」の位置に達した。
国数英と続いた授業が、終わりを迎えた。最後の英語を乗り切り、晴れて自由の身。教室の内側が騒々しいほどに活気づく。これから夏休み後半戦が始まるのだ。エアコンは効いているが、クラスメイトの興奮は冷めるところを知らない。
そんな熱に誰よりも当てられ、あわ踊りでもしそうなひよりんは、ひとり机に突っ伏している。ここだけ曇天模様だ。
お勉強は苦手で、遊ぶことは大好きな典型的なタイプであったと記憶していたが、色白なその手には、つい数分前まで取り扱っていた英語のプリントが握りしめられている。
むむむっと眉間にしわを刻み、うなりながら真剣に英単語を追いかけている。隣から小野寺くんがプリントを覗きこんだ。苦労性でおせっかいなイイヤツなところが、大いに発揮されている。
「あー! もう! わっかんなーい!」
「どこが?」
「ここの文法。なんで過去形になるの!?」
「仮定法な……。そこは日本語にすると説明がむずいんだよな……」
ひよりんとは期末テスト前に勉強会を催した。そのとき英語の基本はそれなりに得とくできた。テストでもいい点を取れたと感激していたっけ。
だけど応用となると話が変わってくる。長い文章だと難解な熟語が頻出し、訳しづらくなる。夏休みの宿題にも、応用部分が多く出題されていた。以前より格段に知識が定着してきたとはいえ、ひよりんも危機感を抱いているんだろう。
通常なら、休憩時間に小野寺くんに教えてもらっていた。今日は夏休み中の補講のため、小野寺くんはこれから野球部の練習に行かなければならない。そのうえ、内容も内容で、さらっと教えるのは難しいところ。
「う~~ん……。よし。決めた!」
「何を?」
「これから先生のところに行って質問してくる!」
ひよりん、独り立ちのとき。
意を決して起き上がり、声高らかに宣言した。わたしと小野寺くんはそろって拍手をする。
がんばり屋さんだなあ。夏休みでも気を抜かずに苦手意識と戦おうとするんだね。ふつうにやってのけているけれど、たぶん、それをふつうにできていることがすごいと思うんだ。
甘え上手なところも、ねばり強いところも、ひよりんのいいところ。がんばれって言う前から、とっくにがんばってる。だから力になりたいし、わたしもがんばろうって思えるんだ。
小野寺くんも保護者の気分でひよりんをほめたたえた。栗色の前髪をわしゃわしゃとかき乱しながら、嬉々としてエールを送る。
「苦手克服できたらいいな」
「ちっがーう! 苦手を直すんじゃなくて、好きを増やすためにがんばってんの!」
「お、その考え方いいな。真似しよ」
「ふふん。あたしを見習って朝也もがんばってね! 大会、勝ち進んでるんでしょ?」
「おう! 次は準決勝だ!」
――大会を勝ち進んで、待ってっから。
木本くんへの、約束。一方的でも、小野寺くんはたしかに果たそうとしている。待っている、と、居場所を空けたまま。
約束のためだけではないだろうが、小野寺くんのひたむきさは成果につながっている。
元々浅黒かった肌は、いっそう黒く焼けていた。白シャツがパツパツに締まっている。それに、今朝からやけにテンションが高かった。ふわふわとしているときもあれば、急に熱量を高くして奮い立たせていた。
準決勝を目前にひかえ、どんどんパワーがみなぎっているのが、傍目に見ても伝わってくる。特に今日はひと味ちがう……気がする。久しぶりに会うからそう感じるだけなのか、それとも……。
「それに、今日は朱里も……」
あ。また、朱里くんの名前……!
ホームルーム前も言ってたよね。奇跡がなんとかって。あの続きが気になりすぎて、さっきの英語のリスニングは散々な結果だった。
思い出したかのように小野寺くんがわたしを捉えた。ゆるゆると開かれていった口は、すぐにつぐまれてしまう。やや考えこむと、にぃっと白い歯を光らせた。
「田中。朱里のこと、あとで本人から聞いてやれよ」
「聞くって……?」
「朱里の話は、本人の口から聞く主義だったろ?」
それはそうだけど……。話が見えない。一体何があったの。
きょとんとすれば、小野寺くんはいたずらっ子みたいに喉仏を上下させた。期待値が上がっていく。こうなったら本人から話を聞けるまで帰らないぞ。
「でもさあ、まひるん。今日は昼休みないよ?」
「屋上に行くだけ行ってみる。案外いるかもしれないし」
「……そっかあ。まひるんらしいね」
わたしらしい。その何気ない言葉が、胸に灯る。
そうだね。わたしは今日も、わたしらしくいられている。生きづらく、生きやすく、そうやって生きている。
「じゃ、またな!」
「またね! みんながんばってこー!」
気合いの入った小野寺くんとひよりんに大きく手を振る。階段を下りていくふたりを見送り、わたしは階段を上がる。と、その前に、自販機に立ち寄った。
3段目のボタン。ガコンッと受け口に衝撃が落とされる。今日も安定のオレンジジュース。赤く点滅したボタンに「売り切れ」の文字が現れる。ギリギリセーフ。とうとう運に恵まれた。
ジュースを飲みながら屋上へ向かうと、ギィギィ、と重厚な扉が揺れていた。施錠されていないどころか、閉められてもいない。まるでわたしを手招いているよう。急ぎ足で扉の奥へ飛びこんだ。
うしろ髪が夏風に巻きこまれた。ちょっと痛いくらい吹きすさいでいる。一歩前を行く足が重たい。
しかし空に白雲はなく、かたい地面に暗がりはない。笑みがもれた。いちばん高くまで昇った太陽が、進みたいところへ導いてくれる。容積の減った紙パックを片手に、手慣れた動作ではしごをのぼっていった。
給水塔の設置されたエリアに片足をつけると、まあるくなった背中を発見した。上履きのラインは、ていねいにみがかれた赤色。今日の先客は、寝そべっていない。
朱里くん、だよね……?
地面にへばりついて何をしているんだろう。何かを、書いてる? こんな風の強いところで?
「朱里くん。なーにしてるの?」
「うおっ!? ……まひるか。びっくりした」
「……朱里、くん……!?」
「……なに」
なに、って。えっ。だって。それ……!
正面に回り、かがんだら、絵に描いたようにおったまげた。
朱里くんの、あの、ダークブラウンの髪がなくなっている。正確には、短髪がさらに短く刈られていた。少し長くなっていたとはいえ、「さっぱりしたね」程度で流せるレベルじゃない。
まじまじと凝視すると、朱里くんは恥じらうように後頭部を掻いた。
坊主……ほどではないよね。そういうの、スポーツ刈りって言うんだっけ。すっごく似合ってるし、かっこいいんだけど。だけどさ……!
「き、急に、どうして……!?」
「決意表明、みたいな」
「決意表明?」
朱里くんは握りしめていたマジックペンを置いた。先ほどまで何やら書きこんでいた用紙が、ひらひらと風にあおられている。上と下をしっかりと押さえ、わたしの眼前に見せつけた。
黄ばんだ、ソレ。何本ものシワがつき、中央部分はとりわけでこぼこに曲がっている。そのいちばん上の四角と、その真下に引かれた一本の線に、形はちがうが大きさの競った、黒のインクがにじんでいた。
『野球部』
『木本 朱里』
それは。その言葉は。そこにこめられた思いは。
すべて見通したように風が吹く。1秒過ぎ去るごとに、感情が目まぐるしく入れ替わっていった。仰天、疑心、感動、喜色。あまりに衝撃が大きすぎて、頭が追いつかない。
「入部届……だ……」
「今朝、朝也から受け取った」
「野球、するの……?」
「……ああ。決めたんだ。そろそろおれも、自分の好きなことに真っ直ぐになろうって」
奇跡ってこのことだったんだ。本当だ。奇跡みたいだね。みたいなだけで、奇跡とは少しちがう。そんな不確かであやふやなものじゃない。
いくら実力があるといっても、入部してすぐにスタメン入りできるわけじゃない。ブランクがあるし、一度捨てたことがなかったことにはならない。もしかしたら、はじめは補佐的な位置づけかもしれない。
そうわかっていて、書いた。油性のペンで、一面日なたのこの場で、自ら逃げ道を断った。
どんな思いで言葉にしたのか、そのすべてをわたしは汲み取れはしない。でも。今の朱里くんが最高にいい表情をしていることは、教頭先生じゃなくてもわかっちゃうよ。
応援してる。朱里くんなら、なれるよ。どっちにしろ難儀な生き方でも、やっぱり好きで、大好きなら、きっと朱里くんらしくいられるよ。
「あと、もういっこ」
「え? まだ何かあるの?」
これまたびっくり。オレンジジュースを垂れ流したのどを、ごくりと鳴らす。下校していく生徒たちのざわめきが、急激に遠のいていった。
まひる。そう呼ぶ低い音だけは、鼓膜をくすぐる。まだ慣れないのはお互いさまなようで、どちらともなくぎこちなくなった。
「もう、おれのために、うそつこうとすんな」
「え。ええー……そ、それは……」
約束、できないな。二度はないと言い切れない。
うそをつきたくはないよ。だけどもしかしたら、また、うそをついたらやさしくなることもあるかもしれない。そうなったらわたし、ぜったい、うそをついてしまうよ。
いっこうにうなずけず、いっそ謝ろうとすると、ため息を落とされた。うんざりされたと思いこみ、わたしはただただうつむく。
あごをグイッと引き上げられた。必然的に目を合わせる。こうなることを見透かしていたように、黒い瞳は細められていた。
「どうしても必要なときは、俺がうそをつく」
心が震えた。ずるい。今、ほほえむなんて。
「朱里くん……な、何を言ってるか、わかってる……?」
「ああ」
「だって、それって……ずっと一緒にいなくちゃできな……」
「いるよ」
「……え?」
「まひるのそばに、いる。ずっと」
ああ、もう。ずるいんだってば。そんな、不意打ち、何も準備してない。無防備な心にドストレートに刺さる。涙腺も表情筋も、ゆるみきって直せないよ。
熱のたまった顔に、冷えた紙パックをくっつける。かちこちに固まった指先に圧迫され、ストローからみかん色の粒がわずかに飛び散った。
やっちゃった……。前髪がべたべたする。
ジュースの甘ったるさと柑橘の爽やかさが、太陽光に熟されていく。ひときわ匂いが強いところを、朱里くんは笑いながら撫でた。
「まひるもそんなふうになるんだな」
「なるよ。朱里くんがそうさせたんじゃんか」
「はいはい」
「……朱里くんもたいがいバカだよね」
「なんとでも言え」
朱里くんは立ち上がった。きれいに折り合わされた入部届を手に、グラウンドのほうを眺める。瞳の色を淡くし、風を受けた背筋を伸ばした。
わたしの『オレンジ100%』をひと口分けてあげる。いいよ、あとぜんぶ、あげる。特別だよ。
うすい唇がみかん色に濡れると、わたしは赤らんだまま破顔する。朱里くんの空いてるほうの手を、ぎゅうっと包みこんだ。
「わたしも途中までついてく!」
「い、いや、いい」
「ずっと一緒にいなきゃ。でしょ?」
猫顔にも熱が感染した。半分呆れたように焦がれると、つながりを少しずつ深めていく。高鳴る心臓に合わせて、せーので、やさしい光を集めた先に踏み出した。
今日も、あの東屋で、待ってる。
会いに来たら、また、ふたりで。
<END>