――ガコンッ。


3段目のボタンを押すと、ひざ下にある受け口にお目当ての物が落ちてくる。受け口の底に手を突っ込み、ひんやりとした感触ごとつかみ取った。

白と橙色の長方形。手のひらサイズの紙パック。


『オレンジ100%』


真ん中にでかでかと主張のある面の裏からストローを抜きとる。斜めにカットされた先端で小さな銀色の円に突き刺し、吸い込んだ。




「ん、おいし」




AM 8:20。


まだ朝のショートホームルームも始まっていない時間。人のまばらな廊下。2-6の教室のななめ前あたりで窓を開けると、涼しい風が吹き抜ける。


今日はいいお天気だなあ。真っ青な空。白い雲。絵に描いたような晴天、ってこういうことを言うのかな。

窓枠にひじを乗せ、ほのぼのとした気持ちで天を仰ぎながら、ストローをオレンジ色に染めた。朝からたまってしまった疲れを、糖分でいやしていく。


やっぱり飲むならコレだね。
オレンジジュース。


味覚をつんと刺激する酸っぱさ。そのあとに爽やかな甘さが口いっぱいに広がる。ごくりとのどの奥に流し込んだ。心臓の上あたりが冷えていく。

ずずっと吸い込み続けたせいか、紙パックがベコッとつぶれた。




田中(タナカ)!」




階段側から怒鳴り声が飛んできた。

狙いは、わたし。


ため息と舌打ちが同時にこぼれそうになったところを、オレンジジュースを思い切り吸い込んでごまかした。紙パックの中の空気が抜ける。あ、また、つぶれた。


ドスドスと重たい足音が近づいてくる。ちらりと見やれば、ふきげんそうにつりあがった目とかち合った。

あーあ、最悪。




「もう一回あいさつしたほうがいいですか? センセ」


「はぐらかすんじゃない」




窓を開けたところに差しかかる手前で、ひとまわり以上大きな男性が立ち止まった。

きっちりしたグレーのスーツ。しわのない新品さながらのワイシャツ。七三分けの古風な髪型。ていねいに剃られたヒゲ。生活指導担当という肩書きを持つだけあって、上から下まで身だしなみはカンペキだ。


だけど、うーん……。なんか暑苦しいんだよなあ。見た目の圧がすごいというか、なんというか。


6月になり、衣替え期間真っただ中。だんだんと爽涼さを求めるシーズンへ移り変わってきた。

しかし、この男――二階堂(ニカイドウ)先生には、圧倒的に爽やかが欠けている。ない。どこにもない。40代後半だからだろうか。威厳を手に入れた代わりに失くしたんだろう。残念である。せっかくここで涼んでたのに台なしだ。




「聞いているのか!」




わたしと人ひとり分ほどの距離が開いているにもかかわらず、つばが飛んできた。口調の圧もすごい。年中猛暑のようなヒトだ。

結露した水滴でぬれた手のひらで、つばを拭い取る。今すぐ手を洗いに行きたい。




「なんだ、その顔は」




不愉快さがそのまま顔に出ていたらしい。先生には誤解を与えてしまった。目元のしわがみっつ増え、当たりがきつくなる。とことんツイてない。

先生がイヤなわけじゃないよ。つばを飛ばされたのがイヤなだけ。




「反抗するのはやめなさい」


「反抗してないですよ」


「またはぐらかす気か」




本当なのに。なかなか伝わらないな。こうやって言葉を交わせるのにどうしてだろう。

信用、されてないんだろうな。先生にとっては、わたしの言葉など、まぶたの皮膚のようにうすっぺらく思っているにちがいない。


みかんの甘さが消えていく。舌の上に残る絶妙な酸味が、のどを締めつける。糖分欲しさにストローの先を噛んだ。




「そういう態度が反抗していると言っているんだ」




そういうって、どういうの。
これ? ジュース飲むこと? 先生との話し中に飲むのはマナー違反だったか。欲望に忠実になりすぎてた。うっかりうっかり。




「ごめんなさい」




今さらながらオレンジジュースの紙パックを背中に隠し、素直に謝る。先生は片方の眉を歪ませた。戸惑っているのが手に取るようにわかった。ごほんっ、と大きめにせき払いをして、調子を立て直そうとする。


わたしが謝ったことがそんなに意外だったの? わたしだって悪いと思ったことはちゃんと受け止めるし、ちゃんと謝れるよ。いくつだと思ってるの。高校1年生だよ。そこまでお子さまじゃない。




「な、何度も言うように、その髪と服装をどうにかしなさい」




指摘する点が、態度から髪と服に変わった。今度はわたしの身なりが反抗的だと言いたいらしい。


はあ……またか。


今年度新しく赴任してきた二階堂先生は、生活指導という大役を任せられた。たいそう張り切っているのだろう、こうして毎度毎度口うるさく戒めてくる。熱を持った指導は、もはや恒例イベントだ。


さっき、ほんの5,6分前、校舎に入るときにも聞いた。ていうか、昨日もおとといも、先週も、なんなら今年度の始業式から耳にタコができるくらい聞いてるよ。

そんなに聞いていて、直さないわたしもわたしだけど。

今度は謝らない。謝る気がないし、謝る理由がない。




「どこがだめなんですか」


「派手な恰好はやめなさいと言っているだろう」




赤みの強い茶色い髪。左耳の上に留めた、カラーピンふたつ。ふんわり巻いたミディアムヘアーの上半分は、おだんごにして結んである。

制服は少しだけ着崩すのが、わたし流。衣替え期間といってもまだ肌寒いときもあるから、お気に入りの白いパーカーを着て。その上には、学校指定のブレザーを羽織っている。

かわいいでしょう。

これのどこがだめ?




「校則には反してませんよね?」




髪は茶色だし、ブレザーだって羽織ってる。

だめなところなんてなくない?




「校則に明記されていなくとも、身だしなみには気をつけなさい。他の生徒が真似をしたらどうする」


「いいんじゃないですか? 髪とか服とか、バリエーションが増えたら毎日楽しいだろうし」


「いいわけないだろう! 田中、お前はもう少し真面目に考えろ」




ぴしゃりと一刀両断された。廊下に反響して、エコーがかかっているかのように聞こえる。

同級生と思しき生徒が数人、窓側のわたしたちをチラチラうかがいながら教室側を通り過ぎていく。そちらを一瞥すれば、あわてて目をそらされた。

気まずいのはこっちも同じなんだけど。




「わたし、真面目ですよ。授業だってサボってないです」


「そういうことじゃない。態度を改めろと言っているんだ」




また態度ですってよ。身だしなみと態度はちがうと思うんですが、そう思うのはわたしだけなのでしょうか。


国産の甘酸っぱい風味でいやしたはずの疲労感がよみがえる。朝っぱらから疲れたくないのに、先生の圧は増すばかり。窓から入ってくる風も心なしか生ぬるい。ショートホームルームが始まるまでこの圧を受け続けるのは、体力的にも、精神的にもきつい。

こうなったら……逃げちゃうか。




「わたし、改めませんよ。自分の好きな恰好でいます。そのほうが気持ちがいいから」




先生のするどい眼光を真っ直ぐ見据え、きっぱり言い切った。


何度言われたって、わたしの答えは変わらない。これからもわたしはわたしを貫く。

先生の目には不真面目に映っても、わたしにとってはこれがわたし自身に真面目であること。ぜったいにゆずれない。


こしを90度に折り曲げる。呆然としてる先生に「ではっ」と敬礼をする。半分以上も中身の残っている紙パックを片手に、先生の来た方向とは逆方向に走り出した。


パタパタと上履きの音が鳴り出して、3秒、「た、田中! 待て!」と、先生はようやっと注意喚起を絞り出した。が、無視だ、無視。

先生もわたしも言いたいことは言ったんだ。今日はこれで見逃してほしい。これ以上先生にかまってあげられる暇はない。時間は有限なのだ。




「廊下は走るな!!」




典型的なルールが聞こえたのは、角を曲がってからだった。走るのをやめた。早歩きにシフトチェンジ。スタスタと2年生の教室を次から次へと素通りしていく。

また先生に捕まりたくない。二度あることは三度あるって言うし、追われても平気なように今のうちに距離を取らないと。


階段を駆けのぼった。最上階まで行くと、足腰にどっと疲労感が押し寄せる。下りていったほうがよかったかな、と気づいても、あとの祭り。

いいや。来ちゃったのはしかたない。いい運動になったと思うことにしよう。先生もここまでは来ないだろうし。


ぐっと伸びをしてオレンジジュースを補給した。無心で飲んでいたら残量があっという間に減っていった。


屋上に続く踊り場。
「立ち入り禁止」と注意書きされた重厚な扉。


すきまから透明な光がもれている。その光に誘われるようにドアノブに手を伸ばす。試しに回してみると、ギィ、と軋む音がした。


あ、開く。


施錠されていなかった。立ち入りを禁じているわりに不用心じゃないか。と、思いつつも、好奇心がうずく。

真面目ちゃんでも、禁止されたら気になってしまうのがヒトの性というもの。なんて、ヘタクソな言い訳を脳内に並べ立て、ドアノブをつかむ手を力ませた。


ゆっくり扉を押した。ギギギ、と音が激しくなる。すきまが広がる。光がまばゆくなっていく。思わず目を細めた。




「お……おおっ!」




すぐに光に慣れた視界に、開けた景色が鮮明に映る。かたい灰色の地面。錆びついた緑色のフェンスの奥には、さらに濃い緑に覆われた小山とスケールモデルのような住宅街。

引き寄せられるように、一歩、屋上に踏み入れた。


スカートがひらりとなびく。梅雨入りをひかえた風は相変わらず生ぬるいけれど、圧がない分、先ほどよりは断然心地いい。

窓から覗いたときよりずっと空が近く感じる。澄み切った群青に吸い込まれてしまいそう。


いい。いいね!

なんとも言えない解放感。屋上ってこんな感じなんだ。お気に入り登録したいくらい落ち着く。



校舎の構造上、屋上には、出入口のついた四角い出っ張りがある。扉の横にははしごが設置され、その上にある給水塔へのぼることができる。


あの上からは景色はどんなふうに見えるんだろう。

ショートホームルームまではもう少し時間がある。のぼってみようかな。ちょっと気になるし。だめかな。でも、うん、のぼってみたい。


残りわずかのオレンジジュースを一気に飲み干した。ズズズ、と最後の一滴まで吸い尽くす。口の中にひんやりとした感覚が来なくなった。空っぽになった紙パックはずいぶん軽い。右手で簡単に握りつぶせた。

ぺちゃんこにした紙パックを歯でがっちりくわえ、はしごに両手をかける。ざらざらとした感触を避けることなくのぼっていく。




「よいしょ、っと……」




最上部に手が届いた。ひょっこり顔をのぞかせる。またコンクリートの地面が見えた。奥の角に給水タンクが立っている。意外と面積が広い。こっちのほうが風に当たりやすい。


それから。

風を受けてもびくともせずに寝そべっている、先客がひとり。


思わず地につけようとした足を引っこめた。


だ、誰だろう……。

片うでをまくら代わりにして横になっている。わたしからは背中側しか見えない。

紺色のズボンに、黒色のカーディガン。少し乱れたダークブラウンの短髪。上履きに入っているラインは、わたしと同じ、赤色。


2年生の男の子。……ぽい。


まさか先客がいるとは思わなかった。びっくり、びっくり。


とりあえず。よいこらせ、とおっさんじみたかけかけ声で、宙ぶらりんだった体を給水タンクエリアへ持ち上げる。

不安定だった足場が、どしりとした感覚に変わる。パーカーが少し汚れてしまっていた。白の生地についた錆びを叩いて落とす。スカートのすそが折れていたのを直し、頬にへばりついた髪をうしろへ流す。強く食いしばって持っていた紙パックを取り、右手でぎゅっと握った。紙パックがよりいっそうつぶれて丸くなる。


さてさてやってまいりました。屋上のさらに上。

先客は置いておいて、まずは本命の景色をたんのうしよう。そうしよう。




「……んあ、ふはぁああ」




フェンス側に向き直そうとしたとたん、盛大なあくびがこぼれた。わたしじゃない。うしろにいる先客だ。本当に寝ていたんだ。そして今起きたんだ。おはようございます。


反射的に振り返った。先客も気配を感じ取ったのか、もう一回あくびをしながら首を回した。




「あ」


「……あ?」




お互いにヤンキーさながらの威嚇をしたわけではない。わたしは間の抜けた一音を、先客はあくびをした口のまま声を出した結果、声音がそろってしまったのだ。

ばっちり合っている彼の双眼は、まあるく見開かれている。おそらくわたしの目もそうなっているのだろう。鏡を見なくても想像できる。


だって、わたし、びっくりしてる。さっきよりもはるかに。


長い長い沈黙が落ちた。いや、実際はそう長くないのかもしれない。わたしの体感ではたった1秒が30分、1時間、それ以上にも感じられた。

風が横切る音も、校舎から響くあいさつも、一切聞こえなくなる。聴覚が受け付けようとしないのだ。唯一わかるのは、ドクドクと不安定に揺らぐ、自分の鼓動だけ。


まじか……。こんな偶然ある?




「…………」


「…………」


「………き、」


「田中、まひる」




ポツリ、と。

わたしよりも先に低い声が紡いだ。


わたしの、名前を。




「え、ええっと……はい、そう、です。田中 まひるです。よく知ってましたね?」




おどろきの連続だ。まさか名前を覚えられているとは思わなかった。しかもフルネーム。

とうに平静を装えずにいる。歯切れのわるい口調にカチコチの敬語を使ってしまったのもそのせいだ。

心音が大きくなる。こっちも平静さを忘れてしまったらしい。不整脈がいっこうに治らない。どうしてくれよう。




「有名だからな」


「有名? わたしが?」


「ああ。不良少女ってうわさになってた」


「不良!?」




何がどうしてそうなった。わたしはいつ不良デビューしたんだ。まったく身に覚えがない。うわさの内容が非常に気になるところ。


先客の男の子は上半身を起こして、探るような視線でわたしを見てくる。うわさを鵜呑みにしてはいないんだろうけれど、実際にうわさがある以上警戒しているんだろう。さながら野良猫のようで愛らしくも思えてくる。




「不良じゃないんだけどなあ……」


「毎日先生に叱られてんだろ?」


「叱られ……。あれはそういうんじゃなくて、意見の相違というか……。そ、そもそも、叱られてるだけだったら不良って呼ばなくない?」




二階堂先生との意見の対立がうわさの原因なら、わたしは全力で異論を唱える。

先生とは考え方がちがうだけ。ちょこっと相性がわるいだけなんだ。おかげで毎日ああだこうだ注意されているけれど、それが不良かどうかにつながるかは別の問題である。


わたしは不良じゃない。真面目な高校生だ。




「先生に歯向かってるように見えんじゃねぇの?」




知らんけど。そう最後に付け足された。テキトーすぎる。


早くも緊張感のなくなってきた会話のテンポと空気感に、先客の男の子は警戒心を解いていく。興味がうすれてきているのが一目瞭然だ。引き締められていた表情筋が、だんだんゆるみ出している。


下まつ毛の長い、黒い瞳。高い鼻。きりっとした眉。形のいいうすい唇。それらがきれいに配置された、小さな顔。いわゆる美形というやつ。

その顔が多少ゆるもうが、しかめられようが、どっちみちきれいなのは変わらない。ゆるんでもなお、険しさが残っているとしても。やっぱり、きれいだ。はじめて間近で観察するが、「男前」と言うよりも「きれい」が一番しっくりくる。




「その不良さんがどうしてこんなとこにいんだよ。せっかくひとりになれる場所を見つけたっつうのに……」




どちらかといえば、猫顔、かなあ。なんてことを考えていたら、軽い八つ当たりを受けた。

なるほど、なるほど。表情にわずかに残された険しさは、それが理由だったのね。先客の男の子にとっても、ここは、朝から来るほどお気に入りらしい。居心地いいもんね、ここ。気持ちはよーくわかる。




「先生から逃げてきた」


「……やっぱ不良じゃねぇか」


「だからちがうって!」




田中まひる、イコール、不良。この方程式は成り立たないということを学んでほしい。不正解である。断じてちがう。




「不良ってうわさされんのがいやなら、先生の言うことに従っとけば」


「いや」




食い気味に拒否すると、目の前の黒い瞳が意外そうに瞠られた。太陽光をぞんぶんに吸収し、彩度をぐっと高める。

瞳まできれいなんだね、と伝えたら、その瞳はもっと小さくなるんだろう。




「不良って言われるのも、先生の意見を聞いて自分を変えるのも、どっちもいやだね」




はいそうですね、と従うのは簡単だ。人に合わせて、自分を殺して、それが常識のように振る舞って。そうやってみんなとおそろいを増やしていっても、何も満たされやしない。


だから、わたしは。




「わたし、自分に正直に生きるって決めてるの」




不敵に笑ってみせた。


自分にうそはつかない。ルールに反さない程度に、自分らしく。

そのせいで傷ついてもいい。自分の気持ちを押し通してできた傷より、押し殺してできた傷のほうがよっぽど痛い。




「難儀な生き方してんのな」




眉間をきゅっとさせて、吐き捨てられた。投げやりな言い方にしては、なぜか感傷めいて聞こえる。同情とは似て非なるものをなんとなく感じ取れた。


難儀。

高校生の口から出る言葉にしてはやけに古臭く感じるけれど……うん、そうだ、そういうことなのかも。


生きることすら簡単ではないのに、正直に生きるのは、ひどく、難しい。


なっとくして苦笑したわたしに、先客の男の子は何も言わずに、日差しを拒むようにまつ毛を伏せた。上と下で重なり合った影に厚みが生まれる。

完全に目が合わなくなった。


でも。
でもね。

難儀な生き方をしてるのはわたしだけじゃない。

そうでしょう?




「先生の言うことに従ってないのは、きみも同じでしょ?木本 朱里(キモト シュリ)くん」


「……なんで、知って……」




また、きれいな瞳と、出会えた。


先客の男の子。

――2-1の木本くん。


名前を知ったのは、よくあるうわさ。

実は、何度か廊下ですれちがったことがある。入学したてのころ、近くにいた女子たちがきゃっきゃと騒いでいたのを聞いた。こんな美形が学校にいたら、うわさにならないはずがない。


ゆるやかに唇で弧を描けば、木本くんは情報源を察して「はああーーー」と大きく息を吐いた。




「入学当初から野球部に入るよう勧められてるのに、いっこうに入ろうとしないんだってね」


「……うわさってすげぇな」




ね。うわさって怖いよね。あることないこと、あっという間に広められる。わたしも身をもって知ったよ。わたし、不良じゃないよ。


だけど、うわさのおかげで木本くんのことを少しは知れたから、田中まひるが不良だっていう誤報への不満は帳消しにしてあげる。むしろこの偶然の出会いで、プラマイゼロじゃなくプラスになる。

屋上に来てみてよかった。階段をのぼったのは間違いじゃなかった。




「わたし、きみに会いたかったの」


「は?」




突然の告白に、木本くんはぽかんと呆けた。


廊下ですれ違う程度じゃなくて、こうやって、話したかった。会いたかった。

こんな偶然、すごい。



――キーンコーンカーンコーン。



古めかしいチャイムが響いた。校舎内からこだまし、青空を揺さぶろうとする。校門を閉めている二階堂先生が見えた。

ショートホームルームが始まる。




「じゃっ、また!」


「……は?」




とりあえず言いたいことは言ったし、これからは「また」がある。次からは、偶然を待たなくても、会える。会いに行けるんだ。


わたしは大満足して、はしごを降りていった。ショートホームルームに遅れると、またああだこうだ注意されかねない。なにせ担任はあの二階堂先生だ。校門にいる先生よりも先に教室に移動しないと。


バタン、と屋上の重厚な扉を閉めた音が、無機質なメロディーを遮断する。




「はあああ?」




ひとり残った屋上では、30秒ほど遅れて、意味不明だと言わんばかりの独白が腹の底からこぼされた。もうそこに眠気はない。