ひとりで帰るのはいつぶりだろう。帰り道ってこんなに長くて、つまんなかったんだ。忘れていたよ。隣にはいつも結月ちゃんがいて、他愛ないことでよく笑っていた。それが当たり前だった。
独りぼっちは、ひどく、むなしい。
帰路の途中、鳥居あたりがざわついていた。覗いてみると、明日の準備の真っ最中だった。町のえらい大人たちがそろい、屋台の組み立てや雪洞のくくりつけをしている。
結月ちゃんと行く約束をしていた、秋祭り。どんな浴衣を着て、最初は何を食べて、どこで花火を観て。念入りに計画を立て、期待をふくらませていたのがもはやなつかしい。
ケンカした手前、そういう気分にはなれない。明日は来れそうにないな。せっかくの約束も計画も、ぜんぶむだになっちゃう。でも……。
無意識に鳥居をくぐっていた。規則的に敷き詰められた石の上を、慎重に進んでいく。なぜか歩きづらかった。
お社はずいぶんと朽ちていた。陽気に祭りごとを迎えていた鳥居付近とは対照的に、お社の周りは粛々と沈黙を守り、ほこりをかぶりながらも神聖な質感を保っている。清く、正しく、ほこり高い空間は、もろくとも確固たる存在感があった。
「神さま……」
祈ったら、助けてくれますか。
ここに逃げてもいいですか。
うそつきも、救われますか。
そよ風が、髪を乱した。いつの間にか髪についていた枯れ葉が、ひらりひらりと宙を泳ぐ。変色した葉の山にあえなく散っていった。これが返答なのだと悟った。
うつむきかけた視界に、黒ずんだ灰色を捉えた。お社の脇にある小道を行くと、石畳の階段があった。草木に覆われ、見つけづらいが、たしかに小山の内部へとつながっていた。
階段に足をかけた。木々の影が重なり、足元が暗い。転ばないよう注意しながらのぼっていくと、うす汚れた屋根が見えた。
「こんなところに、東屋が……」
人の気配はない。柱に触れてみると、ひんやりと冷たい。お社と同様に、形として残っているのがふしぎなくらい老朽化が進んでおり、ボロボロに傷ついていた。
まるで、わたしみたい。だからかな。ここは居心地がいい。
屋根にできたすき間から、夕焼けの残像が降りしきる。蒼然とした地面を、点々と灯していた。
ベンチに座り、うずくまった。体重のぶんだけ板が歪んでいく。壊れてしまわないかひやひやしたが、やがて歪みが安定し、肌寒い静けさが訪れた。
わたしの息づかい。心音。温度。すべて鮮明に感じ取れる。得も言えぬ、孤独感。ほどよいさみしさ。癒えない苦痛。今のわたしにはちょうどいい。
独りになりかった。誰にも、侵されたくなかった。
お願いだから、これ以上、傷を負わせないで。
「――、」
他人の息づかい。いち早く気づき、神経を張りめぐらせた。誰かが、いる。自分以外の存在をこれほどまでに忌みきらったことはない。自分勝手な苛立ちをふつふつと沸かせた。
視線だけを持ち上げる。ダークブラウンの髪をした男の子だ。がたいのいい体に他校の制服をまとい、エナメルのバッグを背負っている。わたしにはなんら関係のない、赤の他人だった。
彼も、きまりのわるい面持ちをしていた。こちらをじっと見て、憂いた色を浮かべる。それがなんとなく、トゲまみれの心臓に障った。
「あ、あの……大丈夫、ですか?」
やめて。やめてよ。そういうのいらない。今、求めてない。
やさしいふりをしないで。きみだって苦しそうなくせに。大丈夫じゃないんだから、聞かないで。ほっといてよ。わたしは独りになりたいの。どうしてわかってくれないの。
「体調、わるいんですか……?」
「…………」
「あ、これ……オレンジジュース。今これしか持ってなくて……。好き、ですか? もし好きなら、よければ……」
「きらいっ!!」
差し出された紙パックを、彼の手ごと振り払った。紙パックが足元に転がり、水気のある表面に砂がついた。彼の黒い瞳が、やるせなく光る。
あ……。
わたし、また、傷つけた。
不安定に曲げられたその表情に、血の気が引いていった。結月ちゃんとおんなじ傷をつけてしまった。こんなの八つ当たりも同然だ。わたしはいつだってやさしさにうそをついている。
サイテー。もうやだ。こんな自分、だいっきらいだ。そんなんだから、救われないんだよ。
「ご、ごめんなさ……」
先に謝られ、開きかけた唇を縫い留めた。どくどくと血液がめぐっていくにつれ、罪意識に溺れていく。気遣ってくれた手を、痛めつけた自分の手が、今になってひりつき出した。
彼は紙パックを拾い上げ、砂を払い落とした。落としきれない汚れは、カッターシャツの袖で拭い取る。わたしを横目に、丸いテーブルの上にオレンジジュースを置いた。
「い、一応、ここに置いておきます。本当にきらいだったら、捨ててくれてかまいませんので」
「……っ」
「無理、しないでくださいね……?」
どうして……。
傷ついているんでしょ。わたしに傷つけられたでしょ。それなのにどうしてまだ、やさしくできるの。おかしいじゃん。そんなのふつう、できないよ。
男の子のほうこそ、無理して笑っていた。それはまぎれもなく、わたしのため。
よけいにトゲが埋まっていく。ドクン、と心音が熱くなった。
彼がいなくなり、日が沈むまで東屋にこもった。テーブルの上で忍び泣く、白と橙色の長方形。『オレンジ100%』の名称で知られるそのジュースを、置き去りにはできない。仕方なく手に取った。
きらいじゃない。好きだ。すごく好きだ。
ごめん。ごめんなさい。ありがとう。
今ならなんとでも言える。今さら手遅れだ。こんな思い悩むくらいなら、あのとき、言えばよかった。
「おかえりなさい。遅かったわね。何かあった?」
家に帰ると、お母さんに出迎えられた。顔色の冴えない娘に、心配そうに首をかしげる。そこはかとなく焼き魚のいい匂いがする。空っぽの胃を触発する。今日は、少し、吐き気を覚えた。
手のひらがふやける。オレンジジュースがすべり落ちそうになり、すぐさま強く握った。べこ、と紙パックが変形する。その感触がどうも気持ちがわるく感じた。
「まひる……? どうしたの?」
「……、な、なんでも、な」
うそ。なんでもなくない。
心を殺した。ヒトを、苦しめた。ごめん、も、言えなかった。
ぐわっと胃の底から激流が起こった。心臓が早鐘を打ち、体温が高まっていく。熱い。皮膚が内側から焼かれていくようだ。息ができない。絞まっていくのどに、かろうじて細々と酸素を流した。
なんで。何が、どうなっているの。わたし、どうなってしまうの。やだよ。助けて。誰か。神さま。
めまいがする。ふらついたわたしを、お母さんが焦って支える。赤みがかった肌には、ぽつぽつと蕁麻疹ができていた。バチが当たったんだろうと、うすれていく意識の中でぼんやりと嘆いた。
医者には、精神的なものだろうと診断された。当然秋祭りには行けるわけもなく、お母さんが結月ちゃんの家に連絡したのをあとから聞いた。高熱が引いてきたのは、3日ほど経ったころだった。
学校は休んだ。完治していないし、それに、行きたくなかった。合わせる顔がない。気軽にうそもつけなくなった状態で、何を、どう、伝えればいいんだろう。
いまだに恥ずかしくて、怖くて、苦しくなる。傷と一体化した感情は、否応なしにわたしを攻撃してくる。この症状に陥ってもなお、ときおりうそを吐いて、息を止めかけていた。
早く、大丈夫になりたかった。
――ピンポーン。
「まひる、結月ちゃんがお見舞いに来てくれたわよ」
部屋の扉を開けなかった。しばらくするとお母さんはあきらめ、玄関にいる結月ちゃんにやんわりとお断りを告げる。きれいなソプラノがうっすらと聞こえてきて、胸を締めつけられた。
家を出て行く結月ちゃんを、自室の窓から覗き見た。不意に結月ちゃんがこちらを見上げ、とっさにしゃがんで隠れる。
もう一度おずおずと外を眺めると、そこにはすでに、小柄な姿はなくなっていた。安心したような、がっかりしたような、相容れない気持ちに押しつぶされそうだった。
次の日も、その次の日も、結月ちゃんはわたしに会いに来た。文化祭を今週末にひかえ、委員として大忙しだろうに、毎日欠かさずわたしにチャンスをくれる。
そのたびにわたしは拒絶し、追い返した。安心安全な領域をはみ出すことに臆していた。
日が沈むころ、インターホンが鳴る。わたしの家の門を、結月ちゃんが肩を落として通り過ぎていく。天をあおぎ、目頭を手の甲でこすっていた。
結月ちゃん、痩せた、なあ……。元々細くて、華奢だったのに、さらにか弱げになった。窓越しで遠いから、そう見えるだけなのかな。だったらいいな。結月ちゃんには元気に笑っていてほしい。
笑えないのは、わたしのせい……だよね。ごめんね。
わたしがこんなんだからいけないんだ。いつまで経っても向き合おうとしないで、大切な友だちを泣かせたまんま。わたしばっかり苦しいんじゃない。そんなのわかってる。だけど。
やな思い、したくない。
――ピンポーン。
――コン、コン。
金曜日。PM 6:00。
恒例となったベルの音。次は、お母さんの上辺だけの問いかけ。
……の、前に、ノック?
「まひるちゃん」
うすい扉を越えてくる、この声、は。
「ゆ、づき、ちゃ……っ」
部屋の前に、結月ちゃんがいる。なんでいきなり。いつもなら玄関で耐え忍んでいた。今日になってここまで来て、何をするつもり。何を、言われるの。
きっと、怒ってる。うらんでる。悲しんでる。強がってる。ねぇ。そうなんでしょう。
わたしもそうだよ。甘えてる。おびえてる。悔やんでる。弱ってる。ほらね。わたしたち、ちっとも大丈夫じゃないんだよ。
どうせ会えない。会ったら、また、うそをつきそうになる。だったら、扉は開かない。いっそ待たなくていいよ。会いに行かないし、来いとも言わない。いいかげんわかって。わたしのために泣いたりしないで。もう誰も傷つけたくないんだよ。
やさしくなれないことは、わたしがいちばん、気づいてる。
ベッドに入り、毛布をかぶった。小さく丸くなった。耳をふさいだ。目をつむった。何もかもシャットダウンし、真っ暗闇に身を投じた。それ以上先には、逃げきれそうになかった。
「まひるちゃん……!」
「っ!」
叫び声がかすれながらも、布団の縫い目を横切り、手をすり抜け、聴覚を力強く叩いた。どんなに壁を作っても、ぜんぶ飛び越して届けられる。あきらめてくれない。
わたし、受け取れないよ。何の気なしに返事なんかしたくない。そんな簡単なことじゃないんだよ。この傷も、その傷も、触れるだけで悪化するにきまってる。
いやだよ。つらいよ。消えてしまいたい。
「まひるちゃん。あのね、聴いて?」
「…………」
「明日、文化祭だよ。秋祭りは行けなかったけど……あ、あたし!」
「…………」
「あたしはね! 文化祭こそは、まひるちゃんと楽しみたいって思ってるよ!」
扉が振動した。木目を指でなぞる。鼻をすする。名前をささやく。一歩うしろに下がる。感覚はすべて閉ざしているにもかかわらず、どの音もはっきりと伝わってきた。
楽しみたい、って。知らない。わからない。
……そうだよ。わかるはずがない。だって、顔を合わせていない。しゃべっていない。ずっと近くにいた結月ちゃんは、今はあんなに遠い。怒ってるとか、悲しんでるとか妄想して、わかった気になっていた。
とっくに結月ちゃんは前を向いていた。サイテーなわたしのこと、わからなくて怖いだろうに、味方で在ろうとしてくれている。
わたしも。
結月ちゃん、わたしもね、思ってる。
ひとりきりで食べるごはんは、おいしいけど味気なく、箸が進まない。帰り道もつまらなかったし、ここまで響いた花火はきれいなだけ。
わたし独りじゃ、どこにいても、何をしていても、あったかくなかった。
一緒だから、好きになれた。
「わ、わたし……っ!」
――『うそつき』
ドックン、と左胸がしびれた。咽頭が固くしぼられていく。言葉を吐き出せない。たちのわるい熱が、心の大事なところを燃やしていく。
やばい。だめだ。本音を押し殺して、うそがこぼれてしまう。
わたしが届けたいのはそれじゃない。ちがう、のに。
助けて。
――『本当にきらいだったら、』
毛布をはぎ取った。闇を脱し、ベッドの横に設置してある棚へ、一心不乱にうでを伸ばす。
棚の上に放置し続けていた、紙パックのオレンジジュース。うそがのどを這い上がるより先に、トゲを引っこ抜くようにストローを取り出した。
ぬるいのか冷たいのか、あいまいな酸っぱさ。するりと体内に溶け、拘束を解いてくれる。苦しさを甘やかな風味にやわらげ、鼻から抜けていった。
「……ふ、っ、おいし……」
やさしい味がした。大好きだった。うそじゃない。
わたしの言葉だ。わたしの、思いだ。
じわじわと涙があふれた。熱の放れた頬に、熱のこもった雫が伝っていく。涙腺がぶっ壊れたようで、いくら拭いてもぼろぼろ流れる。
オレンジジュースの横に置いていた鏡に、ぐちゃぐちゃな顔が反射した。ひっどい顔してる。真っ青に濡れて、目元だけ赤くて、口の端がだらしなく垂れている。
でも……わるくない。
ストローをもう一度みかん色に染め上げ、ベッドを下りた。地に足をつけ、深呼吸する。鏡の前で笑ってみせた。へったくそな作り笑顔。かわいげのかけらもない。
それでいい。笑えてるなら、いいんだ。
痛いもんは痛い。ヒトは怖い。正直にい続けるのはしんどい。
それでも、わたしも、大丈夫になりたい。
傷つけたくない。やさしくしたい。そう在りたいから、わたしが、大丈夫にする。
ハサミを握り締めた。輪っかに右手を通し、左手でぱさついた長い髪をわしづかみにする。刃ではさみ、覚悟を決めて指を折り曲げた。切れ味がいい。こしから鎖骨あたりまでばっさり切れた。身体が軽くなる。
泣きながら、髪を切り落とし、笑ってるなんて、変人そのもので無様に思う。いいよね、こういうのも。逃げ隠れしていたときよりもうんとかっこいいじゃないか。うそつきなわたしとは、さよならだ。
扉の前でつま先をそろえた。ドアノブに触れる。とたんに音痴になった心臓につられて、指先が震えてしまう。緊張する。思わず手を引っこめようとした。
「……会いたいよ、まひるちゃん」
呼んでる。
大切な友だちが、わたしを待ってる。
行かなくちゃ。
ゆるみかけた指を、ドアノブにくっつけた。そうっと手を回していった。ほの暗い室内に光が差す。まぶしさを一身に受けた。
「――結月ちゃん」
「……! ま、まひる、ちゃ……?」
結月ちゃんもむせび泣いていた。信じられなさそうにまばたきをして、皮のめくれた唇を引き結ぶ。小さな顔はやつれ、白い肌は傷んでいた。
痛い痛いと傷口が金切り声を上げる。今すぐに逃げ出したい衝動をこらえ、素足で踏んばった。ひそかに握りこぶしをつくる。
やな思いも取りこぼさない。結月ちゃんと真っ直ぐに向き合いたい。
言わないと。大丈夫。今なら言える。
髪を短くしたかったんだ。紺色の浴衣はわたしには着こせないと思う。着付け教室の案も取り入れようとしてくれたね。結月ちゃんの恋愛観、すごくすてきだと思ったよ。毎日会いに来てくれてうれしかった。文化祭は一緒に回りたい。
うまくまとめられないから、これだけはいちばんに言わせて。
「結月ちゃん……ごめんね。ありがとう。大好きだよ!」
「……っ、あたしも、ごめ……。会いたかった……!」
破顔しながらうでを広げるわたしに、結月ちゃんは鼻水をたらしながら抱きついた。わんわん泣いて、お互いの肩をびしょぬれにした。近くにいたお母さんも、もらい泣きをしていた。
ぎゅうっと背中にしがみつく結月ちゃんを、倍以上の強さで抱きしめ返した。怖かったよね。心細かったよね。ようやく安らげる。わたしたちは、独りじゃない。
日影も日なたもあるこの世界で
わたしはわたしらしく生きる。
今、そう決めた。