「教頭先生と面識あったの?」




なんとなしに問いかけた。


おすすめされた焼きそばの屋台は、味に定評があるらしく、案の定繁盛していた。香ばしいソースの匂いが、鉄板の上ではじかれ、白煙になびいていく。きゅるると腹の虫をかわいらしく鳴らしながら、列の最後尾についた。

前から数えて5番目。たった今、家族連れの客が2パック購入したことを確認し、先ほどの、教頭との会話を想起する。木本くんのことを前から知っていなければ、あんなふうに言えない。




「去年1回呼び出し食らっただけ」


「へえ。教頭先生から直々に?」


「ああ。どうせ担任か野球部の顧問に頼まれたんだろ」


「それで教頭先生のカウンセリング受けたんだ?」


「カウンセリングってほどじゃねぇよ。ちょっと茶を飲んで話して終わり」


「……でもさっき、教頭先生、木本くんのこと気にしてたね」


「…………」


「教頭先生、やさしいよね」


「……ああ、そうだな」






いい表情(カオ)、か……。


おだやかな声色とは裏腹に、そのきれいな顔に愛想はない。だけど教頭の心眼には、声色と同じ表情に見えているのだろうか。よくよく見れば、まあ、たしかに、やわらかくなったと言えなくもない。

凝視しすぎていたら、見すぎだこら、と凄まれた。ひどい。


ずっと近くにいすぎて、マヒしてきたのかもしれない。今さら離れたいとも思わないけれど。




「――……まひるちゃん?」




ぴちゃんっ、と水のはねた音が、した。




「あ、やっぱり。まひるちゃんだ」


「……結月(ユヅキ)、ちゃん……?」


「わあ、すごい偶然!」




あと4人、3人と効率よく進んでいた列が、止められた。ほかでもない、わたしによって。


び……っくりした。教頭と出くわしたときとは比べものにならないくらい、いいや、もはや別物の衝撃だ。びっくりしすぎて心臓が止まるかと思った。でも大丈夫、ドキ、ドキ、ドキ、と今は至ってゆるやかにはずんでる。


馴染み深い顔だった。

金魚の泳ぐビニールの袋をたずさえて、パステルピンクの浴衣をまとって。でも……うん、わたしの知る、結月ちゃんだ。




「知り合いか?」


「う、うん。そう」


「あ、ごめん。もしかしておじゃましちゃったかな?」


「え、ううん。全然」




右上を向いて首を縦に振り、左下を向いて首を横に振った。うしろからは、早く進めよ、とやじが飛ぶ。ちなみに前方には、糖度と油に占拠された胃を刺激する飯テロ。ああ、忙しい。




「あっちでしゃべってくれば? 焼きそばは俺が買っておいてやるよ」


「え! でも……」


「ここで立ち止まってたら通行のじゃまになんだろ」




しっしっ、と木本くんは追い払う仕草をする。気を遣ってくれているのだろう。ここはお言葉に甘えることにする。焼きそばは木本くんに任せ、2番目まで差し迫っていた列を離れた。


屋台の並ぶ通りから、木製のベンチが設置された隅のほうに寄ると、明かりが一気にうすまった。お月さまやお星さまに頼ることもできない。夜が更けていくのを肌で感じる。

虫の音、祭りばやしのかたわらで、ぴちゃんっと水滴を飛ばす音。透明なビニールに囲われた手狭な湖で、金魚は気持ちよさそうに尾をあおいでいた。




「まひるちゃん。久々だね」


「……うん。ほんと、卒業以来」




結月ちゃんは中学の同級生で、3年間同じクラスだった。同級生の中でいちばん一緒にいる時間が長かった。そのぶん思い出もたくさんあって、卒業アルバムの写真は、わたしひとりよりも結月と写っているもののほうが断然多い。


今でも大事で、大好きな、友だち。

よく笑ったし、ケンカもした。ふたりして泣いたときもあったね。ひよりんみたくずっと仲良しこよしではなかったけれど、あのときケンカをしてよかったって思ってるよ。ただ、あんな思いをするのは、もう二度とごめんだ。




「元気?」


「うん、元気だよ。結月ちゃんは?」


「あたしも。元気に高校生やってるよ。恋だってしてるんだよ」


「そっか……。結月ちゃんが、恋……。青春してるね」


「あはは。うん、青春してる」




結月ちゃんは、かわいい。そりゃあもう、女の子のいいところをぎゅぎゅっと詰めこんだくらい、超絶かわいい。友だちのひいき目なしに。まじで。かわいいの極み。


まず小柄で、華奢なところ。たれ目でやさしげな瞳がくりくりしているところ。ふんわりとしたボブの髪の毛が、小顔をさらにちっちゃく見せているところ。いやしのオーラをぶちまけているところ。

はい、かわいい。かぐや姫と言われても信じます。妖精と言われても信じます。かぐや姫と妖精のハーフならなおのこと信じます。


言わずもがな、中学のころは男女問わず人気でモテモテだった。高校生になってもそうなんだろうなと思う。だってかわいいもの。

そんな結月ちゃんが、ついに恋。恋、かあ。なんだか感慨深い。




「まひるちゃんこそ、青春してるんでしょ?」


「へ?」


「一緒にいた男の子。カレシじゃないの?」


「ちっ、ちがうよ! 友だち……みたいな?」


「そこ疑問形なんだね?」




うわさを知られていなくても誤解されちゃったよ。男女ふたりで夏祭りを回っているシチュエーションって、考えてみたらデートそのものだもんなあ。今日何組のカップルとすれ違ったことか。

中学3年間、恋愛らしい恋愛をしてこなかった。そのことを結月ちゃんは知っているから、それで疑われたのもある。かもしれない。




「結月ちゃんは誰と来たの?」


「友だち……かな?」


「結月ちゃんも疑問形? ……あ、もしかして」


「……お察しのとおりです」




ほうほう、そうですか、そうですか。
なんて、教頭のあいづちの仕方を真似てみる。


わたしとは対照的に、結月ちゃんの中学生活は恋に愛にあふれていた。主に、もらう側で。

どんなイケメンに告白されてもかたくなに断り続けた遍歴を持つ彼女は、一体どんな人を好きになったんだろう。きっとすてきな人なんだろうな。


恋をするとかわいくなるとよく言うが、まさしくそのとおりだ。久しぶりに会った結月ちゃんは、昔と段違いにかわいくなった。

ナチュラルにメイクをほどこし、髪の毛は編み込みのアレンジをしている。そういう外見のかわいさもそうだけれど、顔つきも雰囲気もどこかオトナになったような感じがする。




「かわいいなあ、」




……あ。かわいさのあまり、心の声がぽろっと。




「まひるちゃんもかわいいよ」


「ええ?」


「あ、信じてないでしょ。本当だよ。かわいい。とってもかわいい。その浴衣、似合ってるよ」




ほがらかに細められたその目に、梅の花が絡まる。ここは暗くてきれいに咲き誇れない。花弁の色は褪せ、夕空はくもってしまった。それでもかわいいと、似合ってると、伝えてくれた言葉はお世辞ではない。

その目が、しかと語っていた。



『まひるちゃんは紺色が似合うと思うなあ。これとかどう?』

『わ……かわいい、ね』

『あたしはこっちのピンクで、おそろい!』



ショーウィンドウのマネキンを見比べっこした帰り道。にこいちで並ぶ、紺とピンクの浴衣。右がわたしで、左が結月ちゃん。そのイメージを壊さないよう、仲間はずれにされていた橙色は、見なかったふりをした。


紺色もかわいかった。きらいじゃなかった。……好きでもなかった。

ただそれだけのことだった。




「その色も……いいね。鮮やかで、あったかくて……まひるちゃんに合ってる」


「……ありがとう。結月ちゃんも似合ってるよ。結月ちゃんっぽい」


「えへへ。でしょ?」




結月ちゃんは自慢げにくるりとひるがえし、パステルピンクの映えた袖口をたなびかせる。レースのついた帯もひらひらふわふわでいい感じ。あのショーウィンドウで観た浴衣とどこか似ていた。

ぴちゃんっと水しぶきを上げ、金魚も舞いおどる。




「あ、そろそろ行かなくちゃ」




一回転する直前、華奢な体が人通りの多い屋台側で止められた。一緒に来た友だち(仮)を見かけたのか、思い出したようにつぶやく。白レースの足袋にくるまるつま先を、雪洞のつるされたほうに近づける。


そろそろ焼きそばの屋台で木本くんの順番が回ってきたころ合いだ。もうすぐ花火も上がる。ちょうどいい時間だ。

もっとしゃべりたかった気持ちはあるが、これ以上彼女を独り占めしては、例の友だち(仮)に妬かれかねない。せっかくの夏祭りという舞台。わたしはわたし、彼女は彼女で満喫するべきだ。




「まひるちゃん、また今度遊ぼうね」


「うん! もちろん!」


「約束だよ。次は、ぜったい!」




こくこくうなずけば、結月ちゃんは喜色満面で大きくうでを振った。最後の最後までかわいらしくて、中学生に戻った気分になる。


あっという間にパステルピンクが人の波にまぎれていく。ぴちゃんっ、と澄みきった粒を揺らめかせ、不覚にも金魚を酔わせた。



……木本くんはまだかな。

わたしが離れたときは、前に1人だけ並んでいた。そこでパックが売り切れたら、あとちょっと時間がかかりそう。


焼きそばの屋台のあるほうから煙が立つ。人の行き交う流れにつられ、右往左往しながらゆらりゆらりたゆたう。パステルピンクを見事にぼやかしたその煙から、背丈の高い人影が現れた。

おつかい帰りの、木本くんだ。

焼きそばひとつと割り箸ふたつを片手に、こちらに歩いてくる。


待ち時間が、0になる。




「木本く――」




空に満ちた雲をかっさらい、高らかに風を切る。

そして。


――ドォォォン……!


大輪の花が散る。


往来の激しかった石畳の道で、ひとりまたひとりと足を止めた。頭上を仰ぎ、夏祭りのメインイベントである風物詩に釘付けになる。わあっと歓声が上がる。月も星もない夜空は、とうに花火の独壇場だ。


木本くんも立ち止まっていた。

花火? ううん、ちがう。だって……空を見上げていない。


迫力ある爆発音にびくともせず、あの黒い瞳はある一点を刺していた。おそるおそる視線をたどっていく。その先にあったのは、鳥居の前で向かい合う男女の姿。遠くて見えづらいけれど、わたしには覚えのない他人(ヒト)だった。


視線を戻すと、色彩豊かな閃光を浴びた横顔がよく見えた。みるみる歪み、血色をなくしていく。涙が出ていないのがふしぎなほどに、悲愴感に打ちひしがれていた。



木本くん。

ねぇ。やだ。

木本くん。

ねぇ。待って。


朱里。ねぇ。ここに。



わたし、が、






口に出そうとするが早いか、木本くんは走り出した。


花火に夢中になった群衆をかき分け、鳥居から、わたしから、ひたすらに遠ざかっていく。成人男性の肩にぶつかり、めかしこんだ女児にびくつかれ、敷石の凹凸にこけ……それでも長い手足は振り動かされる。


逃げて、逃げて、逃げて……逃げても逃げきれないと悟ってもなお、独りを選んで隠そうとするのだ。逃げることにいくら慣れても、苦しいことに変わりはないはずなのに。