わたしの言葉は何ひとつ届いていなかった?

本当に?



カランコロンと下駄が歌う。密度の高い人だかりを抜け、石畳の階段をのぼっていく。比較的サイズの小さな花火が連続で打ち上がり、足元を燦然と照らす。まばゆい火の粉をかぶった木々が、そよそよと揺らめいた。


頂上にぽつんと建つ、秘密基地。普段なら無人であるそこに、細い影が差す。ついでに濃厚なソースの匂いも。




「木本くん」


「っ! ……な、」




なんで。そう言いたそうに木本くんは目を丸くした。建付けのわるいベンチに座り、ひざを抱えて丸くなっている。いつものわたしとそっくりだ。テーブルに放置された焼きそばは、まだ湯気が立っている。


この東屋に行きつくことはわかっていた。逃げた方角から考えても、ここしかなかった。独りきりになれる場所は。


ジレンマに駆られながら一歩ずつ歩み寄る。たった三歩で埋まった距離のどこかに、きっと、目には見えない壁が作られていた。でもごめんね、そんなもの、はなっから気にしないことにしているんだ。


真正面から直視する木本くんの顔は、ひどいもので。これっぽっちもきれいじゃなかった。


震え惑う瞳孔。濡れた下まつ毛の生え際。不規則に二酸化炭素を吐く、閉じきらぬ唇。三原色の花火の透けた、真っ白な肌。

そのすべてに、こらきれない苦痛をにじませていた。取り繕う余裕すらない。明らかにいつもと様子がちがった。


そっと手を伸ばした。強張った頬に手のひらをすり寄せる。冷たい静電気が走る。心臓にまで伝わり、痛々しくしびれた。


穴だらけの屋根に、光の雨が降る。月光よりもちゃちで、スポットライトよりも華やかな輝きは、わたしと木本くんのふたりだけを世界に閉じこめる。

ビニール袋に住まわされたあの金魚も、こんな気持ちだったのかもしれない。




「逃げきれなくなったら、おいでって、言ったじゃんか! バカ!」




息苦しくてたまらないね。




「苦しいときは苦しいって言ってよ! 自分ひとりじゃどうにもできなくなるくらいなら、独りになったって、苦しいままじゃんか」


「……お、おれ、は……別に、だい」


「だいじょばない。全然、大丈夫じゃ、ない……!」


「……っ」


「うそつくともっと苦しくなる。自分までだまさないで。言葉にして、教えてほしい。聴かせてほしいよ」


「……お、れ……」


「ぜんぶ受け止めるから。そばにいたい、から……。思いも言葉も、ぜんぶ、大切にしたいの」




言ってくれたらよかったのに。それはわたしのわがままだ。けど、わがままになりたくなっちゃうの。

わたしは知らないから。
きみは隠すのがクセだから。


逃げても無駄だとあきらめる、その前に。
逃げ道を失って立ちすくんだ、その隣に。

日の当たる場所があることに、気づいて。


わたしたちは、まだ、声を届けなくちゃわかり合えない。きれいに半分こにできなくてもいい。せめてわかち合いたいよ。

わがままでごめんね。許してね。




「……、おれ、」




すっかり体温を奪われたわたしの手を、木本くんは手の甲側からきつく握りしめた。太い指を雑に絡ませる。力の加減を忘れ、皮膚を圧迫していく。

彼の頬から手がずり落ちる。両者のうでごと、一緒にだらんと墜ちる様は、心中を連想させる。




「ひと、を…………大切、だった、人を……傷つけた」




――パァン! パァン……!!


まるで後頭部を銃で撃ちつけられたかのように、木本くんの首が傾いた。深紅に色づいた火薬の残像が、屋根を貫通し、地面にぽたぽたと落ちていく。一見、本物の血かと錯覚し、息をのんだ。


手から痛みが引いた。骨がミシミシ鳴るほど必死にすがりついていた木本くんの手が、花火が消えていくにつれて、戦々恐々とほどけていく。

すべて闇に飲みこまれてしまうより早く、木本くんの手をつなぎとめた。手のひらを合わせ、指と指のすき間を埋め、ぎゅっと力をこめる。


届いてるよ。そばにいるよ。わたしが、いるよ。




「お、れ……っ、おれ……!」


「うん」


「中2んとき、はじめて……人を、好きになった」


「うん」


新川(ニイカワ)っていう、同学年の女子だった。クラスはちがったけど、よく目に留まって……気になった。告白したけど、好きなやつがいるって言われて……。悔しかったし、つらかったけど……仕方ねぇな、って。初恋は叶わねぇってよく言うし」




はは、と木本くんは自嘲混じりの一笑をもらす。すぐさま酸素を求め、大胸筋を上下させる。


初恋なんて甘酸っぱい響きほど、この場に似つかわしくないものはない。証拠にほら、空気がどんどん苦々しくなっていく。さしずめ、その甘みは猛毒なのだ。口にするだけで脈をにぶらせる。




「だけど、おれが、好きになったから。告っちまったから……っ」


「木本、くん……?」


「……おれの、せいで……」




どこにでもある思春期の片思いで終われたら、どれだけよかっただろう。




「に、新川が、……いじめられた」




火花が燃え尽きる。一瞬にして、鮮烈に、跡形もなく。この苦しみもいっそのこと灰にしてくれないだろうか。




「おれが知ったのは、いじめが起こったあとで、おれは何もできなかった」


「……うん」


「いじめてたやつは、おれと同じ委員会の女子で、新川と仲がよかった。はず、だった。でも、そいつが、おれのこと……好き、で……それで……」




わたしの手の甲に、しだいに木本くんは指の腹を這わせた。さっきほどの強さはない。弱くとも、たしかに、触れ合っていた。ふたつの冷えた温度が溶け合い、ぬるくなっていく。


真夏日なのにちっとも暑くない。むしろ寒いくらいだ。木本くんも同じであろうが、白んだ首筋には、つ、と汗が流れていた。




「仕方ない、で、片づけちゃいけなかった。いじめのこと知って、おれ、新川に謝りに行ったんだ。……そしたら、大丈夫だって、言われた」


「それは……」


「……ああ。うそ、だった。友だちみんないなくなって、クラスでは孤立してた」


「……そう、」


「新川はおれのせいでやな思いして、大切なものぜんぶ失ったのに、おれは……大好きな野球をして、部活では部長になって、仲間にも恵まれて――おれ、何してんだろう、って思った。おればっか好きなことして、楽しんでさ。なんでおれだけ楽に生きてんだろう、最低だ、って」




だから……。だから、だったんだね。

やさしくもないうそをつくのも、誰のやさしさにも応えないのも。自分がいちばん自分を許せないんだ。好きなことをしていても罪悪感に苛まれ、自分自身がやな思いを募らせる。



――『また、おれのせいで……やな思いさせちまったのかと……』



また、やな思いをさせまいと、するなら自分ひとりで背負いこむ覚悟で、好きな人の負った傷と同じような形、同じような深さのそれを烙印していた。


部活を辞めた。友だちを避けた。壁を作り上げた。笑わなくなった。

うしろ指を指されただろう。傷をえぐられただろう。それでも「好き」から逃げなければ、「きらい」になってしまいかねなかった。


木本くんも、ほんと、難儀な生き方をしてるね。


木本くんは好きになっただけ。木本くんがわるいんじゃない。その想いまで“悪”にしたら、“いい思い出”も“やな思い出”になってしまう。

報われるものも、報われない。傷が化膿して、治せなくなる。

ずっと、痛いまんまだよ。




「逃げたのは、その、新川さん? がいたから?」




木本くんはさらに首を深く沈めた。さっき鳥居の近くにいた男女のうちの片方が脳裏をよぎる。


木本くんとつながった手をぐっと力ませた。そのまま力強くうでを引く。勢いに負けて引き寄せられるがまま、彼はベンチから腰を浮かせた。

生気のない端正な顔が上がった。目ん玉が飛び出そうなくらいかっ開かれ、間の抜けた顔になっている。


わたしは強気に笑った。




「行こう」


「……は?」


「彼女に、会いに」




ひと休みしたら、連れて行ってあげる。
さあ、こっちだよ。


木本くんの手を引っ張り、下駄を鳴らした。焼きそばのことなど忘れ、階段をくだっていく。軽やかな下駄の音とは相反して、スニーカーはあいにく足取りが重い。

最後の一段を越えたと同時に、ようやっと意味を理解できたのか、うしろで「はあ!?」と今日イチの文句が飛び出た。なんだ、そんな声も出せるんだね、と、どこか安堵した気持ちになりながらも、いちいち振り返りはしなかった。


ぴかっと曇天が光る。どでかい破裂音が背中を直撃した。思わず手の力が抜ける。その隙に木本くんが手を離そうとしたが、ぎりぎりのところで食い止めた。ぎゅうっと手を握り締める。


離さない。離したくない。あきらめがわるいって、いいかげんわかりきっているでしょう?




「会うって、なんで」


「過去とは十分すぎるくらい向き合ったでしょう? なら次は、今と、向き合わなくちゃ」


「でも……! お、おれは……会いたく」


「怖いよね」


「……っ」


「向き合う、って、ものすごく怖いと思う。でも……だから、わたしがいるの」


「は……」


「ごはんを食べるとき、ひとりよりふたりのほうがおいしく感じるみたいに、向き合うときも一緒なら少しは怖くなくなるよ。……たぶん」


「たぶんかよ」




だいぶ調子の戻ってきた言い返しに、ゆるやかに口角を持ち上げた。手を引っ張る感覚がなくなっていく。前進する速度がだんだんとそろっていく。少し速い。転ぶときは道連れだ。


屋台のある通りに帰ってきた。木本くんが先に静止した。道のど真ん中で、変わらず花火に目もくれず、鳥居のほうを見据える。

鳥居の前には、若い男女がたたずんでいた。私服姿の男子と、浴衣姿の女子。切なさをせいいっぱいたたえながら花火の最期を見守っていた。


音が止む。光が消える。花が枯れる。辺りは闇に浸かる。

わたしたちもきっと、ずっと、このままではいられない。




「……に、っ、……にい、かわ」




天に囚われていた彼女の瞳が、静かにすべり降りてくる。木本くんに焦点を合わせると、数度まばたきをし、うろたえた。

木本くんは深呼吸をした。吸いこめば吸いこむほど握力の数値が上昇する。なんとか平静を装いながら、すくんだ足を踏み出した。その半歩うしろで、わたしは太いうでに寄り添う。




「木本くん? 木本くんだよね……?」


「朱里じゃん。すげぇ久々だな」


「……あ、ああ、だな。久しぶり、遥陽(ハルヒ)、……に、新川」




新川さんといる、遥陽と呼ばれた男の子とも知り合いだったらしい。彼も中学の同級生なら、木本くんと新川さんの事情も知っているんだろう。だからこんなにも、同級生との久方ぶりの再会のムードとはほど遠い空気が流れている。

全員が戸惑い、不安がりながらうかがっていた。あいさつ後の開口を探り、気まずさを肥大している。


木本くんの唇は淡く紫がかり、小刻みに震えている。なんて言えばいいのかわからず、言葉を思うように出せないのだ。沈黙が重たくのしかかる。声をかけたことを後悔しているかもしれない。


怖いよね。その思いが、言葉が、やさしいとは限らないもんね。わかるよ。真っ直ぐ生きるのって、たいがい難しい。逃げないとやってらんない。

独りじゃ、誰も、何も、守ってくれない。


ふたりなら。ひとりじゃないなら。


きみのために、やさしく在れる。




「あ、あの……隣にいる方は?」


「ぁ、ぇ、えっと……」




木本くんの影に半身を隠していたわたしに、視線が集まった。がっちり握られた手に、新川さんが気づく。これは俗に言う、恋人つなぎなるものだ。かしげていた細い首がぴんと正される。


考えあぐねる木本くんは、単なる紹介に口ごもった。思考回路が正常に働いていないようだ。脈拍も大いに乱れているにちがいない。



――わたし。わたしは。



大きな手のひらの形に、うすっぺらいわたしの手をぴったりとすり合わせる。一度指を開き、また折り重ねる。密着した部分に微熱が帯びていく。


あぁ、どうしよう。わたしまで緊張してきちゃった。困ったな。

……でも、うん。このドキドキは、わるくない。なんて、思ってしまうよ。




「はじめまして。わたし、田中まひるっていいます。

木本くんと、付き合ってます」




笑って告げた。つっかえることなく、平然と、さも当然のように振る舞った。うまく笑えている自信は、なぜだか強く持っていた。


言っちゃった。
堂々とうそついてやったよ。


宙に放たれた言葉は、花火のように発火し、衝撃を与える。ドキドキが、ドクドクに変わる。ようやく夏の暑さが体内にしみこんだように、血液が沸騰していく。頬骨の位置が赤らんでいくのがわかった。




「は」


「やっぱり! 木本くんのカノジョさんだったんですね!」


「朱里、カノジョいたのか!」




カレシくんが不平不満をこぼしかけたが、ぱちんと新川さんが手を叩いて遮った。見るからにテンションを上げたふたりに、今さらうそだとは明かしにくい。無愛想な口が黙って閉ざされた。


気まずかった空気が解消された。いくぶん気楽になり、声色も明るくはずむ。木本くんだけは、いまだに解けこめきれていないけれど。




「わたし、新川 (アカネ)といいます。木本くんとは中学が同じだったんです」




新川さんは、大人びた顔立ちをしている。ちょっとつり目がちな目元が特徴的で、笑うとなだらかな曲線になるところがあどけない。艶めいた茶髪は、サイドにまとめ、耳の下あたりでおだんごに結ばれている。


結月ちゃんが「かわいい妹」なら、新川さんは「きれいなお姉さん」というイメージだ。高校2年生とは思えない。


水色を極限まで天然水で溶かしたような浴衣には、青い金魚が泳いでいた。ぴちゃんっ、と。手に持つビニール袋の中で、一匹の金魚が跳ねた。パクパクと口を開閉させてぐるぐる回っている。青い金魚が珍しいのだろう。




「こっちは、幼なじみの」


「どうも。眞田(サナダ) 遥陽です」




幼なじみというだけあり、阿吽の呼吸はばっちりだ。


彼、眞田くんは、爽やかな好青年をそのまんま具現化したような容姿をしている。傷み知らずの黒髪は軽く整えられているが、ノーセットでも全然恰好いいと思う。

オーバーサイズのシャツは、濃い青色。胸元のポケットは生地が異なり、水彩模様に染められている。全体のコーディネートを見ても、新川さんの浴衣の色味と合っている。とても絵になる。




「木本くんにこんな美人なカノジョさんがいるなんて、びっくりだよ」


「ほんとにな。連絡してもあんま返ってこねぇし、ちゃんと高校生活送ってんのか心配してたんだぞ」


「……、ああ、わりぃ」


「……よかったよ。充実した毎日送ってるみたいで。……よかった」


「うん。木本くんには彼女がついてるんだもん。安心だね」




新川さんがわたしに向かって笑いかける。いっそう顔を紅潮させながら、大げさなくらい首肯してみせると、新川さんはやわく目を細めた。


とん、と眞田くんの拳が木本くんの胸に当たる。その拳の中にはあらゆる感情がひしめき合っていた。木本くんは取りこぼすことなく受け取り、渋く含み笑いする。

不整脈が落ち着いていくのが、分厚いたなごころ越しに伝わった。




「木本くん。今、幸せ?」




大切だった人の、大切にしたい問いかけ。


隣を一瞥すれば、黒い瞳が潤んでいた。あぁ、やっぱり、きれいだなあ、とわたしまで涙腺をゆるめそうになっていると、そのきれいな枠の中にわたしの輪郭がぼやけて映った。

木本くんはつないだ手をより強め、目を眇めてほほえんだ。




「ああ。……ああ、幸せだって思うよ」


「ふふ。見てて伝わってくるよ。本当に幸せそう」


「すてきな人と出会えてよかったな」




……ずるいなあ。


ドクドクが、ドックンドックンに変わる。激しさを増した心音は、骨の髄にまで圧力をかけていく。それこそ左胸の内側で、世界一大きな花火が打ち上げられたみたいな感覚。


苦しいけど、苦しくない。どうしてだろう。おかしいね。

幸せだって、言ってくれた。聴かせてくれた。うそかと思った。でもうそじゃなかった。本当だった。本当の、本心だった。わたしにも伝わったよ。真っ直ぐすぎて、ちょっと感動しちゃった。


わたしも。わたしもね。本当に、心から、幸せだって言える。


今、この瞬間だって。




「新川は?」


「え……?」


「今、幸せか?」




教えてほしいこと。
聴きたかったこと。

今だから、向き合える。


あのときの「大丈夫」は、大丈夫になりましたか?




「……うん、」


「幸せだよ。……ううん、幸せに、する」




うつむくようにうなずく新川さんを抱き寄せ、眞田くんは芯の通った口調で誓いを立てた。あわてて顔を上げた彼女は、彼の名前をささやきながら、彼の肩先にこめかみを添える。


ラフなTシャツの袖口が下方へ沈んでいく。木本くんは肩を撫で下ろし、若干背中を丸めながら目頭を押さえた。涙こそ流さなかったものの、その身軽になった姿は、温かなひだまりに包まれていた。


怖かったね。苦しかったね。もう大丈夫だよ。これ以上傷つかなくていいんだよ。自分をめいっぱい愛してあげて。ほら。世界は、存外、やさしいよ。




「……そっか。木本くん、わたしのこと、ずっと気にしてくれていたんだね」


「……っ」


「ありがとう。今日、会えてうれしかった」


「新川……。お、おれも……話せてよかった」




どこか儚げに眉尻を下げ、新川さんは耳横から垂れてきた茶色い髪をひと束、さらりと耳にかけた。そこはかとなくフローラルな香りがする。白く、繊細な、夏の始まりの香り。彼女にぴったりだなと思った。


この出会いは、偶然だった。必然に生まれ変わらせたのは、ほかでもない、木本くん自身だよ。

幸せだね。幸せだよ。ここにいる誰もが、そう、信じているよ。




「朱里、また会おうぜ。連絡したら返信しろよ? もう、無視すんなよな」


「ん。送るよ。ちゃんと、送る」


「田中さん、朱里のことよろしくお願いします」


「またどこかでお会いできたら、木本くんとのお話、たくさん聞かせてくださいね」




そう言ってふたりは名残惜しみながら背を向けた。鳥居を過ぎ、肩を並べて去っていく。さみしさを覚えた。祭りばやしが遠のいていく。


メインイベントが無事に幕を下ろしたのを境に、屋台と屋台の間を埋め尽くしていた人の山が、少しずつなくなりかけていた。そのことに気がついたのは、新川さんと眞田くんの背中が見えなくなったあとだった。

夏祭りが終わろうとしている。ふたりの夜にさよならするのも近い。さみしさが膨らんだ。




「ありがと、な」




ぽつりと、木本くんは照れくさそうにつぶやいた。




「一緒にいてくれて、すげぇ心強かった」


「うん」


「あの、付き合ってるってうそ、さ。おれのため、だったんだろ……? 最初びっくりしたけど、あのうそがあったから向き合えたんだと、思う」


「……う、ん」


「助かった。ほんと、ありがとう」




うん。うん。届いているよ。不器用なりに素直な言葉。もらってもいいのかな。なんだかくすぐったいね。ありがとう。ごめんね。ありがとう。


わたし、今、どんな顔をしているんだろう。やばいなあ。たぶん、けっこう、やばいと思う。

顔を見られたくない。でも、木本くんが今どんな顔をしているのかは、とっても気になる。でもでも。わたしの顔を見て、木本くんがどんな顔をするのか想像できるから、やっぱり見せないでおく。




「結局、夏祭り、あんまり楽しめなかったな。わるい」




あごを引き、前髪で顔を翳らせながら、しっぽのついた頭ごと思いっきり左右に振り回した。その食い気味な反応と勢いに、くつくつと喉仏が鳴る。また、ありがとな、と伝えられ、また頭を振った。

お世辞じゃない。わるいだなんて言って、勝手にいやな思い出にしちゃわないで。楽しかった。ぜんぶ、ぜんぶ、すてきな思い出。わたしの願いは叶ったよ。




「また、来ようぜ。今度はアメリカンドッグ以外もうまいもん食って、ずっと楽しもう」




握りしめて離さない、手と手。冷たい感触はいつの間にか融解し、じわりと熱を広げている。その熱はわたしのだ。わたしばかり、熱いのだ。

木本くんの小指の先が、わたしの小指のラインを撫でた。二度目の、約束。この夜が明けても、次がある。期待がこみ上げては気持ちがゆるみ、手もゆるむ。


けれどもそれは、今夜を終わりにしよう、という合図でもあることを、わたしは知っている。この手を離すときが来た。離れがたいけれど、離さなくちゃ。つながりを求めた、わたしのほうから。


見知らぬ人たちが通り過ぎ、鳥居の向こう側へ消えていく。うちわであおいで。舌を青く色づけて。ソースと青のりの残ったプラスチックのパックと割り箸をゴミ箱に捨てて。ヨーヨーをぶら下げて。アニメのキャラクターにラッピングされたわたあめを抱えて。大人も、子どもも、ほくほくと満足げな様子で。


つと思い出した。そうだ、焼きそば。東屋に置いてきてしまった。あのまま放置してはおけない。さよならするにはちょうどいい口実だ。


すっ、とのどに新鮮な空気を送りこんだ。




「や、焼きそば、を」


「え? ……あっ」


「忘れてた、ね。わたし、東屋に、寄ってくる」


「じゃあ、おれも」


「う、ううん。大丈夫。列に並んでくれた、でしょ。だ、から、ここは、わたしに行かせて?」




ひと息で言ってのけた。思ったよりも声が続いてほっとする。一瞬にしてのどが干からびる。するりと一気に手をほどいた。最後までかたくなに顔を上げなかった。

熱は冷めやらない。


即座に踵を返した。人の流れに逆らい、石畳の道を駆けていく。足がおぼつかない。下駄のせいだ。走りづらくて、うまく進めない。体力を根こそぎ持っていかれる。

息が上がる。暑さがまとわりつく。呼吸器官が詰まる。皮膚が焼ける。関節が痛む。脳が酸素を欲する。ドックン、ドックン、と心臓がうるさく騒ぎ立てる。


神社の脇道にそれた先にある階段に差しかかったころには、雪洞の明かりはすでになかった。暗闇に目を慣らせながら、階段をのぼりきった。


東屋はしんと静まり返っていた。いつもの、見慣れた光景だ。中央に立つ丸テーブルに取り残された、焼きそばのパックがひとつ。それだけが異質だった。


ベンチにへたれこんだ。古びた板がギシリとへこみ、木のくずをはらはら散らす。わたしはテーブルにうでを伸ばした。割り箸をつかみ、ぱきりと割る。それぽっちのエネルギーで指が痙攣した。

かまわずにもうひとつの割り箸をどかし、パックを開けた。ソースをべっとり塗りたくられた麺をつまみ取る。慎重に口に運んでいく。冷たい。へにゃへにゃとしてやわらかく、べちょべちょとして水っぽい。




「……おいしい」




うそ。うそ。うそ。

おいしくない。おいしく食べれない。


でも。だけど。

あの言葉は――「大丈夫」は、うそじゃなかった。


つもり。




「っ、ごほっ、……は、っ」




ひと切れの麺を流しこんだ直後、のどが絞まったような焦燥感に襲われた。咳きこんでも、浅い息と唾しか吐き捨てられない。

暑い。熱い。自分勝手な熱に、浮かされる。


手がすべった。割り箸を卓上に落っことす。砂のついた割り箸を握り直そうとするが、手に力が入らない。手元を見てみれば、血管の色が際立つ手の甲に、うっすらと赤い斑が浮き出ていた。


自分でもやばいなって、自覚していた。こうなることはわかっていたから、静かにおとなしくしていれば大丈夫だって思ってた。どうせちょっと経ったら元に戻る。やばいのは最初だけ。すぐに大丈夫にしようとしていた。うそじゃなかった。


うそに、なってしまった。

わたしの、バカ。見誤った。こうなることは数ヶ月ぶりで、軽く考えすぎていた。


だめなのに。このうそだけは。「大丈夫」を大丈夫じゃなくするのは、木本くんを傷つけてしまうのに。


大丈夫。わたしは、大丈夫。なんともない。
そう脳内で自己暗示すると、かえって頬の赤みが濃くなる。わかってる。うそは逆効果だ。わかってるよ。だけど抵抗したくなってしまうんだ。


たったひとつのうそに、またひとつ、ふたつ、うそが上書きされていく。消せないし、あとに引けない。もどかしくてたまらない。


今日に限って浴衣。はあ、ツイてない。帯がきつくて、胃のあたりがむかむかしてくる。今すぐ脱ぎたいけど、我慢だ、我慢。露出狂になるくらいなら、この熱と戦ったほうが断然いい。がんばれ、わたし。


ポタリ。腫れた頬を何かがはじいた。生ぬるく、濡れた感触がする。おそるおそる見上げると、ポタリ、とまったく同じ感触が伝った。視界がかすんでいく。熱のせい、だけではない。


雨だ。雨が、降り始めた。


とことんツイてない。降水確率60%が、ここにきて当たるとは。予想しているわけがないじゃないか。

最悪だ。東屋の屋根はあってないようなもの。雨漏りがひどいってもんじゃない。手持ちでもいいから折りたたみ傘を持ってくればよかった。


木本くんも折りたたみ傘を持ってきていなかった。財布と携帯をポケットに入れて手ぶらでやって来た。今ごろ、突然の雨に焦っていることだろう。


風邪を引かないうちに、おうちに帰ってほしいな。この焼きそばは、わたしが責任もってなんとかする。今度会ったとき、代金も払うよ。後払いでよろしくね。


わたしのことは気にしないで。振り返らないで。さよならをしてくれていたなら。……した、だろうな。木本くんのことだ。手が離れたのを機に、別れを察したはずだ。あとはわたしが大丈夫になるだけで万事解決。オールオッケー。終わりよければすべてよし。それがいい。


今夜は、わたしも、待たないよ。



傷つけたくない。

やさしくしたい。


そう在りたいんだよ。



本降りになってきた。名ばかりの屋根は、雨粒の大半を見送る。自業自得だと言わんばかりに容赦なく雨に打たれた。

がんばってセットした髪の毛は、ぺちゃんこにつぶれた。お気に入りの浴衣は雨を吸収して、ぺたりと体に貼りつく。空気も布も冷えているのに、わたしだけは熱せられている。


意識がもうろうとしてきた。雨に当たる感触を失っていく。そろそろ限界かもしれない。



――タン、タン、とかすかに足音が響いた。



空耳かと疑った。熱が生み出した幻聴か、と。けれど、その音はたしかに、敷石の地面を踏みしめている。着実にここに近づいてきていた。


一体、誰が。まさか。いや。そんなわけ。


唐突に静寂を切り裂かれ、ひどく錯乱してしまう。頭の中で、猫顔のきみが笑う。うつらうつらとした半開きの眼を、でき得る限り凝らした。

階段に、光が点す。黄色い光のまあるい円の中に、スニーカーの影がうごめいた。わたしが視界を上にずらしていくと、光の及ぶ範囲も東屋の内部にピントを寄せてくる。



ドックン。

ドックン。


ドックン……!




「っ! た、なか……!?」




見回りと記された腕章が、真っ先に目に留まった。落胆と安堵が同時に湧いた。乾いた笑みがもれる。


なんだ、二階堂先生か……。

さすがに今日はスーツではなく、首元まで締まったポロシャツを着ていた。七三分けの髪型は崩れ、暑苦しい声は乱れている。先生らしくない。なぜだろう。なぜ、ここに来たんだろう。懐中電灯を持って、最後のパトロールでもしていたのだろうか。


……わざわざ、こんな、東屋まで?


違和感。モヤモヤする。クラクラもする。頭が痛い。息が苦しい。考えるのをやめた。


とうとう頭を支えられなくなり、首をぐったりとたおした。懐中電灯のライトに照らされる。ひどい有り様だ。二階堂先生はあわててわたしの元に駆け寄りながら、大声を後方に飛ばした。




「いた! 田中を見つけたぞ、木本!」


「本当っすか!? やっぱここに……」




今度こそ、空耳だと思った。タン、タン、と階段を駆け足でのぼる靴音が、雨音に打ち消されていく。

あり得ない。あり得ちゃいけない。だって、ふたりきりは、終わりにした。まだ夜は明けてない。


なのに。なんで。どうして。


木本くん。




「おい! なあ! ……まひる!」




名前。それは、わたしの。

はじめて呼んでくれた。あぁ、やっぱりこれ、幻聴じゃないかな。


木本くんはわたしのことをいつも「あんた」って実に他人行儀に呼ぶ。その呼び方もさしてきらいじゃなかったけど、待っていないときに限って現れて、名前呼びをするなんてあまりに都合がよすぎる。


それにしては、やけにリアルな幻だった。耳孔をさするその声も、肩を強くつかむその手も、さっきまで隣にあったものそのものだ。

だけど残念だな。そう名を紡ぐ意味が、その大きな手の温度が、わたしにはわからない。




「まひる! まひる!」


「田中、意識はあるか?」


「……っ、」


「ぎりあるってところっすかね。そうとうやばいみたいっす」




ふさぎかけた視界いっぱいに、木本くんが見えた。スニーカーを汚して、ずぶ濡れになって、つらそうにわたしの顔を覗きこんでいる。水もしたたるなんとやら、だね、と幻相手にからかいたくなる。




「いくら待ってもこねぇと思ったら……、なに、してんだよ。アホ」


「……き、もと……く……」




つっけんどんな態度はやるせなく、不自然さをかもし出している。泣いているふうにさえ見える。頬に流れる雫は、雨なのか、涙なのか、知る術がない。後者ではなければいい。泣いてほしくない。


整った顔面が迫る。影とともに、額に硬い何かが落ちてきた。あっつ、と低い独白がこぼされた。




「……体調わりぃなら言えよな」


「っは、……が、ぅ」


「おかしいと思ったんだ。様子ちがったし、手ぇ熱かったし……。二階堂先生を連れてきて正解だったな」




ちがう。ちがうんだよ。

大丈夫だよ。大丈夫だったの。元気だったし、楽しかったし、幸せだった。ただ、ただね、自分よりも大切にしたいことがあった。それがたまたま正しいことじゃなかっただけなの。


苦しいけど、苦しくないよ。この苦しさは、とっても、いとおしい。




「心配、かけんじゃねぇよ……っ」




木本くん、木本くん。

あのね。わたし。


聴いてほしい。伝えたいことがある。言いたかったことがある。


わたし。わたしは。




「……ん、ね、」


「まひる……?」


「ごめん、ね。うそ、ついちゃった」




傷つけてしまった。

やさしくなれなかった。


ごめんね。ありがとう。ごめんね。



わたしは今どんな顔をしているんだろう。見られたくなかった。きっとうそみたいに赤く、醜く、みっともないであろう顔を、木本くんの首筋にうずめて隠した。

光が遮断されていく。のどをかすらせ、うなるように喘ぐ。ドックンドックンとこだまする心拍が脳内と共鳴し、そして――あっけなく意識を手放した。



また待ってる。ずっと、待ってる。

目が覚めたら、うそじゃないきみが会いに来て。